(4)アス・ドロップ(後編)
トライアス男爵から、同族の話を聞くつもりで、
二人きりになった翡翠の貴公子だったが・・・・。
翡翠の貴公子はトライアス男爵に案内されて、会場の個室で二人きりになっていた。
トライアス男爵は備えられているワインボトルを手に取ると、二つのグラスに、
とぽとぽと赤ワインを注ぎ、一つを翡翠の貴公子に勧めた。
だが翡翠の貴公子は、
「結構だ」
断ると、椅子にも座らず男爵の話を待っている。
トライアス男爵は立った儘ワインを口に含むと、漸く話を始めた。
「私は異種と云うものに昔から大変興味を持っていましてな、それはそれは、
あちら此方へ行っては関連書物を集めました。
御存知の通り此のウォルヴァフォードは異教に大変厳しく・・・・其れに倣ってか、
最近は近隣諸国でも異種の話を気軽に口に出来なくなりましてな、こうして今、
貴方と御話出来る事に、大変歓びを感じているのですよ」
「・・・・・」
翡翠の貴公子は静かに男爵の話を聞いている。
「皓月の貴公子と云うのは、時々サロンに姿を現す紳士・・・・おそらく異種で、
此れが又、大変美しい男なのです。
彼の白光りする髪を一度見ると、もう忘れられなくてね、今も目に焼きついている」
ゴホン・・・・とトライアス男爵は咳払いすると、灰色の目で、
じっと翡翠の貴公子を見詰めてくる。
「異種と云うのは大変美しい。皓月の貴公子ほどの美しい者を、私は見た事がなかった。
だが・・・・」
トライアス男爵はグラスをテーブルに置くと、徐ろに胸ポケットへと手を入れた。
「異種の中でも更に美しい者が居る事を、今、初めて知った・・・・其れは・・・・貴方だっ!!」
突如トライアス男爵は胸ポケットから小瓶を取り出すと、蓋を開け、
パシャリと翡翠の貴公子に中身を浴びせ掛けた。
「!!」
翡翠の貴公子は咄嗟に顔を腕で庇ったが、腕と身体に液体が掛かる。
一体、何を・・・・??
何を自分に掛けたのか、男爵の行動が翡翠の貴公子には判らなかったが、
直ぐに身体に異変を感じた。
「・・・っ」
突然、全身が痺れ出し、身体がふらつくと、翡翠の貴公子は立っていられず、床に膝を着いた。
身体の痺れは一層増し、彼が床に倒れるまで、そう時間は掛からなかった。
バタッ。
床に倒れた翡翠の貴公子の目だけが大きく見開かれている。
声を出す事も出来ない。
一体、自分は何をされたのか・・・・全く見当がつかない。
だが直ぐに目が霞み始めると意識も朦朧とし、翡翠の貴公子は気を失ってしまった。
そんな彼を上から見下ろし、トライアス男爵は喜々とした声を上げた。
「ははははは!! やった!! 異種を・・・・異種を捕まえた!! やった!! やったぞ!!」
男爵は大声で笑うと、ぐったりとした翡翠の貴公子を抱き抱える。
そうして翡翠の貴公子は、見ず知らずの男に攫われてしまったのである。
窓辺に立ち、夜闇を見詰め乍ら、男が呟いた。
「良いものを見た」
すると夜空から白い光が降りて来たかと思うと、一羽の真っ白な梟が飛んで来る。
いや、白と云うより白銀と呼ぶべきか、
体がぼんやりと光る幻想的な梟は窓から部屋の中へ入ると、其の途端、すう・・・・と薄れ、
姿を消した。
其れは魔法の如きだったが、まるで気にする風もなく男は窓を閉めた。
男は、それはそれは長い銀髪・・・・否、月光を紡いだ様な髪の、長身の大変美しい男だった。
其の美しさは、とても人間とは思えない程に・・・・。
其処へ少年が入って来た。
「何を見たんですか??」
其の少年も又、美しかった。
身体は小柄で、長い青銀の癖っ毛の髪の、少女の様に愛らしい顔だ。
だが其の色からして人間ではない事は明らかだ。
「セイ。同族が来たぞ。黒と赤い髪の二人の同族だ」
男が言うと、少年は少し驚きの表情を見せた。
「同族ですか?? 其れは又、随分と久し振りですね」
「そうだな。明日にでも少し、かまをかけてみるか」
男は、くくっと咽喉を鳴らすと、銀の瞳を細めた。
ぼんやりとしていた意識が徐々に形を成す様にはっきりしてきて、
翡翠の貴公子は重い瞼を押し開いた。
目の前には何か棒の様なものが並んでいる。
其れが何なのかなかなか判らず、じっと見詰めていたが、頭の中が鮮明になってくると、
其れが鉄格子で在る事が判った。
ぐるりと辺りを見回してみる。
すると鉄格子は円状に在り、翡翠の貴公子は、やっと自分が檻の中に居る事を悟った。
丸い檻の中・・・・そう、まるで鳥籠の様な物の中に居る。
そして漸く自分が柔らかな白いクッションの上に倒れている事に気が付いた。
檻の中には其のクッションと、何故かブランコが在る。
「・・・・・」
何とか状況を把握しようとし乍ら翡翠の貴公子は起き上がろうとしたが、上手くいかない。
身体がずしりと重くて動かない。
まるで見えない何かに拘束されているかの様に・・・・。
クッションを握り、辛うじて首だけ動かして辺りを見回す。
自分を閉じ込める檻は部屋の中に在った。
品の良い調度品が在るのを見ると、貴族らしき者の館の中か。
そもそも自分は何故こんな処に・・・・??
其処まで考えた時、扉が開く音がし、黒髪に黒髭を生やした男が入って来た。
そう、トライアス男爵だ。
「いやぁ。御目覚めかい?? まさか、こんなにアス・ドロップが効くとは思わなかったよ」
アス・ドロップ・・・・・其れは聞いた事のない言葉だった。
だが「アス」と付いている事は、異種関連の何かで在る事は想像出来た。
しかし翡翠の貴公子は俯せになった儘、声を出す事が出来なかった。
男爵は檻に歩み寄ると鍵を開け、扉を開いて中へと入って来る。
そして翡翠の貴公子の前にしゃがみ込むと、彼の髪に手を触れる。
「髪の塗料は落としたよ。こんなに綺麗な翡翠の髪だったのだね」
そう言われて漸く、自分の髪が本来の色になっている事に翡翠の貴公子は気が付いた。
更に驚く事に、変えられていたのは髪だけではなかった。
「服を替える時に、身体をじっくり見させて貰ったよ。君は実に綺麗な身体をしているね」
「・・・・・」
男爵の言う通り服も着替えられていた。
いや、服と云うには余りにもさもさしている。
自分の身体を見てみると、緑色の羽毛の様な物で覆われていた。
まるで自分を鳥そのものにでもするかの如く・・・・。
「異種と云うのは皆、君の様な身体をしているのかい??」
男爵の指が翡翠の貴公子の頬に触れる。
「まるで・・・・翡翠の天使だね」
うっとりした声を漏らすと、男爵は額に口付けてくる。
だが翡翠の貴公子には抵抗する術が無かった。
身体中が重く、手一つ思う様に動かせない。
男爵の手は頬から首筋をなぞり、背中へと走る。
「翼を・・・・出してごらん」
優しい声音で言い乍らも、男爵の唇は笑っている。
「翼を出せば、君は本当に翡翠の鳥になる」
「・・・・・」
だが当然だが翡翠の貴公子は翼を出さなかった。
男爵は暫く待っていたが、いつまで経っても翼を出そうとしない翡翠の貴公子に、
とうとう胸元から小瓶を取り出した。
「アス・ドロップは、まだ在るのだよ。もっと此れを掛けられたいかい??」
「・・・・!!」
翡翠の貴公子は瞳を瞠った。
アス・ドロップと云う物が何かは判らなかったが、全身が恐怖で強張る。
そんな翡翠の貴公子に、男爵はにたりと笑うと、小瓶の蓋を開ける。
「此れは、魔術師が君たち異種の羽根から作った物でね、
君たち異種を拘束する道具の一つなんだよ。
まさか、こんなに効くとは思いもしなかったけれどね」
そして笑い乍ら、ぽたり・・・・と躊躇無く翡翠の貴公子の背中に液体を零す。
其れは剣に貫かれる様な痛みだった。
「っ!!」
余りの衝撃と痛みに、翡翠の貴公子はクッションに爪を立てる。
脳裏に閃光が奔り、今にも気を失いそうだった。
「さぁ、翼を出しなさい。私の小鳥」
ぽたぽたと更に液体を零す。
「・・・・あ・・・・う・・・っ!!」
翡翠の貴公子は歯を食い縛ったが、激痛に声が漏れる。
まるで背中に無数の剣を突き立てられている様だった。
其れは武人で在る翡翠の貴公子にも耐え難い苦痛だった。
ぽたり、ぽたりと液体を零され、激しく眩暈がする痛みが繰り返し、
翡翠の貴公子はとうとう翼を出してしまった。
彼の背中から翡翠の閃光が奔ると、透き通る翡翠の翼が露わになった。
其の美しい光景にトライアス男爵は感嘆を上げる。
「おお・・・・!! なんと・・・・!! 何と云う美しさだ・・・・!!
此れだ・・・・此れが見たかったのだ!!」
両手で翼を掴んでくる男爵に、翡翠の貴公子は全身がぞくりとして心臓が止まるかと思った。
異種の翼は其の者の心臓そのものだ。
故に同族同士でさえ翼を触らせる事はない。
其れ程に敏感な部分をトライアス男爵は手で撫でまわし、口付けてくる。
「おお・・・・素晴らしい・・・・!! もう御前は私の小鳥だ・・・・私の物だ・・・・
ああ、ずっと、こんな日が来るのを夢見ていた・・・・!!」
何度も何度も翼を両手で撫でる。
其の度に、ぞくりぞくりと悪寒が翡翠の貴公子の身体を走った。
「以前、皓月の貴公子を捕らえようとしたが、気付かれてしまって、以来、
サロンへは顔を出さなくなった。とても残念に思っていたよ。
だが・・・・君が代わりに私の下へ舞い降りて来てくれた。此れは奇跡だ」
うっとりと灰色の目を細めると、男爵の手が自分の腰の後ろへと伸びてくる。
そして腰に挟んでいた物を取り出した手には・・・・
「やっと手に入れた・・・・やっと・・・・だからこそ、もう逃す訳にはいかない!!」
其の手に握られていたのは、大きな裁ち鋏だった。
鋏を右手に、もう片方の手で翡翠の貴公子の翼を握る。
「今から君の風切り羽根を切ろう。そうすれば君は、もう何処へも飛んでは行かない」
そう笑う男爵の目は明らかにイッていた。
「・・・・!!」
翡翠の貴公子の翡翠の瞳が凍り付く。
余りに信じられなかった。
「・・・・辞め・・・・」
僅かに声を漏らして抵抗しようとしたが、男爵の手は、しっかりと翼を握っている。
かつて感じた事のない恐怖が翡翠の貴公子の全身を襲った。
「さぁ、切るよ」
トライアス男爵は柔和な笑みで口の端を吊り上げると、
バチン!!
容赦なく翡翠の貴公子の翼を切断した。
「主っ・・・何処だ?!」
赤の貴公子は会場中の部屋と云う部屋を見て走っていた。
だが何処にも翡翠の貴公子の姿はなく、最早、会場には居ないと思われた。
「アレックス!! アレックス!! 何処へ行くの?!」
サラブレッシュが焦燥の顔で追って来たが、赤の貴公子は一切彼女を振り向かなかった。
酷く胸騒ぎがする。
翡翠の貴公子の身に何か起こっている事は間違いない。
「主・・・・」
赤の貴公子は廊下の窓を開けると、躊躇いもせず己の翼を解放した。
炎が迸る様な翼が露わとなり、追い掛けて来たサラブレッシュの足が驚愕で止まる。
だが赤の貴公子はそんな事には構わず、窓から夜空へと舞い上がった。
そして言う。
「火精。主が何処に居るのか教えろ!!」
其の声に街中の炎たちが、ゴウ!! と勢いを増し呼応する。
精たちの声を頼りに炎の如き翼を羽ばたかせると、雨降る夜の街を赤の貴公子は飛んで行った。
其れは脈打つ肉体が切断される音だった。
ザクリと云う鈍い音が部屋に響き、ぱらぱらと風切り羽根が床に落ちる。
「・・・・!!」
其の激痛は想像を遥かに越えるもので、
翡翠の貴公子はクッションに爪を立てて歯を食い縛っていた。
血液の通わない翼・・・・鳥ならば痛みを感じない筈だ。
だが異種の光の翼には、其の者の全神経が通っていた。
敏感な一枚一枚の羽根に触れられる事さえ、異種は恐怖する。
其の風切り羽根が、裁ち鋏によって切断されてしまったのだ。
血こそ流れないものの、切り口からは多量の光が流れ出した。
「おや?? 羽根を切っただけなのに痛むのかい??」
トライアス男爵は不思議そうに首を傾げると、苦痛に歪む翡翠の貴公子の顔を覗き込む。
「こんなに光が流れ出して・・・・美しい」
トライアス男爵は流れ落ちる煌めく光を両手で掬ってみる。
だが光は掌を通り抜けて落ち、床につく前に消えいく。
感触は無かったが、ほんのりと温かい。
其の幻想的な光にトライアス男爵の頬は紅潮し、深く溜め息をついた。
「美しい・・・・美しい・・・・」
トライアス男爵は翡翠の翼に手を伸ばすと握り、キスをする。
「やっと手に入れた・・・・ずっと異種を手に入れたいと思っていたのだ」
トライアス男爵は翡翠の貴公子の頬に触れると、いとおしくて堪らないと云う目で撫でる。
「君は本当に美しいね。ずっと皓月の貴公子を手に入れたいと思っていたが、
君の方が何倍も美しい・・・・君は、きっと神が私に与え給うた、小鳥なのだろう」
翡翠の貴公子は歯を食い縛った儘、痛みにぶるぶると身体を震わせていた。
其の翡翠の貴公子の顎を捕らえると、トライアス男爵はうっとりとした顔で、
震える唇に口付け様と顔を近付ける。
抵抗など出来る筈もなく、あと数ミリで唇が重なろうとした時だった。
ガシャーン!!
けたたましく窓が割れる音が部屋中に響いたかと思うと、大きな男が入って来た。
「だ、誰だ?!」
トライアス男爵が緊張の声を上げると、窓辺から降りて来たのは、真っ黒な服を纏った大男だった。
いや・・・・只の男ではない。
髪は燃える様に赤く、背からは炎の如く揺らめく翼が伸びている。
赤の貴公子だ。
「貴様か・・・・主を連れ出したのは」
正に鬼の様な形相で近付いて来ると、赤の貴公子は鳥篭の扉を壊して中へ入って来た。
「お・・・おお!! 君は、サロンに居た、もう一人の異種だね!!」
赤の貴公子の出現に驚くどころか、歓喜の笑みを浮かべるトライアス男爵に、赤の貴公子は、
ぐっと男爵の胸倉を鷲掴みすると、男爵を篭の外へと引き摺り出す。
だが、トライアス男爵は引き摺られ乍らも笑い声を上げていた。
「あはははは!! 異種が二羽も!! 二羽も、私の下へ来た!! あはははは!!」
笑い乍ら素早く胸元のアス・ドロップを取り出そうとするトライアス男爵に、
だが男爵が小瓶の蓋を取るよりも早く、赤の貴公子は男爵の腕を捩じ上げた。
バキバキバキッ!!
容赦無く腕が砕かれる。
男爵は小瓶を落とすと、其の激しい痛みに笑い声が悲鳴に変わる。
「うああああ!! いいぃぃ・・・・はな、はなっ、離せ!!」
絶叫するトライアス男爵の腕を赤の貴公子は更に上へと持ち上げると、
思いきり壁に投げ飛ばした。
ドン!!
男爵は頭部と身体を強打し、床に崩れた。
途端に頭部から血が流れ出す。
「ううぅぅ!! お、お、おのれぇぇ・・・・」
痛みを堪え乍ら、トライアス男爵は立ち上がろうとする。
だが次の瞬間、ゴオォォ!! と激しい音が鳴り、屋敷中が炎に包まれた。
「なっ・・・!!」
愕然とする、トライアス男爵。
赤の貴公子は篭に入ると、翡翠の貴公子を抱えて出て来、冷酷な赤い瞳で言う。
「楽に死ねると思うな。此の炎は御前の身体をじわじわと焼き尽くす」
炎の輪に囲まれ乍ら、トライアス男爵は漸く己の身の危機を悟った。
「わ、私を、殺すと云うのか??」
「当然だ」
冷めた赤の瞳が抑揚の無い声で言い返す。
トライアス男爵は炎の輪の中で冷や汗を流し乍ら叫んだ。
「何故だ?! 私が何をした?! 此の異教を弾圧する時代で、
こんなにも異種を愛していると云うのにっ!! 私は異種の味方だ!! 何故、其れが判らない?!」
腹の底から叫ぶ男爵に、だが赤の貴公子は、もう視線を向けようとはしなかった。
翡翠の貴公子を抱えて窓から外へと出る。
「待て!! 待ってくれぇぇ!! た、助けてくれぇぇ!!」
悲痛の叫び声と燃え上がる炎を後にして、赤の貴公子は赤き翼を広げ、屋敷を去った。
屋敷の炎上に気付いた街の者たちが水桶を持って駆け付けたが、
炎はトライアス男爵を焼き殺すまで鎮まる事はなかった。
この御話は、まだ続きます。
翡翠の貴公子の危機を何とか助けた、赤の貴公子でしたが・・・・
命の危機は、まだ在り・・・・。
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