第六話 決意
「……とりあえず、これで大丈夫、です」
「ありがとう……」
アリスは私が化け物に噛まれた肩と、喰いちぎられた指を水で洗い、包帯を巻いてくれた。
「ルーン……今は少し、寝て休んだ方がいいです」
私は首を振って、それから隣室へと目を向けた。
隣の食堂では、今もリシェルが何かを呟いている。
何もかもが謎だ。
精神がどれだけ疲弊していていようが、このまま心を休めて寝ることはできそうになかった。
私はアリスと話し合い、現状を纏めていく。
家の中に戻った際に、アリスにも今のリシェルを見てもらった。
アリスは先に私から聞いていたため、私程のショックは受けなかったようだが、それでもしばらく黙って動けなくなってしまっていた。
アリスの考えは、概ね私の考えと同じものだった。
アリスもまた、ここに来るまでの記憶を有していなかった。
そしてアリスもまた、思い返してみれば、不自然な記憶や、辻褄の合わないことがいくつもあったと、そう口にした。
家の鍋や、周囲を確認してわかったことだが……どうやら、私達が今まで食べていたのは、あの化け物兎の仲間の肉だったようである。
恐らく、ここに真っ当な獣はいない。
窓から外を見れば、顔が腫瘍で真っ赤になっており、そこに十以上の眼球を付けた、鳥の化け物が飛んでいく姿があった。
あんなに強い兎の化け物がいたのに、これまで私が無事で済んでいたのは疑問であった。
それをアリスに言えば、恐らく明るい内はあまり強い化け物は出てこないのかもしれないと、そう返してくれた。
アリスはいつも、夜に出歩くな、家を離れすぎるなと、しつこく私に忠告してくれていた。
それもアリスは、夜や家から離れたところは強力な化け物が出てくると、なんとなくそのことを知っていたそうだ。
「そういう暗示のようなものに掛けられていたのかもしれません」
「暗示……」
今まで私やアリスは、まるで演劇でもやらされているかのようだった。
何者かが、複雑な暗示によって私達に色々なものから目を逸らさせて、あの日常を送らせていたのだ。
それは、一体、何のために? 何者が?
私は壁のメッセージを思い出す。
『北においで。私の許までくれば、願いを一つ叶えてあげよう』
恐らく……あのメッセージを残した人物こそが、この奇妙な日常をこれまで送らせていた、何者かなのだ。
私は頭を押さえながら、考える。
まだ、頭痛と吐き気が激しい。
「……ルーン、しっかり、です」
アリスがふらついた私の身体を支える。
私は唇を血が出るくらいに噛み締め、アリスの顔を見た。
「アリス……私、北に向かおうと思うの」
「き、北……です? それって……」
私は大きく頷く。
「北に行って……あの文章を残した人に、会いに行きたいの。今の私には、何もわからない……きっと、あれを書いた人は、全てを知っているんだと思う」
私達に夢の世界を見せ、あの幸せな日常の寸劇を行わせていた黒幕が、きっと北にはいるはずだ。
「会って……全部、教えてもらう。この家が……この場所が、なんだったのか。なぜ、こんなことをしたのか。それで……願いを叶えてくれるっていうのなら……リシェルを、返してもらう! 私の知ってる、リシェルを」
アリスは俯き、黙り込んだ。
「アリス……ついて来てくれない? アリスだって……こんなの、嫌でしょ? リシェルを、元に戻してもらわなきゃ……」
「ルーン……このままここで暮らすのは、駄目ですか?」
アリスは、力なくそう口にした。
「……見なかったことにするです。その杖を捨てて……あの血文字も、消してしまいましょう。そうして、ボクとこれまで通りの暮らしをするです。そうしたら、また夢のような日々が返ってくるかもしれません……」
「アリス……」
「外は危険です。ルーンの指を喰いちぎったあの化け物が、きっといっぱいいます。ここで閉じ籠っていれば……ボクもルーンも、安全に生きることができるはずです。この薄気味悪い世界も……きっといつかまた、見えなくなってくれるはず……」
私は首を振った。
「私は、こんな残酷な世界で、全部を忘れて閉じ籠もるなんて、できないよ……」
同じ言葉しか発せない、座りっぱなしのリシェルを、私はきっとまた英雄のように扱うようになるのだ。
化け物と枯れ木だらけの灰の世界で、花畑の夢を見て生きる。
それが偽物だと知ってしまった今、全てを忘れてまた虚構を生きるだなんて、私にはそんなことは受け入れられない。
化け物や花畑だけなら、受け入れられたかもしれない。
だが……リシェルは、駄目だ。
このままあの日常に戻るなんて、想像しただけで苦しすぎる。
私は涙が溢れてきて、腕で目を拭った。
「……アリスに無理強いはできない。だけど、私一人だって、北に向かうから!」
私がそう言うと、アリスが私の腕を握った。
不安げな顔をしていた。
まるで私が逃げていかないように、捕まえているかのようだった。
「む、無茶です……。ルーン一人でなんて、絶対に!」
私は部屋の中に転がしていた、《次元の杖》へと目をやった。
「……私、夢の中で、あれを使って……その、爆発する鳥を出していたような気がするの。もしかしたら、今もできるかもしれない」
人を殺していた、とは言えなかった。
ただの夢にしては奇妙だった。
なにせ《次元の杖》を目にしたのは、夢が現実よりも先だったのだ。
それに、《次元の杖》を触っていると……何か知らない感覚が、情報が、頭の中に流れ込んできているような気がするのだ。
もしかすると、夢の中のように《次元の杖》を使いこなせるようにだってなるかもしれない。
「私は、リシェルをこのままにして全てを見なかったことになんて、絶対にできない……。北に行って、あのメッセージを書いた人に会いに行く!」
その人物がきっと、私達にあの都合のいい幻を見せ、私に《次元の杖》を与えて幻を崩壊させた本人に違いないのだから。
その人物は何かしらの超常的な力を有しているようであった。
そうでなければ、これまでの全てのことは行えなかったはずだ。
もしかしたら本当に、リシェルを元に戻す力を持っているのかもしれない。
「……やっぱり、ボクが何を言ったところで、そうなってしまうですね」
アリスが小さな声で、何かを呟いた。
「アリス……?」
アリスが顔を上げる。
「……わかりましたです。だったら、ボクもルーンについていくです。ルーンを、無駄死にさせるわけにはいきません」