失意の姫君
「……いったい、どうしたらいいのでしょうか……」
ドゥミ嬢の姿を纏った姫君は力無くため息をついた。
ここは貴族地区にある大聖堂。
時刻は夕食を終え、皆が寝静まった深夜だ。月の寂光が幾重のモザイクガラスから差し込む。灯りの燈っていないドーム内は、その僅かな光のみが足元を照らしていた。貴族地区にはいくつかの公共施設があり、図書館、劇場、美術館とどれも立派な建物ばかりだ。光誕の教えを広める大聖堂はそういった建物の一つとして建立されていた。他の建物と違い、貴族地区の比較的外側にあり、救いと安らぎを求める平民の往来も少なくは無い。
祭壇を目の前に、百に近いベンチが備え付けられていて、ドゥミ嬢はそのうちの一つにたった一人、ぽつんと座っていた。催事には国民を何人も収容できる巨大で神聖なドームは、静寂に包まれて少し肌寒い。
ドゥミ嬢の疲れ切ったため息が、またドームに響く。マールの事情を知り、自分の偽の印と戦うべく、姫として出来る事はやりきった。だがそれは多くの人に迷惑がられるだけの徒労に終わってしまった。終いには父親から直々に説教を受ける始末だ。
『もう一度、姫殿下を信じてください。
彼女はあなた方を見捨てません』
「――よく言えたものね……」
項垂れる。これが自分の限界なのか。
王族として育てられ、皆が思っているほど安穏と生きてきたつもりなど無い。だが、それは所詮〝お姫様〟としての象徴的な努力に過ぎず、政に口を出した瞬間に力量の無さが露呈してしまった。挫折に近い喪失感が、身体を蝕んでいくようだった。
――悔しい。何もできない自分が恨めしい。
何かにすがりたいとき、ローゼはこうして大聖堂で祈ることが何度かあった。
天上への信仰を糧に、導きを乞うて進むべき道を見出す。
祈りを捧げることで、未来はきっと明るくなる。そう信じてきた。
だが今は違う。習慣的にここに来てしまったが、ローゼが今すがりたいのは天から見下ろす神などではない。
「……祐樹さん……」
呟いて、天井を見上げた。
「会いに行ったら、迷惑かな」
今の彼女が救いを求められるとすれば、それは想いを寄せる彼だけだ。
例えそれが、人為的に植え付けられ、歪み切った恋愛だとしても。
それで構わない。祐樹を愛している。
不安が無いわけではないが、相手が祐樹であれば、愛してしまっても〝許される〟――そんな気がするからだ。そして幸いな事に、祐樹はいい人だ。
理不尽に怒り立ち向かう、そんな男だ。
無茶を言って甘えてしまっても、困った顔で受け入れてくれる。
清純な姫君のままでは、この熱い気持ちを経験することは出来なかっただろう。
……彼と比べれば、グレンや、他の貴族の男共がゴミのように思えて来る……。
だから、きっかけはどうあれ、惹かれたことは誤りだと思わない。
ローゼの中でこの気持ちに対する真偽はさして重要では無かった。
「……そうだ。
祐樹さんにかっこ悪い所見せられない」
姫君としてのプライドがある。私は王族。統べる者。
皆に聖女と盲信され、そう振る舞って希望を与え続ける存在でなくてはならない。
そういう私を、一番の私を祐樹に見せつけなくてはいけないわ。
次に祐樹に会うときは、甘えるときは、この一件を解決してからだ。
そう念じて、ドゥミは立ち上がった。
――ギィ。
大聖堂の大きな扉が開く。
こんな夜中に、自分以外の来客とは。
不思議に思って、そちらに視線を送る。
平民服を着た、小柄な少女がまっすぐこちらに歩いてくる。
ドゥミは驚いた。
マールだ。なんという偶然か。
彼女は大きな花束を抱え、こちらに向かってくる。
野草を摘んだのか、購入したものと違い花の種類は雑然としていた。
相手もドゥミの姿を見て、深々と会釈をする。
「こんばんは。奇遇ですね」
そう声をかけたが、彼女は声を発せずにもう一度会釈するだけだった。
力の無い姿だった。偶然会ってしまった知人に対する感動も、動揺も、微塵も感じられない。昼間懸命に笑顔を振りまき、生きていた彼女と同一人物とは思えなかった。
……なにかあったのか。嫌な予感がする。
マールは祭壇に向かい、花を置き、短い祈りを捧げる。
「こんな夜更けに、どうしたのですか?」
そう言うと、マールは抑揚の無い声で言った。
「――母の遺体が見つかりました」
「…………っ」
息を呑んだ。
豪商の奉公に出た後、逃げ出したとされていた母親だ。
「街の外れの河川に流されていたそうです。ずいぶん水を吸って身元がわからなかったのですが、行方不明者の遺留品から私が見つけました」
水死体は放置されると生前の姿をすぐに失う。
母親と特定されたのは不幸中の幸いとしか言えない。
「ご冥福をお祈りします」
理不尽な借金に追われ、全てを失い、ローゼ姫という一筋の希望を見出した矢先に、慕っていた母親の死が発覚する。なんて恵まれない少女なのだろう。
……この子を救えるのは、やはり私しかいない!
「ローゼ姫は、この件を重く受け止めてくださいました。
必ず救いの手を差し伸べるでしょう。もう少しの辛抱です」
「…………」
マールはしばし沈黙し、こう言った。
「……姫が、私達を救ってくださるのですか?」
「はい、必ず」
「生前、母はよく言っていました。
〝ローゼ姫のように、清らかな女性になりなさい〟と」
マールは暗く陰鬱な声で、言い放った。
「今はもう、そう思っていないでしょう」
「……………………、え?」
何……今の?
「どうして姫は、もっと早く、印の存在に気付いて下さらなかったのでしょう。
私達が家を奪われている間、あの方はどこで何をしていたのでしょう。
王族の力で偽の印を取り消すことが、そうまで難しい事なのでしょうか。
いずれにせよ――もう母は……帰ってきません」
何故? どうしてそうなるの?
私が――ローゼが母親を殺した、そう言いたいの?
「今度は私が奉公にでます。お金を返さなくてはいけませんから。
……母のように川に捨てられないよう、どうか祈っていてください」
マールが出て行く。大聖堂の大きな扉のしまる音が響く。
ドゥミは……ローゼ姫は冷たい床に腰を落とした。
どうして私に矛先が向くの?
印は偽物だって言ったでしょう?
なんでわかってくれないの?
が、……頑張ったのに……。
出来る事をやろうと頑張ったのに!
『姫様は、私達がどんな生活をしているのか知らないんですよ』
「それは――そっちでしょうが――ッッ!!」
大声をあげるのをなんとか堪え、ローゼは床に手を着いた。
ぼろぼろと涙が大理石を濡らし、広がっていく。
もうなにが正しいのかわからない。
普段は崇めながら、不幸に見舞われると簡単に手の平を返す平民の視線。
官人の無関心と疎む姿。話を聞いてくれない父親。
何よりも、何もできずに空回りしたまま罵られる自分自身。
必死に抑え込んできたものが吹き上がる。
「……もう嫌……」
こんな事なら、こんな事であれば。
王族に産まれてこなければよかった。
姫でなければグレンなんかと婚約させられる事も、蟲に操られることも、勝手に称えられることも、そして持ち上げられたあげくに突き落とされることもなかった。
ああ。あああ。もうダメだ。ローゼは自分の中にある何かが、ボロボロと欠落していく錯覚に陥った。ああああ。もうダメだ。もうダメだ。無力感が彼女を縛る。
私、もうダメだ……。
自分で立ち上がる事も出来ない……。
「――ローゼ姫――」
――……そこに、声をかけてくれる男が居た。
祐樹だ。祐樹が来てくれた。
失意で立ち上がれない自分のために、彼が来てくれた。
彼は優しくローゼを支え、そして、
「辛かったね。よく頑張ったね」
甘い言葉で慰めてくれた。
「……祐樹さん……」
ああ、凄いな、祐樹さんは。
私が苦しんでいる時に、すぐに駆けつけてくれるんだ。
ローゼの胸は幸せな気持ちでいっぱいになった。
「ローゼ、迎えに来たよ。
一緒に逃げよう」
「――逃げる?」
「そうだよ。お姫様なんかやめて、俺の世界に一緒に行こう。
俺の世界で普通の女の子に――俺だけのドゥミとして生きるんだ」
なんて困惑的な誘いなんだろう。
俺だけのドゥミ。素敵な響きだ。
ローゼの答えは決まっていた。
「はい。行きます。こんな世界はもう嫌です。
私を連れて行ってください!」
「うん、行こう。今すぐに」
そして祐樹の手が、
ローゼの首にかかった。
「え……、ぐぅッ!?」
祐樹は笑顔でローゼの首を締め上げる。
「ゆう……き……さん?」
必死に手を伸ばし、抵抗するが、男女の力の差は歴然だ。
ローゼは呻きもがくしか術がない。
「大丈夫だよ、ローゼ。安心して。
俺とローゼ、二人っきりの世界に行くだけだから。
すぐに俺も後を追うよ」
「――なんで……、こんな……」
「こうするしかないんだよ。
こうするしかないんだ。
だってそうだろ?」
「亜利奈から逃げるのには、これしか方法は無いんだ」
「――――ッ!?」
あの幼馴染の狂気に、祐樹はやっと気が付いたのだ。
亜利奈の力には誰も叶わない。逃れたければ死ぬしかない。
そして祐樹はその伴侶に、ローゼを選んでくれたのだ。
「――わかり――ました」
構わない、もうこの酷い世界に未練はない。
祐樹の手で朽ちれるなら、それは幸せとすら思える。
「あなたがそう望むなら……」
ローゼは抵抗を止め、祐樹の殺意に身を委ねた。
崩れ落ちるローゼ、上になる祐樹。
薄れゆく意識の中で、まるで初夜のようだ、と、ローゼは微笑んだ。
「なにをしてるのかな?」
「「――ッ!?」」
事が終わる直前だった。
大聖堂の中で、愛憎が実態を得て迸る。
吹き飛ばされるベンチ。揺れる建物。
「ふふっ。ねえー、ユウ君」
かちゃん、かちゃんと歩くたびに、金属音が鳴る。
先端が曲がった、長い棒状の何かを握っているのだ。
「ユウ君、ユウ君、亜利奈のユウ君♪
亜利奈を置いて、どこいくのぉー?」
あと少しというところで、あいつはやってきた。