第四話 夢で見た杖
「いっ、嫌、来ないで! 来ないでよぉっ!」
必死に叫びながら走る。
途中、なんとも躓いて転倒した。
それでも、泥と血塗れになりながら走り続けた。
指先からの出血も、どんどんと激しいものになっていった。
だが、大兎は明らかに私よりも早かった。
どんどんと距離を詰めてくる。
「どうして、どうして私がこんな目に……! リシェルッ、リシェルゥウ……」
「キュッ、キュッ、キュッ」
大兎の鳴き声が響く。
段々と大きくなっている。
近づいてきている証だった。
私にも、私にも、あの大兎くらい倒せる力があったらよかったのに……!
きっとリシェルくらいの強さや、アリスの銃があれば、あんな大兎くらい簡単に撃退できただろう。
「キュッ、キュッ、キュッ」
ふとそのとき、森の奥に、妙なものがあるのが目に見えた。
「えっ……」
一瞬、私は目を疑った。
それは、一本の棒であった。
木の根に寄り添うように立て掛けられており、地面にその丈の半分を埋めている。
土に汚れているが、月の光に鈍く赤の輝きを放っており、どうやらそれは金属製らしいということがわかった。
ところどころに黄金の装飾が用いられており、この場に似合わず豪奢であったが、同時に不気味な雰囲気を漂わせていた。
棒の先には奇妙な模様があったが、それはじっと見ていると、なんだか人面を模しているようにも思えてくる。
私は、それに見覚えがあった。
どこで見たのが思い出すより先に、その名前が口を出た。
「……《次元の杖》?」
そう、それは夢で見た不思議な兵器、《次元の杖》に他ならなかった。
夢の中で《次元の杖》を持った私は、魔法と表する以外、他に表現できそうにない不思議な力を用いて、一振りするだけでその場に殺戮を齎していた。
こんなもの、あり得ない。
だが、頑丈な長物はそれだけで武器になる。
私はともかく、今は深く考えることを止めて《次元の杖》の許へと向かった。
《次元の杖》近くの木に手を掛けたとき、既に大兎はすぐそこまで来ていた。
私は藁に縋る思いで《次元の杖》に手を触れ、勢いよく引き抜いた。
そのときだった。
「……え?」
ぐわんと、周囲の光景が揺れる。
激しい吐き気と、頭痛に襲われる。
奇妙な浮遊感に、立っていられなくなって膝を突く。
それはまるで、丁度あのときの夢の終わりのようで……奇しくも今は、それが悪夢のような現実の始まりとなった。
「……え、え?」
顔を上げたとき、視界が一変していた。
花や草が消え、灰色の地面が広がっていた。
葉の茂っていた木は痩せ細り、幹を白化させていた。
辺りにあった岩々が消え、代わりに人の頭蓋の山が転がっていた。
あちらこちらに、赤黒い水溜まりのようなものがあった。
血なのか、なんなのか、それはわからない。
「う、嘘、何これ……?」
「ギジャッ、ギジャッ、ギジャッ」
不気味で、奇怪な音が聞こえてくる。
振り返れば、そこには化け物がいた。
大柄の兎の身体に、関節の二つある長い六つの脚があり、顔は十字に裂けて、巨大な口ができている。
牙は不自然なほどに長かった。
「い、嫌っ、嫌ぁっ!」
必死に《次元の杖》の杖を振るう。
化け物は私の杖を擦り抜け、胸部へと喰らいついてきた。
私は咄嗟に身体を捻り、それを肩で受け止めた。
布を貫通し、肩に牙が喰い込む。
血が溢れてきた。
「嫌ぁっ、嫌ぁぁああっ!」
私は我武者羅に肩を振った。
だが、化け物はまるで引き剥がせない。
殺されると、そう思った。
ズドンと銃声が響いた。
「ギジュアッ!」
化け物が悲鳴を上げ、私の身体から飛んで行った。
私もその動きに引っ張られて地面へと倒れ込むことになった。
「はぁ、はぁ、はぁ……はは、ははは……」
肩が痛い、とにかく肩が痛い。
上手く持ち上げられない。
「あは、あははははは……」
恐怖で、おかしくもないのに笑い声が漏れてきた。
腕に、私の目から流れてきた涙が伝う。
「夜に出歩くなと、言ったですよ!!」
アリスの怒声が聞こえてくる。
気力を振り絞り、声の方へと身体を起こし、顔を上げた。
アリスは身体に見合わないくらい大きな銃を担いで、私を睨みつけていた。
目を大きく見開き、顔に皺を寄せている。
これまで見たことのないくらい怒っていた。
「ご、ごめん、アリス……」
わけのわからないまま、私はアリスへ謝った。
私は混乱のあまり、今の状況が上手く呑み込めなくなっていた。
とにかく、アリスがあの化け物を撃ち殺してくれたというのは事実のようであった。
アリスは頭を手で押さえ、神経質に髪を掻き始める。
「今までこんなことなかったのに、どうして……!」
「アリス……?」
私が彼女の名前を呼んだとき、私の背後で何かが立ち上がった。
「ギジュ、ユア……」
化け物が、立ち上がっていた。
銃弾を受けたためか、顎が吹き飛んでいる。
だが、それだというのに、化け物はまだ生きていたのだ。
ばかりか、顎の辺りの肉が蠢いている。血が、既にほとんど止まっていた。
「あ、あり得ない……」
追加でもう二発、化け物の頭部に銃弾が撃ち込まれた。化け物の身体が大きく飛び、地面を転がって離れていく。
「逃げるですよ!」
いつの間にかすぐ傍まで来ていたアリスが、私の腕を引いて走り出した。
「ま、待って……! 肩が、凄く痛くて……」
右腕の握力が保てない。
私は《次元の杖》を落とさないように、右腕全体を使って抱え込んだ。
「そんなもの、持って行ってどうするですか!」
アリスが私を怒鳴り、《次元の杖》を銃身で殴りつけた。
「痛っ!」
《次元の杖》が大きく跳ねて、私の胸部を突いた。
《次元の杖》が地面に落ちた。
「ア……アリス、あれは……」
あれがないと、駄目だ。
まだ何もわかっていない。
だが、《次元の杖》は、恐らく私にとって重要な何かなのだ。
「ギジュ、ギジ……」
遠くで、化け物が起き上がったのが見えた。
三弾の銃撃を受けて、アレはまだ起き上がる。
「アッ、アリスゥ! あれ……!」
「振り返らないでください!」
アリスが叫ぶ。
私はアリスに引き摺られるようにして、不気味な森の中を走り続けた。
「アリス……あれは……」
「……とんでもなく頑丈な兎でしたね。銃弾が、直撃していなかったのでしょうか」
「え……?」
アリスが何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「ねぇ、アリスには、あれが、兎に見えたの……?」
それに、直撃していなかったわけがない。
アリスは正確に、三発のあの化け物の頭に銃弾を撃ち込んだのだ。
「……兎では、なかったですか? 暗がりだったので、よく見えていませんでした」
そんなこと、どう考えたってあり得ない。
あれはどう見たって兎ではなかった。暗がりだとか、そんな問題ではない。
「で、でも、でも……」
「……なんだったですか、アレは」
アリスが私を振り返り、至近距離から目を合わせてくる。
「あれは、ルーンには何に見えたですか?」
アリスは何かを確かめようとしているような、そんな言い方だった。
それが私はなんだか怖くて、答えるのを躊躇った。
だから答える代わりに、私は問いを重ねた。
「ねぇ、アリス……ここは、どこなの? どうして私は、こんなところに来ちゃったの?」
「何言ってるですか、ルーン。ここは、いつもの森です」
ルーンは、そう言い切った。
「そんなはずがない……」
こんな不気味なところが、いつもの森であるわけがない。
アリスは私を訝しがるように、目を細める。
「……きっと、ルーンは疲れてるですよ。朝になれば、全部忘れるです。ほら、家が見えてきました」
アリスはそう言って、顔を上げる。
不気味な白い木々の並ぶ森を抜けた。
私達の目線の先には、廃墟があった。
壁は色が剥げ、不気味な染みが広がっており、ところどころに罅が入っている。
屋根の板もほとんど残っていなくて、何かの奇妙な死体のようなものが壁に凭れ掛かっていた。
けれど、だけれど、それは何故だか、私達のいつもの家の面影を残していた。
屋根の形や窓の位置なんかが、否定しきれないくらいに私達の家だった。
全てが違うのに、輪郭だけはそのまま私の知っているもので、それが奇妙で、気持ち悪かった。
まるで、最後に見たときから、何十年と放置されてきたようだった。
「どうしたです、ルーン……?」
アリスが不安そうに私へ尋ねる。
私がおかしいのだろうか。アリスにはまるで、別の世界が見えているようだ。
私は、いつも草があった場所を軽く踏んだ。
当然、何の感触もない。
「ルーン……?」
「う、うん、きっと、疲れてるんだと思う」
そうだ。
これはきっと、ただの夢だ。
明日になれば、全部が元通りになっている。そのはずだ。
私は考えるのを止めて、ふらふらと家へと向かって歩き始めた。
だが、そのとき、唐突に頭にリシェルのことが過った。
獣も、森も、家も、すっかりと変わってしまった。
リシェルは、無事なのだろうか。
そう考えると私はいてもたってもいられなくなって、アリスを置いて家へと走り出した。
「ルーン!? ま、待つです!」
アリスが大慌てで後を追いかけてくる。
いつもと違う私の様子を、どうやらアリスは大分不安がっているようだった。