原稿用紙と中庭と。
小説を書いてください、と言われた。初対面の老人に、だ。それで採用不採用を決めると。にっこりと笑った顔にはさらに深いしわが刻まれた。たかが、たかが個人経営の小さな喫茶店のアルバイトなのに、と俺は思った。面接のときに課されたものがそれだった。そもそも、この喫茶店を決めたことだって、家から近いことと、同級生が来ないだろうという二つの点を考慮してのものだった。本当にそれだけ。部活に入っているわけでもなく、だからと言って毎日のように友人と出かけるわけではなかった。高校生をのんべんだらりと過ごしてはもったいないと思ったからバイトを探した。それ以上の深い意味はなかった。
高校生活は可もなく不可もなくだった。楽しい、がしかし、別に思い入れとか、そういう青春みたいなものは全くなかった。ふとした瞬間には、教室の景色が白黒に見えるような気さえした。何となく高校生になってしまった、と思わずにいられないときは確かにあった。
何年かぶりに自分で原稿用紙を買った。最後に勝ったのは確か小学生の読書感想文の時だった。俺には一番簡単そうに見えた自由課題がそれだった。提出さえすれば、それでいいと思っていた。友人の感想文を読んだときに、それがいかに失礼な考えであったかを身をもって知った。それ以来、感想文なるものは苦手だった。
そんな俺が、だ。小説なんて、書けるはずが無かった。老人は締め切りを一週間後に設定した。長さは原稿用紙一枚以上。一枚で終わってもいい、素敵なものを、と言っていた。一枚で終わるのは、もはや小説ではなくて散文と呼んで差支えないのではないだろうか。別にあの喫茶店にこだわる必要はなかった。友人がよらなさそうな店はほかにもある。なんならコンビニでもよかったはずなのに、俺はどうしてあの喫茶店を選んだのだろう。しかし負けず嫌いの俺は、とにかく書いてみようとそう思った。やってもいないことを無理だと決めつけるのが嫌だった。
とはいったものの、何を書いたらいいかは検討もつかない。学校のこと、家族のこと、どれもみんな俺が文章にしようと手に取ると、驚くほどきれいに跡形もなく消えていった。可もなく不可もなく。そうやって生きてきたことがとても顕著に表れた。ふとしたことに感動したり、そういうことをいつの間にか放棄した自分には、日常の中の素敵なことを見つけるのはとても難しいように感じた。あっという間に日が過ぎていく。
気が付くと、あと三日しか残っていなかった。俺は今日も原稿用紙を手に、学校図書館に向かっていた。ここ何日かはずっとそうだ。しかし、どこにいても、何も変わらなかった。小説の題材にできそうなものは全く見つからなくて、丸めた原稿用紙が着々と生産されていくだけだった。二十枚入りの原稿用紙はあっという間に使い切ってしまうから、ついに五十枚入りを買った。教室はなお一層白黒に見えた。面白いことなんてまるで何にもないかのように見えた。うつむきながら、廊下を歩く、ひたすら歩く。考えれば考えるほど路頭に迷っていく感覚すらしてきた。
ふと、廊下の窓から中庭をのぞいてみた。いつもいつも花に水をあげている女子生徒。その話は俺も知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。学年もわからないが、いつの間にか毎日水をやりに中庭にいる生徒がいる、と聞いたのはいったい誰にだったか。遠くからでも、楽しそうに本当にきれいに、その花に引けを取らないほど明るく笑っているのが分かった。くるりと回るたびに高いところで一つにまとめた髪が揺れる。どうやったら、ああやって笑えるのだっけ。あんなに屈託なく。
ふと、彼女と話がしたいと思った。まったく会話もしたこともない、学年すら同じかどうかわからない彼女に、俺は話しかけたいと思った。それは確かに題材になると思ったのもあるだろう。でも、俺は、きっとそれだけじゃなく、彼女と話がしたかった。急ぎ足で階段を降りていく。
上がった息を整えないままに、俺は彼女に話しかけた。
「あの、」
彼女は気が付かない。あれおかしいな、別に小さな声で話しかけたわけではない。この距離ならば決して届かない声量ではなかったはずだ。俺は近づいて、肩をたたいた。
「あの、」
その瞬間、彼女は思い切り振りかえった。恐怖にひきつった顔で。違う、こんな顔が見たくて声をかけたわけではない。驚かすつもりは、ないのに。
彼女は、俺のことをまじまじと見て、それから、少しだけ警戒を解いたようだった。表情が和らいだ。
「(ごめんなさい)」
「……?」
それは、耳慣れない音だった。普段聞くのとは違った、声、というよりも、澄んだ音に近しいものだった。うまく発音されていないその音は、しかし、ごめんなさいと、俺には聞こえた。俺はそれをきれいな音だと、認識した。校章の色は同じだった。同学年。うちの学校はやけにクラス数があるからきっと後半クラスなんだろう。前半だったら、さすがに合同授業で顔くらいは見ていてもおかしくないはずだ。
「(私は、耳が、よくない、から、うまく話せない。)」
「そう、なんだ、否、全然普通に話せていると思うけど。」
よく見ると、彼女の耳には補聴器、だろうか、不思議な形をした機器がつけられていた。俺は詳しくないからよくわからないが、おそらく補聴器か何かだろう。彼女は、申し訳なさそうに笑って、それからうつむいた。
「(ありがとう。)」
「否、俺こそ急に話しかけたし、っていうか、全然知らないのに話しかけてごめん。」
「(私は、知ってるよ。)」
「何を?」
「(あなた、園田歩、でしょう?)」
「そう、だけど。なんで、」
彼女はその質問には答えなかった。にっこりと、柔らかく笑んだだけだった。なんで、だろうか。彼女はゆっくり、不完全な発音で、でも、俺の聞いたことに返事をする。その声が、とてもきれいで。彼女が歌ったら、どんなに素敵だろうと俺は考えた。
「(明日も、ここにいるから、よかったら、来てほしいな。)」
そして、最後に控えめに彼女は言った。
家に帰ってから、原稿用紙と向かい合ってみる。あぁいう笑顔って、どうやって表現したらいいんだろう。俺は彼女の表情を思い出す。紙面の上で彼女に歌わせてみたりして。長いこと自分が歌っていないことに気が付いた。合唱部だったのがはるか昔の話のようだ。そして、名前を聞いていなかったことを思い出した。
(明日、聞けば、いいよね。)
そう、俺は思った。目を閉じると、学校が浮かんだ。白黒の中に、中庭だけが色づいて見えた気がした。
5年前に書いたものの加筆修正です。
少し続きます。