#98 埋まらない溝と前に進む勇気
「ラスト10本! 最後まで集中して!」
『はい!!』
インターハイ地区予選を翌日に控えた金曜日。
霧ヶ原高校女子バスケ部も練習に気合が入っていた。
シード校なのでたった2回勝てば県大会への切符が手に入る大会だが,負けてしまえば全てが終わってしまうのは他の学校と同じだ。
まずは明日の2回戦,今日の1回戦の勝者である柳高校との対戦に全力を傾けなければならない。
「………」
ならない,のだが,俺の頭はどうしても別の方向に向いてしまう。
そう,先日の帰り際に出会った木下先生についてだ。
あの日はお互いあまりにも突然すぎたタイミングだったので,特に何かを話す訳でもないまま逃げるように木下先生は帰ってしまった。
何とか学園長と2人,予選大会には顔を出して欲しい旨は伝えておいたが,先生に届いたかどうかは分からない。
学園長も言っていたが,先生は未だにこの部活に対して罪悪感しか持っていなく,あの様子では先輩たちの前に出てくるのは厳しいのかもしれない。
だが,いつまでもこのままという訳にもいかないだろう。
天王寺先輩が復活したのを機に,この部活も大きく変わり始めている。
せっかく部の雰囲気が良くなろうとしているのに,指導者不在のせいで勝てる試合を落としてしまうような事になれば,また部の雰囲気も悪くなってしまう。
キャプテンである天王寺先輩の負担を減らす意味も含め,木下先生には早く復帰して貰わなければ困るのだ。
「何とかならないかな……」
学園長には木下先生の事は誰にも内緒だと釘を刺された。
地区大会直前の先輩たちに余計な心配をさせまいという考えは分かるが,こうして手をこまねいているだけでは状況は進展しない。
無理矢理にでもどこかにきっかけをつくった方が良いのではないかとさえ考えてしまう。
「…むぅ……」
考えても仕方のない事なのは分かっているが,どうしても頭のもやもやは消えない。
結局その日の練習も,俺はどこか上の空のまま終了してしまった。
「…はぁ……」
いつも通り体育館を閉めながらため息がこぼれる。
明日から大会だというのに,こんなにも集中できていないなんて初めてだ。
こんな状態のままで大会に参加して良いのだろうか。
「…ハル君,ちょっと良い?」
「ッ!? 天王寺…先輩……?」
ぼんやりと考え事をしながら体育館を後にしようとした俺の耳に予想外な声が飛び込んで来た。
慌てて振り返ると,体育館の影から現れたのは天王寺先輩だった。
「…ごめんね。驚かせてしまった?」
「あ,えぇ…まぁ……」
「ハル君と,少し話しがしたくて…」
待っていたの,と薄く笑いながら先輩はすぐ近くにあった体育館横の階段へと俺を呼ぶ。
呼ばれるままに俺は先輩の隣に座り,先輩の言葉を待った。
「…あのね,ハル君」
しばらくの沈黙の後,先輩がゆっくりと口を開いた。
「木下先生の事,なんだけど」
「……え?」
「この前,会ったのよね? 先生に…」
「あ,えっと……」
あれ?
あの時の事は誰にも言っていないのに,どうして先輩は知っているんだ。
「なんで,それを…?」
「…やっぱり……」
訳も分からず驚く俺の前で,天王寺先輩はすべてを話してくれた。
実は,あの日木下先生に会うのは天王寺先輩のはずだったらしい。
学園長がずっと先生に打診を続けており,先生の方も地区予選が近いという事でようやく折れてくれたらしい。
ただ,生徒が帰った後という条件付きのとても短い物。
天王寺先輩の話では,学園長はその間に偶然を装って自分が会おうとしていたらしい。
でも,急に先生の体調が悪くなり会えなくなってしまったと学園長から聞いて,諦めてその日は帰ったと。
「そう,だったんですか…」
「学園長にはあの日,急に木下先生が来られなくなったとしか説明を受けていなくて。
まさか私の代わりにハル君と会っていたなんて予想もしていなかったのよ…」
先輩も俺の様子がおかしい事には気が付いていたらしく,今日学園長に話を聞きに行ったそうだ。
そこで学園長から本当の話を聞いて,こうして俺に話をしに来たという訳だ。
「ごめんなさいね。ずっと気付けなくて…」
「いえ,俺も練習に集中出来なくてすみませんでした」
学園長も人が悪い。
それならそうと早く言ってくれれば俺がこんなに変な事で悩まなくても済んだのに。
「…でも,安心しました。先輩の方から先生と会うように進んでいたって分かって」
「先生には,私もたくさん迷惑をかけてしまったから,今の部活をちゃんと見て欲しいの。私は,もう大丈夫ですって」
そう言って笑う先輩を見て,俺は自分のマヌケ加減に呆れてしまう。
俺がどうこう考えている事なんて,先輩がずっと考えていた事だったのだ。
最初から俺は余計な心配をせず,先輩が全力で戦える場所をつくってあげれば良いだけだったのだ。
「…勝ちましょう,先輩。木下先生が帰ってきてくれるまで,何度だって,どこまでだって」
「……当たり前じゃない。私は初めからそのつもりよ」
先輩の笑顔はすっかり自信に満ち溢れていて,
今なら,誰にも負けないという確信が持てた。
そして夜が明け,ついにインターハイ予選の幕が上がる。