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第一節

 十二月の初め。とても寒い日のことだった。吐く息は瞬く間に白く染まるほどの極寒。冷風が背中を撫でる、泣き出しそうな空の元。


 ずるずると縄跳びを引きずり大通りを歩いていると、子供たちが無邪気に僕の横を追い越していった。微笑ましい会話に、周囲の人の表情は心なしか緩んでいる。僕にもこんな時代があったのか、と少し感慨にふけりながらも、大通りから小道へと入った。


 獣道を囲う林の中を迷いなく歩く。午後を大幅に過ぎたおかげで、とても薄暗い。まるで自分の心内を表しているようで、心底煩悶とする。サク、サクと草を踏みつける音だけがやけに反響した。


 深い緑の臭いとともに、茂る草が制服のズボンを掠る。じめじめとした林道を、僕は足早に進んだ。


 見えてきたのは、二件の家。そこだけ林が開いており、取り残されたようにポツンと佇んでいた。右側の家には、大きな畑が広がっている。一度散歩がてらに訪れた際、農家の方が耕しているのを目にしたことがある。今は小松菜が植えられ、見事に青々とした葉が顔を出していた。


 けれど、僕の目的地ではない。


 左側の、やや離れた家を見た。


 つたに覆われた壁。


 スプレーで書かれた卑猥なイラストや文。


 割れた一階の窓ガラス。


 二階建ての古びた廃墟は、どこか薄気味悪い雰囲気をまとっていた。


 「いつ見ても崩れてきそうな場所だな」


 灰色のレンガを冷めた目で一瞥し、僕はその廃墟へ足を踏み入れた。





 いつから廃墟があったのかは、実際のところ僕も知らないし、興味もない。生まれた時にはあった。肝試しにしか利用されていないのだ、早く取り壊せばいいのに、と僕は思う。


 ありきたりな話だが、家の人が自殺した、行方不明者が出た、惨殺された人がいるなど、怪談ではメジャーな噂がお約束のように飛び交っている始末。一般人は建物を見た途端に引き返すだろう。そこまでの人を圧倒する雰囲気を、この廃墟は持ち合わせていた。実際、以前の僕も敬遠していた。


 以前は。


 汚れるのも構わず縄跳びを引きずりまわし、僕は玄関を土足で越えた。


 入口から伸びた廊下を進み、リビングへ出る。まるでごみ箱の延長戦の有様だ。漫画や菓子の袋、ほこりが堆積していて、どこか異臭がする。妙に生活感なる気配がある所が薄気味悪い。意外と足場はしっかりしているようで、床が抜ける事はなかった。


 「幽霊が出ると騒がれる訳だな」


 天井を見上げながら、僕は一心不乱にフックを探していた。丈夫で曲がらない、太いフックを。トイレや風呂場をめぐりつつ、探索範囲を広げていく。


 二階へつながる階段の天井に、大きな釘が刺さっているのを確認した。どういう経緯で打ち込まれたか不明だが、良い環境だ。


 縄の両端を固く結び、四十センチほどの輪二つを作る。ぴょんと飛びつつ、輪を釘の出っ張りに引っ掛けた。僕の身長は百六十くらい。


 これなら、首をつるせばうまく死ねるだろう。


 意外に恐れはなかった。脈拍も通常と同じだった。まるで第三者のように、僕は驚くほど冷静でいられた。人はそれを異常だというのだろうが、別に今更になって外聞を気にする必要なんてないのだし。


 それにしても、と僕は思う。


 小説やアニメでは、死ぬ瞬間は抵抗があるっぽかった。しかし、僕にはそれがない。お腹が減ったら何かを食べると同じ様に、僕は簡単に自死を決断できた。やはり首つりの輪を見つめながら、そんな自分が哀れに思えて仕方ない。自分の感情に欠陥でもあるのではないか、と勘繰ってしまうほどに、僕は冷酷なまでに冷静でいられた。


 ……まぁ、碌な人生じゃなかったからな。


 誰からも期待されない、興味すら持たれない。深い孤独をこの先味わい続けるより、ここでピリオド打ったって。ぼんやりと考えを巡らせながら、僕はロープに己の首をかけた。――かけようとした。





 微かにクラシック系統の曲が耳に入った時、まず最初に綺麗な曲だなと感じた。最初は空耳かと疑ったが、どうやら違うようだ。


 音は途切れることなく、二階から降りてくる。


 「先客でもいるのかな」


 輪から手を離し、二階に続く階段を見やる。変哲のない、無機質の階段から、ポロンポロンと優しいピアノが降りてくる。緩急が付いた、流麗なリズム。しばらく聴き入ってしまうほど、その曲は魅惑的なものだった。


 気づけば、吸い寄せられるように階段を上っていた。普通なら変質者だと思って逃げるだろうが、こちらは死のうとする身だ。刺されたって構わない。実際、好奇心だ。


 普通に考えて、こんな廃墟でクラシックを流す奴なんていないだろう。


 コツ、コツ、と靴と床が触れ合う音がくぐもって響く。


 階段を上り終えると、プレートのかかった、明るい茶色の扉が僕を見据えていた。


 音楽は扉の奥から流れてきていたし、本来なら埃だらけになっているはずの廊下には、塵一つない。


 プレートは名前がマジックで書かれただけの簡素なものだった。


 『三森』


 音楽を流している者の名だろうか。家に氏名をぶら下げたプレートを下げるなんてありえないし。


 クラシックは延々と流れている。曲の趣向から、女性。


 「何をしているんだろう、僕は」


 今頃死んでたはずなのに、と思いながら、存在を主張する鉄のドアノブを握る。……やけに暖かった。タイムラグをおかず、僕の前に誰かが廃墟に潜入したのだろう。


 死んでもいいとは思っている身だが、やはり緊張はしてしまう。初めて自分の手汗がひどいことに気付いた。心臓の音が、耳の音でコクコクと鳴り響く。


 一呼吸置いて、ドアノブをひねり、奥へ通しだす。キィィ、と木と木同士のかすれた音が耳をついた。


 まず目に入ったのは、天井まで届く大きさの本棚。難しそうな本から、ラノベまで。数冊ほど本を読まない僕ですら見知った本もあった。


 驚くべきはその冊数。百は超えているのは明らかだ。とにかく、膨大の本が乱雑に突き刺さっていた。


 僕が立っている向かいについた大きな両開き窓からは、ほのかな光が差し込んでいる。


 窓に接する小さな机――子供用の学習机くらいの大きさだった――にはノートパソコンがあり、少しだけ溶けているチョコレートの食べかけが右側に置かれている。


 その光を受ける、すっと伸びた華奢な体。きらきらと光る、漆黒の黒髪。


 回転椅子を回し、僕の方へ向くスレンダーな女性は、おそらく高校生から大学生。


 赤いコートは、まるで返り血でも浴びたのかというほどに赤く、朱かった。


 偉そうに足を組み、片手を背後にある机に乗せ、彼女は無表情のまま、値踏みするように僕を見ている。


 「……!」


 思わずたじろいてしまった。こう堂々と迎えられたからというのもある。


 しかし、その人があまりにも容姿に優れていることこそが主な原因だ。


 雪のような白い肌。どこか我が強そうな、漆黒の瞳。幼さがない、大人の女性。


 心臓がドキドキと血液を大量に回していく。人がいる事は分かっていた。しかし、こう迎えられると反応に困ってしまう。


 いつの間にか音楽は止んでいた。完全な無音。


 やがて、女性は口を開いた。スローモーションのように僕の目には映った。


 「君、私と契約しないか」


 全てを見透かすような、切れ長な、汚れ一つなく瞳。低い、大人の女性の声。しかし有無を言わせない、そんな迫力が彼女にはあった。優しいピンク色の唇は、まるで面白い玩具を前にしたかのように、わずかに上がっていた。





 それが僕と、三森さんとの出会いだった。



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