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突然豹変したアズレイトに慄いたサーシャは、思わず踵を返して、この場から逃げ出そうとした。
けれどそれよりも早くアズレイトに腕を掴まれ、そのまま壁に押し付けられる。そしてあっという間に両手を片手で一纏めにされ、そのまま頭上に掲げられてしまった。
「逃しませんよ。サーシャさま」
アズレイトは、空いてる方の手でサーシャの顎をつかんでそんな言葉を耳に落とした。
「私は確かに種馬ですよ。でもですね、相手を選ぶ種馬なんです。そして私はあなたの種馬になれてとても嬉しく思っています……なんでかわかりますか?サーシャさま」
「し、知らないっ」
耳元で囁かれると、アズレイトの息遣いまで感じられる。彼の声は掠れていて、ひどく熱を帯びていた。
アズレイトは苛立ってはいるけれど、怒っているわけではない。それはわかる。でも、どうしてこんな態度を取るのかは、わからない。考えたくもない。
ただただ、とても怖くてサーシャはブンブンと首を横に振ることしかできない。
なのにアズレイトには届かず、とんちんかんなことを聞いてくる。
「ああ、なるほど。言葉として聞きたいということですか?良いですよ、サーシャさま。いくらでも言ってあげますよ。それであなたがわたくしを受け入れてくれるなら」
「聞きたくないっ。放してっ。嫌っ」
なんでそんな思考回路になるのか、てんでわからない。
でも、黙っていればアズレイトは好き勝手に事を進めてしまうことは十二分に知っているから、全力で拒絶する。ついでに悪いと思うが脛も蹴りあげてみる。......びくともしなかった。
ちなみにサーシャはベッドまで3歩の距離にいる。足の長いアズレイトなら2歩でも余る距離。
そんな状況でアズレイトは意味深な視線をベッドへ向け、そしてすぐにこちらに視線を戻す。
彼が何を考えているのかは、言わずもがな。
「......馬車の準備はもうすぐ整うので、最後まではできませんが、でも精一杯、優しくします。わたくしが今、どんな気持ちでいるのか───......っ」
アズレイトは途中で言葉を止めて、小さく息を呑んだ。サーシャがポロポロと涙を流していたから。
「……サーシャさま」
名を呼ばれたと同時に、拘束されていた両手が自由になった。
でもアズレイトは、その場から離れてはくれない。
「泣かないでください。サーシャさま。お願いします」
そう言いながらアズレイトは手を伸ばして、汗と涙で頬に張り付いてしまったサーシャの横髪をそっと撫でた。
そしてもう一度、サーシャの名を呼ぶ。
まるでアズレイト自身が泣いているかのような悲しげな声で。サーシャの頬に伝った涙を拭いながら。
対してサーシャは自由になった手で、自身の髪に触れているアズレイトの手を払い除けた。
「......触れるのも、駄目ですか?」
さらに悲痛な声でアズレイトはサーシャに問うた。でも、サーシャは答えない。もうこれ以上なにも聞きたくないと言わんばかりに顔を背ける。
そうすれば、やっとアズレイトは一歩サーシャから身を引いた。でも、今度はサーシャが引き寄せられてしまった。
「嫌がるあなたに、こんなことをするなんて、わたくしは種馬失格ですね」
自嘲気味に笑うアズレイトの腕の中にいても、サーシャは無言を貫いた。
でも、心の中では馬鹿じゃないのと思っている。そして、自分の顔、鏡で見たこと無いの?とも。
本気で嫌なら、叫び声をあげて人を呼ぶ。それか種馬にとって命とも言える急所を攻撃する。お宝が一生下を向き続けるくらい、えげつない罵倒だってするだろう。
アズレイトは頭は悪くない。だから、それらをサーシャが一切していないのはどういう意味なのか、ちょっと考えればわかるはずなのに。......教えてあげる気はさらさらないけれど。あと、答え合わせだってしてあげない。
とにかく、駄目なものは駄目なのだ。
「た、種馬失格って自覚しているなら、自分から辞退してよ」
「......はっ、誰がそんなことするもんか」
「......」
なんだか風体に似合わない柄の悪い言葉が聞こえてきて、サーシャは目を丸くする。
思わず顔をあげれば、ごく自然にアズレイトと目があった。
緑を含んだグレーの瞳は、一生懸命サーシャに言葉にできない何かを語りかけている。それが辛くてサーシャは目を逸らした。
そうすれば更にぎゅっと抱き締められてしまう。一体何を考えているんだか。
でも、抱き締められていたのは一瞬で、アズレイトはすぐに腕を解き、サーシャと距離を取る。そして膝を突くと、宙ぶらりんになっているサーシャの手を取った。
「サーシャさま、一つだけお願いがあります」
切実な目で訴えられても、すぐには頷けない。
内容によると、はっきり声に出して言えばアズレイトは、小さく頷いてから口を開いた。
「お願いです。サーシャさまがご自宅に戻るまで、わたくしに猶予を与えてください。ご自宅に到着した際に改めてうかがいます。わたくしがあなたの種馬になり得る存在かどうか」
「……つまり、アズは私の帰路にくっついて来るっていうこと?」
「そりゃあ、そうですよ。一緒にいなければ、あなたを口説くことができないじゃないですか」
アズレイトは姿勢を崩さず、何を言っているんだと言いたげな表情になった。対してサーシャも、同じ表情を浮かべる。
─── ったく、それが駄目だから、こんなにも一生懸命に拒んでいるというのにっ。
サーシャはうっかり言葉として出ないよう唇を強く噛んでから、心の中で吐き捨てた。
そしてジト目でアズレイトを睨みつける。
言いたいことはたくさんある。
でも、どれか一つでもそれを口に出してしまったら、秘密にしたいことまで言ってしまいそうになる。
そんなことをサーシャは思っているが、アズレイトは知る由もない。
「……お願いです、サーシャさま。どうかお傍に……」
かすれた声は、無様に命乞いをする罪人より切羽詰まったものだった。
答えは変わらない。「謹んでお断りします」これ一択だ。
そしてきっと自宅に戻ってそれを伝えることはできないだろう。
でもサーシャは、最悪の選択をしてしまった。
「わかった。でも、さっきみたいなことしたら、即刻帰ってもらうからねっ」
「……ぜ、善処します」
「駄目、ちゃんと約束してっ」
「───…………………はい」
気が遠くなるほど間を開けてアズレイトが返事をしたと同時に、ノックの音が部屋に響いた。馬車の準備が整ったのだ。
「では、参りましょう。サーシャさま」
立ち上がったアズレイトは、何事も無かったかのように清潔な笑みを浮かべて入口付近に置いてあるサーシャの旅行鞄を手に取った。
そして反対側の手で扉を開けて、サーシャに退出を促す。
サーシャは泣き出したい気持ちのまま、馬車へと向かった。




