ローゼフォロワーズ
メリー大公の娘、アチートの運命に転機が訪れたのはずっと昔。
花も恥じらう乙女――などと嘯くつもりは無いが、それでもまだウブだったと振り返ることができるころ。
ある日、彼女が幼馴染の事で悩み、バルコニーで物憂げに空を眺めていると、一匹の黒猫が現れ、
「世界の真理を教えて差し上げます」
そう囁きかけた。
親しみやすい青年の声だった。
「唯一神、創世神、絶対的観測者。
まあ大仰に言いましたが、あなた方が天上と仰ぐその存在。
その方は実在します。
神は修業を重ね、真理〝アルス・マグナ〟に触れ、この世界を創ったのです。
そして――……、」
黒猫はどこからか真っ赤な宝石を取り出すと、前足で器用に突き付けた。
「あなたにもその才があります。
どうですか?
この〝エリクサー〟を受け取り、錬金術を学び、新たな創造主になりませんか?」
新しい世界を、自分の思うがままの世界を創り出す技術を受け入れないか。
その黒猫は、そうアチートを誘った。
しかし、彼女の関心は別のところにあった。
「その力があれば、あの子を救うことができる?」
猫は大きく頷いた。
「ええ当然です。
力さえつければ、この世界の常識以上の事ができます。
あなたが創り出した新たな常識をねじ込むことさえできるでしょう」
アチートはその宝石を受け取り、行動に移した。
――魔王妃と呼ばれるようになった幼馴染を救うため、立ち上がったのだ。
†
ローゼの前にいとこのアチート……のような〝何か〟が立っていた。
手のひらほどのサイズで、どういう原理か半透明の彼女は、ローゼに向かって、
『祐樹くんは早く忘れちゃいなさい』
と言い放った。
「祐樹様を……忘れろ、ですって?」
ローゼは眩暈に似た感情を抑えながら言った。
『そうそう。あの男は死んだの。たった今見たでしょ?
辛いかもしれないけどさっさと忘れたほうが良くない?』
「祐樹様は死んでないわ……」
震える唇の隙間を縫うようにそう漏らす。
そんなローゼを、アチートは嘲笑した表情で、
『もしかしなくてもローゼちゃん、彼を失って泣いてるの?
ローゼちゃんが祐樹クンのこと愛してるって思いこんでたのは、全部あの男が仕組んだまやかしなのにねー』
ぴくり、と、ローゼの額が動いた。
「……なん……ですって?」
その時、ローゼは一体誰が自分のスイッチをOFFにしたのか悟った。
一体、誰が自分の〝それら〟を奪ったのかを。
だがアチートはローゼの表情を勘違いして読み取り、
『酷いよね、ローゼちゃんは彼の事、本当に好きだったのに』
そう、同情するように言った。
『私があいつに植え付けられた嘘っぱちの気持ちを取り除いてあげたの。
だから、悪い夢だと思って忘れること推奨。
ローゼちゃんはお城に戻って、ちゃんとお姫様をまっとうするといいよ』
「余計な事を――ッ!」
ローゼは怒りに震えた。
溢れる思いを奪われた姫の怒声が、洞窟を揺らした。
「誰が、いつ、洗脳を解いてほしいなんて頼んだのっ!?
あの気持ちが私の全てだったのに――、あの狂気だけが今の私だったのにッ!」
返して、と、叫びながらローゼはアチートに掴みかかるが、空を切るように彼女の実体に触れることはできなかった。
『……へぇ。自覚はあったんだ』
アチートの冷めた目線がローゼに突き刺さる。
『じゃあローゼちゃんは、あいつに洗脳されっぱなしのほうが幸せだった。
そう思ってるんだ?』
「当然よッ」
ローゼは即答し、そして嘲笑を含んだ声で、
「あなたには到底わからないでしょうけどね」
上にいるものが見下す、そういう視線をぶつけた。
『……』
アチートはしばらくローゼをしげしげと観察し、
『わかるよ。その〝甘美〟』
と、ローゼの歪んだ感情に同意した。
「は……?」
思いがけない一言に、ローゼは困惑する。
『楽しかったよ。もうなんにも怖くなくて。
大事な人のために悪い事でもできてしまう自分が、凄い何かに変わったような気がして熱くなるの。その子のために堕ちることが、嬉しくて仕方がなかったんだよねー。
堕ちれば堕ちるほどその悦びに体の芯から熱くなって、もっともっとって、自分が後戻りできなくなるように、自分から泥濘にはまるように、自分に鎖をつけるように、逃げられなくなるくらい下を目指していきたくなっちゃうのよ。
だってこれが揺るがない愛だものって、自分に言い聞かせて。
そうでしょ?』
アチートはローゼの気持ちを見透かすように、共感する言葉を並べていく。
そして最後に、ハンっ、と忌々し気に鼻を鳴らすと、
『ま、麻薬みたいな腐った快楽ですけどね。
あーあ。
思い出すとムナクソ過ぎて、マジさがるわー』
こいつは一体何なんだ。アチートの姿をしているが、軽妙な口ぶりのわりに、はるかに経験を積んだ物言いをしてくる。
「あ、あなたはアチートではないの?」
ローゼの問いかけに、
『ウケる、見てわかんない?
小さいし、透けてるし、コスはエロいし。
どーみてもアチートじゃないでしょ、これ。』
と、彼女は笑った。
『私は〝魔王妃の信徒〟の元幹部、ピネガー。
魔王と呼ばれて未来永劫罵られる、あなたとアチートの、その惨めな運命を変えるために遠い未来から来たの』
「ローゼフォロワーズ……?
遠い、未来?」
イスキー邸の地下で、別の少女から同じような単語を聞いたことがある。
亜利菜は魔王となったローゼをグレンが討ち、英雄として称えられる、そんなふざけた未来の教科書を持ってこの世界に現れた。
『そう。ま、要するに未来のアチートってところですわ。
ちょっと凄くない?』
千年後からやってきたのは亜利菜だけではなかった。
その事実にローゼは言葉を失った。
†
(※ローゼにとっての未来、ピネガーにとっての過去)
ローゼとグレンが結婚し、彼がイワン王国の国王となって数年。
世界中がある問題に直面していた。
王妃ローゼは〝禁呪〟を学び、蝕まれ、魔王妃と成り果てた。彼女は世界を手中に収めんが為に動き始めたのだ。その力は恐ろしく、人々の心を操り自らの信徒を増やし、やがてその軍隊は一国では手に負えない規模と化していた。
対立していたイワンとシドールはもちろん、近隣諸国は手を取り合い、連合軍を結成して、その鎮圧を開始した。
人類対魔王の長い戦争の始まりだった。
「私がローゼちゃんを救うんだ」
イワン城から出兵する、幾万の軍人たちを横目に、一人の貴族の少女が決意を持って旅立った。
エリクサーを手に入れたアチートだった。
アチートにとって、ローゼは従妹であり、幼いころはよく一緒に遊んだ幼馴染だ。ローゼが姫として専念できるようにと親に言いつけられ、いつしか疎遠になってしまったが、未婚の頃は聖女と崇められ、今は魔王と罵られるローゼの本当の姿を彼女は知っている。ローゼの数少ない理解者という自負がアチートにはあった。
そんなアチートには、ローゼが世界から目の敵にされるのが我慢ならなかったのだ。
「しかしですね、お嬢様。
いくら創世の力があっても、修行も果たせてないのではさすがに」
黒猫がそう訴えた。
「第一この規模では、魔王妃の元にたどり着くのも難しいのでは」
「大丈夫。手はある」
アチートはイスキー邸を訪れた。主が国王として去った今、しばらくは旧家として空き家同然だったが、今は戦争の負傷者を受け入れる緊急の施設として開放され、さながら野戦病棟といった様相と呈していた。
傷跡と、うめき声と、そして病気の臭気で溢れる光景に堪えながら、アチートは一人のシスターに声をかける。
「シスター・ニッカ! お話があります!」
前線で戦っている国王グレンと親しい仲だというシスター・ニッカであれば、ローゼの元にたどり着く手はずを知っているはず。
アチートはニッカに手に入れた力を説明した。
彼女は親身に話を聞いて、微笑むと、
「わかりました。これも天上のお導きでしょう。
グレン様へ使いを出します。
今はここでゆっくり休み、英気を養うのです」
そういって出された飲み物を、アチートは何の疑いもなく飲み干した。
――……これでローゼを救える。護れるんだ。
そう信じていた。
数日後。
アチート――いや、アチートだった彼女は戦場に居た。
あの時自分と同時に魔王討伐に出立した、幾万の兵達の目の前に立っていたのだ。
黒猫がもたらした創世の力は人知を遥かに超えていた。
彼女は連合軍側の魔物を、たった一人で蹴散らし、降り注ぐ矢も魔術も意に介さず、次々と兵たちを押しのけて見せ、平然と殺し、そして空中でこう言い放った。
「あんた達はローゼちゃんの所には行けないよ。
だって私が――、」
彼女の決意は何も変わっていなかった。
ローゼの数少ない理解者として、彼女が世界の敵と呼ばれることに怒りを感じる。
そのために手に入れた力を行使する。
――ただし、
「私がローゼちゃんを護るもの!」
その決意の矛先だけが悪意によって変えられてしまっていた。




