第三話 日常と悪夢
「いただきますっ!」
私は手を合わせ、皿に盛りつけられたシチューを食べ始めた。
「んふっ! 熱、熱っ! でも美味しい!」
脂の乗ったジューシーな鶏肉が溜まらない。
何か香草になるものでも使っているのか、鼻にすうっと通って空腹に染みる、食欲をそそってくれる香りがあった。
ホワイトスープを口に運ぶのが幸せでたまらない。
「ありがとう、アリス。やっぱり食事、アリスに丸投げしてよかった!」
「……皿洗いはお願いするですよ」
アリスは呆れた調子でそう言った。
ふとアリスの皿を見れば、ほとんど具材が入っていなかった。
シチュー自体にもあまり手をつけていない。
「アリス、また具合悪いの?」
「ボクは元々小食です」
アリスは気分悪そうに口許を抑える。
……アリスは、料理を作るのは上手いのだけれど、なんというか、何かを食べるのはあまり得意ではないようなのだ。
特定のものが、というより、食事全般に抵抗があるように見える。
恐る恐ると口の前まで運び、目を瞑って食べるのだ。
それも、ほんの少しだけ。
別にそれは今日に限ったことではなくて、アリスはよくこういうことがあるのだ。
「……美味しいですか、ルーン?」
アリスが尋ねて来る。
「うん、美味しいよ! アリスが作ってくれたんだもん!」
「香りは? 食感は?」
アリスが重ねて訊いてくる。
「え……? えっと、凄くいい香りがするし……食感は、えっと、食感ってどういえばいいんだろう……」
「そう、ですか。なら、いいです。妙なことを訊きましたね」
アリスは顔を伏せる。
「……アリス、何かあったの?」
「何にも、ないです……本当に、何にも」
なんだろう、ここずっと、アリスは様子がおかしいように思う。
具体的にそれが何なのか、違和感を上手く形にすることはできないのだけれど……。
なんというか、私とは決定的に違うところを見て話しているような、そんな瞬間を時折感じるのだ。
悩み事でもあるのだろうか。
「ね、リシェル! アリスの料理、すっごく美味しいよね!」
「ああ、アリスの料理は凄く美味しいよ。ずっと食べていたくなる。何か、不安なことでもあるのか、アリス? なんでも言ってくれよ」
リシェルは笑顔でそう褒め、少し憂い気な顔でアリスへとそう尋ねた。
「…………」
アリスは、何も答えない。
「……話せないことがある気持ちも、わかる。ただ、私もルーンも、純粋にアリスのことは心配なんだ。その私達の気持ちだけは、わかっておいてほしい。何を言ったって嫌いになったり、馬鹿にしたりなんてしないともさ」
リシェルは小さく頷きながら、そう語ってアリスへとそう微笑みかけた。
「やっぱり、そうだよね。アリスは、何か悩んでるよね」
「……ボクは食べ終わりましたので、これで」
アリスはそう言って食器を奥へと運び、居間を後にした。
「アリス……」
何が、悩むことがあるというのだろうか。
私にはまるで理解できない。
「……アリスは何か、隠し事しているのかな?」
私はリシェルへと問う。
「アリスが言わないつもりならば、私達から勘ぐることはないだろう。私は、これ以上はあの子が話してくれるのを待つつもりでいる。あの子を信用しているからな」
「そ、そっか……うん、きっと、それがいいんだよね……」
だが、なんだろう。
この胸に引っ掛かるものは。
「……ね、リシェル。私達……ずっと、三人でいられるよね?」
リシェルは私の言葉を聞いて、少しきょとんとした表情を浮かべた。
だが、すぐにいつもの笑顔へと戻った。
「ああ、無論だ。ずっと、私達は三人一緒だよ。前にも言っただろう? ルーンのことも、アリスも、私が守ってみせるとな」
「えへへぇ……ありがとう、リシェル~!」
私は席を立ち、座っているリシェルへと駆け寄った。
「こ、こらっ! ルーンは、そのすぐに人に抱き着こうとする癖を止めるんだ」
その日の夜のことだった。
食事のアリスの様子が気に掛かっていたせいか、いつも寝つきのいい私は眠りにつくことができなかった。
「アリス、どうしちゃったんだろ……。もしかして、何かの病気だったり……?」
ベッドの上で一人、ぶつぶつと独り言を零していた。
そのときだった。
外からまた、何かに見られているかのような悪寒を覚えた。
背筋がぶるりと震える。
視線が消えても、背中に纏わりついた寒気は癒えない。
「……誰か、いるの?」
私は、視線の主を牽制する様に呟く。
当然返事はない。
私はそれからベッドを降り、二人を起こさないようにそうっと家を出た。
いつもならそこまではしない。
だが、なぜだろう。
私は何か、確信の様なものがあったのだ。
私の、いいや、私達の身に、何かが起きようとしているのだ、と。
家からはあまり離れない方がいいだろう。
夜は、ここ周辺の獣達が活発になる。
何かあってからでは遅いのだと、アリスからも私が夜中に出歩くことは禁止されていた。
アリスは護身用の銃を扱える。
リシェルは剣を扱いに長けていて、本気になるとすっごく強い。
だが、私には何もないのだ。
草原を離れ、森の近くまで来る。
だが、何も起こらなかった。
私の思い過ごしだったらしい。
アリスとリシェルに怒られてしまう。
私は溜息を吐き、家へと戻ろうとした。そのときだった。
「キュッ、キュッ」
聞きなれない音がした。
鳴き声、なのだろうか。
私が耳を澄ましていると、それは段々と大きくなってきていた。
接近してきている。
「何が……」
「キュッ」
木々の奥から、一羽の兎が現れた。
肥え太った、鈍臭そうな大兎であった。
なんだ、兎さんか……。
これなら、私でも狩れそうだ。
私は狩猟用に持っていたナイフを取り出し、大兎へと接近した。
「キュッ」
「えっ……」
大兎の姿が消えた。
かと思えば、私は地面の上に倒されていた。
今、大兎に襲われた、のだろうか。
確証を持てない。
しかし、だとすれば、とんでもなく素早い体当たりだった。
「こ、こんな、こんなこと……うう……」
立ち上がろうとしたとき、自分の左の手の甲の骨が、割れていることに気が付いた。
指が二本欠けており、骨が覗いていた。
血が、どんどんと噴き出していく。
あまりの痛みと状況に麻痺しているのか、痛みはさほど気にならななかった。
だが、自分の指がなくなってしまったという恐怖と、それ以上に未知の化け物への恐怖があった。
う、嘘……嘘……逃げ、なきゃ……。
危ない獣がいるのは聞いていた。
でも、あの大兎は、何かおかしい。
あんなの、知らない。
「キュッ、キュッ、キュッ、キュッ」
いつもの見慣れたはずの兎が、恐ろしい化け物のように思えてきた。
家に、戻らなきゃ。
リシェルならきっと、この化け物も倒してくれる。
だが、大兎は私の考えを読んでいるかのように、私を回り込んで家への道を遮った。
私は左の手の甲を押さえながら、必死に大兎から逃れるために森へと駆けた。
「はぁっ、はぁっ! はぁっ!」
大兎はしばらくその場で私の指を噛み砕いていたが、白骨を涎と共に吐き出すと、私の方へとまた顔を上げた。
「ひっ!」
「キュッ、キュッ、キュッ、キュッ」
大兎が、私の後を追いかけてくる。