夏の夕暮れと喫茶店と。
俺の書いた、小説とも言えないような原稿用紙3枚に満たない文章は、店主にひどく気に入られ、丁寧にファイルの中にしまわれることとなった。それは、書いた当人からしてみたらとても恥ずかしくて、こそばゆいような気分だったのだけれども、それでも自分の生み出した何かが評価されるということは、とてもうれしいことであるのだと、俺はこの年になって、改めて思い知らされたのであった。
つまるところ。結論を言うと、俺はかの喫茶店にめでたくアルバイト採用されたのであった。
喫茶店で働くといっても俺にコーヒーの知識はほとんどない。せいぜいがマスター(少し恥ずかしいのだが、店主からこう呼ぶように強く念を押されている)の入れたコーヒーをお客さんのところに運ぶのがせいぜいで、あとはもっぱら掃除と食器を下げるくらいしか仕事らしい仕事もしていない。こんなのでお金をもらってもいいのだろうかと思うような仕事内容である。
丁寧に一杯ずつコーヒーを入れるマスターが本当にコーヒーを好きだということはその手つきだったり、真剣な顔つきからひしひしと伝わってくる。
お店に余裕があるときは、マスターが淹れたコーヒーを飲み比べしたり、俺にも淹れ方を教えてくれたりする。正直なところコーヒーなんてどれも一緒だと思っていた。自分の淹れたコーヒーと、マスターの淹れたコーヒーを飲み比べた時に初めて、その考えを改めることとなった。マスターが淹れたのをコーヒーと呼ぶのなら、俺の淹れたコレは色のついた苦い水としか言いようがない。喫茶店のコーヒーについている値段の意味をしみじみと考える。給料をいただけたらコーヒーを淹れるための用具を一式そろえてみようかと思う程度にちょっと真剣にコーヒーにはまりそうである。
今まで、何かにのめりこんだりしたことがほとんどない俺にとっては新鮮な経験だ。
何かを知ったつもりになって、わかったつもりになって、斜に構えて世界を見ていた俺にとって。
知らないことはたくさんあって、わかっていないこともたくさんあるというのは、日常を彩るには十分すぎた。
昼休み、購買で買ってきた総菜パンを食べながら「思ったよりも長続きしてるよね」と、唐突に入野がいうから、いったい何の話だと返したら、博之からバイトのことだろとフォローが入る。
「お前が喫茶店でバイトとか、少し意外だったわ。コンビニとかそんなんで済ませそうな気がしてた」
博之のその発言に入野が反発する。
「コンビニなめてんな? コンビニはみんなが思うよりも大変だぞ。何より覚えることがたくさんある。公共料金に荷物の受け渡しにチケット発券、いっぺんに言われてみろ、ワケわからなくなるからな。絶対に喫茶店のが楽だろ」
「まてまて、入野それは喫茶店に失礼だろ。というか俺に失礼だろ」
「くそ……、園田の方が時給が高いなんて許せない……!」
そこかよ、と思わず突っ込んでしまった。傍らでは博之が菓子パン片手に小さく吹き出した。
ずるいといいながら手を伸ばしてくる入野からイチゴ牛乳を守りながら、逆に入野の机の上からクリームパンをゲットする。うん、入野は詰めが甘い。
キャンキャン吠え続ける入野に、登校前にコンビニで買った新商品のお菓子を分けてやると、とたんにおとなしくなる。
「で、中庭の同級生は何組だったんだ?」
と、唐突に博之が聞いてくる。
「八組。知らないわけだよ。俺たち一組だもんな、一番遠いクラスだ。教室のある階すら違うし」
「学年で三百人もいるもんなぁ、全員はわからないな。会話したことない同級生がいったい何人いるんだってな」
チョコレート菓子を口に入れながら入野がいう。それもそうだ。まだ俺の認識していない同級生は山ほどいる。
「でも、東雲ちゃん、後半のクラスでは有名人みたいだよ。まぁ、目立っちゃうよねぇ。それが原因でハブられたりはしてないみたいだけど、話しかけづらい、みたいには思われてるっぽい。」
お菓子を食べ終わった入野が言う。目立たないわけがない。それはわかる。しかし。
「お前、ほんと顔広いね? どこでそういう話を聞いてくるわけ。友達どんだけいるの」
「内緒」
入野に交遊関係の広さを問うと、その度はぐらかされる気がする。何かヤバイことに関わってなきゃいいけどなぁと、ぼんやり思う。
「とりあえず、東雲ちゃんも誘って今度寄り道しようよ。パンケーキとか、女子は好きだと思うんだよ。渉、声かけといてね、博之も一緒にいこうぜ。」
「お前、自分がいきたい店に一人で行けないからってしののめさんを巻き込むのやめろよな……。」
「いいじゃんか、一石二鳥だよ?」
なにがだよ、と内心思いながら、これ以上言っても無駄な気がしたので口を閉じた。
「ちなみに今日は東雲さんと帰るのか?」
「否、バイトだ。」
「お前、今日なんとしてでも東雲さんと一緒に帰れよな。」
なんで? と首を傾げたら、大仰にため息をつかれた。どういうことだ。俺が何したっていうのか。
博之がこんなにも強くいうのも珍しいので、こういう時はおとなしくいうことを聞いておくに限る。とか。
言い訳をしながらも、しののめさんに声をかけるきっかけができたなぁとちょっとうれしく思う自分がいるのも間違いではなかった。
「と、いうわけなのだけどしののめさん今日一緒に帰らないかな?」
早く約束を取りつけて来い、と博之に背中を推しに押されて昼休みのうちにしののめさんに声をかけに行くことになった。彼女の教室は俺たち一組の一つ上の階にある。教室に行って声をかけ帰りの約束を取り付けるとか客観的に考えたらどう聞いてもナンパにしか見えないよなと猛省している。さらに、ここで博之の名前を出してしまう俺の小心ぶりは尋常じゃないと思う。そんなことはわかっている。わかっていてもできることとできないことっていうのがあるわけで。という自分への言い訳を並べ立ててみたものの、当のしののめさんは気分を害した風でもなくすんなりと了承の意を示したのだった。
きっかけとか、言い訳とか、そんなものはなくたって、きっといいのだろうけれど。臆病者の俺は、やっぱりそういうものがないと声をかけられない。
そんな自分に少し後ろめたさを感じながらも、しかし、それを気にしているのはおそらく自分だけなのだろうなと思ったら、もっと自分の小者感が際立つような気がするので、これ以上は考えないようにしておく。
放課後、正門で待ち合わせをした。これだけのことにこんなにも緊張するなんて思わなかった。
名前を聞いたときと同じだ。こんなにも簡単なことがどうしてこんなにも難しいと感じるのだろう。
とにもかくにも、しののめさんに断られなかったことだけが救いだ。これで断られなんかしたら俺の心が砕け散る。
自分の教室に戻って、博之と入野にちゃんと約束してきたぞ、と虚勢を張って報告をする。
断られなくてよかったね、などとへらへらしながら言われたところでちっともうれしくない。そもそも、二人に自慢できるような声のかけ方はしていないのでどっちもどっちなのだろうが。
残りの時間をくだらない話をして過ごして、数学の授業が始まる。昼食後の授業のけだるさは恒例行事みたいなものであるが、特に数学の時は一層眠たい気がする。
しかし、今日の俺には眠さと闘う余裕なんてない。授業が全部終わったら、終わってしまったら、しののめさんと帰宅という、少女漫画でよくありそうなシチュエーションと向き合うことになるのだ。
歩幅とかそろえるべきなのか、否そもそもそういう関係でもないだろ。俺が一方的に好意を持っているだけで、しののめさんの方がどう思っているかなんてまったくさっぱりわからないんだ。
そして、声をかけておきながら、しののめさんと一緒に帰ったことがないということに今更気が付くのであった。
もはや授業は耳に入ってこない。俺って本当にバカなのではないだろうか。冷静に考えて、しののめさんの家がどこにあるのかもわかっていない。
フォローのしようもない。
否なんで声をかけに行く前に気が付けなかったんですかね、園田渉くん(俺)!
ちなみに俺は自転車通学である。自転車で二十分も漕げば家に着く。最悪徒歩で四十分ってところだろうか。家から近いというのを理由に高校を選んだのである。登校途中に歩く東雲さんの姿を何度か目にしているので、徒歩あるいは電車通学だと思うのだけれども。うちの高校の難点は、最寄駅から遠いことだと思う。否、ほかの高校をよく知らないので何とも言い難い部分はあるのだけれど。
そもそもそういうことではない。博之に言われ、意地もあって声をかけてしまったものの、こういうことはまだ俺には早いんじゃないだろうか。この考え自体が検討違いな気すらしてきた。
放課後が待ち遠しいような、永遠にやってきてほしくないような、そんなことを考えている間に午後の授業は終了した。心の準備はまにあわなかった。
「(園田君と一緒に帰るのは初めてだよね)」
「そそそうですね」
否、俺は本当に少し落ち着かないと。どもってるし敬語だし緊張してるのまるわかりじゃないですか。あほなのか。
しののめさんは徒歩で通学しているそうな。どのくらい歩いてきてるんだろう。
「しののめさんてさ、どのくらい歩いてきてるの?」
「(一時間かからないくらいかな、ちょっと離れてるの)」
それは女子高生が通学するには些か歩きすぎの距離なのではないだろうか。
「(自転車は怖くて乗れないんだ。でも家からこっちの方にくるバスがないから、どうしても歩くしかないの。歩きなら何とか対応できるしね)」
「あぁ、俺の家の方もそうだわ。高校に向かってくるバスないんだよな。だから雨でもカッパ着て自転車こいでる。ていうか、方向こっちなの? 俺んちともしかして近い?」
「(あれ、園田君私の家教えてもらってないのかな)」
え、誰に?
「(おじいちゃんに)」
このとき以上に自分の無知を後悔したことはない。東雲とかいて「しののめ」って読むなんて。「とううん」だと思ってた。バカなの、俺。
「なんで!? 否なんでっていうか! 俺がものを知らないのも悪いのだけど! 教えてくれてもよかったじゃないですか!」
「てっきり知ってるのかと思った、っていうのは嘘で、こっちの方が面白そうだったからだよ、少年」
朗らかに笑うマスターと、それを見て苦笑する東雲さん。
「(こういうおじいちゃんなのよ。昔から私もしょっちゅうからかわれているのだけど)」
東雲さんがからかわれるのだったら俺が太刀打ちできるわけないじゃないか、と胸中で突っ込みを入れておく。というか、博之知ってたのか、お前こそ確信犯じゃないか。バイトが終わったら電話して問い詰めなくては。
とにかく、エプロンを着用して仕事を開始する。まずは客席のカップを下げてこなくては。
というか、なんだ、この漫画みたいな展開は。もしかして、もしかしなくても、東雲さんは最初から知っていたのか。
俺が何で彼女に声をかけたのか。
もし、そうだとしたら。
これ以上失礼なことはないのではないだろうか。
そんなことを考えているのは俺だけなのだろうか。
そもそも、この考え自体が検討違いではないのだろうか。
作業をしながらカウンターに座る彼女の顔を確認することはかなわなかった。
続きます。