第十四節
順調な日々を過ごしていた、一月の中旬。
相変わらず僕らは平穏無事な日々を過ごしていた。特にこの頃、三森さんはずっとパソコンに向かっていた。しかもずっと指が別の生き物のようにキーの上で踊っている。創作活動は順調らしい。
「小説のほうはどうでしょうか」
「滞りなく順調だよ。ただ、表現したい物に対応する語彙力が不足して困り気味だ」
いずれ読ませてやる。三森さんは今までにないほどに得意そうな顔をしていた。
ちらりと盗み見れば、ワードに蟻の行進かと見間違うほどの文字。文字数は四万文字を超えているあたりか。とにかく凄い。
「ついに京介も私の小説に興味を示し始めたか!」
「示してません。活字はあまり得意ではないです」
「そこはお世辞でも興味ありますって言おうよ」
口をすぼめる三森さんに、嘘はつけません、と反論する。
「……でも、いずれ読んでみたいです」
僕は嘘をつかない。
三森さんは一瞬目を丸くしたが、やがて素直になったな、と軽口を叩く。
「完結したら最初に読ませてやるからな。だから待っていろ」
「言われなくても待っていますよ。三森さん」
三森さんは天才だ。きっと、ものすごい秀作ができているだろう。僕はそう思っていた。
しかし、数日後、悲劇が起きる。
その日。僕が読書をしていた時だった。多分いつも通りの一日だったはずだった。雪が溶けだし、地面に氷が張り詰めている地面を見下ろす三森さんが、チョコレートを買って来いと言い出した。いつもなら二つ返事で了承するのだが、つい先ほど僕はチョコを買ってきていた。現に三森さんの脇には食べかけが残っている。
「残さないでくださいよ、三森さん」
「分かっている。早く買ってこい」
いつにも増して冷たい口調の三森さん。機嫌でも悪いのかと僕は素直に従った。
通い慣れたコンビニでチョコを購入し、ついでに生理用の薬も買っておいた。
「三森さんが機嫌悪いなんて、珍しいこともあるものですね」
飄々とした態度である三森さんだけに驚きだ。変な所で逆鱗に触れるのは嫌だったため、それから廃墟を迂回する形でゆっくりと廃墟に戻った。
すっかりきれいになった一階を通り、二階へあがる。
「三森さん、チョコレート買ってきましたよ」
そう言いながら扉を開いた時、僕は思わず絶句した。
地面に、三森さんが倒れていた。はだけたコートは遠くへ転がり、回転椅子がひっくり返っている。荒い呼吸音が、部屋の中に満ちていた。
「三森さん! どうしたんですか」
駆け寄ると、かろうじて意識はあるようだった。激痛に顔をゆがめながら、脂汗をかいている。その手には、空になった薬箱。何かの薬のストックが切れたらしい。
心臓が止まりそうになる。なんだこの薬は? 持病? でもそんなことってあるのか。というかどうすればいい。どうすれば……。先ほどの冷静な思考が徐々にヒートアップしていく。
死ぬんですか。
脈絡ない、混乱した頭ではじき出された、身の毛のよだつ可能性。
「早かったな、京介」
血の気の無い顔を向ける三森さんは、くの字のまま笑いかける。しかし、いつもの覇気などない、弱弱しい口調だった。
「そんなのいいですから薬は? 切れたのですか!」
心臓がバクバクとけたたましい警鐘を鳴らす中、三森さんは赤いコートを真っ白な指で指示した。
「すまないが中に補充用がある……二錠持ってきてくれ」
「分かりました!」
コートを手に取る。三森さんの、暖かいバニラの香り。両方のポケットをひっくり返すと、片方に幾つかの錠剤があることに気付く。
難しい名前の薬だ。僕は二錠抜き、机にある水筒をひっつかむ。一秒一秒が、とても重くのしかかった。
「早く飲んでください!」
「ありがとう」
這いつくばりながら薬を飲み下す三森さんは、暫くそのまま苦しげに呻いていた。僕は何もできず、そこでおろおろするしかできなかった。
薬の効果か、やがて呼吸が落ち着いてきた。
十分程度経つと、三森さんはよろよろと疲労した様子で身を起こした。
「すまないね、京介。もっと早く箱詰めしておくべきだったよ」
鳩尾付近を抑えた三森さんは、コートから残った薬を薬箱へ放り込んだ。二十錠以上はある。オピオイド、と書かれていたが、どういう用途かは分からない。
「大丈夫なんですか?」
「ああ。助かったよ。もう痛みは無いし、すぐ気分も――」
不意に三森さんの表情が凍り、僕を押しのけ部屋から飛び出した。
その後バタンと扉を開ける音がし、そのまま嘔吐する音が二階まで聞こえた。
ひたすら恐ろしかった。日常が崩れ出し、非日常がはこびる、不吉な予感。
いつもの三森さんではない、どこか、遠くに行ってしまいそうな――そんな予兆が、頭を占めていた。




