第十五節
三森さんが戻ってきてから、僕達の間には重苦しい静寂が漂っていた。
先ほどのことを聞くべきか否か。対戦で相手の出方をうかがうような、緊迫した空気。しかも帰る機会を逸したので、空が暗くなり始めても僕は本を読む手を緩められなかった。それなのに三森さんはいつも通りパソコンに向かってキーを叩くだけ。鼻歌まで……。久々にこの人は頭おかしいのではないかと勘繰るほどに、いつも通りだった。
「京介」
「……あ、はい!」
裏返る声に、三森さんはけらけらと何強張ってんだ、と肩をすくめる。顔色も、いつもと同じ、赤みを帯びた頬をしている。
「トイレ、使えなくなってしまった。すまないな」
トイレは電気が通じていないから、吐瀉物はそのままだ。
「いえ、別に」
コミュ障はつらい。再び嫌な間が空いた。
「おい、どうした? いつもと変だぞ」
いつもと変?
当り前だろう。突然倒れて、突然薬を要求されて、突然吐いて。いつもと変じゃない方がおかしい。
「三森さんがいつも通り過ぎるんです。普通、もっと、なんというか」
「かくかくしかじかでこうなってしまいました助けてくださいって? 超ダサい」
「ですよね。三森さんはそういう人ですよね」
三森さんが頼るということは、多分僕の手に負えないことだ。
「大丈夫だ。少し病気を患っている程度で、たまに痛みが来るんだ」
初めて知った。
「いつもなら鎮痛剤で緩和させてるんだけどね。今日あたりストックが切れるだろうと思っていたけれど、コートから薬を出す前にね」
「……チョコを買ってこさせた理由って、まさかそれですか」
「そうなるね。まあチョコが無いと何も手につかないのもあるけれど」
三森さんはプライドが高い。自分が病を患っていることを知られたくなかったのは、なんとなくわかる。
初めから、僕は三森さんに欺かれていたのか。そう思うと、少しだけ、消化不良気味にモヤモヤした。
「どんな、病気なんですか」
「死にはしない」
そう言う三森さんの顔は、夜の空のおかげで分からない。互いに認識し辛い暗闇に包まれながら、言葉だけを交わす。ランプはつけない。表情が分からないはずなのに、三森さんは僕が最も懸念していた問いに答えを出す。
「私の症状は軽い。だから死ぬまではいかない。肉体的な痛みを伴う程度で済む」
三森さんが僕を見る。パソコンの残光が、三森さんの綺麗な瞳を映す。
「安心しろ、京介」
穏やかな口ぶりに、僕の不安は一瞬で拭われた。三森さんは死なない、その事実だけで十分だ。
「それならば、よいです。ですが苦しかったら早めに言ってください」
心配だった。倒れるほどの痛みを僕に知られないようにしていた。もし再びそんな状況になったら、三森さんは僕に頼るのか。
「ああ。今度からは頼りにしよう」
「そうしてください」
断言する所も、返って怪しい。だけど今の僕にできることは、三森さんの言葉に従うことだ。むかむかするもどかしい気分を吐き出すように、僕はそっと溜息をついた。
姉貴が家からいなくなってから、僕は味気ない生活を送っていた。元々のように、僕は姉貴の電話を心待ちにしていた。その日、学校から帰宅した頃には四時を回っていた。時が過ぎるのと比例する極寒は、一向に春の兆しを見せないまま一月中旬となった。
「学校行ったのね。京介」
「一応」
母はそれだけしか言わなかった。
「美鈴みたいに普通に学校に行きなさい。これから」
母の声を黙殺し、僕は自室にこもる。
僕の電話を、姉貴はすぐに取った。
「どうしたの?」
「聞きたいことがあるんです」
「なんだ?」
「三森さんって、何か、持病とかあったんですか」
「え?」
姉貴が困惑する。この反応だけで駄目っぽい感じがする。
「いや、聞いたこと無いけど」
「そうなんですか」
「どうかしたの? あの子」
「いや、特に」
今それを聞くべきではない、と僕の直感が告げていた。それに、計算抜きで三森さんが抱えている問題を他人に吐露するのははばかられた。
「そう、ならいいけど」
姉貴のこういうさっぱりした所が好きだ。むやみに詮索されると面倒だったから。暫くの間雑談し、それから電話を切る。
唐突に僕は、三森さんについて何も知らないことに気付いた。
トップ校に通う生徒会長。僕の知っている三森さんは、ただそれだけだ。
あれほど長い間一緒にいたのにもかかわらず、僕は三森さんを知らない。
そんな中、僕はふっとあの薬の名前を思い出した。
オピオイド。色々と小難しい単語の中で、これだけは妙に覚えていた。
うまくいけば、三森さんが患っている病について知ることができるかもしれない。
無論これはただの好奇心だ。症状が軽いとはいえ、どういう物なのかを知っておけば、僕でも対処できるかもしれない。
リビングに据え付けられたパソコンにオピオイドと打ち込み、検索をかける。
すると、一番上の項目に、オピオイドの説明が出てきた。タップすると、ページに飛ぶ。
三森さんの言うとおり、鎮痛剤であるのは確かだった。神経系の脳やせき髄に作用し、痛みを抑える薬を指す。処方量は痛みの程度に応じ、副作用としては悪心や便秘などがあるという。
使われる病気は何だろう、と僕がページをスクロールした。
そして病名を見、僕は絶句する。
たらたらと長い文面の中、たった一文に、僕の目は吸い寄せられた。
「……何が死なない、だよ」
『医療においては手術や、がんの疼痛のような強い痛みの管理に不可欠となっている』




