第五話 偽者のリシェル
私は廃屋の中へと踏み込んだ。
ツンと、嫌な香りがした。
やはりいつもの家と同じだとは、とても受け入れられなかった。
「リシェル! リシェル!」
私はリシェルの名前を叫んだ。
「待つです! やっぱり、ルーン、おかしいです! 一度止まってください!」
アリスが背後から私を呼ぶ。
「お、おが、お……」
奇妙な呻き声が聞こえてきた。
低く、ガラガラとした不気味な声だった。
外にいるような化け物が、家の中にもいたのだろうか。
私は息を呑み、その部屋の扉を僅かに開き、様子を見た。
いつもの食卓にそれは座っていた。
ぼさぼさの髪をしていて、薄汚い布のような衣服を纏っていて、灰色の肌をしていた。
髪も、瞳も、肌の色も、まるで生気がない。
死人のそれのようであった。
片目には眼球がなく、ぽっかりと眼窩が開いている。
「おが、ぁ、え……あ……」
呻き声を、呪文のように繰り返している。
顔はぼうっと、ずっと壁の方を向いていた。
その何かからは生気だけでなく、一切の知性を感じない。
呆然と、私はその何かを隠れて眺めていた。
「ルー、ン、アディ、ズ……」
その呟きの一部が、聞き取れたような気がした。
『おかえり、ルーン、アリス』
脳裏に、リシェルがいつも帰ってくる私達に呼び掛けていた言葉が浮かび上がる。
頭の中で何かが繋がった。
嗚咽が込み上げてくる。
私は口を押さえ、その場に膝を突いた。
「おっ、おぶ、おえええええ!」
指の隙間から胃液が漏れ出してくる。
お腹の奥で、胃が痙攣するような感覚があった。
理解してしまった。繋がってしまった。
兎は見たことのない、不死身の化け物になっていた。
森は骸の転がる不毛の地へと、想い出の詰まった私達の家は廃墟へと変わり果てた。
そして、アレが、リシェルなのだ。
いつも私を助けてくれた、あの格好いいリシェルが、アレなのだ。
今の私には何もわからない。だが、リシェルに対応している何かであることには間違いない。
どうして、急に世界が一変してしまったのか。
まるでよく似た知らない世界に紛れ込んでしまったかのようだ。
「あの杖……?」
あの《次元の杖》を手にした瞬間、全てが変わってしまった。
もしかしたら、あれを使えば元の世界に戻れるかもしれない。
やはり、置いてくるべきではなかったのだ。
「ルーン……ど、どうしたですか?」
アリスが真っ青で、私の背後に立っていた。
私はふらりと立ち上がり、彼女を押し退けて外へと向かった。
私には《次元の杖》が必要だ。
あれがなければならない。
少なくとも、ここにはいられない。
あのリシェルを思わせる何かがいる、全てが違うこの廃墟には、とても私はいられない。
こんなところにいるくらいならば、あの奇怪な森にいた方が、まだマシなくらいだった。
中途半端に私達の家を模したここは、私の記憶を穢していく。
私は家の外へと飛び出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
外に飛び出したとき……《次元の杖》が、家の壁に凭れ掛かって、地面にその先端を埋めていた。
森で捨ててきたはずのものがなぜここにあるのかはわからない。
不気味だったが、私にはこれがきっと必要だった。
《次元の杖》は、世界を元に戻すためには必要なものなのだ。
そうに違いない。
私は《次元の杖》へと歩み寄り、手に取った。
そのとき、壁に血で文字が書かれているのが見えた。
家に入る前に、こんなものがあっただろうか? わからない。
『北においで。私の元までくれば、願いを一つ叶えてあげよう』
そう記されていた。
「なに、これ……?」
一体誰が、何のためにこんなものを?
《次元の杖》を置いて行った人物と、同じなのだろうか。
「ルーン!」
背後から叫び声が聞こえる。
アリスだった。困惑した表情で《次元の杖》を見つめながら、私へと歩み寄ってくる。
「……それは、森で捨てて来たはずでは」
「アリス! この杖に触ってみて!」
「え……?」
「……この杖に触ったら、アリスにもきっと見えるようになるかもしれない。おかしいの、ここは、いつもの家でも、森でもないの」
私にも何がなんだか、まるで整理ができていない。
だが、私は《次元の杖》に触れた瞬間、このおかしい世界を認識するようになった。
もしも世界は変わっていなくて、私達が幻のようなものを見ていただけだったとすれば、アリスもこの《次元の杖》に触れれば、私と同じ世界を認識するようになるかもしれない。
それは、残酷なことなのかもしれない。
知らずにいた方がいいのかもしれない。
だが、私は、リシェルのいないこの世界で、アリスも別の世界を見たままで、私だけここに置き去りにされるのが怖かった。
アリスは何かを言おうとしてか、口をぱくぱくとさせていた。
だが、覚悟を決めたように口をぎゅっと締め、《次元の杖》を握り締めた。
アリスは大きく瞬きをして、それからどさりと尻もちを突いた。
「ル、ルーン、ここは……なんです?」
アリスは周囲へ目を走らせる。
「ルーンにも、見えてるですか? この……灰色の、死の世界が……」
私は頷いた。
どうやらアリスにも、私と同じ世界が見えるようになったようだった。
いや、見えてしまうようになったと、そういった方が正しいのかもしれない。
ただ、これで少しだけ、私は落ち着きを取り戻すことができていた。
今まで意味の分からない世界で、それを共に体験する相手もおらず、ある意味一人ぼっちだったのだ。
巻き添えにしてしまったのかもしれないけれど、アリスが私と同じ世界に来てくれて、それでようやく一人ぼっちではなくなったような、そんな気がしたのだ。
「アリス……私にも何がなんだかわからない。とにかく、今の状況を確認しましょう」
私はそう言って、廃墟と森を見る。
「もしかしたら……これが、本当の世界なのかもしれない。今までの全ては、幻のようなものだった。そうなんじゃないかなって……」
別の世界に迷い込んだのかとも思っていた。
だが、きっと違うのだ。
まず私は、大兎に噛みつかれた。
《次元の杖》に触れて、大兎が化け物だと気が付けたのは、その後なのだ。
「それで、だから……」
そこまで話して、また吐き気が込み上げてきた。
私の話したことは、リシェルが元々あの姿だった、という仮説に繋がるのだ。
想い出のリシェルの姿は、強くて格好良くて……そのはずだ。
だが、辻褄が合わないのだ。
なぜか記憶のリシェルは、いつもあの食卓机の椅子に座っていた。
私もアリスも、それをまるで疑問に思うことがなかった。
ああ、やはり、そうなのだ。
あの奇麗だった世界は、思い出そうとすればするほど、不自然さの集まりだった。
決定的なことがある。
私はこの家に来るまでの記憶を、一切持ってはいなかった。
いつからこうやって暮らしていたのか、それさえ定かではなかった。
あの幻は、何かに似ていた。
見ているときはもっと整合性が取れていたはずなのに、後から冷静に思い返せば、何から何まで滅茶苦茶で。
見ている間は脳にフィルターみたいなのが掛かっていて、何も疑問に思わないし、不都合な記憶も持てないようになっていて。
ああ、そうだ、あれは夢だったのだ。
私達はきっと、この不気味な終わった世界で、ずっと幸せな夢を見ていたのだ。
記憶の中のリシェルは、どこまでが本当だったのだろうか。
あの笑顔や言葉は、全ては偽物だったのだろうか。
偽物だったというのなら……誰が何のために、何を模して作った虚像だったというのだろうか。
また吐き気がしてきて、頭痛がしてきて……私は壁に凭れ掛かるように手をついて、その場で倒れこんだ。