第十六節
生まれてきてから、僕はそこまで本気で怒ったことがない人生を歩んできた。元々気が弱いということだからか、突っ込みは多いけれど怒鳴ったことや憤怒に駆られたことは一度たりともない。
ここまで激情に任せる日がやってくるとは、今の今まで予測できなかった。
どうしてイライラしているのか。
症状が軽い? 死なない?
冗談も甚だしい。三森さんは僕に対し、いつまで嘘をつき続けるのか。
極寒の寒さを忘れるほどに、僕は激高していた。
そのまま廃墟へ訪れると、三森さんはいつもどおりに小説をつづっていた。
しかし、いつもの僕と違うのを一瞬で気づいたらしい。
ぱたんとノートパソコンを閉じ、三森さんは首をかしげた。
「どうした? 玄関の戸を閉める音がいつにもまして乱暴だったが」
「三森さん。正直に答えてください」
語尾が震える。初めて僕は未だに期待しているのに気付く。あの薬はがん以外の、軽い病気にも使うのではないか、と。三森さんは嘘をついていないのではないか、と。
「三森さん、貴方は何の病気ですか」
僕の問いに、三森さんは一瞬目を見開いた。
が、今度は能面のような無表情となり、僕を感情の読めない眼差しで睨み返す。
「まさか、薬を調べたのか」
「一応ですが」
三森さんが手で顔を覆う。微かな溜息が洩れる。
「はぁ、うかつだったな、私も。もう少し注意深くするべきだったが、あの非常事態だ、仕方がないだろう」
長い黒髪が、三森さんの双眼を覆う。
ドクドクと僕の心拍音だけが、耳に響く。
罪人の気持ちだ。刑の宣告前の恐怖と焦燥。永遠にも思える一瞬の後。追い詰めるはずの僕が、逆にここまで精神を削られるとは。
そして、半ば予想した通り僕の期待はいとも簡単に消された。
「ああ。そうだよ」
溌剌と三森さんは言う。
「悪性ガン。膵臓あたりって医者は言っていたっけ? 生存率は低いし、手術しても取り除ける確率は、言わない方がいいか。そう言う部類のものだよ」
自分の体のことなのに、彼女は一切興味がなさそうにすらすらと述べていた。
「……なんで、それを教えてくれなかったのですか」
「言う必要がないと思っていた」
あっけからんと三森さんは断言した。罪悪感もない、いつもの笑顔のまま、三森さんは首を軽く横へ傾けた。
「君は中学生だ。そんなことを気にする必要性が無い」
「ふざけないでください!」
必要性? 中学生だから? 何言っているんですか、三森さん。
「小手先の嘘でごまかして、本気で心配していたのに!」
廃墟中に轟く僕の声。もちろん三森さんが僕に配慮してくれたのは分かっているつもりだ。しかし、裏切られたと感じてしまう僕の暴走は止まらない。心配をないがしろにされ欺かれた僕は止まれなかった。
なのに、三森さんは動じなかった。彼女はどこまでも残酷な彼女のままだった。
「心配していた、か。それはお礼を言う。しかし私からしたら踏み込まれたくない領域でもあったんだよ。心配は受け取るが、深入りされるのは嫌なものだよ」
いつものテンション。いつもの、粛々とした語り口。それなのに僕は血管が切れそうになった。
「死ぬかもしれないんですよ……。心配しますよ。深入りだってしますよ!」
「とても最初死のうとしていた人とは思えないセリフだな」
足を組み、からからと回転椅子を回し皮肉る三森さんは、口角をあげた。痛い所を突かれ黙り込む僕に、三森さんは淡々と言葉を継ぐ。
「どうして私が君を部下にしたかわかるかい?」
「話をそらさないでください」
「観察したかったからさ。君という存在を。どうしたら死にたいのか、それを知りたかった」
「何を言っているのですか……」
「私は死ぬのが怖い。だからさ、死にたい人間の思考が欲しかったんだよ」
感情を微塵も感じさせない声色に、俺の声も思わず冷える。
「つまり僕は、三森さんに利用されていたのですか」
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
「そうだ。それ以外の何がある」
三森さんは、残酷だ。握られるこぶしが痛む。
「……傲慢ですね、三森さん」
「傲慢? 元々私はこういう人間だよ? 京介」
絶対零度の眼差しに、僕の堪忍袋は切れた。ナイフがあったら、迷わず刺すぐらいに、僕は憤怒に駆られていた。
「もういいです」
「どこに行く? 京介」
「帰ります。……せいぜい気を付けてくださいね!」
ぎろりと一瞥する。三森さんは無表情だった。切れ長の瞳に、僕は映っていない。僕は、彼女にとってそんな軽い存在だったのかと思うと、さらに激高したくなるほどに腹が立った。
そうだ、そうだよ。彼女はそう言う人間だった。
大好きだった人の顔が、今は憎い。そのまま僕は振り返ることなくドカドカとこの廃墟を立ち去った。




