第十七節
暫く学校に行き、授業を受ける日々が続いた。遅れを取り戻すために先生に補習をしてもらい、まあまあ付いていけるようになってきた。
毎日夜遅くまで授業して、ひたすら復習と予習。時間を惜しみ、勉強だけに意識を注ぐ。……三森さんのことを思い出さないようにするために。
たまに三森さんが教えてくれた範囲が出ると、やっぱり思い出してしまう。どこか要領得ない、けれど熱心な授業。しかしいずれ時間が風化させていくだろう。まだ引きずっている恋情とともに。
いずれ、は。
結局切り捨てるならば、僕に対し優しい言葉をかけないでほしかった。
もし初めて会った時の感じの接し方だったならば、僕は瞬時に彼女のことを忘れる事が出来た。三森さんは、僕に対して優しすぎた。今ではそれが恨めしい。
それでも頭が冷えてから、ずっと僕は三森さんのことが気がかりだった。
三森さんは重い病にかかっている。不安なのはある。また一人であそこに倒れているのではないか。実は僕を待っているのではないか。
……そんなわけないか。
彼女は初めから終わりまで僕を利用していただけだ。変な情を持ち合わせていない。そんな人だった。彼女は、失ったものに固執するタイプではない。
あれから一週間以上、僕は三森さんの廃墟へ行っていない。
学校からの帰り道だった。わざと僕が廃墟方面を迂回して帰宅している最中、おい、と声をかけられた。
見知った顔だ。だらしなく着崩した制服に、金髪。冷え込むため、紺色のマフラーを首に巻きつけている。
「君原先輩」
「久しぶりだな、なんつーか、目が死んでるぞ、お前」
「そうでしょうか」
鏡を見ないから分からない。しかし、どこか張りの無い生活に逆戻りしたのは事実だった。なにもない、日常。
僕からしたら、三森さんは支柱だった。何も無かった僕が見つけた唯一の依存先。それが彼女だった。野球にバットが必要不可欠であるように、それなしには成り立たない、大きな存在。君原先輩に指摘され、ようやく理解できた。
「しかも眠れてないのか? クマすごい」
「それは夜遅くまで勉強していたからですよ」
実際昔では考えられないほどの勉強量だ。
「というか最近ミモリンが口数少なくなっていたからさ、少し心配なんだよね~」
探りを入れているのだろうか。三森さんが相談するとしたら彼だ。警戒すべきか否か。
「特には変わった様子はありませんよ」
そう答えたものの、僕の胸にはどす黒い罪悪感があった。虚偽を騙ったことに対しばれないかどうかという不安。
「ならいいんだけどな。あいつかなり繊細でうさぎさんだから構ってやれよ。ああ見えても弱い奴だからさ」
「傲岸不遜の間違いですよ」
あの人はどこか頭がおかしい。繊細だなんてもってのほか。
「まあそういう風に見えるな、確かに」
君原はオーバーに両手を挙げる。
「君原先輩は否定しないんですね。三森さんが傲岸不遜と言う所」
「事実だし。友人だからって過大評価する訳ないっつーの」
ばっさりと切っていく君原先輩に、僕はいささか反応に困る。首肯するか、三森さんを擁護するか。
「じゃ、そう言うことだ。仲良くな~」
僕が喋る前に、君原先輩は手を左右に振ってどこかへ行ってしまった。三森さんには勝らないが、彼もまた嵐のような人だ。
ぶらぶらと立ち去る彼の後姿に、僕はそっと溜息をもらす。どうやら君原先輩が何も知らない所を見るに、三森さんは全く僕達の間柄を説明していないらしい。
そちらのほうが好都合だろうけど。
しかし、やはり僕は心配にはなってきていた。
どうだっていいと言い聞かせていながらも、あの時の三森さんの衰弱ぶりは見過ごせない自分がいた。
……この頃になると、冷静になった僕でも言いすぎたと分かってきた。三森さんはあくまで僕に心配をかけないように配慮していたのだろうし、踏み込みすぎたのも悪いとは思っている。利用されていたのは未だに胸糞悪い。けれども心配なのだ。自分が本当に甘い人間だと思い知ったこの頃だ。
しかし分かっているけれど、あんな口論をしたのだ、おめおめと戻れるはずがない。一時の激情に身を任せた結果がこれだ。ちっぽけなプライドが、三森さんと話すことを拒んでいた。
ラインなら直接顔を見ずに話せるだろうけれど、僕はスマホを所持していない。結局ずるずると僕は三森さんと接触することもなく日々を消化していった。
僕が罪悪感に包まれながら廃墟に赴くまで、約一カ月を弄した。二月の中盤。寒さがピークとなる季節。
正直、気まずい。しかしこのままフェードアウトしていいような浅い付き合いをしていたつもりはない。覚悟が冷めきらないうちに、僕は再び廃墟へと赴いた。
「寒いな……」
鼻をすすりながら、久々の道を通る。
雨水などでぬれた草がズボンを容赦なく濡らす。白い吐息を吐き、僕は久々に廃墟の前に立った。相変わらず変化が無い廃墟。
正直、心の準備ができていない。しかしここで断念すれば、次に訪れるのはいつになることか。
僕が廃墟に入ろうとした、次の瞬間。
「あんた、アシスタント君かい?」
聞きなれた明快な口ぶりは、間瀬さんのものだった。ガラガラと窓を開け、間瀬さんが顔を出した。
「お久しぶりです、間瀬さん」
「そう言うのはいいから!」
血相を変えた彼女に、僕は一抹の不安を覚えざるを得なかった。
「大変なことになったんだよ!」
温和な態度を崩した間瀬さんはつばを飛ばしながら叫ぶ。
「大変な事って……」
最悪な予想に、おのずと手が汗ばむ。どうか、外れてくれ。
「三森ちゃんが、倒れたのよ!」
しかし、あえなく僕の祈りは打ち砕かれた。
「倒れたって……いつ?」
「一ヶ月くらい前! アシスタント君が来なくなってから数日後に突然部屋に来て、そのまま――」
心臓が引きつった。はじかれるように僕は間瀬さんの両肩を掴んでいた。
「無事なんですか! 三森さんは!」
「数日後に連絡が入ったけど、もう、暫く来ないって――」
体感温度が数度下がった気がした。せめて三森さんが無事だったのが救いか。
それよりも。
暫くここに来ない――。
「廃墟を見てきます!」
廃墟に入り、階段を駆け上がる。
建てつけの悪い玄関口。
僕が死のうとしていた、階段途中のフック。
主の不在を示唆する、地面に広がる薄い埃。
扉を開ける。
「三森さん――!」
ぶわ、と冷たい風が吹き抜けた。正面に広がる光景に、僕は目を疑った。
本が無かった。チョコのゴミも無かった。パソコンも無い。あれほどに散らかった部屋は、もはやその面影はなく、寂しい空間でしかなかった。開いた窓から噴き出す冷えた風。寒い、寒い、ゼロの部屋。あの時感じた戦慄と絶句を、僕は今でも忘れない。
三森さんの痕跡はなにもなかった。
今になって、僕は全てが遅かったことに気付いた。




