第十三節
冬休みが終わった。ついに終わってしまった。それは僕にとって世界の終りに等しい。
果たして僕は、自分の教室の前に立っていた。慣れない制服。慣れない教室。久々に持った学生かばんの重みが懐かしいのと同時に、精神的な重圧にも思える。自分がじろじろと見られているのではないかという自意識過剰な羞恥心が、体を震わせる。
「まさか僕が促されず学校に行くなんて……」
ずっと考えられなかった。正確には、三森さんと会う前までは。
教室の入り口。引き戸を前に硬直する僕は、思い出したように手を伸ばし、すぐに引っ込めることを繰り返していた。
どうしてもあと一歩が踏み出せない。入ろうとすると動悸が速くなり、おまけに冷や汗が出るのだ。どうしてかは分からないが、知らぬ間に僕は学校に拒否反応を起こしているらしい。
とにかく、怖い。
パンドラの箱を開けるような、原因不明の恐れ。
「まあ自業自得と言えばそれまでだけれど……」
何も怖いことは無いのは分かっている。だけど、体は鉛のように動かない。
帰ろうか。なにもせず、今回は静観するか。
……駄目だ。折角の決心は、恐らくこの機を逃せば一生実らなくなるのが目に見えている。
三森さん……。
大人びた、彼女の表情が脳裏をよぎる。
冬休みが終わる数日前から、僕は彼女から勉強を教わっていた。理系科目を中心に、様々な分野に三森さんは長けていた。
ブランクがでかい僕は呑みこみも遅かったし、一年生の部分の忘却も否めない。予想以上に僕の脳には蜘蛛の巣が掛っていた。
「それはそうだよ。暫く脳を使っていなかったんだからな」
普通なら嬉しい二人きりの勉強デートとかなるだろうけど、そんなことない。朝八時から、夕方の六時までずっと勉強だ。もちろん三森さんとのツーマンセルで。
三森さんは勉強に関しては本当に容赦がなかった。いつものフランクな対応は消え、容赦なくバシバシと鍛え上げてくる。
「法則を思い出して」
「違う公式使ってる」
「ケアレスミス。集中して」
「ここから違う」
三森さんは手厳しい。とにかく手厳しい。
しかし、教えることに対して彼女が手を抜いたことは無かった。テキストを持参し、講義して、時々問題を解く。朝から晩までずっとだ。
三森さん自身も教えるのは初めてらしい、時々たどたどしいし、たまに何言ってるかわからない時もある。僕が言うのもなんだが、先生向きではない。
しかし繰り返し説明を受けてる内に、分かるようになっていく。分かればそんなことか、と僕は納得し、彼女自身も自分の言いたいことが伝わると嬉しそうだった。
しかし、三森さんが教えられる範囲には限界がある。
「だから学校に行くんだよ。私も応用問題とかには自信は無いし、先生でもない」
十分休憩の際、三森さんは僕の回答の丸つけをしながらのんびりと言う。
「高校生は万能ではない。中学の範囲も分からない所は分からない。全知全能の神様じゃないんだから。しかし先生は違う。私なんかよりも何十倍も頭がいい。だから学校に行くのさ」
無論人とのコミュニケーションを学ぶのも一つの必要事項、と三森さんは楽しそうに僕の回答にぺけをいれた。休憩が終わったら、それをしっかりと学びなおすことになる。
「最初は教室に踏み出すのは怖いだろう。だが大丈夫、頼りないかもしれないが、私が付いている」
どうしても駄目だったら、私に話せ。三森さんはそう強い口調で言い切った。
「でも、もう授業にはついていける気がしません。一学期分ため込んでいるんですよ」
「教えてやる。お前が分かるまで、絶対に見捨てる事はしない。妥協はしない。だから安心して進めばよい」
一切の淀みもない口調のまま、僕にプリントを手渡す。十問中三問しか丸が無い。なんか空しくなってくる。
「君は、桶狭間の戦いを知っているか」
「知っています。安土桃山時代に、織田信長と今川義元がぶつかったものですよね。確か、今川義元が負けた」
「ああ。桶狭間の戦いで、戦力、土地勘、その他もろもろ全てが上回った今川義元を、織田信長は倒した。逆転なんてその気になれば起こりうる。だから私を信じて進んでいけ。私は美少女なうえに、天才だからな。お前はその部下だろう?」
……。
僕も、三森さんみたいな高校生活を送りたい。
そのために勉強しないとヤバいのは目に見えている。逃げてはいけない。
『君は、大丈夫だよ』
クリスマスの時の三森さんの言葉が、ふわりと僕の背中を押した。
あれほどの動悸の乱れが収まるのを感じる。もし駄目でも、三森さんがいてくれる。それは、僕にとっての、一種の信仰だった。あれほど乱れていた動悸が、ゆっくりと収まっていく。
三森さん、見ていてください。
僕は一人ではない。恐れずに行こう。
扉を引くと、いとも簡単に、教室の扉は開いた。
授業にはついていけなかった。大部分がちんぷんかんぷんな内容。そりゃそうだ。夏休み終わりからずっと不登校だったのだから。しかも友達なんて皆無なので、前の授業がどんなふうだったか分かるはずがない。
しかし、たった一つ、分かるワードが出てきた。三森さんが教えてくれた、理科の専門用語。
悲観するな。今は分からないけど、いずれ遅れは取り戻す。一パーセント分かっただけでテンションあがる僕は、そう誓った。いつものマイナス思考とか、冷めた感情ではない、暖かく強い感覚。本当に三森さんと出会って、いろいろ変ったんだなと今更ながら実感した。普段諦めていたことに、希望を持って取り組める。今までには絶対あり得なかったのだから。
「友達もできたんですよ! 赤山君と言う人が心配してくれて、そこから仲良くなったんです!」
初めての同年代の友達に、僕は興奮を隠しきれない。
冬休みを終え数日が経過した。僕は徐々に学校に慣れて行った。しかもクラスメイトが積極的に話しかけてくれた。思えば先生が裏からフォローしてやってくれという要請があったのだろうが、何はともあれ、あっという間に僕には友達ができた。
「よかったじゃないか、京介」
三森さんはにこにこと僕の話を聞いてくれる。
「それに女の子とも話せたんです。先生も気さくですし、今は学校楽しいです」
「ああ。だろうな。顔を見ていればわかる」
最初お前、死んだような顔だったからな、と三森さんは肘でつつく。
「そんなですか?」
「ああ。……もう、死ぬ気はないんだな」
死ぬ気。
一瞬心臓が縮みあがった。そうだ。最初の出会いは最悪だった。僕は死ぬつもりでここに来たんだった。
そして、ここで三森さんと会った。
最初は本気で殺意を覚えていた三森さんが、いつの間にか嫌いでは無くなって、今は好きな人になるなんて、運命は数奇なものだ。
「もう、死ぬ気はありません」
母はまだ大嫌いだ。だけど、それより大切な物が、今僕の周囲にある。嫌いな奴のためじゃない、自分が好きで、自分を好きになってくれる人のために、僕は生きる。
「そうか。なら幸いだ」
満足そうな三森さんは、膝にノートパソコンを据え、カタカタと執筆にふけっている。
「三森さんのおかげです」
「だろうな。こんな美少女と会えなかったら貴方は終わっていたはずだった」
「いらつきますけれど同感です」
照れるぞ、と三森さんは肩をすくめる。積もった雪がいつかは水となり溶けるように、僕の気持ちも変わっていく。三森さんのおかげで。
「これからもここに来るといい。何かあったら相談に乗るからな」
静かな瞳が僕を射止める。その瞳が、僕は好きだった。
「これからも、よろしくお願いいたします」
即答する僕に、三森さんはああ、と嬉しそうに応えた。




