婚約破棄は予想外ですが、私の未来は明るいようです。
沢山の小説から見つけてくださりありがとございます
「シンシア・レイチャーズ侯爵令嬢! 本日をもってお前との婚約を破棄する」
自身が主催した夜会の中央で高らかとそう宣言したのはこの国の王太子パトリック。
肩までの深い青色の髪を後ろに束ね、金色の瞳の華やかな顔立ちは、年頃の令嬢なら誰しもが頬を染めて振り返るほど。
そんな王太子の隣にいるのは真っ赤な髪を半分結い上げた令嬢。茶色の大きく少し垂れた瞳は幼さを感じさせるも、その肢体は豊かなラインを描く。胸を王太子に押し付けるように立ちながら、不安そうに眉を下げ怯えている表情を作れるなかなかの強者。
(いつかこういう日が来るのでは、と思っていましたけれど)
名指しされたシンシア・レイチャーズは、一切の感情を消した瞳で真っ直ぐにパトリックを見据える。
その姿は、自他ともに認めるクールでドライな冷徹侯爵令嬢そのもの。
ピンクブロンドの髪に紫の瞳、透けるように白い肌。一ミリも顔の表情筋を動かすことのない凛としたたたずまいがさらにパトリックを苛立たせる。
シンシアが着ているライトグリーンのドレスは彼女が選んだもの。本来なら婚約者であるパトリックから贈られて然るべきだけれど、もう何年も贈り物の類を貰ったことはない。
シンシアの向かいに立つ赤髪の少女――サマンサ・ベチドリップ男爵令嬢――の豊かな胸の間には、王太子の瞳と同じ色のイエローダイヤモンドのネックレスが輝く。
まるでその輝きと存在感が全てを物語っているように。
「シンシア! お前はことあるごとにサマンサを虐め、時には暴力すら振るったらしいな。そのような者を王太子妃にするわけにはいかない。だから俺は、真実の愛の相手でもあるサマンサを新たな婚約者として迎え入れることをここに宣言する!」
パトリックは力強く言い放つと、隣に立つサマンサを抱き寄せ、その赤い髪に口づけを落とす。
(公衆の面前で不貞を宣言されるなんて、ここまで愚かとは思いませんでしたわ)
シンシアの冷めた瞳にも、周りから向けられる白い目線にも気づくことなく、二人は頬を寄せ合い囁き合う。実に痛々しい光景に会場の空気が数度下がる。
「パトリック様、わたくし幸せです。本当にこんな日が来るなんて」
「サマンサ、言っただろう。心配することは何もないと。俺の真実の愛の相手は貴女だけなのだから」
そのまま口づけまでしてしまいそうな距離。大人達がいたら眉を嗜めるか、この場を辞していただろう。しかし、ここは王太子が主催の夜会で、出席者は同年代ばかり。不幸にもこの状況を咎めることかできる者は誰もいない。
それでも、眉一つ動かさないシンシアの態度に痺れを切らしたパトリックは、側近であり騎士団長の息子であるビルを呼んだ。
真っ黒な髪に日に焼けた肌をした、精悍な顔つきの青年がパトリックに歩み寄る。
「サマンサ、貴女の話ではシンシアに会うたびに暴言をはかれたとか」
「はい。シンシア様は私の顔を見るたびにマナーについてこと細かく注意なさるのです。わたくしが男爵家の出だからと、言外に非難を滲ませ強い口調で」
もちろんシンシアにそんな覚えはない。強いていうならば、婚約者のいる男性と息がかかるほどの距離で話すべきではない、と注意したことが一度だけ。そのようなはしたない態度をとって評判を落とすのはサマンサで、それに対し何度も注意してあげるほどシンシアは暇でも親切でもない。
そもそも侯爵令嬢のシンシアと男爵令嬢のサマンサに接点はなく、同じ夜会に出ていても話をすることはない。
「わたくしがシンシア様から酷く詰め寄られているところをビル様が見ておられます」
その発言に皆の視線がビルに注がれる。ビルは顎をあげ胸を張りながら一歩前に出た。
「ええ、私は夜会が行われている広間のベランダから、庭で話されているお二人を目にしました。声こそ聞こえませんでしたが、シンシア様が激しくサマンサ様に詰め寄っておられました。その後、私の胸に飛び込んできたサマンサ様の瞳から涙が溢れていたをここに証言いたします」
「おい、胸に飛び込むとはどういう「パトリック様、私気が動転しておりまして」お、おう。それは仕方ないな」
シンシアは胡乱な目でビルを見る。泣きながらビルの胸に飛び込むとはどのような状況だろう。二人はその後どうしたか。
そもそもシンシアは庭でサマンサに会ったことがない。
(サマンサの取り巻きの中に、わたくしと同じ色のピンクブロンドの髪の令嬢がいたはず。背格好も同じくらいだっと記憶しておりますわ)
チラリと見れば、今日もこの会場に来ており、隅の方からことの成り行きを見守っている。シンシアと目が合うと、さっと人混みに身を隠してしまったけれど。
「わたくしはサマンサ様と庭で会ったことがございませんわ。どなたかとお間違えされているのではないのでしょうか」
「何を!! サマンサだけでなくビルもお前だったと言っているのだぞ」
「夜会が開かれているとは言え、庭は暗いですわ。声が聞こえなかったということは、それなりに距離があったということ。ビル様、そのような状況でどうしてわたくしだと断言できますの?」
「それは、サマンサ様がそう言われたからで……」
「では、ビル様ご自身でわたくしだと確認されたわけではないということですわね」
泣きつかれ鼻の下を伸ばしていたところに、シンシアに虐められたと訴えられたのだろう。それを鵜呑みにするなど、これから騎士団を背負う立場の人間が聞いて呆れる。
「そ、それだけではありませんわ。シンシア様は私を図書館の階段から突き落としたのです。いきなり背中を押されて数段転げ落ち、それをたまたま通りがかったビル様が抱き起こして下さったのです」
今にもこぼれそうな涙と胸元でサマンサが訴えると、ビルは唇の端をニンマリと上げながらさらに一歩前に出る。
「ええ、図書館に本を探しに行ったとろ階段から悲鳴が聞こえてきました。慌てて駆け寄ると、階段下でサマンサ様が蹲っており、抱き起こすと震えながら私にしがみついてきました。私の首に腕を回し泣くサマンサ様を抱き抱え救護室に運ぶ時、走り去るピンクブロンドの髪を見ました」
「おい、図書館の救護室とは「パトリック様、わたくし痛かった」お、おう、それは可哀想に……?」
図書館の救護室が形ばかりの空き部屋で、密会に使われていることは有名。
一連の婚約破棄騒動の観客と化した夜会の参加者達がざわめき始める。
「我が侯爵邸にある書庫の蔵書の数は図書館を凌ぎます。わざわざ本を借りに行く必要がどこにありましょう。どなたかとお間違えなのでは」
「何を!! サマンサだけでなくビルもお前だったと言っているのだぞ」
「ピンクブロンドの髪しか見ずに、どうしてわたくしだと断言できますの? 先程から、ビル様はわたくしの顔を見たとは一言も仰っていないのですよ」
パトリックは指摘されて初めてそのことに気付いたようで、うぬぬと唇を噛んだ。
しかも、隣に立つビルとサマンサの間に感じる微妙な空気が、さらなる不安を駆り立てる。
それでも、婚約破棄を言い出したからにはもう引っ込みはつかない。もやもやしたものは一旦頭の隅に置いて、精いっぱいの威厳を醸しながら再度大きな声で宣言した。
「と、とにかく。俺はシンシアとの婚約を破棄してサマンサと婚約する」
(パトリック殿下はこの結婚の意味を理解されているのでしょうか)
シンシアの脳裏に疑問が浮かぶ。
パトリックとシンシアの結婚は幼いころに決められたことで、それはシンシアに目覚めたある能力によるもの。
「精霊王の加護を受けた者が王家に嫁ぐのが、この国の習わしではございませんか」
精霊王の力を借りてこの国が成り立っていることは周知の事実。なぜ改めて言わねばいけないのかと、初めてシンシアの眉間に皺が寄った。
その僅かな変化に気を良くしたパトリックはさらに声を大きくする。
「俺はそのような伝承は信じていない。精霊王を見てその声を聞いたというのは全てお前の証言のみ。それが虚言でないとどうして言い切れる」
「私の額には精霊王の加護を受ける者の印がございます」
シンシアはピンクブロンドの前髪をあげ赤い花弁を見せるも、それすら偽物かもと一笑にふされてしまう。それどころか、精霊王の存在すら怪しいと言い始めたので、流石にシンシアの語気も強まってきた。
「では、国を震撼させるような飢饉や洪水、伝染病がこの国で起こらないのはどうしてでしょうか」
「決まっているだろう。王家の政治能力が長けているからだ。第一、本当に精霊王がいれば小さな飢饉や洪水も起こらぬはず。それらが起きているということは精霊王なぞ存在せぬということだ」
この言葉には、会場内にいる者全員が青ざめた。
精霊王の怒りが今にも落ちるのではと、心配で倒れる令嬢まで。
「ここまで愚かな方だとは思いませんでしたわ」
「おい! 今何と言った」
シンシアはその質問には答えず、パトリックをジロリと見据える。その瞳には温度も感情もまったく感じられない。
「分かりました。婚約解消承りました」
「待て。婚約破棄だと言ったはずだ。それになんだその態度は。愛する俺が他の令嬢と結婚するというのだから、もっと取り乱すなり泣くなりすれば可愛げがあるも……」
「だって愛しておりませんもの」
シンシアの食い気味な発言にパトリックは驚きカチリと固まった。
しかし驚いたのはシンシアとて同様。
(まさかわたくしに愛されていたと思っていたなんて)
婚約してからの日々を振り返っても、そのような誤解を招く言動にはまったく心当たりがなく勘違いも甚だしいと思う。
「精霊の加護は嬉しかったのですが、パトリック様との婚約はちっとも嬉しくありませんでした。子ども時代から話をしていても頭の回転が遅く会話がかみ合いませんし、歴史や政治の話はおろか流行りの小説も知りません。一日二十四時間同じ時を過ごしているのに、何故この方の頭には何の痕跡も残らないのかと不思議でなりませんでしたわ。もしかして脳の容量がネズミ以下とか」
「おい! 今何といった? 愛していない? ネズミ?」
「あっ、申し訳ありません。いきなり沢山話すと理解できないのですよね。とにかくわたくしが貴方を慕ったことは一度もなく、それゆえサマンサ様に嫉妬しておりませんし、貴方に未練などチリくず一つ分もございません」
これなら理解できるだろうと、要点を端的にのべれば、今度は顔を真っ赤にして震えはじめる。
その反応を見て、やっと理解してくれたかと安堵しもう話すことはないとシンシアは扉へと向かった。
しかし、シンシアが扉に手をかけるより早くそれは開かれ、真っ青な顔で額に汗した国王が現れた。
「パトリック、護衛の者が急ぎ報告にきたのだがシンシアとの婚約を破棄するとは本当か」
「はい父上。私は真実の愛「ばかもん!!!!」」
言い終わる前に発せられた怒声にパトリックは数センチ飛び上がる。
温和な国王がここまで激昂する姿を見たことがない。
呆然とするパトリックに駆け寄ると、国王はその頬を思いっきり殴りつけた。
「精霊の加護を受けた者が王妃となり国を治めるなど子供でも知っていること。ただ、そのお方はいつ現れるか分からないため、不在時の政治の混乱を防ぐために王家が存在しているのだ。お前は今までいったい何を学んできたのか!!」
「そ、そんな。だって父上は政治を、この国を治めていたではありませんか」
「それは儂の代に精霊の加護を受けた娘が現れなかっただけのこと。先程言っただろう、精霊の加護を受ける娘はいつ現れるか分からないのだと。そしてその不在時を儂は治めていたにすぎん。この国を治めるべきなのはお前ではなくシンシアなのだ」
次期国王としてどころか、この国の常識である知識すら身に付けていない息子に愕然としつつも、国王はシンシアの前に跪くと深く頭を下げた。
「頼む、シンシア。この馬鹿息子を許してくれ。必ず心を入れ替えさせるから」
「父上! どうしてそのようなことを」
「お前は黙っていろ!!!」」
国王の悲鳴にも近い叱責がこだまする中、シンシアは国王の腕にそっと手を添え立ち上がるのを助ける。そして淑女らしい微笑みを浮かべ、今宵伝えようと予め用意していた言葉を口にした。
「サマンサ様のお腹には新しい命が宿っていらっしゃいます」
「はっ!?」
「……そうなのか? サマンサ」
パトリックが瞠目し、隣に立つサマンサの両腕を優しく掴む。サマンサは目線を左右に揺らしたのち小さく頷くも、その顔は青白い。
「国王、これほど大勢の前で婚約破棄を叫び、ご令嬢を妊娠させたとなれば私は引き下がるしかございませんわ。今後は精霊の加護なしで国を治めればよいだけのこと。そこに居らっしゃるお二人がきっと成し遂げなさるでしょう」
シンシアはそう言うと天を見上げた。そして何もいない宙に向かって話しかける。
「精霊王、私はこの国を離れます」
『さすれば俺の加護は受けられないぞ』
会場にいる人々が揃って天井を見上げるも、そこには何も見えない。しかし明らかに声は天井から降ってくる。
「構いませんわ。わたくし一度、自分の力だけでどこまでできるのか試してみたいと思ってましたの。今までわたくしが成したことは全て『精霊王の加護を受けているから』と言われてまいりました。寝る間を惜しんで勉強しても、淑女としてのマナーを身に付けても、わたくしがどれだけ努力をしても全て『加護』の一言で片付けられてしまうのです」
空中に紫色の光が輝いたかと思うと、白銀の髪の青年が現れた。金色の涼しげな目にすっと通った鼻筋、形の良い唇、その美しさに誰もが言葉を失う。
『俺の存在が迷惑だったのか』
「そうではございません。貴方様は私にとって大切な方と何度も申し上げたではないですか」
シンシアが呆れたように眉を下げると、精霊王は潤んだ瞳でシンシアのピンクブロンドの髪を一束摘み、口づけを落とす。もう片方の手はいつの間にか腰に回されている。
『だったらどうして俺を捨てるようなことを言うのだ。俺がいなくて寂しくないのか。俺はシンシアがいないと生きていけない』
「そんなこと申しておりません。わたくしはこの国を離れますが、そんなにわたくしと一緒にいたいのであれば、勝手についてくればよいではありませんか」
『ついて行ってもいいのか?』
聞きようによっては冷たくもとれる声と台詞にもかかわらず、精霊王の顔には笑みが浮かぶ。
精霊王の加護を受けたシンシアの態度はあまりにつれなく。しかしそれに対して精霊王は怒ることもせずただ頬を緩めうっとりとするばかり。
「な、なんだ。シンシア、お前は俺という男がいながら他の男と親しげにするなど、許されると思っているのか」
「ご自分のされたことを棚にあげどの口が言われるのか……。あっ、もしかしてご自分が仰った言葉をお忘れになられたとか。それなら仕方ございませんわね。アリ並みの脳みそなんですから」
「ちょとまて、ネズミよりさらに小さくなっていないか?」
「心の中ではミジンコ並みと思っております。それから、わたくしにやましいことは一切ございませんわ。精霊王が一方的に溺愛してくるだけなのですから」
『シンシア、悲しいことを言うな』
「事実です」
またもや精霊王に向けられる辛辣な言葉。半ば泣きそうに形の良い眉を下げながらシンシアにすり寄る精霊王は、それでいてどこか嬉しそうでもある。
「では、パトリック様、わたくしはこれで失礼いたします。皆さま。ごきげんよう」
これ以上言うこともなければ、いる意味もない。
シンシアは見惚れるような笑顔とカーテシーを残してその場を立ち去った。
それが、シリル国で見られたシンシアの最後の姿となった。
▲▽▲▽▲▽
シンシアに精霊王の加護の印が現れたのは七歳の時。それまでも時折その兆候が表れはしたものの、はっきりと花弁が額に現れると、両親のみならず国中が歓喜に満ち溢れ祝賀の宴が開かれ、あれよあれよという間にパトリックとの婚約が決まった。
パトリックとの月一回のお茶会も、王妃教育も、淑女教育も決して楽しいものではない。でも、それが自分の宿命だと、時折精霊王に愚痴りながらもひたむきに努力をした。
嫌いなものを努力し続けるのは並大抵のことではない。でもシンシアは頑張り、本来なら十五年かかる王妃教育を十年で終え、淑女としてのマナーも完璧に身に付けた。それなのに
「やはり精霊王の加護を受けた者は違うな」
「精霊王のおかげでシンシアは幸せですわ」
いつしか両親はシンシアではなく、シンシアを通して精霊王にのみに関心を寄せるようになった。泣けば精霊王が見ているのにみっともないと叱責され、褒める時は精霊王のおかげだから感謝しなさいと言われる。
(わたくしという人間を誰も見てくれていない)
小さな言葉が、態度が澱のように心に溜まりシンシアを苦しめていく。
精霊王は優しく陽気で一緒にいて楽しいし、シンシアにとって大切な存在。
しかし、精霊王自身もどこか息苦しさを感じでいるのをシンシアは知っていた。
そんな時、シンシアは一人の青年に出会った。
近隣の国々を巡り異国の品を売り歩く彼は、シンシアの伯爵家に立派な敷物を持って現れた。
その日、急に雨が強く降り青年は離れに泊まることに。
年頃のシンシアには近づかないようにと念を押され離れに案内されたのだが、夜更けに異国の話を聞きたいとシンシアがその部屋を訪れた。
青年は驚くも、それならバルコニーで話そうと招き入れてくれた。青年はティントと名乗り、異国の話をしたあと興味深そうにシンシアの額を指差した。
「精霊王の加護を受けているというのは本当ですか?」
「ええ。でも、精霊王は嫌いではないけれど加護の話はうんざりだわ」
二度と会わない相手だから気が緩んでいたのだろうか。
思わず出た本音と、眉間に皺をよせ感情を出した顔。
ティントがシンシアの言葉に過剰な反応を示さなかったことが嬉しくて、気が付けば堰を切ったように愚痴が飛び出していた。初めは不満を述べるだけだったその言葉が、悲痛な心の叫びへと変わっていくのにそう時間はかからなかった。
どれほどそうしていただろうか、全て吐き出してすっきりしながらもバツの悪さを感じていたシンシアに、ずっと黙っていたティントは話しかけた。
「精霊王ができることはこの国を豊かにすること。シンシア様が身に付けた知識やマナーは全て努力の結果なんだからもっと自信を持てばいいし、周りの人間もそのことを理解すべきだと俺は思います」
その言葉は、孤独とやるせなさに凝り固まったシンシアの心に深く突き刺さった。
今まで誰にも打ちあけられなかった思いを吐き出し受け止めて貰えた。
欲しかった言葉を与えてくれた。
心の内側からじわじわと温かなものがこみ上げてくるのをシンシアは感じていた。
「シンシア様、世界は広い。そんなに辛いなら、一度異国を旅してみては? 国が変われば価値観が変わり、今まで自分が思っていたこと、感じていたことが全てじゃないって分かったりします。ただ一人の人間になる時間が貴女には必要なのではないでしょうか」
――その日の夜は、それで終わった。
次の日ティントは侯爵邸を去ったけれど、その言葉はずっとシンシアの心に残っていた。
そして、時が経つほど心に大きく根を張り育っていった。
そして三年後、再びティントと再会したシンシアは、一つ頼みごとをする。
▲▽▲▽▲▽
会場から抜け出したシンシアは、近くの広場まで走った。高いヒールの靴は邪魔なので途中で脱いで手で持つ。
息切れをしながら辿り着いた先には使い古され色が剥げた馬車。
その横に季節外れの黒い外套を着た男の影がある。
「ティント、馬車を出して!」
シンシアは自ら馬車の扉を開けて中に飛び乗る。続いて乗る白銀の髪の男にティントは驚くも視線をシンシアに戻す。
「本当に宜しいのですか? この馬車に乗るってことは侯爵令嬢の地位を捨てるってことですよ」
「ええ分かっているわ。だからこの日の為にドレスや宝石を売って隠し口座にお金を移したんだもの。ちょっと段取りは狂ったけれど、概ね計画通りよ」
まさかパトリックから婚約破棄騒動を起こしてくれるとは思わなかった。本来の計画ではサマンサのお腹に子供がいることを伝え、婚約解消を申し出るつもりだったのだが。
サマンサの妊娠は精霊王が教えてくれ、シンシアは真実を知っている。
でもそこはうまく利用するつもりでいた。
シンシアに迷いはない。けれど、彼はどうだろうかと隣を見る。
「精霊王、貴方がこの国を離れたらどうなるの?」
『もとの状態にもどるだけだ』
「そのことで民は苦しむかしら?」
『この国の人間は精霊王を過信し、すべてを俺のせいにする。雨が降り洪水が起きれば精霊王が悪いというが、川の氾濫の後には肥沃な土が残る。その土で作った物を食べ恩恵を受けているのは自分たちだということを分かっていない。自然は絶妙なバランスで成り立っており、日照りがあれば長雨もある。それらすべてを無くすことは却ってその土地の為にならないのに、それを理解しない』
精霊王はほとほと疲れたといったように息を吐いた。
人間の身勝手さが、精霊王の心にも澱となって溜まっていた。感謝せずただ享受し、不平不満ばかりを口にする、そんな人間に尽くす道理など彼にはない。
『俺も暫く自由に生きてみる』
「それはいつまで?」
『シンシアがこの世にいる限り。その後はシリル国に戻って新しく加護を受ける娘が現れるのを待つさ』
砂糖に蜂蜜を溶かしたような甘い笑みを浮かべながら、額に唇をおとそうとしてくるので、シンシアは手のひらでそれを遮る。
『つれないな』
「精霊王の加護と溺愛は別だと、毎日申していますよね」
『……こたびの脱出劇は本当に自身のためだけなのか? シンシアが国を離れると言えば俺が付いて行くのは分かっていたはず』
――シンシアは精霊王の苦悩に気付いていたし、そこから解放する術も見つけていた。
でも、そんな台詞言ってあげるつもりはない。だってシンシアだから。
「何のことでしょうか。わたくしはただ自由になりたかっただけですわ」
『愛している』
「はいはい」
冷めた声と甘い声が交差する中、馬車は走り出す。
その後ろでは雨雲が広がり出し、やがて激しい雨が追手を防ぐように降り出した。
シンシアはだんだん糖度を増していく会話から逃れるように前の座席に移動し、小窓を開ける。そこからは御者席に座るティントと青い空が見えた。
「精霊王とは俺が想像していたのと随分違うようですね」
『それはお前の想像力に問題があるのだろう。それから、シンシアは俺のものゆえ必要以上に親しくするな』
シンシアの声の代わりに、脳に直接響くような精霊王の声が響きティントが目を見開く。
「……どうやら、とても愛されているようで」
「私は誰の物でもないし、あれは執着と呼ぶのではないかしら」
「いやいや、恋敵としてかなり手強そうです」
その言葉にシンシアは目をパチリとする。
「私は金貨五枚であなたを雇っただけよ。国境を越えればさよなら、でしょ?」
「世間は広いし、怖いし、シンシア様はお嬢様。暫く俺と一緒に旅をするというのはどうですか? そうすれば俺の良さも分かるし、口説く時間も沢山できる」
「それは当初の予定にはないのだけれど」
「シンシア様、何があるか分からないから、面白いのが人生なんですよ」
突然うわっとティントが声を上げた。それとほぼ同時に大量の水がその頭上から降り注ぐ。
「精霊王!? ダメでしょ、こんなことしては!」
『シンシアの一番は俺だ。俺だけだ』
「分かったから今すぐ乾かしなさい」
今度は吹き飛ばされそうな風が起こり、ティントの服をあっと言う間に乾かした。
「やれやれ、これでは先が思いやられるな。でも、シンシア様、人間同士でないとできないこともあるんですよ。国境まで数日かかりますからゆっくり考えてみてください」
ティントはそう言って身体をひねると、シンシアに向けいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
▲▽▲▽▲▽
精霊王がシリル国を立ち去ると同時に、シリル国を大きな地震が襲った。東西に細長いその国を両断するように真ん中に突如山脈が現れると、西側は干ばつに襲われ砂漠と化した。対して東側は広大な平地が残ったが頻繁に洪水に襲われるように。
多くのシリル国民が隣国に移住し、国が衰退するなか、サマンサは王子を産んだ。
どちらにも似ていない真っ黒な髪の男の子が次期国王となるか、波乱は続きそうだ。




