第三十三節
朝日が訪れ、目が覚めた。
煩い目覚まし時計を黙らせて、僕はゆっくりとベッドから身を起こす。頭ががんがんする。昨日資料をまとめるために夜更かしをしすぎたせいだ。
「頭痛い……」
のろのろと起き上がり、僕はそのまま簡単に身支度を整え、パンを咥えて質素なアパートを飛び出した。
朝一から生徒会メンバーとともに打ち合わせ、その後授業、昼休みに先生と検討している議論を通して、放課後は……。
「忙しいな、生徒会長は」
制服についたほこりを払い、僕は太陽が顔を出した四月の空の下を駆け出した。
暖かい空。あちこちには桜が舞い散り、新しい学期の始まりを告げる。寒さを越えた青空と紅色に染まる桜は、どこか幻想的に映る。
中学校を卒業し、一年が経った。現在僕は、三森さんが在籍していた高校にいる。不登校からの成上りは今思い出しても血反吐が出るレベルだった。家に帰ったら十二時まで勉強、一月から受験当日まで娯楽などで時間をつぶすこともできない。しかも高校の倍率も二倍を上回っていた。受かったのは本当にラッキーだった。
とはいえ僕の腐った本質はそのままだから、特に変わったこともない。ただ、少ないけれど、気の置けない友人ができた。三森さんが言った、高校では友達ができるという話も嘘ではなかったんだな、と思う日々だ。
「おはよーございます、会長!」
振り返ると、生徒会の生徒がいた。そのままとててと走り寄ってくる。ロングヘアの女子生徒。
「おはよう。酒々井。早いね」
「先輩こそ。まだ打ち合わせには時間がありますよ」
「資料の確認をしておきたいからね。手伝ってくれるかい?」
「もちろんですよー!」
こんな感じに、僕を慕ってくれる人もいる。僕も、三森さんみたいに人に指針を示せる人になれたのか、未だに分からない。ただ、それを目指すことが、僕の目標だ。
「まさか高校生で独立するなんてねー、京介」
たまに電話をかけてくる姉貴にはレボリューションかと突っ込まれたりする。
そりゃそうか。優柔不断な僕が、母から独立し、バイトで生活費を補っているのだから。しかも生徒会長をやるという、神すらも予測不能な事をやってのけた訳だし。三年前の中学二年生の頃とは、全く想像できないことだ。
「京介」
「何でしょうか」
「気張りすぎるのもいいけど、少しくらい休んだっていいのよ」
姉貴は時折心配そうに言う。こんな時、僕の胸には安心感に満たされる。
僕は一人じゃない。
「もちろん、疲れた時には休息とりますよ、姉貴」
「そう。……なんか、変わったね、京介」
「そうでしょうか?」
「以前のお前なら、きっと無感動に相槌うっていただけだったからさ」
昔のことを思い出す。……確かに、あの頃は姉貴の言葉も頼りにしていたけれど、何も聞いていなかった気がする。
「ミモリンのおかげなのかね」
「そうでしょうね。悪影響ですけど」
三森さんは唯我独尊で、絶対的に人として破たんしている。
「悪影響だとしてもいいの。ただ前さえ向ければね」
電話口の向こう側で、かすかに姉貴が嬉しそうに笑ったのが聞こえた。
会議が終わり、教室に戻ろうとした時。どんと背中を押される。容赦ない一撃に振り返ると、にかりと笑った男性教諭が立っていた。ぼさぼさの金髪に、軽薄そうな雰囲気。
「よっす、京介ちゃん」
「君原先輩――先生。何するんですか」
ジト目で見ると、ぶははと何故か笑いだす君原先輩――もとい、君原先生。
「おいおいおい、反応薄いぞー特別指導だー」
「そんなんで特別指導だったら一日に何人連行されるんですか」
君原先生は、何を誤ったのか教員の道に入った。あんなよれよれの制服ではなく、教師らしい、堅苦しいスーツにネクタイ。ひょっとしたら僕よりもリニューアルしてる。今は実習期間だという。担当教科は国語。年が近いからか、男女問わず謎の人気がある。
「だけど驚いたぜー。まさか本当にお前が三森の高校に入ってくるなんてな」
「約束しましたから。まあ勉強とか生徒会で大変ですけど、充実してますし」
「なんて言ったって、大好きな三森ちゃんがいた高校だしなー。超・ストーカー、的な?」
「煩いです先生」
先生なんて似合わないな、と心の中でボヤく。君原先生は、頭がぱっぱらぱーな先輩のままで良い。その方が、面白い。
「……あいつのことも含めて、あれから色々あったな」
「そうですね」
死にそうなほど勉強して、やっとの思いで高校に突入して、会長になり上がって。
そして、三森さんは……。
「いやーもうマジで実習ダリーんだよ」
「怒られますよ、先生方に」
突然話題を変える君原先生に、僕は乗っかった。
「まあまあ。気にするのは先生の評価じゃなくて、生徒の評価だ。それだけよけりゃ、それでいいんだよ」
君原先生は、やはり、君原先輩だった。チャラけていても、しっかりと本質は見ている。そんな彼なら、きっと良い教師になれる。未来を見てきた訳でもないのにも拘らず、僕は確かにそう確信できた。
学校の帰り道、僕は間瀬さんの家による。
間瀬さんはいつも通り、おいしい素うどんを作ってくれる。どうしてかわからないが、間瀬さんのうどんは飽きる事がない。しっかりした腰に、香ばしい汁。どういう秘術を使っているのかと聞いたら。
「愛のスパイスよ」
と言ってた。六十過ぎのお婆ちゃんが。すまないです間瀬さん。一瞬鳥肌立った。
「と言うのは冗談で。あの子のためよ」
「三森さんですか」
「ええ。あの子何でもおいしいというからね。本心からうまいと思えるように、ね」
「……そうですね。三森さんですし」
間瀬さん、三森さんは、お世辞とか言わない人ですよ。そう思えるくらい、僕は三森さんのことを知ることができた。
「あれから結構立つのね。あの子の手術から」
「ええ」
かなりの日々が過ぎた。とても、とても長い日々。今でも僕は、三森さんの笑顔を、泣き顔を、言葉を、表情を、何もかも昨日のことのように覚えている。麺をかっ込み、汁まで飲んで完食する。
「また食べに来てね、アシスタント君」
「食べに来ますよ、もちろん!」
極端な話、世界の終りの日も、きっと僕は間瀬さんのうどんを食べるだろう。
廃墟は、変わらなかった。ぼろぼろの外装、落書きだらけの壁。異臭に、散らかるゴミ。
僕は我が物顔でその廃墟に入る。
三森さんとともに綺麗にしたリビング。
かつて、僕が首をつろうとした階段。
そして、二階へ続く廊下。
僕は思う。
あの時、二階に行かず、自棄になって首をつっていたら、こんな出会いはなかった。
一呼吸置き、僕は書斎へつながる扉の前に立つ。
『三森』と書き記されたプレートが掛っている。これも、最初と同じ。
扉を開き、書斎に入る。
本棚に並んだおびただしい数の本。
机に置かれたチョコのかけら。
カーテンが開け放たれた、十字架の枠が入った窓ガラス。
そして。
「遅かったな、京介」
あの時と同様、三森さんは回転椅子の上で足を組み、知性的な目を、僕へと向けた。




