平社員、催眠術を試す
「君ね、少しは俺の立場も考えてよ」という上司の言葉に対し、
「すみません、課長、次からは気をつけますんで……」と、答える。
もうすでにこの会社に勤めてから何十回したか分からないやり取りを終えて、オレこと、新谷健一は会社をあとにする。
今の会社に入ってはや3年、同期たちが出世するなかで、オレだけが平のままである。
入社当時にあった、この会社を変えたい、自分だけの仕事がしたい、頼られる人物になりたい、そういった気持ちはすでになく、もはや惰性のように会社に通う毎日。
こんなはずではなかった。何を間違えてしまったのか。過去に戻れるものなら戻って人生をやり直したい。電車に揺られながらオレはそう考えていた。
駅を出て、暮らしているアパートに向かう途中、気晴らしに駅前の古本屋に入ることにした。その選択がのちにオレの人生を大きく変えることになるのだが、このときのオレはまだしるよしもなかった。
「異世界催眠……? なんだ、これ?」
オレは棚からそのタイトルが書かれた本を手に取って開く。
どうやらそれは、自己催眠によって、自分とは別の自分になりきることを目的とした本のようだが、世界設定だの、なりきる人物であるお姫様の容姿などが細かく設定してあるようで、催眠術の本としては少々異質であるといえるだろう。
「別の自分……か」
オレはそうつぶやくと、その本をレジにもっていく。変身願望、本当の自分……。
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『まずは、ふとんの上で横になり、天井の一部分をジーと見ていてください』
オレは本の通りに横になり、天井のシミをジッと見つめる。
『つぎに、10から数えて0になったら、目をつぶってください』
『深呼吸をして、リラックスしてください』
『からだの力を抜いて……』
オレは次々と本に書かれた動作をこなしていく。すると、だんだん己とからだが遊離したかのような錯覚を感じるようになる。
『さあ、イメージしてください。
ここは、魔界。あなたの世界。
ここでのあなたは魔界のプリンセス。それは、本当のあなた。今までのあなたは偽りのあなた』
オレは……。
「おかえりなさい、私のプリンセス」