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序幕 一人目:床掃除

 雑巾。雑な巾。こう言葉にしてみると、そのまんまだよな。くたびれた古着や使い古されたタオルなんかがその身を切られて、最後の最後まで人間に使い倒されことになったその憐れな姿だ。もっとも最近じゃあ便利な掃除用の道具が安く買えるから、わざわざ布切れを縫って雑巾にする人なんて少なくなってるんだろうな。

 いや、そもそも雑巾を使う機会自体が少なくなっていると思わないか?高校に入学してから雑巾を触る機会がいくらあった?精々窓を拭くときに使うくらいで、それだって掃除用のウェットシートを使った方が綺麗になるくらいだ。床を拭くときはモップだしな。雑巾に両手を添えて両手両足に力を籠め床をダッシュする、なんて記憶は今回の出来事を除けば小学生のころまで遡らなきゃいけないよ。

 話しが苦手だから方向性が滅茶苦茶ですまない。うだうだと変なことを語って来たが、俺が本当に話たかったのは雑巾で床を拭くって行為の事なんだ。雑巾越しに床を拭くのとモップで床を拭くのは違うもんだ。床を雑巾で拭いていると一層掃除しているって気分になるのは、掌にはっきりと床のかたい感触を感じるからなんだと思うんだよな。

 あと、雑巾で床を拭くときには視点が低いってのも大きいのかもしれない。モップや掃除機なんかで掃除をするより、シミや埃なんかを近くで見ることになるからな。サッと一拭きして綺麗になった床を間近で見ると、より達成感が湧いてくるもんだよ。

 でもそれは、本当に床を拭いているってことになるんだろうか。俺たちが床を拭くとき、雑巾と床の間を見ることは出来ないだろ?うん、言いたいことは分かるさ。確認する必要なんてないよな。雑巾一枚越しに床の硬い感触があって、それをスッと動かした後の床が綺麗になってれば、それは何にも阻まれることなく床を拭いたって証になるんだから。当然のことで、考えるまでもないことだ。

 つまり今回の話はそう言うことなんだ。そんな当然のことが、当然のようにならなかったんだ。だから、この場に集まった皆も気を付けておいた方が良いかもしれない。雑巾を使うにしろ、モップや箒を使うにしろ、正直真面目に掃除している奴なんてあんまりいないだろ?でも、俺たちが友達と喋りながら掃除しているフリをしているその(さき)は、もしかすると想像もしないような悍ましい何かかもしれないんだからさ。


 俺は一応生徒会で総務を担当しているんだけど、まぁ顧問の小間使いみたいなもんだ。生徒会が高校の実権の一部を握っている、なんてのは現実にはそうそうないよな。少なくともこの高校の生徒会は顧問が主導しているし、生徒会長はその意向を受けて如何にも自分の考えで動いているフリをしているだけだ。そんなわけで俺は、親父が愚痴ってた下請けの下請けって今の俺みたいな存在なんだろうなんて思いながら、生徒会長の実績作りに付き合わされて土曜の午後から清掃活動に勤しむことになったんだ。

 土曜の放課後の校舎ってのは平日のそれとはちょっと違う雰囲気がある。窓を突き破らんばかりに陽光はまだまだ眩しいし、運動場から響いてくる運動部の声にもいつもより張りがある。音楽室からはコンクールが近いブラスバンド部の合奏が早いうちから漏れ出ていて、それ以外にはほとんど音のない校舎を駆け抜けていく。

 よく見知っているはずなのに、何故か初めて来た場所のような感覚に陥るんだ。平日とは、日常とはどこか切り離された空間。あの奇妙な疎外感は中々言い表しようがないよ。

 俺は、そんないつもとは少し違った印象を受ける校舎の一室である化学実験室を掃除することになっていたんだ。生徒会の顧問の担当が化学なんだ。清掃活動、なんて言っても要は体よく顧問に使われているだけだった。

 文系の俺はあんまり化学実験室に入ったことがない。それも多分、疎外感を感じる一因だったのかもしれないな。他にもう一人科学実験室を掃除する生徒会のメンバーが居たんだけど、そいつが居なかったら顧問に怒られようとも早々に掃除を切り上げただろう。そしたら、今回の話のような体験はせずに済んだんだろうけどさ。その時は、同学年で同じ総務のそいつが居てくれて良かったと思っていたんだ。

 化学実験室の中に入った俺たちは、早速掃除を始めた。顧問から薬品棚なんかは触るなって注意されていたから、他の教室を掃除するのとそれ程変わりはない。なんかヤバい薬でも置いてあるんじゃね?なんていくらかはしゃぎ終えた俺ともう一人の役員は、友達と知り合いの中間のちょっと微妙な空気の中で、まずは高い場所に溜まっているだろう埃を落とし始めた。

 落とし始めた、って言っても化学実験室は綺麗なもんだったよ。正しい掃除の手順なんて真剣に考えたことのない俺たちは、手を動かすことによって寧ろこの場所を汚してしまうんじゃないかと不安に感じたくらいだ。

 もしかしたら顧問が配慮してくれたのかもしれない。あの人にも青春真っ盛りの高校生の土曜の午後を奪うことに対して多少後ろめたさがあったのかもな、なんてその時はチリトリを片手に暢気に思ったもんだよ。そうして俺は、他の教室の清掃を担当している生徒会のメンバーに対して多少の申し訳なさとちょっとした優越感を得ながら、ほとんどやることのない掃除を順調に進めていっていたんだ。

 ただ一つだけうんざりすると。そう、うんざりすることになると分かっていることがあった。俺は箒を動かしながら、横目でちらりとその正体を見た。そいつは開け放たれた窓から入って来た一陣の風に吹かれて、もの言いたげに干からびよれた体を青色のバケツの縁でモゾモゾと動かせた。

 どこにでもある、灰色の雑巾だ。モップより真剣に掃除している感じがでるでしょ、とか言い放った生徒会長のせいで床掃除にはモップじゃなくて雑巾を使うことになっていた。掃除が得意な人や詳しい人からすれば、モップにはモップの、雑巾には雑巾の使い道ってもんがあるんだろうけどさ。これまで不承不承で掃除をしてきた人間にとっては、両手を水で濡らして腰をかがめる必要がある雑巾よりはモップを使って床を拭きたいんじゃないかな。

 少なくとも俺はそうだった。実験室の床がもっと汚れていたら、怒られる危険を冒してでもさっさとモップを取り出していたと思う。本当に丁度良いバランスだったんだ。丁寧に掃除をする必要が無い綺麗な化学実験室。雑巾で床掃除をするだるさ。化学実験室ほどは綺麗じゃないだろう他の場所を担当している生徒会のメンバーに対する罪悪感。生徒会役員としてのなけなしの義務感。

 結局俺たちは、まぁちょっとくらいは真面目に掃除をしようじゃないか、ってことで雑巾掛けを始めたんだ。水で濡れた手に風が当たると、本来は生温いはずの晩夏の風が適度に心地よく冷たく感じる。始めてみたらみたで意外と悪くなったよ。生徒会長の言葉に頷くのは癪だけど、掃除しているって感覚は確かにあった。

 そうやって俺は教室の右上から、もう一人は左下から雑巾がけを始めたわけだけど、それまで交わしていたちょっとした会話も無くなって、そこで俺はふと気が付いたんだ。

 いつの間にか運動部の掛け声やブラスバンド部の合奏も聞こえなくなっていて、実験室はひっそりとした静けさに包まれていた。自分の吐く息すら意識してしまうようなって程じゃなったけど、静寂を打ち破るのに若干の気力が居るくらいにはその静けさは重かった。

 もう一人も同じだったんだろうな。雑巾を先頭に床を駆ける音。少し汚れたそれを絞る音。靴の摩擦音。一拭きした後に漏れる吐息。それ以外には、何もなく。俺たちはどうしてか押し黙ったまま雑巾がけをしていたんだ。

 掃除への真剣さからくる沈黙なら生徒会長や顧問は喜んだだろうけど、そうじゃなかった。じゃあこれから起こる出来事への悪い予感があったのかって言われるとそう言うわけでもない。ただ、何となく。何か壊せない重みを俺は感じていたんだ。

 互いに口を開かないまま十数分。唐突に保たれていた沈黙が終わった。それはもう一人の短い声で、静寂が破られたって言える程には大きくなかったけど。この時は、やたら大きく聞こえたよ。

「わっ!」

 どんな声だとしても、一度静けさが破られるとそれなりに口を開きやすくなる。そうでなくとも軽く驚いたような響きだったから、俺は問いかけた。

「どした?大丈夫か?」

 返事はなかった。デカい虫を見つけたり、軽く足を滑らせたり、そんなことだろうと思っていた俺はちょっと心配になって立ち上がったんだ。

 もう一人の姿は見えなかった。返答も変わらずない。ひらひらと風に靡くカーテンだけが唯一、実験用の大きな机が整然と並ぶ実験室で動いている。

「マジでどうしたんだよ?」

 今一度そう尋ねても沈黙が続くばかりで、俺は仕方なく歩き始めた。人が忽然と消えるはずがない。立ち上がっただけでは見えない机と机の合間を確認していくと、心配相手はすぐに見つかったよ。

 だけどそいつの後ろ姿は、ちょっと触れるのが怖くなる雰囲気があったんだ。少なくとも、掃除をしているようには見えなかった。

 両手の十の指と指の間を大きく広げて床に張り付け、ただただ頭を下に向け。床につかんばかりに丸まった背中を、ふらりふらりと左右に揺らし。両脚はやたらぴっしりとした正座の状態で、けれど小刻みに震わせて。

 震え、って言うのは分かりやすい異常のサインだ。例えば凍える程寒いとき、例えば心臓が跳ねあがるほどの恐怖を感じたとき、例えば心を奪われるほどの恍惚を感じたとき。人間はどうしても奥底から震えてしまう、って一年の頃の担任がそんなことを言ってたのがふと頭に浮かんだよ。

 じゃあ、こいつは何があって異様な体勢で震えているんだ?

 今思えば、持病の発作や突然の体調不良かもしれない、と気付かって一刻も早く声を掛けるべきだったと思う。でもさ、あの時はそんなこと考えられなかった。俺は異様を前にして茫然としたまま、そいつが全身でより大きく揺れ動くようになる様をただ見ていることしかできなかったんだ。

 その内、しんと静まり返った実験室に奇妙な音が漏れ出てきた。もう一人の生徒会役員の異様な震えが張りつめた空気を震わせたんじゃないかと錯覚してしまうような単調で低く、それでいて変に響く音だったよ。

 "あ、あぁぁ……あぁぁ……あああぁ"

 もう一人の声、だったんだと思う。いや、間違いなくそうだろう。でも、今こうしてあの時の事を振り返ってみても、絶対にそうだと言い切れないんだ。

 だってさ、それが声なら苦しそうだったりしんどそうであるべきだろ。体に負担が掛かりそうな体勢で、そして全身震えているんだぜ?それで何であんなに……。

 その音は何と言うか……夢見心地と言うか忘我と言うか……うっとりとしているのに咽び泣いているような……悪い、やっぱり言い表せない。ただ少なくとも、もう一人の苦しそうな様子とはチグハグな響きだったんだ。

 更に異様さを増したそいつに何とか一歩近づいて、そして俺はぎょっとした。奴が床に付けて大きく広げている右手の指と指の間が、酷く赤黒くなっていたんだ。それも綺麗な楕円の形で。まるで、見えない何かに強く手を握られているみたいに。

 俺は反射的に未だに震えているそいつの肩を大きく揺さぶった。遅まきながら、ようやく様子を窺うだけじゃ何かマズイと分かったんだ。俺に揺さぶられたもう一人の役員の体はまったく力が入ってないのか、それこそ人形のように呆気なく床へと崩れ落ちる。まさか死んだんじゃ、なんて心臓が飛び跳ねる程に俺は動揺したけど、そいつはすぐに瞼を何度か瞬かせて上半身を起こした。

「……あれ……何だ……何でよこ……」

 あの時の良かったって安堵をずっと忘れられないだろうさ。もしもう一人の役員に何かあったら、それこそ死んだりなんかしたら俺が見殺しにしたようなもんだからな。ところが俺のそんな安堵を他所にその原因となった奴は、きょろきょろと周囲を見渡してから雑巾を掴み上げているんだ。もう何なんだよと文句を言いたくなったけど、そいつがまた様子がおかしくなっても困るから、俺は一声かけてから出来るだけゆっくりそいつに問いかけた。

「お前、なんともないのか?さっきまで蹲って痙攣してたんだぞ?」

「え?痙攣?……いや、特に何かが悪いってことはないけど……それより見てくれよ。変なんだよ」

 お前の様子が一番変だったよ。この一言をぐっと俺は抑えてそいつに聞いたんだ。

「何が変なんだ?」

「いや、雑巾を絞った時の水の色がさぁ……」

 そう言ってそいつは手に握った雑巾を絞ったんだ。短く細くなった灰色の布切れから、液体が零れ落ちていく。

 赤かったんだ。それこそ血のように。中の水と混ざって薄くなっているはずなのに、バケツの中身が見る見る間に酷く赤く染まっていく様子を見て愕然としたよ。

 これがもう一人の生徒会役員の趣味の悪い悪戯じゃないなら、どんな理由で雑巾から出て行く液体が赤くなるって言うんだ?錆びた鉄を拭いた時に出るような赤茶色なんかを通り越して、本当に赤いんだよ。

 辺りの床を眺めてもその理由は何も思い浮かばない。ただの白い床に、ただの灰色の雑巾に、ただの床掃除。

 そこにこんな真っ赤が紛れ込む余地なんてない。

「うわっ!何だよこの痕!?」

 雑巾を絞った時に手が痛んで気付いたのか、もう一人の生徒会役員がそう叫んだ。

 そうだ、その謎の手痕のこともある。もう何か普通では考えられないようなことが起こっていて、俺たちはそれに巻き込まれてしまったんじゃないか。そう思ってもう一人に声を掛けたんだ。

「なぁ、なんか色々気味悪くないか?掃除、止めようぜ?もう十分だろ」

「まぁ……そうだよな」

 俺の提案に同意したけど、もう一人の歯切れは悪かった。手が痛いし、痙攣してたらしいし、雑巾から出る水も気味悪いし、そう掃除を止めるための理由を並べながらも奴は、じっと床を見つめたまま動こうとしないんだ。

 正直に言うとさ、俺はもう一人を放っておいて化学実験室からさっさと出て行きたかったよ。でも、ついさっきまで体を震わせて様子がおかしかった奴を一人にしておくわけにもいかないだろ?単純に心配だし、もしも、なんてことがあったら何で一緒に居なかったんだと問われるのは分かり切っているんだから。

 動きのないまま少しの間があって、それからもう一人は持っていた雑巾を床に付けた。それは掃除をする際にはなんてことのない動きだけど、状況を考えると気味が悪くて仕方がない。俺がちょっと苛立ちを覚えながらもう一人を止めたのも、分かってくれるだろ?

「おい、もう止めろよ!何でそんな雑巾や床に触るんだよ!?それとも俺をおちょくって遊んでんのか!?」

「うん……分かってるよ。おかしいよな。でも、気になるんだ。何で雑巾から絞った水が赤くなるんだ?そもそもこの赤いのは何なんだ?」

 何なんだ?なんなんだ?なんでなんだ?なんだ?何で何でなんで…………

 そう呟き続けて、奴は何かに憑りつかれたように止まらなかった。床を拭いて、雑巾を絞って、そこから出て行く液体を注視して。

 俺には奴が何を知りたいのが、何で知りたがっているのかは全く分からなかったが、一心不乱なその様をイライラしながらも仕方なく見守っていた。いっそ害がない範囲で決定的な異常が起こってくれればこいつを見捨てられるのに。なんてとんでもないことを頭の片隅で思ってしまった自分を、この時は怒る気にすらなれなかったよ。

 やがて奴は唐突にすくりと立ち上がって、雑巾を持ったまま黒板へと近付いていった。そして空いている手で何かを握ったんだ。それから俺の苛立ちを乗せた何度目かの提案もどこ吹く風で受け流し再びバケツの近くの床に座り込んで、雑巾を握ったままの手でもう一歩の手の中にあった太字マジックのキャップを取り外し始めた。

 何をする気なんだ?そう問いかける間もなく奴は既にマジックの先を床に付けていた。白い床に対して良く目立つ黒い線が、スッと伸びる。掃除をしに来た奴が自ら床を汚し始めたんだ。もうすでに沸騰していた頭の中の最後の理性が決壊しそうになった所で。

 俺はその線が何に沿っているのかを理解してしまったんだ。

 バスケットボールより少し小さいくらいの円から始まり、その下部から互いに少し横に間隔をとった二つの縦線。更にその線から左右になだらかな傾斜が伸びて。

 そこまで線を書いたところでその書き手は、持っていた雑巾で線の内側を丁寧に拭いたんだ。そうして絞られた雑巾から垂れる液体の色は、やっぱりとんでもなく真っ赤だった。

 間違いない。この黒線は雑巾を絞った時に真っ赤な液体が出る範囲なんだ。俺にそう理解させるように雑巾を絞り終えた奴は、再びマジックで線を付け加え始めた。

 あぁ……ここまで来てその線が何の形なのか、分からないはずがない。バスケットボールより小さな円は人の頭のよう。その下から伸びる二つの線は人の首のよう。左右の傾斜は人の肩のよう。

 左手。脇腹。腰。両足。出来上がった黒線は、刑事ドラマなんかで見る白い死体痕そっくりだった。そこを拭くと雑巾から出てくる液体が赤く染まるって、どう言うことなんだ?

 それに……変なんだ。その黒線は足りないんだ。ないんだよ、右手が。左手はあるのに、何故か黒線には右手だけが書かれていなかったんだ。

 何でなんだ?ここまで人の形そっくりなのに、どうして右手だけがないんだ?

 俺は怒りも忘れてそんなことを思ってしまったんだ。そして不意に、その黒い線の書き手と目があってしまったのさ。

 その目は少し細められているのに、その中の黒々とした瞳は大きく広がって俺を捉えて離さないんだ。不気味に口角の上がった唇からは白い歯が覗けて、それは別人のような怪しい笑みに似合わずガチガチと震えていた。唇から垂れる唾液や泡を拭いもせず、喉からひゅうひゅうと異音が聞こえている。

 駄目だ。

 想像よりはるかにおかしな奴の様子に、俺は咄嗟に逃げようとした。だがそれより早く奴の手が伸びてくる。雑巾を掴んだままのその左手の力はとんでもなく強くて、とても人のものじゃない。

 掴まれた俺の左手に、雑巾から染み出た赤い液体がゆっくりと伝っていく。奇妙にとろりとしていて、とても気持ちが悪い。すでに混乱と恐怖で体がちりちりと痺れて思う様に動けない俺の手が、自分のものじゃないみたいに少しずつ赤く染まっている。

 竦んだ俺を恐ろしい力で掴み続ける奴が、床の黒線に再び線を加え始めた。

 右手だ。書き足された右手を見て、俺は少しほっとしたんだ。一か所だけ欠損した部分があるなんて、なんだか不気味でしょうがなかったからな。ただの書き忘れ。そう分かって、痺れっぱなしの体に少し力が入ったよ。

 だけど。だけど奴はだらりと垂れ下がっているように書いた黒線の右手を手で拭って消したんだ。そして再びマジックを動かし始める。黒色の角ばった右手は、今度は先ほどより肘を曲げて少し上の位置に描かれた。そうしてまた手で拭って。

 徐々に、徐々に。書かれる右手が、俺の方へと近付いてくるんだ。俺の右手に。床についたまま、上手く動かせない右手に。

 俺はマジックを握っている奴の手を見た。何かに強く握られたような赤い痕のあるその右手を。

 もしかして。もしかしてあの赤い痕はこの黒線の手に握られてついたんじゃ……!?

 いや、黒のマジックで床に手を書いているのは奴だ。だからそう。黒線じゃなくて、もっと根本的な。人の形に似た黒線の範囲に、拭くと赤い液体が雑巾から出て行く床の中に何かが居て、それに手を掴まれたんじゃないのか!?

 突拍子もない思考だったけど、どちらも右手であることがそんなおかしな考えを俺に抱かせたんだ。

 俺も、こいつのようにおかしくなっちまうのか!?

 その間にも黒い右手は迫って来る。

 あと数センチ。奴が手を床に付けて書いた黒い右手を消す。あと数ミリ。奴が手を床に付けてそれを消す。あと……あと……。

 右手の小指と薬指の間に、生暖かさを感じた。奴の書いた黒の手が、俺の小指とくっ付いている。ぞわりと手に鳥肌が立って、その鳥肌の上を多足の虫が這い回っているような感触に俺は反射的に悲鳴を上げようとした。

 でもそれは口から出てこない。それどころか叫ぶために開けたはずの唇が勝手に歪むんだ。目の前の、マジックを持った奴のような薄気味悪い笑みに。

 黒い右手が消される。だけど俺の右手の甲に蠢く感触は消えない。

 奴が黒いマジックで右手を書き始める。

 今度は、今度こそ俺の右手の上に重なる様に。


「わあああぁぁああああ!!」

 叫び声は俺のものじゃなかったし、もう一人の生徒会役員のものでもなかった。でも劈くような大声に、俺の体がびくんと跳ねたんだ。同時に、痺れて動けなかった体に力が入るのを感じたんだよ。

 俺は慌てて飛び上がった。もう一人の生徒会役員はいつの間にか床に倒れ込んでいたが、そんなの気にしている余裕はなかった。逃げるように化学実験室から出て階段を降りると、補習を受けていたらしい数人の生徒が廊下で身を寄せ合っていたんだ。中には泣いている生徒もいる。複数の生徒と会ったことで若干落ち着きを取り戻した俺は、誰かとまともな言葉を交わしたくなってどうしたのかと問いかけた。

 俺の問いかけを受けた幾人の生徒が、一斉に手を上げて指で補習に使っていた教室の天井を指す。

 ぽたり、ぽたり。教室の天井から、赤くとろりとした液体が零れ落ちていた。雑巾から出るあの液体のような。そこで俺は、この教室が丁度化学実験室の真下であることに気が付いたんだ。

 次の瞬間、再び悲鳴が響き渡った。大量の赤い液体が堰を切ったように流れ落ちたんだ。あの時は廊下に居た奴らと一緒に全力でその場から逃げたよ。だって他に何ができるって言うんだ?

 それにさ、悲鳴を上げていたやつらはまだマシだよ。一気に流れ落ちたその赤い液体が、人の形をしていたなんて気付かなかっただろうからな。

 結局、補習を担当していた先生がトイレから戻って来てさ。俺や補習を受けていた生徒たちの言葉を鼻で笑いながら、化学実験室や補習に使っていた教室を調べたんだ。

 何もなかったって。雑巾で拭いて絞った後に赤い液体が出る化学実験室の床も。補習に使っていた教室の床に残ってなければおかしいはずの赤い液体も。床で気絶していたもう一人の生徒会役員はいて、色々聞かれたけどな。そのもう一人もおかしくなっていた時のまともな記憶が無くて、俺たちは生徒会の顧問に無茶苦茶叱られたのちこの件は有耶無耶になったんだ。

 うん、もう一人は今もちゃんと学校に来てるぜ。それなりに真面目に授業を受けてるし、生徒会の顧問にだって顎で使われているよ。

 でもな……時々あいつは、適当な理由をつけて色んな教室の鍵を職員室に借りに行くんだ。一度見ちまったんだよ。誰もいない教室であいつが床に寝そべってるのを。何かと手を繋ぐように、ぎゅっと右手に力を入れて笑っているのを。


 ……俺の右手の小指と薬指の間には赤い痕が残っている。それだけがあの出来事を夢じゃなかったって確信させてくれるんだ。

 もう一度言うよ。みんなも気を付けてくれ。何気なく拭いた床に、その後に零れる水の色に。友人とじゃれ合いながら適当に掃除をしていたら、それに気が付かないかもしれないんだから。

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