出雲王国
私は歴史は詳しくは無い。まさにかじったレベルの素人レベルだろう。でもそれで良いとおもう。先入観から遺伝子を悪用する人間が多いから。斉藤教授もちとそれが過ぎる。あの人は素人臭い好奇心が強い。その点で私が興味が湧いてしまう部分もあるが、信頼しきれない部分もある。あの人は歴史好きなんだ。
だから斉藤教授の流れになる。所謂弥生の前の渡来の波になる。古墳と弥生、弥生前と弥生。この時代特定は出来ない。それは推測が混じってるからになる。現代の遺伝子と過去の遺伝子から推測になるからに成る。
よって、弥生から天皇家の歴史になって、この2つが渡来の波になった可能性と、出雲王国と天皇家の2つの歴史が2つの渡来の波になった可能性になる。多くの人は斉藤教授が言ったこの2つを特定出来ないを都合よく無視してるんだ。
近畿にはモンゴル、または中国によって特異新たな波が来てる可能性があって、それは天皇政権後の可能性もある。要するに当たり前の話しになる。斉藤教授もそうだが、面白い話と言うのは、これまでの常識を覆すような新発見になる。当たり前の話と当たり前じゃない話をしてる。
だが出雲王国は突拍子も無いオカルト話ではない。ただ物証が弱い。考古学的には軽視されてる神話にもろ描かれてるからだ。しかし遺伝を調べるとこの神話案外間違ってないのでは?となってくる部分が多い。遺伝学と遺伝学より考古学的物証を重視する学者とは対立してるは以前から書いてきた。考古学的物証重視はたいした根拠じゃないのに常識的固定観念に囚われやすい。
だから遺伝子によってガンガン覆されてしまう。だが遺伝学者も学問的誠実さより面白さ=新しい発見による新しい説を重視してしまう傾向がある。その辺り遺伝学者の適当なホラ話を話し半分で聞く癖も大事になる。
一番問題なのは、遺伝系の人は保険を掛けてるのに、それを無視した素人ネット論者のホラ話がネットでは広がってしまうことだ。出雲王国もそのホラ話として撒き散らされてる。
だがこれ案外悪くないかも?と思えてきた。知識が溜まってきたからだ。
出雲王国の前に漁労文化の見直しが大事じゃないか?と見ている。過去私が捨ててしまった話しだ。漁労から陸稲に、陸稲から水稲に。だが再度漁労を見直すべきだと考え直した。どうしても問題が生じるのだが沿海州のO1B2は稲作やってないよな?って問題だ。彼らは稲作を多分やってないのに北上したんだ。それがシニガイ文化と刻目突帯文土器の関係になる。
さて学問的誠実さに移ろう。私がこれを捨ててしまったのは、九州から広がった説もそれなりに正しく見えるからだ。答えはどっちとも言えないになる。どっちとも言えないなら面白いほうに賭けて見たい。やはり出雲から広がったのではないか?となる。
これは中国でも迷った話しだ。中国では西方の土器の影響が話されていて、これを中原から広がったと覆した。でも詳しく調べると微妙に2系統に見えなくも無い。完全に答えが出たって程でもない。ただ西方から伝わったに違いない。なんてのは論外になる。
そこでキーになるのが出雲王国になる。
まず基本的にはO1B2の漁労文化があったという事。ただここで、これを1つの文化圏に纏めてしまっては駄目。それが出雲王国と天皇家の謎に繋がっている。
そもそも日本は貝塚から始まっていて、貝塚はアボリジニ系がたどり着いた時にすでに始まってる。海と密接に関係して東アジアは発展してきている。O1B2が漁労の中心なんて考えは浅はかも良い所。
O1B2はおそらく船の進化があったのじゃないか?と見ている。これが既存の漁労文化に入り込んだと見ている。支配ではない既存の漁労文化に有益だとして人がセットで組み入れられた。
絶対に間違えてはいけないのは、江南文化が広がったという浅はかな発想だ。もと有った遼河狩猟採取の漁労部門を大きく変化させたのが、O1B2だったとなる。だから言語的に変わってしまって人種的にも北方系になってしまったと言う答えになる。これを間違えると、日本人は南方中国系ってアホな話しになる。
日本人は遼河人=朝鮮(子供みたいなもの)の近縁系で間違いない。そして遼河人の漁労民族のルーツはおそらく山東人。すでにここで文化が江南から遼河文明に変わっている。
だから南蛮ではなく東夷と呼ばれたんだ。
山東人が海岸沿いに北上していく。この時にポイントは、沿海州=シニガイ文化は半島とは繋がってない別の文化圏の可能性がある。それは稲作の問題になる。血族的言語的に繋がっていても別の文化である可能性がある。
以前も書いたが初期稲作は粗放水稲稲作であった可能性。もちろん日本は陸稲もやっていた可能性が高い。粗放稲作は極端に場所が限られる。これが重大な欠点になる。それゆえ半島の粗放水稲を真似した陸稲が大きく発展しなかったとなる。水田田植えがセットになった本格的な山東省由来の稲作までまたないといけない。
このタイムラグが出雲王国を生んだ可能性がある。じゃ出雲王国は稲作をしてなかったのか?ありえない。先に出雲に来たO1B2は稲作以外で来た可能性がある。すぐに新しい稲作を取り入れたと見ている。
ここで難しいのは1つの文化圏ではない。だが真似をするのは勝手だという話しになる。実際は道具の問題があるので、そう単純な話じゃない。大事なのは1つの漁労文化圏みたいな単純な話しじゃないって事。ただ模倣は文化圏とみて良い。文化を取り入れるのと、交易として物を手に入れるのを混同してはいけないって点。
多くの考古学的物証は、そういった交易によって手に入れたものと模倣によって広がったものを区別する学者も居れば、見切り発車の学者も居る。そして模倣の段階でも、同じ文化圏でも同じ権力のしたの集団であるか?は全く別の話しになる。大きく分けてこの3つのケースがある。
例えば半島と日本で似た漁具の発見がある。これで半島と日本を結んだ巨大な勢力を想像する学者も居る。私はコレに否定的だ。模倣による同一文化圏ですらない。ただ一過性の交易は確かにあった証拠だと言うだけだ。元々は大きな漁労の生活スタイルがスタートだと思うが、出雲系と天皇系は多分別の勢力だと思う。
日本の天皇系または日本の漁労グループは、山東省を中心に徐々に広がってきた稲作を取り入れたか?または稲作と同時にきたか?と見ている。半島に残った勢力と文化圏は同じでも違う勢力だと見ている。
民族的少数集団が複数居るほうが当たり前だろう。稲作と同時に動く必要は無い。おそらく出雲系は稲作と動いてない。それゆえにO1B2よりD系が多い集団なんじゃないか?と見ている。ただすぐに稲作を取り入れたのは間違いない。根拠は瑞穂というのは出雲系から出た名称だから。次にそれだけの王国を稲作抜きに作れるわけ無いから。
じゃ何故天皇系と違ってしまったのか?で、最初から北九州ルートじゃなくて、出雲への直接ルートを持っていたと見ている。もっと広げて、日本海と沿海州の関係になる。これで鉄器をいち早く取り入れた謎も解ける。遼河文明のシベリアルートによる繋がりになる。そうするとコーカソイドとの混血の可能性も出てきてすっきりとすべてが解けてくる。
一度はなれた民族が戻ってくるのは、何か新しい技術によって中心点が変わることで拡散する事が多い。おそらくコーカソイド系の金属加工技術。それは元のコーカソイドの言語的集団である必要は無い。
47Zについては?これは特に考える必要は無いと思う。後の時代にも交流があったとするとどーせ入ってくるので峻別するのは不可能。取り立てて目立った特徴があったのは北陸だけで、それはしかもC2とセットであり、Nよりもっと後の時代のC2の拡散の方が大きい。
調べてみると、アラユル地点のN系が日本には入ってきていて、決して日本固有の古い系統だけに絞られない。コーカソイドと接点が無い系統も確かに日本にはある。だがそうじゃない中央アジアとの接点が多い系統も多数入っている。やはりNとしてまとめみるのは危険。
おそらく出雲系は土器を基本とした高い温度を扱う技術を備えた集団で、そのために金属加工が容易に出来たと見ている。これは弥生系土器と金属加工の深い関係として知られている。稲作だけじゃなくて、これがとても重要な要素になってて、じゃ食べ物はなんだったのか?で元々山東省の原始稲作は雑穀農業の1つの作物でしか無い。
それが1つ減って漁労中心になっただけだ。実際O1B2が北上してるのは事実で、かつ明らかに無紋土器系統の日本の刻目突帯文土器に似た土器が見つかるシニガイ文化がある、それが重要だという事。水田稲作に拘ると多分分からなくなる。
じゃ捨てたのか?なら違う北上したグループは違う。そしてこの系統にとって稲作は重要じゃないむしろ漁労で見るべきだと見ている点。ただ注意点として、単純にO1B2による漁労文化圏や、N系による巨大な同一文化圏みたいのは危険だと見ている。
その土地土地によって変えてしまっていると見ている。それとは違ったのが、革新的水田稲作だと見ている。これだけは多分文化圏として人の移動とセットにして良いと思う。
さて遼河文明だが、すべてのキーは山東省にある。何故ここからO1B2が消えたのか?これはとても重大な問題。まず今でもごく少数O1B2は漢民族で見つかる事。基本的には確率的ランダムドリフトの問題に過ぎない点。次に、それはまず斉の成立にあるんじゃないか?と見ている点。一度東夷の征服とそれに繋がる、どうしても従わない民が離散した事が歴史に残っている点。
多くの学者は長江文明と戦国時代で説明してるが、この重大な太公望家による、東夷の征服事業を見逃してる点。戦争流民は間違いなくあっただろう。だが、呉の滅亡によって生じた流民は何を話していたか?がさっぱり解決してない点。これをもっと前に移住は開始されたなら、そもそも山東省で遼河人との混血によって言語がかわってしまったからじゃないか?がすっきりしてるんだ。
O1B2は他にも長江上流でも一部の少数民族から見つかる。これで東西南北すべて見つかる。東だけ海だからいけないだけで、それは海岸沿いに北上する事で割合は高くなる。東ルートは沖縄であったかもしれないけど。
弥生時代、縄文時代に沖縄と長崎を結ぶルートが確立していて、沖縄まで行けばそこから日本に来る。東ルートも無かったとは言えない。ただ東ルートより東が北の海岸沿いに集中したからそっちが多くなったといえなくも無い。
出雲系は縄文系が濃い。だから土着の王国だったのでは?私はそうは見ない。そこがキーだと思ってる。出雲系は沿海州と繋がりが深い人たちだったと見ている。どっち系とか遺伝子で単純に見るべきじゃないと思う。
そういう意味でD系の天皇家も縄文人なのか?と言うとなんとも言えないと思ってる。私は藤原家なんて登場しなくても、早くから渡来系と混血した一族で、自分がどっち系なのか?で渡来系だと思っていたと見ている。ただし、日本で渡来系として意識されるのは、天皇が政権後に出自によっていろいろ分けたからになる。
その前の系統なんて多分意識してない。出雲も全く同じだと思う。D系である可能性の高い天皇家はおそらくクラスターとしては弥生系と言って良いと思う。直系が意味が出てくるのは、政権樹立後の事なので。