女の子はいらない ~姉と弟~
跡取り
立ち聞きするつもりはなかった。ただ、阿佐美が二階にある自分たち夫婦の片づけを終え、茶の間に行こうと廊下を歩いていたところで義姉の声が聞こえ、彼女が来ているのがわかり、何となく入りづらくなりそのままそこに立っているはめになったのだった。
「それにしても、もう少し役にたつかと思ったんだけどねえ」
姑のりつ子の声が、誰のことを言っているのかわかった時、阿佐美は背筋に震えが起きた。
「阿佐美さんでしょ。ハズレだったわね」
そう受けているのは、義姉の千春だ。この義姉はここ赤川家から電車で五駅ほどの隣町に嫁いでおり、しょっちゅう子供を連れて生家にやってきている。
「魚もろくにさばけないし、さわるたびにキャアだもの。目が怖いだの何だのって大騒ぎして。魚屋の嫁が魚にさわれないようじゃあ、どうしようもないわねえ」
「ほんとよね。うちが魚屋だってわかって嫁にきたんだろうに」
「あの人が挨拶に来たときには、信也もすいぶんおっとりしたお嬢さんを連れてきたものだと心配だったけどね。まあうちの長男と結婚するっていうんだから、商売人の家に嫁にくるという覚悟はできているんだろうと思ったのよ。なのにあれじゃあ、はっきり言って使いものにならないわね」
「じゃあお母さん、結婚に反対すればよかったのに」
「信也がいいっていうんだから仕方ないでしょう。無理に反対したところでどうなるってものでもあるまいし。あとはせめて男の子を生んでくれたらいいんだけど。どうかしらね。うちはサラリーマンの家と違って、何としても跡取りが必要なんだから」
「いいじゃない。もしもの時は、この子たちがあとを継いであげるから」
千春の子供は二人とも男の子である。
「何言ってるの。あんたはよそに嫁に行った人間じゃないの。ここのあとをつぐのは信也の子供ですよ」
「あのね、いまどき古いのよ。お母さんは」
「今どきだかふるどきだか知らないけどね。長男が家を継ぐというのは昔から決まっていることなんです。こういうことはいくら時代が進んだって、そう変えられるもんじゃないの。そりゃあ子供が女の子しかいないというなら仕方がないけれど、うちには信也という立派な長男坊がいるんだからね」
「はいはい。わかりました。でもさ、あの人女腹かもしれないじゃない。もしそうなら、商売もできない、跡取りも生めないで、阿佐美さん、ほんとに役に立たない嫁だわね」
二人は悪口を言われている当の本人である阿佐美が、引き戸の奥で身体を硬くして聞き耳を立てていることなど気付きもしない。阿佐美は今さらとても二人のいる茶の間に入ることはできず、かといえ足音を立てることもはばかられ、その場にじっとしているしかなかった。
「あらもうこんな時間。午後の仕込みをしないと。ほら千春。あんた早く自分の家に帰りなさい。こうしょっちゅう実家にいりびたりじゃ、向こうのお義母さんに失礼でしょう」
あわただしくりつ子が立ち上がる気配がし、阿佐美はその音にまぎれて仕方なくまた二階に戻った。
今、阿佐美は病院の硬いベッドの上で、あの時のことを思い出していた。
寒い廊下で足元から突き上げる冷気に耐えながら、姑と小姑の口から語られる自分の悪口をじっと聞いていたあの時、阿佐美はお腹に子供を宿していた。その子が今年四才になる長女の亜紀である。
初めて授かった我が子が、五体満足で生まれてきたことは嬉しかったが、やはり男の子ではなかったことに落胆しなかったかといえば嘘になる。せめて跡取りを生んでくれたら、というりつ子の言葉がどうしても離れないのである。
そして今、また阿佐美は第二子を出産しようとしている。阿佐美は、今回は何としても男の子がほしかった。
嫁ぎ先である赤川家は、この地で代々鮮魚店を営む商家である。
それが十年ほど前、店の隣の土地に海鮮料理の店「花ふじ」を出したところ、これが魚が新鮮でうまいということで評判になり、繁盛するようになる。以来、「赤川魚店」は舅の史郎が、「花ふじ」の方は息子である信也が携わる形で商売を続けてきた。しかし実際に「花ふじ」を切り盛りしているのは、姑のりつ子である。仕入れから金銭管理、従業員の教育など「花ふじ」はりつ子なしにはたち行かなくなっている。
阿佐美はこの家に嫁いでから、店の仕事を何とか自分なりにやってきたつもりではいた。ただ自分が商売に向いていないのはわかっていた。結婚前は事務系の仕事しか経験がなかったし、接客はどうも苦手であった。どうしても気おくれしてしまうのだ。その苦手意識が顔に出るのか、自分ではそのつもりはないのだが人からはひどく無愛想に見えてしまうらしい。それから混雑時に素早く仕事をこなすのも苦手であった。ついもたついてしまい、りつ子に叱られる。例えば慌しく料理を運んでいる時に、客から何か頼まれると「お待ちください」と言ったが最後それきり忘れてしまう。
そんな自分がりつ子にどんなふうに思われているか。それはりつ子と千春のあの会話を聞かなくても予想はつくことであった。これが親世帯と経済を別にしているならば、多少姑との折り合いが悪くてもどうということもないのだろうが、家族全員が店の収入で食べている赤川のような家では、仕事がうまくできないということは本当にいたたまれないことであった。
正直阿佐美は何度か離婚も考えた。が、亜紀が生まれたこともあり、到底一人で亜紀を育てていくことなど阿佐美にはとてもできそうになかった。阿佐美の実家も父親はとうに現役を引退しており、子供を連れた出戻り娘が頼れるような状況ではない。
亜紀が生まれてからも阿佐美は少しでも役に立とうと、育児の合間をぬって店に出るようにした。
いくら接客が好きではないといっても、姑と小姑にあんなことを言われては家でゆっくりなどしてはいられない。しかし従業員たちは、突然店に現れた阿佐美にうわべばかりの挨拶をするだけで、迷惑そうな表情をありありと浮かべるのだった。
無理もない、と阿佐美は思う。従業員にしてみれば、自分たちは時間に縛られて働いている。ろくに仕事もできない若奥様に気まぐれでふらふら店に来られてはいい気がしないだろう。何をしていいかわからず立ち尽くす阿佐美に、りつ子は一瞥をくれるだけで話しかけてもこない。
見かねて信也が、
「おまえ、ここはいいから家に戻っていいよ」
と言い出すのが常だった。仕方なしに阿佐美はすごすごと家に戻る。そんなことを繰り返すうちに、店にはだんだん阿佐美の居場所はなくなっていった。
亜紀は一才半を過ぎた頃には、一人で絵を描いたり絵本を見たりしておとなしく遊ぶようになり、全く手のかからない子供であった。阿佐美が店を追い出されるように家に戻ると、「ママ、見て」と自分の描いた絵をかざして亜紀がにっこり笑いかけるのに、阿佐美は笑い返すことができなかった。
この子の存在はこの家で自分の存在に助けにならない――。
りつ子はそれなりに初の内孫である亜紀をかわいがってはくれたが、「次は男を」という気持ちがその底にあることが態度や言葉の端々に現れていた。
この子ではだめなのだ。阿佐美は痛感した。男の子がほしい。新しい命を宿した時から強くそう願った。それは何もりつ子のためだけではない。阿佐美自身が男の子がほしかったのだ。
阿佐美は姉妹二人の妹であるが、母親からは「おまえが男だったらねえ」と言われ続けて育ってきた。サラリーマン家庭で特に跡をつがせるものなどないはずなのだが、阿佐美の両親は自分たちの子供に男の子を望んでいたようだ。阿佐美は、自分は男として生まれてこなければいけなかったのだ、と両親に対してどこか申し訳なく思いながら育ってきた。自分が男児を生むことで、母親に勝てるような気がした。何が勝ちで何が負けなのか自分でもよくわからないが、また女児を生んでしまったら、娘の前で「おまえが男だったら」と言い続けていた母親と同じ人生になってしまう。それだけは嫌だった。
秘密
阿佐美が入院している永井産婦人科は、線路に続く坂が下り始めたところにあった。
前回の検診で、医師に子宮口が開きかけていると告げられ、予定日には早かったが大事をとって入院することになったのだ。病室のドアが開いて一人の看護師が入ってきた。
「どう? 何か困ったことはない?」
看護師は笑顔を見せ、気さくに阿佐美に話しかける。色白の肌にありがちなそばかすが少し目立つが、涼しげな目元とよく整えられた眉が美しく知的な印象を与える。
胸に付けた名札には平沢聡子とあった。
「ううん。大丈夫。聡子がいてくれると心強いもの」
阿佐美も親しげに答える。実は、阿佐美と聡子は小学校からの幼なじみであった。
二人とも同じアイドルに夢中になったり、同じマンガ雑誌を買い込んだりと何かと趣味が合い、少女時代はお互い相手が一番の親友であった。高校は別になったが、それからもずっと連絡を取り合い、時々一緒に食事をしたり、ディスコに踊りにいったりという付き合いが続いていた。が、阿佐美が結婚してしばらくした頃から、阿佐美と聡子の関係は次第に疎遠になっていき、ここ数年はずっと会うことはなかった。
一昨年住所録を買い換えた時、阿佐美はとうとう聡子の分を書き写すのをやめてしまった。
この行為は、おそらくもう連絡を取ることはないだろう、少なくとも自分からはしない、これで万一聡子の連絡先がわからなくなってもそれはそれでかまわない、と思ったということになる。無論同級生同士であるのだから、本当に連絡が必要になった時には、共通の友人に聞くなどいくらでも方法はあると思ったうえでのことではあったのだが。
付き合いが途絶えると言うことは、寂しいことではあるがありがちなことでもある。やはり自営業の夫に嫁いだ阿佐美と、独身のまま看護師としてキャリアを積んでいる聡子とでは、少女の頃と比べ互いの環境があまりにも違ってしまっていたのだろう。
なので、この病院で二人が顔を合わせたのは全くの偶然であった。阿佐美の何度目かの妊婦検診で、偶然ここで看護師として働いている聡子と会ったのだった。阿佐美は聡子が看護師になったのは知っていたが、まさか自分が出産する病院で会うとは思ってもみなかった。
二人は神様の采配ともいえるこの偶然の再会を喜んだ。
「今夜は夜勤でずっと病院にいるから、何かあったらすぐ知らせてね」
聡子は看護婦の表情になって言った。
医師からはもういつ陣痛がきてもおかしくないと言われたが、まだその気配はなかった。
その日の夜。阿佐美はトイレに立った。その時、ちょうど赤ん坊を抱いて廊下を走ってくる聡子とすれ違った。
「聡子、どうしたの」
「阿佐美――」
聡子は、阿佐美を見咎めると困りきったような顔で立ち止まった。
「まだ誰にも言わないでね。この赤ちゃん、たぶん捨てられたのだと思う。今病院の裏口に置かれているのを見つけたの」
「ええっ」
阿佐美は驚いて聡子の腕の中に抱かれている赤ん坊を覗き見た。見たところ生後間もないようだった。
赤ん坊の身体を包んでいる毛布は、薄い茶色がかった色で、一見見た限りではそれが元の色なのか汚れているのか区別がつかなかった。
「男の子かしら。女の子かしら」
「男の赤ちゃんみたいだけど」
「どうするの」
「とりあえず保護しなきゃ。まだへその緒がついているのよ」
聡子は慌てた様子で、赤ん坊を抱いたまま、暗い廊下を走っていった。生まれてくる命と捨てられた命が交差しているのだと思うと、阿佐美はやり切れない思いがした。
聡子が行ってしまってから、急に陣痛らしきものが阿佐美の身体を襲った。
亜紀の時と比べ、二度目のお産は楽だった。もちろん痛いことは痛かったが、一度目の時のようにいきんでもいきんでもなかなか出てこないということはなく、分ぺん台に上ったとたん、するりと生まれてきてくれた。その独特な感触が下半身を通り抜けるとすぐに産声が上がった。
「女の子ですよ」
若い助産婦が言った。阿佐美は目の前が真っ暗になった。
――女の子だった・・・。また女の子…。
産後の処置を終えると、医師は次のお産が待っているらしく慌しく部屋を出て行った。
「しばらく休んでいて下さいね」
助産婦も医師についで出て行き、部屋には阿佐美とたった今生まれ落ちたばかりの赤ん坊だけが残された。
阿佐美はまだ放心の中にいた。あんなに男の子を望んだのに。生まれてくるのは男の子だと信じていた。産着も寝具も新しく求めなくてはいけないものは、ブルーのものを買い揃えていた。何を根拠にと言われればそれまでだが、お腹の中にいるのは男の子のような気がしていた。
もしかしたら、間違いではないのかと横を見る。しかしそこに寝かされた赤ん坊は、やはり男の子にあるべきものを持ってはいなかった。
足音が聞こえ、聡子が入ってきた。
「阿佐美、おめでとう」
「聡子――」
「疲れたでしょう。でも母子共に元気で何よりね」
「ありがとう」
「かわいい。阿佐美にそっくりじゃない」
聡子は何か器具を片付けたりしながら、赤ん坊を覗き込む。
「聡子」
阿佐美は思わず聡子の腕をつかんだ。聡子がびっくりした顔を向ける。
「どうしたの?」
「お願いがあるの。この子を、この子を、あのさっきの赤ちゃんと取り替えてほしいの」
「えっ、どういうこと」
「お願い。私、どうしても男の子がほしいの」
「何言ってるの。そんなことできるわけないでしょう」
「お願い」
「バカ言わないでよ」
「あなたは私の頼みを断ることはできないはずじゃない?」
阿佐美はそう言った瞬間、そんな言葉が自分の口から出てきたことに驚いた。
一方聡子はとっさに阿佐美が言った意味を理解した。
この二人が疎遠になった理由は、実は環境が変わったせいだけではなかったのである。阿佐美の夫である信也と聡子は、過去に一度だけ男女の関係になったことがある。
四年前のあの夜、聡子は阿佐美の家に電話をした。阿佐美がその日当時お腹に入っていた亜紀の出産を控えて実家に帰っていることは知っていた。
「ちょっと信也さんに聞きたいことがあって」
確か、今度九州に旅行に行くのだが、信也さんは前に行ったことがあると聞いていたからおすすめの場所などがあれば教えてほしい――などとどうでもいいようなことを口実にしたのだった。
「ありがとう。参考になりました」
「いや、こんなことでよければいつでも聞いてよ」
「信也さん、阿佐美がいなくて、寂しいんじゃない?」
「いやあ、たまにはいいよ」
「じゃあせいせいしているってこと?」
「まあそんなとこかな」
「今の言葉、阿佐美に言っちゃおうかな」
「おいおい」
二人は受話器を通して軽口を叩き合った。
考えてみれば聡子が信也と直接話をしたのはこの時が初めてであった。当り前だが、信也と会う時はいつも阿佐美がいたし、二人で会話をするのは新鮮だった。
この時聡子は、長く付き合った彼と別れたばかりで、誰でもいいから男と話がしたいという心境だった。何もわざわざ親友の夫を選ばなくてもいいようなものだが、他に手ごろな男が見つからなかったのだ。学生時代ならともかく、社会に出て何年かたてば気軽に電話一つで付き合ってくれるような男友達もなかなかいなくなる。世間話の途中で声をつまらせてみせると、信也は心配した。
「今からそっちに行くよ」
その言葉を引き出しただけで聡子は満足だった。近所の居酒屋で二人で飲み、聡子の部屋に行った。
この夜信也はそのまま聡子の部屋に泊まった。
しかしその関係は、すぐに阿佐美に知られるところとなり終わった。何とこの時信也は、自宅から避妊具を一個持ち出してきたのだった。産後家に戻り、避妊具が足りないことに気付いた阿佐美に問い詰められ、あっさり白状したらしかった。
「阿佐美にばれちゃってさ、まいったよ」
信也から間延びした声でそれを告げられた時、聡子は震えた。阿佐美にどのように罵倒されるか恐ろしかったのだ。いつ阿佐美から怒りに満ちた声で電話がかかってくるか、いやもしかしたら半狂乱になった阿佐美が職場に乗り込んでくるかもしれない、と毎日生きた心地がしなかった。しかし意に反して阿佐美からは一切何も言ってはこなかったのだ。
聡子が持つ阿佐美に対する引け目は、この時の一件だけではなかった。
あれは二人が高校生の頃。阿佐美が付き合っていた二つ上の大学生に言い寄られるまま、聡子はその彼と関係をもった。彼のほうから近付いてきたとはいえ、結局聡子が阿佐美から彼を奪った形になった。
あの時も阿佐美は何も言ってこなかったはずだ。なにぶん若いときの話であり、それきりその大学生とはすぐに別れたし、この後も阿佐美と聡子は何事もなかったように付き合ってきたが、大人になってからはそういうわけにはいかない。
なぜいつも阿佐美のものを取ってしまう形になるのか、聡子は自分でもわからない。潜在意識のどこかに阿佐美のものを取ってやりたいと思う気持ちがあるのだろうか。
本当は阿佐美とはもう二度と会うつもりはなかった。引っ越した際もあえて連絡はしなかったし、それでよかった。だからこの病院で検診に来ていた阿佐美と会った時は心底驚いた。阿佐美が自分に気付かなければ無視しようと思ったが、阿佐美のほうから近寄ってきた。
「聡子じゃない。久しぶり!」
まるで何もなかったように。聡子は阿佐美が自分を許したのだと思った。でも今はっきりとわかった。阿佐美は聡子を許してなどいなかったのだ。現にこうして自分を脅迫しているではないか。
「聡子――」
「無理よ。絶対に無理」
「聡子にしか頼めないの」
「本気なの。阿佐美――」
「本気よ。早く!」
聡子は阿佐美の言葉にはじかれるように、そこにいる赤ん坊を抱きかかえ、部屋を飛び出した。
さっき保護した男の赤ん坊はとりあえず新生児室で寝かせている。今日はたまたま面倒なお産が重なり、なかなか医師の手が空かず、まだ診察を受けてはいない。赤ん坊の性別を知っているのは、今の段階では聡子だけだった。
阿佐美のお産を担当したあの若い助産婦は? あの子は素直だけど、少し鈍いところがあるからきっと気付いたとしても自分の勘違いかと思うくらいで深くは探らないはずだ。もしかしたら自分の担当したお産をいちいち覚えてはいないかもしれない。医師も阿佐美のあとすぐに他のお産にかかっているはず。赤ん坊がいなくなったのならともかく、取り違えてもきっと気付かないだろう。きっと。
聡子は阿佐美に指示された通り、新生児室に行き寝かせておいたさっきの赤ん坊と、阿佐美の生んだ赤ん坊をすりかえた。そして急いで阿佐美がいる分ぺん室に引き返し、その男の赤ん坊を阿佐美の横に寝かせる。深夜ということもあり、一連の動作は誰にも見られていない。
「これでいいのね。阿佐美の言う通りにしたわよ」
「ありがとう」
阿佐美は微笑んだ。これで自分は男の子を生んだことになった。
それにしても、聡子のことはとっくに自分で折り合いをつけたつもりだったのに、とっさにあんな言葉が出てくるなんて。どこかでまだふっきれてはいなかったということか。
聡子は子供の頃から阿佐美の持っているものを何でもほしがった。キャラクター付きの筆箱やノート。飾りが付いたヘアピンに新しい洋服。そういうものを見つけるたびに、「それどこで買ったの」「誰にもらったの」としつこく聞かれたものだ。とにかく聡子はいつも阿佐美と同じものを持ちたがった。
要は年を重ねてその対象が物から男に変わったということだ。腹が立たないと言えば嘘になるが、人が思うほど阿佐美は嫉妬に狂ったわけでもなかった。自分でも不思議だったが、仕方がないと思っていた。きっと男たちよりも聡子と過ごした月日のほうが長いということもあるのかもしれない。
寝息を立てていた赤ん坊がかすかに手を動かした。
今日この子を私は生んだのだ。阿佐美はそう自分に言い聞かせて静かに目を閉じた。
お姉ちゃん
翌朝、病室のテレビでは、病院の前に置き去りにされていた赤ん坊のニュースが流れていた。
「やだ、この病院じゃない」
「女の子だって」
「ひどいわね」
産婦たちは生んだばかりの赤ん坊に乳をやりながら顔をしかめた。
ここで生まれ出た命。そして捨てられていた命。自分たちが生み出した命というものがもつ、どうしようもない運命に彼女たちはそれぞれ複雑な思いを抱いたのだ。その中にいて阿佐美は、懸命に感情にフタをしようとしていた。はたから見れば他の産婦と同じように赤ん坊に乳を含ませるその表情は穏やかで、捨てられていたという赤ん坊が他でもない我が子であることなど忘れてしまったかのようだった。
店の開店前に、信也とりつ子が病院に来てくれた。りつ子は、家族の誰もがいまだかつて見たこともないような満面の笑みで阿佐美をねぎらった。
「阿佐美さん、よくやってくれたわ。ありがとうね」
信也と結婚して五年になるが、姑から「ありがとう」と言われたのはこれが初めてであった。亜紀との時とは大違いだ。男の子を生むというのはこういうことなのか。阿佐美は身をもってそれを知った。
この晴れがましさは理屈ではないのだ。
「やっぱりサルみたいだなあ」
信也はベッドに寝た赤ん坊を見て言った。
「何です。サルだなんて」
と、りつ子がたしなめる。
「あなたもね、二児の父親になったんだからもっとしっかりしなさい。自覚はあるんでしょうね」
「はいはい」
信也はりつ子に叱られていかにも居心地が悪そうに肩を揺らすと、一服してくると言ってそそくさと病室を出て行った。
信也は亜紀を生んだ時もそうだったが、妻である阿佐美に対して、「よく頑張った」とも「ありがとう」とも言わない。りつ子の陰に隠れるようにしてやってくるその姿は父親というより、親に連れられて来た息子そのものだった。高校を出てすぐ家の仕事を継いだ信也は、今までよそで働いた経験がない。そのせいか阿佐美からみてもどこか甘いところがある男だった。いつまでたってもりつ子の息子なのだ。
でも阿佐美はもうそんなことはどうでもよかった。りつ子に「ありがとう」と言われたことが何よりも誇らしく嬉しいことであった。
「亜紀ちゃん」
阿佐美は、その時初めて娘の存在に気付いたかのように言った。亜紀はみんなから少し離れたところに所在なげに立っていた。
「ほら亜紀ちゃん、あなたの弟よ。見てごらん」
阿佐美に促されて、亜紀はベッドを覗きこんだ。
「かわいいでしょう」
かわいいでしょうと言われても、亜紀にはとてもそうは思えなかった。
お父さんが言ったみたいに本当にサルみたいだ。赤くてシワシワの顔。絵本に出てくるような赤ちゃんじゃない。
「亜紀ちゃんはお姉ちゃんになったんだから、これからしっかりしてね」
「そうだよ、亜紀。もうお姉ちゃんなんだからね」
「弟をかわいがってあげてね」
亜紀はコクンとうなずいた。大人に何か言われればとにかくうなずくしかない。
今日亜紀は、久しぶりに母親に会えることが嬉しくて、心をはずませながらここに来た。お腹に赤ちゃんがいるからだめね、と言われてずっと抱っこもしてもらえなかったがじっと我慢していた。今日からはまたお母さんに抱っこしてもらえるのだ、と期待していたのだった。
だがこうして病院に来てみると、とても母親に抱っこをせがめるような雰囲気ではなかった。ここにいる誰もが亜紀のことは気にしていないように思えた。みんな赤ちゃんのことだけを見ている。
「じゃあまた来ますからね」
抱っこどころか母親と触れ合えもしないまま、亜紀は帰ることになった。病室を出る時にそっと振り向くと、母親はもうすでに亜紀のことなど見ていなかった。母親の目線はかたわらの赤ちゃんに注がれていた。
「お姉ちゃんになったのだからしっかりしなければいけない」
亜紀の素直な柔らかい心に、母親から言われた言葉が深く深く染み込んでいった。
りつ子は店の仕込みの時間にも慌しく病院にやってきた。
「明日にしようかと思ったんだけど、やっぱり顔が見たくてねえ」
「もう、お母さんの孫ができるのは初めてじゃないでしょう」
そう呆れた声で言ったのは、同行してきた千春だった。
「それはそうだけど、男の内孫というのは特別なもんだわねえ。ほうら、信也にそっくり」
「そう? あんまり似てないんじゃない」
千春の言葉に、阿佐美は心臓がえぐれたかのような衝撃を受けた。これから信也にも自分にも似ていない子が育つのだ。今はよくてもこの子が大きくなったら、隠し通せるだろうか。気付かれないだろうか。一度考え出すと限りなく不安が広がってくる。布にこぼしたコーヒーの染みのように。
「何言ってるの。目のあたりなんか信也の小さい頃にそっくりじゃないの。ほら」
「そうかしらねえ」
りつ子と千春は、阿佐美の心情など当然知る由もなく、新しく家族に加わった甥と孫の顔立ちのことについて、ああでもないこうでもないと言い合っている。
そこに聡子が入ってきた。いつものようにきりっとした雰囲気に白衣が似合う。
「このたびはおめでとうございます」
「こちらこそ嫁がお世話になりまして」
りつ子が丁寧に頭を下げる。
「赤川さん、今日は四時からマッサージの講習がありますからね」
「わかりました」
りつ子と千春の手前、敬語で答えながら阿佐美は聡子の目を見据えた。きっとわかりはしない。聡子さえ黙っていてくれればすべてがうまくいく。聡子さえ――。
阿佐美のその強い眼光に聡子はたじろぎ、めまいがしそうだった。
(誰にも言うわけないわ)
聡子は心の中で言い返した。そんなことをしたら自分はもう看護婦として働けなくなってしまう。このことは墓場までもっていくしかないと、とうに覚悟を決めていた。阿佐美に言われるまま、赤ちゃんを取り替えたあの時から。
「ねえねえ。看護婦さん。あの捨てられてた赤ちゃん、どうなったの」
千春が好奇心丸出しに聞く。
「今のところ、うちで保護しています」
「元気なの」
「はい」
「親はまだ名乗り出ないの」
「ええ・・・・」
聡子は困って阿佐美を見た。阿佐美は知らぬふりをしていた。
「ひどい親がいるものね」
「本当にねえ。生まれてすぐ親に捨てられるなんてかわいそうに。その点うちの孫ちゃんは幸せでしゅねえ。おうよしよし」
赤ん坊が泣き出して、りつ子がそれを抱き上げてあやす。聡子はいたたまれず礼をして病室を出た。
阿佐美の他人事のような表情が不思議であった。阿佐美の心の中は聡子にはわからなかった。わかっているのは、自分も共犯者になってしまったということだけだ。
初節句
男の子は龍平と名づけられた。
実際男の子を育ててみると、何もかもが亜紀の時とは違った。手足を動かしたり声を出したりと言った動作の一つ一つが女の子とは違う。ダイナミックで強い。そんなことも阿佐美には新鮮であった。
一方亜紀は、夜はぐっすりと寝てくれる赤ん坊だったが、龍平はいわゆるかんの強い子で、よく夜泣きをした。そのたびに阿佐美は布団から起きだして、母乳を与えたり抱いてあやしたりしなければならなかったが、一切苦には感じなかった。それはひとえに、義理の両親たちの態度が、亜紀の時とはだいぶ変わったせいであったと思う。
阿佐美たち家族と義理の両親が同居する家は、店の裏手にほぼ隣接するように建っていた。その家の内部を見ると、二世帯住居とは名ばかりで、実際はどの部屋も出入り自由であり、個人のプライバシーなどはほとんど問われない造りになっていた。そのため、赤ん坊が泣けば、義両親が休んでいる階下の和室には筒抜けであった。亜紀はほとんど夜泣きをしない赤ん坊だったが、それでも調子の悪い時などぐずぐずと泣いていつまでも寝ないことがあった。そんな時は、翌朝決まってりつ子に嫌味を言われたものだった。
「昨夜はいつまでも泣いていたわねえ。一体どうしたの」
「すみません。微熱があったみたいで」
「ほんとにねえ。うちでは昼間寝ていられるようないいご身分の人間はいないんだよ。みんな寝不足じゃ仕事に支障が出るねえ」
「すみません」
阿佐美が恐縮して謝るそばで、信也は聞こえているのかいないのか、いたとしても自分には関係がないと思っているのか、平然と味噌汁をすすっている。
舅の史郎は言葉で文句を言うことはなかったが、その代わりに、誰が見ても機嫌が悪いとひと目でわかるような顔で新聞をめくるのだった。
「ああ、眠い眠い」
りつ子は大げさにあくびをしたりしてみせる、
そう言われてもどうしろというのだろう。ごくたまに亜紀が泣き止まない夜には、阿佐美は亜紀を抱いてあやしながら、今階下で義理の両親が怒っているのではないかといたたまれず、泣きたくなったものだった。
それが今回は龍平がどんなに夜泣きをしても、舅も姑も嫌な顔一つしないのであった。嫌な顔どころか、史郎などは、龍平が身体をのけぞらせて泣くのを、
「おう泣け泣け。もっとどんどん泣け。男は元気な方がいいんだ」
決まってそんなふうに言うのだった。
龍平が来てからはどことなく家の中の空気が違う。それは明らかだった。
これがもし、自分の生んだあの女の子を連れてきていたらどうだっただろうと、阿佐美はふと思う時がある。きっとこんなふうにはいかなかったはずだ。
人間は皆平等だ、男だとか女だとかそんなことは関係がないという人がいる。でもそれはあまり正確ではないと阿佐美は思う。阿佐美には男と女のどちらがえらいのか、などということはわからない。ただこの家には男の子が必要だったのだということだ。
日本人の考え方の中に「家督を継ぐ」という価値観が完全に消滅しない限り、男でも女でもいいというのは詭弁でしかない。これからもずっと店を営んで生計を立てていかなければならない赤川のような家では、世間の価値観がどう変わろうと店を継ぐ人間が必要であり、それはどうしようもない事実なのだから。
現に龍平という孫をこの家に連れてきたことで、舅や姑も嫁である阿佐美を尊重してくれるようになったのだ。阿佐美は亜紀を生んでもこの家の中で自分一人が他人だという感覚は消えなかった。
しかし今は違う。ようやくこの家の人たちに家族として受け入れてもらった気がする。すべて龍平のおかげであった。
やがて秋と冬が過ぎ、龍平の初節句の季節がやってきた。
ある週末の午後、りつ子は珍しくデパートに行くと言って店を離れた。そして午後からの営業時間間近になってようやく帰ってきた。
「おふくろ、今まで何してたんだよ。この忙しい時にさあ」
一人で仕込みに終われていた信也が不満げに言う。
「文句言うんじゃないよ。龍平のために買い物してきたんだからね」
「全く、おかげでこっちは荷物持ちに使われてたまったものじゃないわよ」
どうやら千春も同行していたらしく、その手に大きな荷物を抱えている。
「それくらいいいじゃないの。あんたのとこにだってちゃんと買ってあげたんだから」
「でもさあ、ずいぶん差をつけてくれるじゃない。これどう見てもうちの子たちの時より立派ですけど」
「あら、そうかねえ」
りつ子はすっとぼけるように高い声で言った。どうやらりつ子は、千春を荷物持ちに伴って、デパートで鯉のぼりを買ってきたらしかった。
「お母さんたら、お店で一番高いのを出せなんて言って。みんなどこの奥様かみたいに見てたわよ。もう恥ずかしいんだから」
「だってどうせ買うなら一番いいのがいいと思ってね。奮発しちゃったよ。そうそう、五月人形もいいのが見つかってね」
「人形も買ったのか」
信也が呆れた声を出した。
「そうですよ。言っとくけど、誰に文句を言われることはありませんよ。私は龍平のために、自分のお金で買ってきたんですからね」
「別に文句なんて言ってないだろ。だけど無理して持ち帰ってこなくても、あとで届けてもらえばよかったじゃないか。そしたらこんなに時間だってかからないだろう」
「私もそう言ったんだけどね」
「配達なんてそんなまだるっこしいこと待ってられますか。もう買ったとなったらいっときも早く揚げてやりたいじゃないの」
りつ子はまるで何年かぶりに自分の服でも新調してきたかのような浮かれ方だった。いや、そうだとしてもこんなに浮かれることはないかもしれない。
自宅の庭に鯉のぼりを掲げるということは、外に向かって「うちには男の子供がいますよ」という主張をすることだとりつ子は認識していた。これほど誇らしいことがあるだろうか。
そうして赤川家の居間にはガラスケースに入った五月人形が飾られ、りつ子の指揮のもと、庭には七匹の鯉のぼりが風になびくこととなった。
「うちに鯉のぼりが揚がるのは何年ぶりだろうねえ」
「俺が中学に入る頃にはもうこういうの、しなくなったもんな」
家族が和やかに笑いながら鯉のぼりを見上げている中で、複雑な気持ちでいる人間が一人だけいた。
それは他ならぬ亜紀であった。この家には亜紀のための雛人形はなかったのである。
伯母の千春が生まれた時に買った雛人形は、千春が結婚した際に嫁入り道具として持っていき、その後、亜紀が生まれても新しい雛人形が赤川家にやって来ることはなかった。
亜紀は今の今まで自分が雛人形を持っていないことに何の感情も抱いてはいなかった。ただ、弟のためにこうして鯉のぼりと五月人形が飾られるのを見ているうちに、初めて疑問がわいてきたのである。
「ねえ、どうしてうちには亜紀ちゃんのお雛様はないの」
亜紀がそう口に出したのも無理からぬことであった。たった五才の幼子にとっては、弟のものはあるのに、なぜ自分のものはないのだろうかと、ただただ不思議に思えたのだった。
「亜紀ちゃんのお祝いも、五月に一緒にやればいいね」
りつ子が言った。
「でもお雛祭りは三月だよ」
「五月五日はこどもの日だから、男の子も女の子も一緒なんだよ」
「でも女の子のお祝いは三月三日なんだよ」
「亜紀、いい加減にしなさい!」
阿佐美は娘を叱った。亜紀がぐずぐず言い出すことで、りつ子の機嫌を損ねたくなかったのである。
亜紀は母親のにらみつける顔が恐ろしくて黙ったが、なぜ自分のお雛様がないのかという理由は全くわからなかった。もしかしたらその理由は、亜紀だけでなくこの家の大人たちの誰にもわからないことだったのかもしれない。いえるのは、この家には亜紀の感情について気を配ってくれる大人はただの一人もいない、ということだけであった。
「なあ、亜紀にも雛人形買ってやった方がいいんじゃないか」
夜になって、二階の寝室に引き上げると信也が言った。
「どうしたの。急にそんなこと」
「いや、昼間、亜紀が何だか自分もほしいみたいなこと言ってたからさ」
「いいでしょう、そんな――」
りつ子が買おうとしないものを、わざわざ自分たちが買ってくることもないだろうと阿佐美は思った。
それこそりつ子に何と言えばいいのか。
それに、阿佐美自身もこれまで雛人形を持ったことはなかったのである。姉妹二人がいるにも関わらず、実家では雛人形などはなかったし、ひな祭りのお祝いも特にしてもらった記憶はない。無論、昔のことであるので、クラスの中には阿佐美の他にも雛人形を持っていない友達もいたし、さほどそのことを意識したこともなかった。子供心にも、そんなものだろうと思っていたと思う。
ただ一つ覚えていることがある。あれは小学校の低学年の頃だった。友達の家に遊びに行き、五段飾りの雛人形を見せられて、阿佐美は、
「うちは七段のだよ」
とつい嘘を言った。
「じゃあ今度阿佐美ちゃんちに見に行ってもいい?」
阿佐美は、内心後悔で泣きたくなりながら、
「いいよ」
と答えるしかなかった。結局その友達が家に来たことで、嘘はすぐにばれてしまった。それからしばらくは学校に行くのが針のむしろであった。
この記憶の破片が、あれから二十年以上たった今も阿佐美の頭にこびりついている。
どうしてあの時、あんな嘘をついてしまったのかわからない。やはり心の奥ではお雛様がほしいと思っていたということであろうか。そもそもなぜ阿佐美の実家には雛人形がなかったのだろう。決して裕福といえる家ではなかったが、雛人形がどうやっても買えないほど経済状態が悪かったとも思えない。
そういえばいつだったか、母親がテレビからしつこく流れる雛人形のコマーシャルを見ながら「あたし、こういうの大嫌いだよ」と独り言のように言ったのを耳にしたことがある。その口調はひどく悪意に満ちていた。なぜ母親は雛人形を毛嫌いしたのだろう。
いや、それよりも――阿佐美は今改めて思った。なぜ自分は亜紀が生まれた時に、雛人形を買ってあげようとは思わなかったのだろう。
「じゃあ、買わなくてもいいんだな」
「別にいいでしょう」
「あとでやっぱり買うなんて言うなよ」
信也は布団の中にもぐりこんだ。この信也という男は、妻に「別にいいでしょう」と言われても「いや、買ってやったほうがいい」と主張するような父親では全くなかった。阿佐美がいいというならいいのだろうと、それきり自分がそう言ったことさえ忘れてしまうに違いない。言い方をかえれば、そういう才能をもっている男であった。
この日以来、亜紀はお雛様のことは決して口には出さなかった。周りの大人たちが思ったように、弟の龍平と一緒に五月にお祝いすればいいという理屈を納得したからではない。あきらめたのだった。
弟が生まれてからというもの、亜紀はいつも寂しかった。毎年三月近くになると、幼稚園や学校の玄関に雛人形が飾られた。亜紀は何かというとそこに行って、時間が許す限りその年代物の雛人形に見入った。ここにあるものは誰のものでもない。見るのは自由なのだから、これでいい。もう二度と自分だけの雛人形をほしいなんて思ってはいけないのだ。と亜紀は自分に言い聞かせた。
自分のことを弟と同様に扱ってほしいと思うことは贅沢なのだとも思った。なぜかはわからない。でもあの家では自分よりも明らかに弟のほうが優遇されている。それは本当なのだった。
いつか亜紀は、自分自身でその事実を受け入れるようになっていた。
訪問
二十分は待たされただろうか。本気でもう帰ったほうがいいのではないかと、腰を上げかけたところにようやくトレイを持った阿佐美がやってきた。
「ごめんなさいね。何だかバタバタしちゃって」
目の前に紅茶と、聡子が手土産にと持ってきたコージーコーナーのショートケーキが出された。
「忙しい時間に来ちゃってごめんなさい」
「そんなことないの。お店のほうがどうしてもね」
阿佐美は忙しいふりをした。別にお茶を出すくらいやろうと思えばすぐにできたのだが、何だかそれもしゃくな気がして、台所でウロウロしていたのだとは言えなかった。
聡子にしてもあんなことがなければ、二度と訪問するはずのなかった家だった。しかしどうしてもこのまま阿佐美と会わずに済ませることはできなかった。
二人はそれぞれの紅茶に好みの分量の砂糖を入れ、それを黙って飲んだ。
阿佐美とこんなふうに向かい合ってお茶を飲むのは何年ぶりだろう。
阿佐美のかたわらで歩けるようになったばかりの男の子が車の玩具で遊んでいる。その子に聡子が視線を送るたびに、阿佐美の目が鋭く光るのがわかる。聡子は自分が歓迎されていない訪問者であることをひしひしと感じずにはいられなかった。
「これ、遅くなったけど」
聡子は一歳児用の服と靴下を詰め合わせた化粧箱を差し出した。実はずいぶん前に阿佐美の出産祝いにとベビー服を買っていたのだったが、今までなかなかここに足を運べないでいるうちに時期を逃してしまったのだ。そのため、昨日慌ててデパートに行き買い直したのであった。
「今さらで申し訳ないんだけど」
「わざわざよかったのに」
「大きくなったわね。えっと――」
「龍平っていうの」
「そう、龍ちゃんね」
「子供の成長はもうあっという間よ」
「それでね、あの女の子のことだけど――」
聡子はカップを置いてそう切り出した。阿佐美は黙ったままずっとお茶を飲み続けている。無表情だ。
「阿佐美、気にしているんじゃないかと思って」
阿佐美は何も答えないが、聡子はかまわず続ける。
「あれから乳児院に預けられて、今もそこにいるはずよ」
「そう。そりゃあそうでしょうね」
「そりゃあそうって、何よ、それ。それだけなの?」
思わず気色ばむ聡子に、
「だって捨て子が施設に預けられるのは当り前じゃないの。誰でもわかることだわ」
阿佐美は平然と言い放つ。
「捨て子って、あなたね――」
他人事みたいに言うんじゃないわよ、と怒鳴りそうになるのを聡子はやっとの思いで飲みくだく。
「どこの施設にいるかも、私は知ってるのよ」
「そう。で、それがどうしたの? まさかその施設の場所を、私に教えてあげようとか言うんじゃないわよね」
「阿佐美・・・」
「そんなこと、聡子が気にしてくれなくていいのよ」
実際阿佐美は、龍平を育ててきたこの一年間、自分が生んだ女の子のことを思い出すことはあまりなかったのである。生活していくということはそういうものである。時折心を横切ることはあっても、そのことにひどくとらわれたりはしない。阿佐美にとっては目の前にいる隆平がすべてであった。
阿佐美は不機嫌そうではあるが、特に周囲を気にしているようなそぶりはない。ということは、ここでの話が家人の誰かに聞かれる心配はとりあえずないのだろう。と判断して聡子は続けた。
「正直に言うわね。私はあれからずっと後悔しているの。人としていけないことをしたのじゃないかって」
「だから聡子が気にすることじゃないって」
「よく割り切れるのね」
「そうしなければいけないでしょう」
「悪いけど私には理解できない」
そうでしょうね。阿佐美は冷ややかに思う。自分の性を親にそのまま受けいれてもらい、歓迎された人にはわかるはずがないのだ。生まれ変わってもまた女に生まれてきたい、などと言う人を阿佐美は憎らしく感じる。何て幸せな人なのだろうと妬ましいのだ。
阿佐美は、今度もし人生がやり直せるならば絶対に男がいい。女として生まれてよかったことなど何一つなかった。今度こそ否定されずに、のびのびと生きてみたい。
「ねえ、阿佐美。どうしてあんなことしたの」
「男の子がほしかったの」
「自分の子供でしょう。男の子も女の子も関係ないじゃない」
「聡子にはわからないことよ」
聡子は思わず言葉につまった。阿佐美はいかにもかよわそうに見えるくせに芯は強い。こういう女のほうが本当は強いのだと聡子はつくづく思う。自分みたいに、いつも強がっているような女のほうがかえってもろいのだ。
阿佐美の心の底はいつもわからない。昔からそうだった。高校の頃のことも、信也とのことも、勝手なことをいうようだが、泣いて怒ってくれたほうがどんなによかったか。そうしてくれたらこっちも出ていきようがあるというものだ。ただただ黙っていられるというのは、ひどく恐ろしいものがある。
「聡子。あなた結婚しないの」
阿佐美は話題を変えた。
「私は結婚しないわ。たぶん」
「どうして。もったいない。信也に頼んでみようか。独身のお友達が何人かいるかもしれないし」
「やめてよ。興味がないの」
まんざら嘘でもなかった。もちろん男が嫌いというわけではないが、家庭を構築したり子供を生んだりすることに聡子はあまり心が動かないのであった。
「一生独りでいるつもりなの? 聡子」
「そうはっきり決めているわけじゃないけど。もしかしたらそうなるかもしれないわね」
「それじゃあ、将来が寂しいでしょう」
「そんなの、結婚していても同じでしょう。夫のほうが先に死ぬかもしれないんだし」
「子供がいるじゃない」
「私は一人が気楽でいいの」
「若いうちはいいけれど、年取ったら大変よ。いろいろと」
「まあ、私のことはいいわよ」
聡子はさえぎった。ここで阿佐美とお互いの結婚観を語り合うつもりはさらさらなかった。
「阿佐美。はっきり言うけど、自分の生んだ子を施設にやってしまって、他人の子を育てて、あなた本当に幸せなの」
「もちろん。自分でそうしたんだから」
「でも、信也さんに本当のことが知れちゃったらどうするの。血液型だって――」
「それは大丈夫だったの」
聡子に言われるまでもなく、龍平の血液型のことは、阿佐美が一番心配していたことであった。
できるなら、一生血液型などわからないままでいればいいとさえ思った。それが先日、龍平が熱を出して病院に連れて行った際、医師から検査を勧められ、思い切って調べてみることにしたのである。
もし不都合な結果であれば、信也には黙っていればいいのだと阿佐美は腹を決めていた。
龍平はA型であった。阿佐美がA型、信也がO型だからこれで心配はなくなった。これで今の阿佐美には何も怖いものはなかったのである。
「とにかく、もうあのことを口にするのはこれきりにしてちょうだいね」
「阿佐美・・・」
「あなただって思い出すのは嫌でしょう」
「そうだけど・・・」
ドアが開いて信也が顔を出した。
「いやあ、どうも」
「おじゃましています」
「久しぶりだねえ」
阿佐美は、一瞬信也と聡子の二人の目線が絡まったのを見咎めた。それでも何とも思わなかった。
勝手にすればいい。私にはこの子がいるもの。子供を生んだこともない女に、何やかやと言われたくはない。
赤川家を出てから、聡子はある場所に向かって車を走らせた。
「エコールノワール乳児院」。郊外に建つこの施設に、阿佐美の生んだ娘が暮らしている。
娘は自治体の長によって、友恵と名付けられていた。実親に養育放棄された子供は、保護された日から二週間以内に戸籍法に基づいて、市長なり区長なりが命名することになっている。この権利を与えられた権力者は、親に捨てられた幸薄い子供にせめて友達には恵まれてほしいと願いをこめたのだろうか。
聡子は友恵に会いたかった。会ってどうなるというものではないのはわかっていたが、自分の行動を止められなかった。
聡子が自分の素性を明かすと、施設の責任者であるという年配の女性は表情を緩めた。
「そうですか。あなたがあの子を保護して下さった看護婦さん」
「突然申し訳ありません。どうしても気になってしまって」
「友恵ちゃんのような子にとっては、あなたのように気にかけてくれる人がいるというだけでもとても幸せなことですよ」
ほらあの子がそうです、と言われて視線を移すと、髪の毛を二つに結わえた女の子がそこにいた。
あの子が――。
世の中には、我が子を育てられないどうにもならない事情を抱えた親もいることだろう。それを責めようとは思わない。だが、阿佐美のことは聡子にはどう譲歩しても納得がいくものではなかった。きちんと養育のできる親がいるのに、あまりにも理不尽な理由で捨てられた子。
女の子が自分のことをじっと見ている聡子に気付き、不思議そうな顔をした。聡子が笑いかけると、にっこりと笑い返す。聡子は罪悪感で狂いそうになった。
帰り道。ほとんどすれ違う車のない道を都心部に向かって進みながら、聡子は痛いほど唇をかんだ。
十八歳
――絶対におかしい。
制服のスカートの裾が急にゆらめいたかと思うと、奈津子のそばを小さな男の子がサッと走り抜けていった。そのあとを慌てて母親らしい女性が、子供の名前を呼びながら追っていく。
あれでいくつくらいなのだろう。奈津子には見当もつかないことであった。
手にぶら下げている荷物が重い。冗談じゃなく腕がちぎれてしまいそうだ。瓶入りの醤油を二本買ったりするんじゃなかった。
奈津子は一旦立ち止まり、今買い物してきたばかりのスーパーの袋を持ち換えると、また改めて歩き出した。
気がつくとまたあの疑問に頭の中が支配されている。あの衝撃的な出来事を経験した日以来、何度も何度も考えてきたことであった。小さな男の子を見かけるたびにどうしても思い出してしまう。
あの日。奈津子がたった一人で生み落とした赤ん坊は男の子であった。それは間違いがない。いや、間違えようがなかった。しかしその後見たニュースでは、永井産婦人科に置き去りにされていた赤ん坊は、女の子だと報じていた。
一体どういうことなのか。奈津子には何が起きたのかわかるはずもなかった。
道で何度も学校帰りの女子高生たちとすれ違う。今日は金曜日だ。きっとこれから連れ立って街に遊びに行くのだろう。キャッキャッと小鳥のようにさえずりながら踊るみたいにして通り過ぎて行く。
かたや奈津子は、重いスーパーの袋を引きずるようにして歩いている。
奈津子はもう長いこと自分も彼女らと同じ年頃であるということを忘れてしまったような気がしている。その証拠に、奈津子はもう彼女たちを見てもうらやましいだの、なんで自分だけがだの、そういった類のことを全く感じなくなった。あの子たちと自分は、生きて立っている場所がはなから違うのだ。それを認めて受け入れて生きていくしかないのである。
――そうそう。
奈津子はいつもそうするように、適当に作った歌を自分だけに聞こえるくらいの音で歌いながら道を急いだ。
自宅に続く角を曲がると、家の前に人が集まっている。近所のおばさんたちだ。奈津子は慌てて駆け寄った。
「あらお帰り。奈津ちゃん」
顔見知りの主婦が真っ先に奈津子に気付く。
「またお兄さん、何だか騒いでいるみたいなのよ」
家の中から奇声が聞こえてくる。兄の実の声だ。
「すみません。今落ち着かせます」
奈津子は慌てて、袋を下に置き、玄関に鍵を差し込んだ。
「ほんとに大変ねえ。奈津ちゃん一人で。何かあったらおばちゃんに言いなさいね」
「はい」
「いつでもいいからね」
内心では迷惑だと思っているくせに――。奈津子は心の中で舌打ちをする。
しかしこのおばさんのように、何でもいいから話しかけてくるのはまだましなほうだ。あからさまに汚いものでも見るような顔で、黙ったままこっちをさぐるように見ている人もいる。
奈津子はすぐ二階に上がった。部屋で兄の実が暴れている。奇声を上げてわめきながら壁を叩き、服という服を撒き散らかしている。
「お兄ちゃん!」
奈津子は買ってきた菓子パンを兄に向かって差し出した。実は、妹がよこしたチョコレート入りのメロンパンをひったくるように取り上げると、外袋を引きちぎるように開け、がつがつと食べ始めた。
「ごめんね。遅くなって。すぐごはんにするね」
実はパンを食べ終わってようやく落ち着いたのか、カーペットの上にごろりと横になった。空腹がひどくなるといつもこんなふうになる。
奈津子はこっちの方が横になりたいくらいだわ、と思いながら、実をそこに残し、階下に下りていった。
どんなに疲れていても、兄と一緒になって寝転んでいるわけにはいかない。食事の用意が待っている。
奈津子の兄、実は生まれつき知的障害を持っていた。奈津子がもの心ついた時には、もうすでに今のようにわけのわからない奇声をあげたりしていた。
そんな兄と父、奈津子を残し母親が家を出て行ったのは、奈津子が小学五年生の時であった。
親戚の中には、おまえの母親は男を作って出て行ったのだ、とかいう話をわざわざ奈津子に話して聞かせる輩もいたのだが、そのへんの事情は奈津子には何もわからない。とにかく母親が姿を消して以来、この家のことは、金銭管理から日常の家事全般におけるまですべてを娘の奈津子が仕切らざるを得なくなったということだけが事実であった。
夕食用にと買って来た鮭の切り身が焼き上がったところで、玄関が乱暴に開く音がした。この家の父親である悦郎だ。
「おい金はねえか」
また酒の匂いがする。奈津子が黙っていると、
「金はねえのか」
もう一度同じことを言う。金はねえか、というのが悦郎にとっては挨拶代わりになっているようである。
おそらくこの父親も少し知能に障害があるのではないだろうか。子供の頃はわからなかったが、奈津子はそう確信している。そうでもなければ病気の息子の世話一切を高校生の娘にまかせきりにし、自分はろくに働きもせず、家にある金をすべて酒に使ってしまうことなどできるものだろうか。きちんと検査をすればきっとどこか異常があるはずだ。奈津子はひそかにそう思っていた。
これが奈津子の家庭であった。こんな家でどうやって子供を生み育てることができるというのだろうか。奈津子が自分のお腹に小さな命が宿ったらしいことを知ったのは、高二の夏だった。病院になど行かなくても自分の身体の変化はすぐにわかった。もちろん思い当たることもあった。
相手はフリーターをしていた修司という、一つ年上の男の子だった。奈津子が妊娠の可能性を告げると、別段慌てる様子もなく、マンガ雑誌をめくりながら
「ふうん」
とだけ言った。きっとこの男は、たった今大地震が起きて日本が沈没しそうになってもこうしてマンガを見続けるに違いない。奈津子は壁に寄りかかったまま、少しだけ修司の次の言葉を待った。
「で、どうすんの?」
それは、これから映画に行くかそれともラーメンを食べにいくかと聞いているような言い方だった。いずれにしてもどうするのかは奈津子が決めなければいけないようだった。
「おろすしかないよね」
奈津子はできるだけ気安く聞こえるように言った。
「うん」
「やっぱりそうだよね」
「当り前じゃん」
奈津子はすぐに悟った。この男には何も頼ることはできない。どうやらこの問題も奈津子一人で対処しなければいけないようだ。
しかし、実際病院に行って処置をするというわけにはいかなかった。第一にお金がなかった。日々の食費でさえ事欠くことがあるというのに、そんなまとまったお金がどこにあるのか。
妊娠したからといって、お金がどこからか急に湧いて来るわけではないのである。日々ふくらんでくるお腹を奈津子はどうすることもできなかった。
娘の身体の変化に、父親が気付きもしないのは当然だったが、不思議なことに学校でも誰にも気付かれることはなかった。
そしてあの日の夜。自宅でそれまで経験したことのない痛みが奈津子を襲った。陣痛であった。腰をドリルで打ち砕かれているかのような痛み。
数時間後、奈津子は家の風呂場で赤ん坊を生んだ。どうにかしなければいけない。
奈津子は必死で処置を済ませ、その辺にあった毛布に赤ん坊をくるみ、家を出た。下腹部の鈍痛がひどかったがそんなことにかまってはいられなかった。
途中公衆電話が目に入るたびに、誰彼かまわず電話をして「どうしよう」とわめくことができたらどんなにいいだろうと思ったが、その気持ちを殺しながら早足で歩いた。
いつも行くスーパーの少し先に、永井産婦人科という病院があるのを知っていた。入り口を通り過ぎ、駐車場を抜けて裏口に回る。ドアの前に毛布ごと置いたものの、そのまますぐにその場を離れることが奈津子にはどうしてもできなかった。
こんなところに置き去りにして、誰にも気付かれずに死んでしまったらどうしよう。
そう思うと、自分のしようとしている行為と矛盾するのはわかっていても、奈津子はひどく心配になったのだ。しばらく車の陰に隠れたまま様子を伺っていると、ひょろりとした体型の看護婦さんが中から出てきて、奈津子の置いた赤ん坊を抱き上げた。あのライトに照らされた看護婦さんの顔を奈津子は今もはっきりと思い出せる。
男の子だったはずのあの子が、どうして女の子ということになってしまったのか、奈津子にはどうにもわからないことであった。しかし名乗り出て確かめるわけにもいかない。
「なあ、奈津子よ」
急に酒臭い息が奈津子の顔にかかった。
「金はどうした」
「もうないよ」
「そんなはずねえよう。昨日はちゃんとあったんだから」
「買い物したんだから、もうお金はないんだよ」
「ちくしょう」
悦郎はしばらくブツブツと文句を言っていたが、一年中出しっ放しのコタツに入って寝てしまった。あとは兄に夕食を食べさせてから、近くのカラオケ屋にアルバイトに出かけなければならない。
あと少しだ。奈津子は汚れた鍋をこすりながら自分に誓う。今、安易に高校をやめたりはしない。地方公務員の試験を受け、卒業したら自分は公務員の職に就く。それしかここから抜け出す方法はない。この貧困から。家庭という地獄から。
こんな暮らしの中で、自分の生んだ子の性別がなぜ違ってしまったのかという疑問を突き詰める時間や術も奈津子にはなかったのである。その謎が解けるのはもう少し先のことになるのであった。
事故
「お姉ちゃん。遊ぼ」
学校から帰ると、龍平が待ちかねたように亜紀にまとわりついてくる。できれば亜紀は友達と一緒の時は龍平をつれて行きたくはなかったが、そんな時、母親の阿佐美は必ず、
「亜紀。龍ちゃんもつれて行ってあげなさいね」
と言うのだった。阿佐美にそう言われると、亜紀はどうしても「はい」と返事をするしかできなくなってしまう。
「ちょっと待っててね」
亜紀は机の上にランドセルをおろし、教科書を取り出しながら、――今日はみゆきちゃんたちと遊ぶ約束があるのにな。と思った。
龍平をつれていけば、友達からは、
「今日も弟つれて来たの?」
「おいてきたら?」
また迷惑そうに言われるに決まっている。そう思うと亜紀は少しばかり気が重くなった。大体いつもいつも弟連れで遊んでいる子なんて亜紀くらいのものだ。
「お姉ちゃん。早く行こ」
龍平がじれたように言う。
「うん、今行くよ」
亜紀は気の重さを無理に振り切ることにした。龍平に罪はないのだ。たとえ、龍平が生まれたことによって母親の愛情を取られてしまったのだとしても、いつも自分ばかりが怒られるようになったとしても、弟のことは素直にかわいかった。
そういえば外がずいぶん寒くなってきていた。亜紀は引き出しから赤いマフラーを取り出し、龍平を連れて外に出た。
「お姉ちゃん。どこに行くの」
「学校。校庭でね、遊ぶの」
「やったあ。ジャングルジム、ジャングルジム」
龍平がスキップを始める。龍平は小学校の校庭にある遊具で遊ぶのが大好きであった。しかし五才の龍平には楽しくても、小学生の亜紀たちは三十分も遊べばもう飽きてしまう。亜紀と友達は、少し遠くの公園まで足を伸ばそうということになった。
「龍ちゃんはもう帰りな」
「やだ、龍ちゃんも一緒に行く」
「じゃあお母さんに聞いてからね」
亜紀は友達に先に行っていてもらい、龍平をつれて一度家に戻ることにした。
「花ふじ」では、午後からの営業に備え、仕込みの真っ最中であった。龍平がいないうちにと阿佐美も準備を手伝っていた。入り口が開き、亜紀が顔を出した。
「ねえ、お母さん、龍ちゃんと広い公園に行ってもいい?」
「いいけど気をつけてね」
「はーい」
それから五分もたたないうちのことである。外に買出しに出ていた従業員がすごい勢いで店に飛び込んできた。
「大変です!そこで龍ちゃんが事故に――」
阿佐美は最後まで聞かないうちに、持っていた布巾を投げ出して外に飛び出していた。
道に人だかりができている。そこに子供が横たわっているのが見えた。龍平だ。
「龍ちゃん!龍ちゃん!」
阿佐美は大声で叫びながら駆け寄った。
「龍ちゃん!」
何と龍平はびっくりしたように目をぱっちりと開けていた。そして阿佐美の顔を見た瞬間大声で泣き出した。よかった、生きている! 阿佐美は思わず龍平に覆いかぶさるようにその小さな身体を抱きしめた。でもどうしてこんなことに――。
「ちょっとかすっただけみたいだから大丈夫だと思うけど、一応動かさない方がいいよ。今救急車を呼んだから」
向かいの八百屋のおじさんが興奮しながら言う。
「はい、ありがとうございます」
阿佐美は頭を下げた。かすっただけ、という言葉に少しほっとしたがまだ安心はできない。
ああ、龍平。隆平が事故に遭うなんて――。かわいそうな龍平。この時阿佐美は少し離れたところに脅えた顔で立っている亜紀のことには全く気が回らなかった。
龍平はすぐに病院に運ばれた。医師の診察によると、やはり傷は大したことはなく、念のため一日入院して検査をしてみて、問題がなければ明日には退院していいとのことであった。病院に着いてからずっと泣き叫んでいた龍平もやっと落ち着いて眠っている。
阿佐美はベッドの横の椅子に座り、やっと人心地がついた思いがした。よかった。命に別状がなくて本当によかった。
「じゃあ、あとは阿佐美さんに任せて、私たちは店に戻ろうかね」
りつ子が信也を促すように言った。孫が事故に遭ったと聞いた時には、心底驚き、我を忘れて病院までやって来たりつ子だが、とりあえず心配がないとわかるとやはり店のことが気にかかる。もうとっくに午後の営業時間を過ぎている。従業員たちだけではさぞあたふたしていることだろう。
「そうだな。夜にまた来るよ」
「お義母さん、ご迷惑おかけしてすみません」
姑と夫を見送るために、後ろを振り向いたところで、阿佐美はようやくそこにいる娘の存在に気付いた。入り口の横に亜紀がこちらをうかがうような目をして立っている。
阿佐美は椅子から立ち上がり、亜紀に近付いていった。亜紀が何かを言おうとして口を開きかけたが、阿佐美はそれをさえぎるように、思い切り亜紀の頬を打った。
「あんたのせいだ!」
何が起きたのか。亜紀はとっさに頬を押さえたが、痛みは感じなかった。それよりも胸の中で何かが破壊されていく痛みのほうが強かった。ごめんなさい、と言おうとしたが、口が金魚のようにパクパクするだけで、どうしても声にはならなかった。
「あんたが龍ちゃんを連れていったんでしょ!」
阿佐美は叫びながらもう一度亜紀の頬を叩いた。
「あんたがついていて、何をしていたの!この役立たず!」
「おい、阿佐美。やめろって」
信也が止めなければ、阿佐美はもう一度亜紀を殴っていたであろう。龍平と自分にこんな思いをさせた娘が憎かった。
「あんたが事故にあえばよかったのに」
最後の最後に阿佐美に投げつけられた言葉に、亜紀の中で破壊していた何かが凍りついたのがわかった。亜紀は思わず病室を飛び出した。隆平の事故の責任は自分にあることを、亜紀はちゃんと認識していた。だからこそ怖くて怖くてたまらなかったけれど、必死で病院にもついてきたのだ。
阿佐美が自分のことを振り返ったあの時、
「亜紀ちゃん、びっくりしたでしょう。もう大丈夫だから安心して帰りなさい」
そんなふうに優しく声をかけられるのだと、一瞬でも思った自分自身がひどく腹立たしく思える。
亜紀は道を走りながら考える。
いくら自分のせいだといってもあそこまで怒られることを私はしたのだろうか。それがどうしても亜紀にはわからなかった。
曲がり道で、龍平がつないでいた手を振り切って走っていった。亜紀は慌てて追いかけたが、向こうから車が走ってきて――。やっぱり自分がいけないのだ。今になって亜紀の目から涙がこぼれ落ちた。今の今まで泣くことさえ忘れていた。
ちょうど亜紀が立ち止まった先にバス停があり、そこにバスが止まった。亜紀はそのまま吸い込まれるようにそのバスに乗りこんだ。別に目的があるわけではなかった。でも以前から亜紀は漠然とだが、道でバスを見かけるたびに、あれに乗って終点まで行ってみたいと考えることが度々あったのである。終点まで行ってどうするというわけでもなかったが、とにかくどこか遠くに行ってみたいと願う癖のある子供であった。
亜紀は座席に座り、ポケットから財布を出して中身を確かめてみた。龍平をつれて家を出た時に、友達と駄菓子屋に寄るつもりで持ってきたものだから、当り前だが小銭しか入っていない。これで終点まで行けるのだろうか。とにかくこれで行けるところまで行ってみよう。と亜紀は腹を決め、窓の外を見た。
通りすぎる景色が見たことのある場所からだんだん見たこともない場所へと変わっていく。いつもなら心細く感じるところだが、今日の亜紀はそれを少しも怖いとは思わなかった。むしろもっともっと家から遠い場所に自分を運んでほしいと願った。
しかし亜紀が降り立った場所は、終点ではなかった。やはり所持金が足りずに、途中で降りるしかなかったのである。
ここはどこなのだろう。バスが去ってしまってから、亜紀は今まで来たこともない場所にしばらく立ちつくした。
道路を挟んで、目の前に「ラ・サール愛児園」という建物が建っている。小学生の亜紀にもここがどんなところなのか何となくわかった。亜紀はほとんど車の走らない道路を横切り、その愛児園に近付いていった。フェンスで区切られた敷地内で、子供たちが遊んでいる。その中の一人の女の子と目があった。
龍平と同じくらいの年頃だろうか。セーターの胸に「ともえ」と書いた布が縫い付けてある。女の子がフェンスの外側にいる亜紀に気付いて顔を上げた。亜紀はその子に向かってにっこり笑いかけた。もちろん年長の者として、怖がらせないようにという配慮もあったのだが、それ以上に自然にそうしたくなるくらい、ともえというその子は可愛らしかった。亜紀が「こんにちは」と口の動きだけで話しかけるとその子も亜紀の真似をして同じように唇を動かす。
――なんてかわいい子なんだろう。
乳児院に入所している子供は、三才になるまでに親や親族に引き取られるか、或いは里親に引き取られることが無理であった場合、次の施設として児童養護施設に移管されることになる。すでに三才を過ぎた友恵も、乳児院から児童養護施設であるここ「ラ・サール愛児園」に移されていたのであった。
二人は自分たちが本当は姉妹であることなど当然知る由もなく、緑色の柵を隔ててしばらく見つめ合っていた。阿佐美はいつも、
「世の中には親のいない子もいっぱいいるの。そういう子たちに比べたら、あんたは幸せなんだからね」
と何かにつけて言っていた。今の今まで亜紀は阿佐美が言うことを信じ切っていた。親のいない子に比べたら両親の揃っている自分は幸せなのだと、疑うことなくそう思っていた。
でも・・・本当にそうなのだろうか。ただ親がいるというだけで、それだけで自分はここに暮らしている子供たちよりも幸せなのだろうか。そしてここにいる子供たちは皆揃って不幸せなのであろうか。
亜紀はそんなふうに、他人と比べて自分の幸せを実感するような行為がひどくずるい気がした。
「ともちゃーん」
誰かに呼ばれて、ともえという女の子は奥の方に走っていってしまった。あの子と私、どちらが幸せなのだろう。亜紀はそんなことを考えながら、辺りが薄暗くなるまでそこに立ち尽くしていた。
――もう帰ろう。
亜紀は歩き出した。バスに乗って終点まで行ってみたい。どこか知らないところに行きたい。そう思っていた亜紀だが、結局今の亜紀には時間がくれば家に帰るしか術はないのであった。
亜紀は歩いて家に帰ることにした。もう財布の中にお金は一銭も残っていない。お金がなければ歩くしか他に方法はない。バスの走って来た道筋は何となく覚えている。その道を逆に辿ればいつかは家につくだろう。
――寒い。足が痛くて死んじゃいそう。
歩き出して一時間はとうに過ぎたと思う頃、やっと見覚えのある町並みに出た時は、さすがに安堵の思いがした。
家には誰もいなかった。阿佐美は、今夜は龍平の付き添いで病院に泊まるのだろうし、父も祖父母もいつものようにこの時間は店に出ている。
家族の中の誰も亜紀が帰ってきたことに気付かないようであった。いやそもそも、亜紀がたった一人でバスに乗ってあんなに遠くまで行っていたことにすら気付いていないのであろう。この家には亜紀が何時に帰ろうが気にかけてくれる大人は誰一人いないのであった。
亜紀はひどい空腹を覚えた。店に行けば何かもらえるのはわかっていたが、今日はそんな気にもなれなかった。亜紀はコタツにもぐりこんだ。
「親がいるだけで幸せなんだから感謝しなさいよ」
阿佐美の声が頭の奥で響く。本当にそうしなければいけないのだろうか。親がいるということはそれだけで絶対的に幸せなことのだろうか。そして幸せというものは阿佐美が言うように、他人との比較でなければ感じることのできないものなのだろうか。
亜紀はひどく疲れた身体を抱くようにうずくまりながらいつまでも考え続けていた。
自立
翌日の午後には、龍平が家に戻ってきた。
「龍ちゃん、もう大丈夫なの」
亜紀が出迎えると、
「うん。もうどこも痛くないよ」
とにこにこ笑う。
「ごめんね。龍ちゃん。怖い思いさせちゃったね」
亜紀は傍らにいる阿佐美に聞こえるように隆平に謝った。当の龍平は、姉になぜ「ごめんね」と言われるのかわからないようで、ふうん、などと言いながら早速いつものおもちゃで遊び始めた。そんな隆平を見ると、やはりかわいいと思う。亜紀は阿佐美にどんなことを言われても自分が隆平を嫌いにはならないことをひそかに誇りに思った。
ところで阿佐美は、昨日亜紀にあんな言葉を言ったことなどすっかり忘れているかのようであった。亜紀はこの場に及んでもまた阿佐美が「亜紀ちゃん、昨日はごめんなさいね。お母さん龍ちゃんのことですっかり動転していたの。あんな心にもないことを言ってしまって後悔したのよ。許してね」などと優しい言葉をかけてくれるのを期待していた自分を思い切りあざ笑ってやりたい気分であった。阿佐美はそこにいる亜紀を見ようともしなかった。
「龍ちゃん、まだ遊んじゃだめよ。少しお昼寝しましょう」
ひたすら龍平にかかりきりである。亜紀はコートを着て家を出た。いつも遊んでいる、家からすぐの小さな公園に行ってみた。寒いせいか土曜日の午後なのに誰もいない。仕方なく亜紀は一人でブランコに乗った。昨日施設にいるあの女の子と会ってから、亜紀は親子というものについて自分なりにいろいろと考えるようになった。親のいない子供は確かに不幸である。しかしその代わりにあの子たちには夢がある。
自分を生んでくれたお母さんはどんな人なのだろう。きっとそのうちに「今までごめんね」そう言って迎えに来てくれるはずだ――。或いは、本当の両親がいなくても、優しい人の家に引き取られて大切に育ててもらえるかもしれない。
こんなふうに自由に夢を描くことが許されている。一方、実の親に育ててもらってはいるけれど、その親から愛されていない自分のような子供はどうだろう。少なくとも無条件にあの子たちより幸せだとは言えない。
(どこかに本当のお母さんがいるはずだ)
そんな夢を持てたらいいのにな、と思う。しかしうちには母子手帳も桐の箱に入ったへその緒もある。お母さんにそっくりね、とも言われる。あの人が自分の本当の母親であることは間違いのない事実なのだった。その事実こそが亜紀を悲しめている。あの人は龍平の母親であり、自分の母親ではない。
亜紀は寒さで指先の感覚がなくなるまでブランコに乗り続けた。もしかしたら阿佐美が亜紀のいないことに気付いて迎えに来てくれるかもしれない。それだけを願っていた。
冬の夜の訪れは早い。脇を通りかかる大人たちが真っ暗な公園に一人でいる亜紀をけげんな顔で見ていく。亜紀はあきらめて帰ることにした。
途中もしかしたらこっちに歩いてくる阿佐美に会うかもしれない。そう思って亜紀は家までの道をわざとゆっくりゆっくり歩いた。しかし亜紀の切ない願いはかなわず、家族の誰にも会わないまま家についてしまった。中に入ると、阿佐美は食事の支度で忙しそうにしており、茶の間では店のほうが暇なのか、信也が龍平と遊んでいた。
「おう、亜紀。おまえ今帰ってきたのか」
信也が亜紀を見てびっくりしたように言う。しかしここまでだ。どこに行っていたのか。どうして遅くなったのか。この父親には娘についてそこまでの関心はない。
わかっていたことなのに。自分は一体何を期待していたのか。何度裏切られれば学習するのだろう。
(バカみたい)
亜紀は十二歳の冬の日、この家庭に、自分がいる場所などはどこにもないことをはっきりと悟ったのである。
春が来て、亜紀は小学校最後の学年を迎え、隆平も小学校に入学した。
五月。二人の姉弟が通う小学校で運動会が行われた。お昼を挟んでの大運動会である。
赤川家でも朝から阿佐美が張り切ってお弁当を作っており、りつ子も信也も仕事の合い間をぬって学校にやって来る予定であった。亜紀はクラス対抗のリレーの選手に選ばれていた。亜紀は体育は好きだったが足は決して速い方ではない。リレーの選手に選ばれたのは小学校の六年間で初めてのことであった。亜紀にとっては、ものすごい快挙なのである。
種目が進み、リレーの時間が近付いてくるごとに、緊張が高まってくるのを亜紀は必死で抑えていた。校庭にテンポのいい音楽が流れ、いよいよ運動会の華、リレーが始まった。亜紀のクラスはトップランナーがいきなりバトンを落としてしまうというハプニングのせいで、三人目の走者である亜紀がバトンを受け取った時点では、ビリから二番目という順位であった。
(絶対にバトンだけは落とさないようにしなきゃ)
それだけを思って走り出した亜紀だが、バトンを次の走者に渡す時にはクラスの順位は何と二位になっていた。亜紀が前を走っていた選手を二人も抜いたのである。練習では誰かを抜かしたことなど一度もなかったのに――。友達に「やったね」と肩を叩かれながら亜紀は夢でも見ているかのような気分だった。結果的には後の選手が転んだりまた抜かされたりしたせいで、成績は五位という結果に終わったが、個人的には亜紀は大満足だった。
(結構、私もやるじゃない)
リレーが終わるとちょうどお昼となった。生徒たちは各自保護者のところに行ってお弁当を食べるのである。亜紀は嬉々として阿佐美たちの元に行った。ほめてくれるとまでは思わなくてもせめて何か言ってもらえるのではと思っていた。が、行ってみると阿佐美もりつ子もその直前に行われた一年生の種目、かけっこで龍平が一位を取ったことに夢中であった。
「龍ちゃん、頑張ったねえ」
「ほんとに速かったよ」
龍平が得意そうに一位と書かれた賞状をひらひらさせている。
「お姉ちゃん、僕一位だったよ」
「よかったね」
亜紀はすぐに気がついた。阿佐美もりつ子も亜紀が走ったリレーは見ていなかったのである。
(わかっていたことだ)
亜紀は期待を裏切られてももうがっかりすることもしなくなった。ただいつまでも甘いことを期待してしまう自分がおかしいだけだ。亜紀は黙っていなり寿司をほおばった。
「おう、いたいた。探したよ」
信也が店の仕事着のままでやってきた。手には最近新しく買い求めた一眼レフのカメラを持っている。
「あら嫌だ。あんたまで出てきちゃって、店の方は大丈夫なんだろうね」
りつ子がそわそわし始める。
「写真撮ったらすぐに戻るよ。ほら龍平、そこに立て」
信也が龍平にカメラを向けると、龍平は得意満面にピースサインを出し、何度もおどけたポーズをしてみせた。何枚か撮ったところで、
「亜紀も入れよ」
そう言われて亜紀が立ちかけると、
「フィルムがもったいないからいいの。亜紀はもう大きいんだから」
阿佐美がぴしゃりとはねつけるように言った。
こんな時、信也は阿佐美に同調するわけではないが、強く否定もしてくれない。ただ黙ってやりすごすだけである。だからこんな時は、いつも亜紀が周囲の空気を考えて、
「私はいいの。龍ちゃん、もっと撮ってもらったら」
と何でもないように言うしかないのであった。阿佐美に「フィルムがもったいない」と言われたことなど、さも気にしちゃいないというように。
父の信也は特に亜紀をかわいがってくれることもない代わりに、阿佐美のように隆平ばかりをあからさまにかわいがるということはなかった。その意味では、父のほうが公平な分だけまだましではあったが、やはり亜紀の拠り所にはなりようもなかったのである。
亜紀は早々と箸を置き、立ち上がった。
「ごちそうさま」
「お姉ちゃん、どこ行くの」
「お姉ちゃんね。午後の準備の係りになってるんだ。龍ちゃんはゆっくり食べてなよ」
いくら食べたってどうせ味などわからない。なら一人で時間をつぶしていた方がいい。
亜紀はまだみんながあちこちにシートを広げ、お弁当を食べている校庭を横切って、プールの裏に行った。ここなら誰もいないと思ったのだが、意外なことに男の子が一人草むらに座り込んでいた。隣のクラスの片岡優太郎くんだ。いつも坊主頭で、みんなからはカッタとかユッタとか呼ばれている。ユッタは亜紀に気付いてこっちを見た。
「何だよ。おまえも親いないの」
「違うけど――」
亜紀はその時ユッタがここで一人でお弁当を食べていたことを知った。
「うち、母ちゃんいないからさ。親父は今日仕事だから」
「そうなんだ」
亜紀は何だか無断でユッタの領域に侵入したような気がして、申し訳ない気持ちになった。
「そういえばさっきのリレーすごかったな、おまえ」
「まぐれだよ。ユッタも選手だったよね。どうだったの」
「俺はもうダメ。朝から走ってっからもうクタクタでさ」
「走ったって?」
「俺、新聞配達してるんだ」
「新聞配達――」
亜紀はとたんに目の前が開けた気がした。働く。そうだ、働くという手があった。そうすれば一人で生きていけるのだ。
「えらいね、とか言うなよ。俺んち貧乏だから仕方ないんだ」
ユッタが眉をしかめた。
「言わないよ」
亜紀にはユッタの気持ちがわかった。本人にとっては仕方のないことに、それをしなくてもいい立場の人間から上っ面だけでえらいとかすごいとか言われるほど苛立つことはない。でも自分は違う。自分はユッタ側の人間だ。
「ね。働くっていいよね。すごいことだよね」
「はっ?何言ってんの、おまえ。変なヤツ」
「すごいことだよ。だって自立できるんだよ」
亜紀は興奮していた。働けばいいのだ。その発見は踊り出したい喜びであった。
「私も働きたい」
「おまえんち、貧乏じゃないじゃん」
「でも働かなきゃいけないの」
「へえ、変なの」
「私にも新聞配達できるかな」
「まあできると思うよ。前にも女子でやってたヤツいたし。今はやめちゃったけどね」
「よかった」
「ほんと変わってんなあ、おまえ。自分から働きたいなんていうヤツ初めて見た」
ユッタはおにぎりの最後のひとかけを口に放り込んで笑った。亜紀もつられて笑った。
校庭の方で何かアナウンスが流れている。午後の部が始まったらしい。
「おまえ、行かなくていいの」
「まだいいよ。どうせ出番ないし」
亜紀はユッタと同じように草むらに腰を下ろした。自分たちだけが本当にみんなからひどく離れたところにいるような気がした。
亜紀には自分の将来のことはまだよくわからない。でもはっきりわかることは、阿佐美のような生き方だけはしたくないということであった。年中誰かの悪口を言っている、あんなふうにはなりたくない。
「ああもう、客商売なんてうんざり。年中客にペコペコして人の食べ残しを片付けて。やってられないわ」
「誰もお母さんの苦労をわかってくれないんだから」
お姑さんが、夫が、店が、果ては子供たちが、阿佐美に言わせれば悪いのはすべて周囲なのであった。
「お母さんに経済力さえあればこんな家いつでも出て行けるのにねえ」
その経済力があることで嫌なことを我慢しなくてもいいのなら、亜紀はその力がほしいと思う。早く働いて自分で生きていけるようになりたい。働きたい。自分だけで生きていきたい。
「俺もう行くぜ。おまえも早く来いよ」
「わかった」
ユッタが素早くゴミをまとめて駆け出していった。
――空が高い。
思春期の入り口で、母に愛されない寂しさを何とか受け止めようともがきながら、亜紀は自分の生き方を模索し始めていたのであった。
情事
銀色の小さな玉が、浮き上がってはいとも簡単に下の出口に吸い込まれていく。
「ちくしょう」
信也は、もうぴくとも動かなくなった台を力任せに叩き、立ち上がった。これで今月はもう五万の負けだ。
通りに出る。時計を見るともう五時半だ。午後の営業時間がせまっている。店では今頃仕込みや準備でてんてこ舞いだろう。特に今日は昼間忙しかったから大変なはずだ。早く戻らなければ、とは思うが、足がなかなか店のほうには向かない。
信也の横を、スーツをきたビジネスマンたちが通り過ぎて行く。ビジネスカバンというのだろうか、皆同じような黒いカバンを抱え、足早に歩いている。自分も本当はああいう仕事がしたかった――彼らを見るたびに信也はしみじみ思う。スーツを着ている連中がどんな仕事をしているか具体的にはわからない。ただ自分のような仕事ではないことだけは確かだ。
小さい頃から、おまえは店の後を継ぐのだとりつ子に言われ続けてきた。小学校の卒業文集にも、同級生たちが将来の夢としてプロ野球選手だの、電車の運転手だのと書く中、信也だけは「家の仕事を継ぐ」と書いた。他の仕事をすることなど考えたこともなかった。それが当り前だと思っていたが、最近はどういうわけかそんな自分の生き方にどこか空しさを覚える時がある。毎日店の調理場に立って、魚をさばき、野菜を切り、それらを煮て、焼いて、客の相手をして――同じことを繰り返していくのだ。これからもずっと死ぬまで。何の楽しみもない人生だ。そう考えると何もかもが嫌になる。
しかし信也は、自分が甘ちゃんであることもわかっている。よくりつ子や姉の千春にも言われることだ。
「信也は外で働いたことがないから世間の厳しさを知らない」
そう侮辱するように言われるたびに反抗したくなる。俺は、何も好きで外に出なかったわけじゃない。おまえらが家の跡を継げというから継いでやったんじゃないか。そうじゃなければ誰がこんな仕事をするか。おまえらにそんなことを言われる筋合いはないんだよ。
だがその一方で、もし外で働いていたら自分はやっていけなかったかもしれないと思うこともある。家の商売をしているから何とかやっていけているものの、上司にペコペコしたり、おべんちゃらを言ったり、頭を下げて物を売ったりするなどおそらく自分には無理だ。
今の商売は基本的に受け身である。自分から営業に出向く必要もない。来た客に適当にお愛想を言うくらいはお安い御用だ。
まありつ子に言わせれば、これからはどんどん企業などを回って会食に使ってもらえるように営業をかけなければ生き残っていけないということらしいが、信也はそんなことをするのは、まっぴらごめんであった。知らない会社に飛び込んで冷ややかな視線を浴びながら「うちの店を使って下さい」とセールスをするなど、とてもできるものじゃない。
りつ子は信也のそういうところが不満らしいが、所詮そこは親子である。信也がりつ子の望むように行動しないからといって別にどうということもない。もしこれが同じ商売でも、他人に使われている立場ならこうはいかないだろう。上司にやれと命令されれば、まさかのらりくらりというわけにもいかない。それに、信也ほどの年齢ならばきっと売上の責任も持たされているはずだ。来た客に、ただ料理を出していればいい、というわけにはいかないだろう。今は店の売り上げについては、信也はノータッチである。それは、りつ子の領域である。
「そろそろ全部あんたに任せて、早く楽になりたいもんだわね」りつ子は口ではそんなふうに言うが、本心ではないはずだ。いや別にどっちだっていいのだ。とにかく信也は面倒なことにはあまり関わりたくはないのだった。同じことを繰り返すのもうんざりだが、だからといって何か新しいことを始めたいとも思わない。
妻の阿佐美も、最近はあからさまに夫である自分のことをばかにしていると思う。昔はおどおどした女だったのに、子供が、特に龍平ができてから阿佐美は図太くなった。嫁に来た頃は、りつ子に何を言われた、こうされただのといちいち泣いていたのが、今では何事にも動じないふうだ。その様子は、つい憎たらしくなるほどである。最近ではこっちのことなどかまいもしない。まるで邪魔者でも見るような目つきをすることもある。龍平に向ける優しい顔とは対照的だ。
ああ、クソ面白くもねえ。やはりこのまま店に戻る気にはなれない。
信也は、雑居ビルの地下にある喫茶店のドアを押した。高校の頃からよく通いつめた店だ。信也の顔を見て、
「いらっしゃい」
初老のマスターが笑顔を向ける。お互い顔なじみだ。いつものカウンターの席に座って煙草をくゆらせる。半分ほど吸い終わった頃、目の前にいつものブレンドコーヒーが置かれた。信也は吸いかけの煙草を加え、添えられたスティックシュガーをコーヒーに入れた。
「マスターさ、たまに嫌になんない。こんな仕事」
「どうしたの。信ちゃん。急に」
「毎日おんなじこと繰り返してさ。飽きたりすることはないの」
「別に飽きはしないね」
「はあん。何でかね」
「何でかね、って言われてもねえ。まあこの仕事しか私はできないし。基本的に好きだからねえ。この仕事が」
「好きねえ、どんなところが」
「そりゃあ、お客様がコーヒーおいしいよ、と言ってくれた時とかね」
「あーあ。アホらし。聞いて損した」
信也は煙草を消し、砂糖入りのコーヒーをすすった。
「信ちゃん、仕事でなんかあったの」
「何もないさ。何もないからつまんないんだって」
「つまんないってことはないだろうよ」
マスターは呆れたように笑った。
「なあ、マスターはさ、ああいう仕事したいと思うようなときってないか」
信也は奥の席にいる、ビジネスマンらしい二人連れを見ながら言った。マスターは視線を移すと、すぐに首を横に振った。
「全く思わないね。これでも昔、ちょっとサラリーマン稼業をしてたことがあるけどね、大変な世界だよ。自分には向いてないとつくづく思った。こうしてのんびりコーヒー淹れてるほうが、私の性には合ってる」
「そうか」
「なに、ひょっとして信ちゃん、ああいうのに憧れてるの?」
「いや、別に憧れてるってことはないけど」
「今の時代、人さまに使われた経験がないってことは、ある意味幸せなことかもねえ」
マスターはしみじみと言った。
信也は暗におまえは甘いと言われたような気がして不快感を覚えた。胸に広がった苦さを消すように残っているコーヒーを一気に飲み干した。
店を出て、公衆電話から聡子に電話をした。持って出たセカンドバッグにアドレス帳が入っていた。
聡子に電話をしたのは聡子が病院勤めだからだ。もう六時を大分回っているが、普通の会社勤めの女が家にいる時間ではない。まだ職場にいるか、せいぜい帰宅途中のはずだ。看護婦の聡子なら、勤務が不規則だから運がよければつかまるかもしれないと思った。聡子が家にいなければ黙って店に戻ろう。
ダイヤルを回しながら信也はそう決めていた。
「はい、平沢です」
聡子が出た。
「あ、いたんだ。赤川だけど」
「信也・・・・さん? どうしたの」
「いやあ。聡子ちゃんの声が聞きたくてさ。久しぶりに」
信也はとっさにそう言った。単に消去法で聡子を選んだなどとは相手に微塵も感じさせないように気を配りながら。
聞くと聡子は、今日は非番で一日中アパートの部屋にいたらしい。信也は夜店が終わってから外で会う約束を取り付けた。
「よっしゃ」
これでやっと仕事に戻る気になった。足取りが軽い。店に戻ると、案の定、りつ子どころか阿佐美にまで遅い、どこに行っていたのだと文句を言われたが、信也はどこふく風、でやり過ごした。女と二人きりで外で会うのは久しぶりだった。
夜の十時を過ぎ、長っ尻の客がようやく帰った。調理場の片付けが済んだところで、信也は自宅にいる阿佐美に、
「ちょっと出かけてくる」
と告げた。
阿佐美は信也の顔も見ずに「そう」とだけ言った。「今から?」とも「どこに行くの」とも聞いてこない。その無関心さには多少腹が立たないでもないが、今日のところは有り難いと思うべきだろう。
車で聡子の指定した場所に行くと、道路の角に聡子が立っていた。
運転席の信也を目で確認したあと、助手席にするりと身体をすべらすように乗り込んできた。
「こんばんは。お久しぶり」
「本当に久々だね。何年ぶりかな。あ、夜はもう食べた?」
「うーん。適当にね。でもちょっと小腹が空いてるかも」
「じゃあ、その辺のファミレスにでも行くか」
二人は二十四時間営業のファミリーレストランに入り、それぞれビールと、サンドイッチやポテトフライなどの軽食をつまんだ。
信也は背もたれに寄りかかり、二杯目のビールを飲みながら真向かいに座っている聡子の顔をじっくりと見た。阿佐美と同じ年のはずだが、大分若く見える。昔はどちらかといえば阿佐美の方が幼く見えたのに、やはり独身でいるからだろうか。
「阿佐美は元気でやってる?」
「ああ。もうすっかりおばさんだよ。あいつに比べたら聡子ちゃんはいつまでも若いね」
信也は思ったことを素直に口にした。
「何言ってるの。若くなんてないわよ。もういくつになったと思ってるの」
「いや、昔と全然変わらないよ」
「もうお世辞はいいから。それよりお子さんたちは? 大きくなったでしょう」
「うん、上の娘が来年中学卒業。下の息子は四年生になるのかな」
「そう、亜紀ちゃんはもう高校生になるのね。キレイになったでしょうね」
「キレイというか・・・。あいつはおかしい子だよ」
「おかしい?」
「何か新聞配達をしているらしいんだけど、そのバイト代をそっくりそのまま親によこすんだぜ。自分の学費や生活費の足しにしてほしいんだってさ。信じられないね」
「すごいじゃない。今どきそんな子いないわよ。感心ねえ」
「だけどさ。ありえないと思わないか?普通バイトなんて自分の小遣いがほしくてやるものだろ。俺があの年頃の頃は、バイト代を親に渡すなんて考えたこともなかったけどね。何だかできすぎてるというか、ほんとに俺の子かなと思うときがあるよ」
あなたの子じゃないのはそっちじゃないわよ。聡子はそう言いたくなるのをぐっとこらえた。
二人はファミレスを出て、また車に乗り込んだ。
「さてこれからどうしようか」
本当なら手っ取り早く聡子の部屋に行きたいところだが、聡子がそう言わないので仕方がない。
信也はさりげなくホテル街のほうに車を走らせた。
聡子は迷っていた。
今夜信也の誘いに乗って部屋を出て来た時から、まさかただ食事をするだけでは済まないだろうとは予想していたが、いざとなるとやはり迷いが生じる。ただ、以前に一度関係を持っているという事実がハードルを低くしていた。三十をとうに過ぎ、女が一人でいれば正直身体が疼く夜もある。今の聡子には特に付き合っている男性もいない。信也と積極的に寝たいとは思わないが、このまま帰るのはもったいないという気持ちもある。自分でもあさましいと思うがそれが本音であった。
聡子が黙っているので、信也はバイパスから一本奥に入った場所にあるホテルの駐車場に車をすべらせた。
世の中には不倫は絶対に嫌だというタイプの女がいる。しかし聡子はその逆に不倫でしか燃えないのであった。独り身同士の全うな付き合いだとどこか物足りない。人のものを奪っている。そう思う瞬間がたまらないのである。特に相手が友人の阿佐美の夫であることがより激しい興奮を呼び起こす。信也が阿佐美の夫でなければ、きっと一度目はともかくまた今さら関係を持とうとはおそらくしなかったはずだ。こんな自分を汚いと思うが、これが聡子の性なのであった。身体は正直だった。信也の手や唇で愛撫をされるたびに、身体のあちこちが久々の感覚に喜んでいるのがわかる。
「聡子ちゃんとこうするのもずいぶんご無沙汰だね」
そう言って信也は聡子の中にゆっくり入ってきた。久しぶりの満たされた感覚だった。聡子は阿佐美の顔を脳裏に浮かべながら歓喜の声を上げていた。
陶酔
毎朝、子供たちを送り出してから、自宅の玄関先を掃くのが阿佐美の日課となっている。特に龍平が近所の子供たちに誘われてドッジボールクラブに入ってからは、靴底やスポーツバッグについた泥汚れで玄関のたたきはひどいことになっている。今朝も阿佐美は、いつものように洗濯機を回している間、その作業に没頭していた。もちろん玄関の戸は開け放したままである。
「奥様」
背後からそう男の声がした時、阿佐美はなぜだか自分のことだとは思わなかった。かまわずほうきを動かしていると、もう一度奥様、と同じ声がして阿佐美はようやく振り返った。門のところに見たことのない男が立っていた、
紺色のスーツに大きなカバンを下げている。何のセールスに来たんだろう。阿佐美はとっさに身がまえた。
「何でしょうか」
「私はこういう者です」
男は名刺を出した。見ると「宝石卸・販売 (有)ジュエリーサラ 専務 大石健一」とある。
「今たまたまこの辺りを回っていましてね。そしたら奥様のことが目に入ったものですから」
「い、いいです。私は――」
阿佐美は慌てて家の中に入ろうとした。元来こういったセールスに対応するのは苦手なのだ。今までも必要のない物を断り切れずに買ってしまって信也にひどく叱られたことが何度もある。キャンセルの話がうまく進まず、消費者センターに世話になったことさえある。だったら初めからこういう人たちには関わらないのが一番だと学んだ。少しでも相手の話を聞いてしまうと、どうにも断るのができなくなってしまう。プロのセールスマンから見れば阿佐美のような客に物を売りつけるのは、まさに赤子の手をひねるようなものなのだろう。
「ちょっとよろしいですか」
男は持っているカバンをいきなり地面に置き、中から何やらじゃらじゃらしたものを取り出した。どうやらアクセサリーのようだ。そしていきなり近付いてきたかと思うと、男は阿佐美の首に手を回してそれを阿佐美の胸元に取りつけた。その一連の動作はひどく手際がよく、まるでマジシャンのようだった。
「思った通りだ。よく似合いますよ」
「あの、何ですかこれ」
「真珠ですよ」
そのくらいは阿佐美にも当然わかる。
「そういうことじゃなくて・・・」
阿佐美はうしろに両手を回し、金具を外そうとしたがこうしたものに慣れていないため、構造がわからず、なかなかうまくいかない。
「よければそのままつけていて下さい」
「でも・・・」
「これは差し上げますから」
「えっ」
「差し上げます」
男は、今度はゆっくりと言った。
「そんな、だって・・・これ売り物なんですよね」
「もちろんです。でもいいんです。私が買い取る形にしますから」
「どうしてそんなこと・・・」
「じゃあ買っていただけますか?八十万円です」
「八十万・・・・」
阿佐美は息をのんだ。
「でしょう?」
男はいたずらっぽくそう言って笑った。口元から八重歯がのぞいている。
「あなたには無理に売りつけるようなことはしたくないんです。宝石だって本当に似合う人につけてもらったほうが幸せなんですよ。そのために生まれてきたんですから」
男はそんなセリフを言って、半ば強引にその真珠のネックレスを阿佐美に押し付けて去って行った。
阿佐美がもう少し賢明な女だったら、きっと受け取ることなどしなかったであろう。その場で返せなかったとしても、あとで名刺の住所に送り返すくらいはしたはずだ。何よりも、タダより高いものなどこの世にはないということの本当の意味が実感としてわかっている女だったら。
阿佐美はそんなに深く考えることはしなかった。さすがに男の言葉を鵜呑みにするつもりはなかったが似合うなどと言われて悪い気はしない。考えてみればアクセサリーなど結婚してからこっちほとんどつけたことがなかった。たまの冠婚葬祭の際に、鏡台の引き出しに入れっ放しにしている、若い頃に買ったイミテーションのものをとっかえひっかえつけるくらいだった。阿佐美は鏡の前で、改めて男がおいていった真珠を合わせてみた。阿佐美には宝石の見立てなど全くわからないが、おそらく相当いいものなのだろう。何しろ八十万もするのだから。
「八十万・・・」
阿佐美は思わずそう声に出していた。本当にこんな高いものをもらってしまっていいのだろうか。一度そう思うとだんだん心配になってくる。しかしすぐに自分の都合のいい考えに思い至る。大体こんなものをもらったところで、普段身につける機会などありはしないのだ。使わずにただしまっているだけなら、たとえまたあの男が来て、返してくれと言ってきたとしても大丈夫だろう。万一何か難癖をつけてきたら、そっちが勝手においていったんだと言えばいいだけのことだ。
阿佐美は、まだかすかに木の香りがする引き出しの中に、今日手に入ったばかりのネックレスをしまい込んだ。
大石健一との二度目の出会いはすぐにやってきた。場所はまたも玄関先だった。掃き掃除の最中に、
「こんにちは」
数日前と同じトーンの声がした。今度は、阿佐美はすぐにほうきを動かす手を止めて振り返った。
「この前のネックレス、気にいっていただけましたか」
「・・・」
阿佐美は思わず自分の胸元に手をやった。何の装飾品もつけてはいない。もちろん普通の主婦があんなものを普段身につけているほうがおかしいのだが、それが何だか悪いような気がしたのだ。もっともすぐにバカみたいだと自嘲した。結局この男はまた何かを売りつけにきたのだ。やっぱりあんなものもらうべきじゃなかった。
「あの、やっぱりお返しします」
「いいんです」
男は慌てて手を振った。
「あれは持っていていただくだけで。今日うかがったのは特に他意はないんです。あなたにお会いしたかったので・・・すみません」
こんなふうに大石は阿佐美の日常にするりと入り込んできた。二人が外で会うようになるまでにそう時間はかからなかった。二人でいる時の大石は、専ら阿佐美の話の聞き役に徹していた。阿佐美は普通人にあまり自分の話をすることはない。話すことが苦手というよりは、こんな自分ごときの話をしても相手はつまらないのではないだろうかと気を使ってしまうのだ。実際話の途中で少しでも相手が退屈そうな顔をしたり、興味のなさそうな態度を見せられただけで縮み上がるほど恐縮してしまう。
そんな思いをするよりはたとえどんなつまらない話でも聞き役になるほうがましだった。それが大石だけには初めから何でも話せた。大石が阿佐美の話すことなら何でも熱心に聞いてくれたからだ。それだけでなく、大石は自分のこともいろいろと話した。年齢は三十代半ば。阿佐美より三才下。結婚しているらしいが子供はいない。妻とはほとんど別居状態だとも言った。
初めて大石とホテルの入り口をくぐった時、阿佐美は処女を失った高校生の頃のように緊張した。いや、好奇心が勝っていた分だけあの頃のほうが、まだこんなに緊張は強くなかったかもしれない。夫以外の男といよいよ関係を持つのだ。そう思うと本当に心臓がドキドキとした。
夫以外の男と――ということに、今まで憧れがなかったわけではない。信也とはもう夜の方はすっかりご無沙汰であったし、阿佐美自身も別にそれでよかった。だが結婚してすぐの頃、聡子と浮気をされたことだけは今も忘れていない。自分が慣れない嫁ぎ先で、姑や小姑に嫌味を言われながら苦労している間に自分だけそんなことをしていたことが許せなかった。それでもせめて心から謝ってくれればこんなに尾を引くことはなかったかもしれない。が、あの時信也は、
「家に帰ってもおまえがいつもグチばかり言うからつまらなかったんだよ。おまえがもっと明るくしててくれれば俺だってさ」
とまるで自分の浮気までが妻のせいであるかのようにのたまったのだった。あの時は心底げんなりした。ここまで甘ったれた男だったとは。浮気が妻に発覚したときくらい、潔く謝ることができないのか。最低だ。
今も何かの拍子に、頭の中の引き出しからあの時の苦い記憶の断片がひょいとのぞくことがある。歯ぎしりしたくなるほど悔しかった。自分も他の男と寝てやりたいと思った。復讐である。そうすればおあいこになる。だが今までそんな機会は全く訪れなかった。そもそも恋愛ドラマじゃあるまいし、そんな出会いなどそうあるわけがない。外に勤めに出ているならともかく、阿佐美が日々出会う男など夫以外には店の客しかいない。その客の中でいい男がいたとしても実際どうなるわけでもないのであった。まさか阿佐美のほうから誘うことなどできるはずもなく、時が過ぎていった。三十五を越えた頃からは夫以外の男とどうなることなどもうすっかりあきらめていた。なのに、今になってこんなことが起こるとは。人生なんて本当にわからないものだ。
いつか自分も夫のことを裏切ってやりたいと思っていたはずなのにいざとなると逃げ出したくなるのはどうしてだろう。本当にいいの?阿佐美は自分に何度も確かめる。しかしいくら自分に問いかけても答えなど出るはずもないのであった。
しかしその逡巡もわずかな間だった。いざ相手に抱かれると少しばかりの罪悪感はものの見事に吹き飛んでいた。悪いことをしているという思いが快感を一層高まらせる。一度抱かれてしまうとあとはもう一気に坂道を駆け下りていくだけだ。阿佐美が初めての浮気相手である大石に夢中になるのはいわば自然の摂理といえた。
幾度目かの密会の時、大石は、実は――と前置きし、最初にアクセサリーをあげたのは、阿佐美の気をひくのが目的で、あとからもっと高いものを買わせるつもりだった、と告白した。
「やっぱりそうだったのね。おかしいと思ったのよ。大事な商品をただでくれるなんて」
「でも今は違う。仕事なんて関係ないんだ。僕は君とただの男として付き合っている」
素直に嬉しかった。いい年をして、恋に恋をしている中学生のようだと自分でもおかしかった。いや、いい年だからこそ、なのかもしれない。十代、二十代の頃なら恋はいつも身近にある。若いときなら誰だって自分さえその気になれば恋をするのはそう難しいことではない。しかしこの年になってしまうとどんなにその気になったところで、恋はそう簡単には手に入れることのできない貴重品となる。だからこそ恐ろしい。この恋を手放してはなるものか、この恋を失くしたらもう二度とないと思えば、のめり込んでいくのは自然の摂理というものだろう。
ただそうはいっても、現実には阿佐美は結婚している身であり、家には夫だけでなく舅、姑、子供たちもいる。店の仕事もある。大石との時間を作り出すのはなかなか難しかった。
「ママさんバレーのチームに誘われて入部したので、その練習がある」
「PTAの集まりが急きょ夜からに変更になった」
「同級生のお母さんが亡くなったので、みんなでお悔やみに行く」
など、そのたびにいろいろ言い訳を考えては家を空けた。
何度目かの密会の夜。大石がひどく落ち込んでいた。見るからに顔色が冴えない。
「どうかしたの」
「いやちょっと。何でもないよ」
無理をしている。阿佐美は食い下がった。
「話してみて」
「君に話しても・・・」
阿佐美はピンときた。
「仕事のこと?」
「よくわかるね」
「男の人が悩んでいることなんて仕事以外にないじゃない。何か問題でもあったの」
「うん、ちょっと今月売り上げがさ」
大石の仕事は歩合制で、売り上げが滞ればそれは即、死活問題になるらしかった。
「私、何か買うわ」
大石は驚いて阿佐美を見た。その目の中には予想通りだという大石の感情が確かに宿っていたのだが、阿佐美はそこの部分には気を回さなかった。ただ好きな男の役に立ちたいという一心であった。
「いくらくらいのものを買えばいいの」
「いや、それはやっぱり・・・」
「いいの。どうせいつかきちんとした形であなたから何か買ってあげたいなって思っていたんだから。ねえ、いくらぐらい?」
「じゃあ・・・」
大石はあと四、五十万くらい売り上げがあれば助かる、と言った。
「だったらそのくらいの価格であなたがいいと思った商品をちょうだい。そうね、ネックレスは最初に頂いたから今度はブローチがいいかな」
「好みの石とかデザインとかあるだろう」
「全部あなたにお任せするわ。任せたいのよ」
「わかった。じゃあ君に合うものを選んでみるよ。ほんとにありがとう」
阿佐美は深い満足感を覚えた。
五十万ものお金を自由に動かす力は阿佐美にはない。が、ローンを組めば何とかなるだろう。それに、結婚して以来ずっとただ働き同然でこき使われてきたのだ。少しくらい自分のために使ったところで誰にも文句など言わせるものか。
「阿佐美」
大石が阿佐美の髪に手を伸ばしてきた。阿佐美、と呼ばれたことはこれが初めてだった。首筋に触れられるだけで身体の芯が熱くなることもあるのだということを阿佐美はこの年になって知った。
「感謝してるよ。本当に」
「あ・・・・・」
もしかしたらあの真珠のネックレスをただでくれたことだけじゃなく、それを正直に告白したこと自体も、大石の計画に含まれていたのかもしれないとも思ったがもうどうでもよかった。行為の最中に阿佐美は今まで感じたことのない感覚を下半身に覚えた。結合部分から快感がブワッとわきあがってきて、自分でコントロールがきかなくなった。声がとまらない。今まで恥ずかしくて自制していたが我慢しきれず自分から腰を動かした。身体が硬直する。これがイクということか。今までそうだと思っていたのは間違いだったとわかった。もうこの男から離れることはできない。大石の背中に爪を立てながら阿佐美は強く思った。
そういえば信也は最近また女と会いだしたようだ。相手は聡子かもしれない。だがもうそんなこともどうでもよかった。
大石は「妻とは離婚したいんだ」と言った。阿佐美もこの男と結婚できたらどんなにいいだろうと思う。初めはただの願望に過ぎなかったものが、いつか本気で大石と結婚できるような気になってきた。それにはまず子供たちに納得してもらわなければならない。
学校が長期の休みに入ったある日。阿佐美は子供たちをドライブに誘った。信也には予め「今日は子供たちと出かけてくる」と知らせてある。
子供たちには、大通りから少しそれたところにある公園で待っていなさい、すぐに車で迎えに行くから、と言っておいた。まさか自宅の前に大石の運転する車を止めるわけにはいかない。車を公園の脇に止めると、並んでブランコに乗っていた亜紀と龍平が走ってきた。亜紀は運転席にいる大石の姿を見たとたん、あからさまに不快な顔をして立ち止まった。そして龍平に何か耳打ちをすると、くるりときびすを返して行ってしまった。阿佐美は一人で乗り込んできた龍平に、
「お姉ちゃんは?」
と聞いた。
「お姉ちゃんは用事ができたから龍平だけで行ってきなさいってさ」
「そう」
阿佐美は亜紀に腹を立てた。せっかく大石が子供たちと会うことを承諾してくれたのに。思春期の娘を自分の浮気相手とのドライブに誘う自分の非常識さは棚に上げて、阿佐美はひたすら娘を責めた。
「ごめんなさい。変わった娘なの」
「いいよ、気にしないで。じゃあ隆平くん出発するよ」
「はーい」
龍平は無邪気に海岸までのドライブを楽しみ、帰りに寄ったレストランで大好きなハンバーグとプリンアラモードを食べ終始ご満悦だった。大石のことも「おじさん、おじさん」と呼びすっかりなついた様子だった。阿佐美はそのことが単純に嬉しかった。この日以来、亜紀は阿佐美のことをどこか醒めた目つきで見るようになった。
(嫌な子)
多感な年頃の娘が、母親が浮気をしていることを知り、他にどんな態度を取ればいいのか、考えればわかりそうなものだが、阿佐美は娘に理解してほしいと望んでいたのだった。それから阿佐美は何度か龍平だけをつれて大石との密会に出かけた。阿佐美は確実に何かを見失っていたのである。
崩壊
また二階で壁を殴る音がする。龍平だ。さっき阿佐美が服装のことについて小言を言ったのが気に入らないのだ。黒いジャケットにダボダボしたズボン。白いエナメルのベルト。何のつもりか、色付きのサングラスまでしている。そんないでたちで帰ってきた龍平を見て、阿佐美は引っくり返りそうになった。
「何なの、その格好」
「あ?」
「そんな服、龍ちゃん持っていなかったでしょう」
「うるせえな」
そう言い放って隆平はすごい目つきで阿佐美を睨みつけると、わざと足音を上げて二階に上がっていった。
阿佐美は階段を上がりかけてすぐ思い直し、リビングに引き返した。今は何を言ったところで、また「うるせえ」と返されるだけだろう。最近はいつもこうだ。こっちが何か言うたびに、うるせえ、黙ってろ。挙句の果てには、てめえ、ぶっ殺すぞ、だ。中学二年生。難しい年頃とはいえ、あまりにも言葉遣いがひどすぎるのではないだろうか。
阿佐美はまた頭痛を覚え、薬箱から頭痛薬を出して飲んだ。もしかしたら少しうるさく言いすぎなのかもしれない。
わかってはいる。わかってはいるけれど、あんな――一体どこで買ったのか、まるでチンピラみたいな服装をしているのを見たらどうしても一言言いたくなってしまう。それが母親ではないか。つい三日前にも担任の教師から龍平の素行のことで注意を受けたばかりだったのだ。玄関を見ると、黒い革靴が乱雑に脱ぎ捨てられている。およそ中学生が履くものとは思えない。大体こんなものどうやって手に入れたのだろう。そんなにお小遣いはあげていないはずなのに。
バタン!とすごい音でドアがしまったと思ったら、今度はあの鈍い音だ。
「ふざけんなよ!ババア」
壁を殴る音に混じって怒鳴り声が聞こえる。阿佐美は玄関の床に座り耳を塞いだ。
龍平の素行が悪くなったのは中学二年になってすぐの頃からだ。髪を茶色に染め、制服を改造し、部屋からは煙草の吸い殻がしょっちゅう見つかるようになった。初めのうちは反抗期だから仕方がない、そのうち落ち着くだろうと思っていたが、そんな親の気持ちをあざ笑うかのように、龍平はだんだん手がつけられなくなっていった。
最初の暴力が始まったのは、確か夏休みに入ってすぐの頃だった。夜中ふと目が覚めると二階から話し声が聞こえてきた。亜紀のはずはない。龍平が自分の部屋に女の子を連れ込んでいたのだった。ドアを開けると、龍平と髪の毛を茶色にした女の子が二人で毛布にくるまっている。阿佐美は激昂した。
「何やってるの。あんたたち!」
「関係ねえだろ。出てけよ」
「いいから早く帰りなさい」
とにかくベッドから出そうと女の子の腕をつかむと、フニャフニャして全く埒があかない。まるで軟体動物のようだ。これがいい若者だろうか。
何とか女の子を帰したあと、
「あんた、まだ中学生でしょう。一体何考え――」
と言いかけたその時だった。突然頬に熱いものが走った。一瞬何が起きたのだろうと思った。龍平に殴られたのだと気付くまでには少し時間がかかった。
「な、何するの」
「うるせえんだよ。てめえだって男とやってんじゃねえか」
阿佐美は唖然とした。
「何てこと言うの」
「本当のことだろう」
この子は大石とのことを言っている・・・・。阿佐美は心臓を剣で突かれたような思いがした。
「あの人のことならもう・・・」
「うっせえな。汚ねえんだよ。いい年こいて男作りやがってこのエロババア!」
龍平はテーブルの上にあったコーラの入ったコップを思い切り床に叩き付けた。阿佐美を睨みつけるその目に、自分ではどうにも処理が仕切れない母親に対する憎悪がこびりついている。
「お母さんばっかり責めないで。お父さんだって浮気しているんだから」
阿佐美はそう叫びながら両手で顔を押さえて泣き出した。確かにそれは本当のことであった。しかしそれはあくまでも夫婦の問題である。十四才の少年に突きつけるべきことではない。生々しい両親の性を目の前にさらけ出された少年の感情がどのようにねじまがっていくのか。いや、ねじまがらなければならないのか、そして、この時本当に泣きたかったのは龍平のほうであったことに、阿佐美は気付くことはなかったのである。
「こんなうち、くさってる」
龍平はテーブルを蹴飛ばして外に出て行った。阿佐美は嗚咽をこらえながら、床にうずくまった。これまで自分が必死で築き上げてきた世界が壊れていく思いであった。
それ以来、龍平は何か気に入らないことがあるとためらいなく阿佐美に手を上げるようになった。
食卓に好きなおかずがない。ビデオテープの買い置きがない。掃除機の音がうるさい・・・・・・。そんな些細なことですぐにパンチや蹴りが飛んでくる。「やめなさい」そう強気に出るのが悪いのかと、すぐに謝ってみたりもしたが同じことであった。阿佐美がどういう態度に出ようと龍平の暴力が止むことはないのであった。
信也はその場面を目撃しても何も言わない。一度龍平を止めようとして、逆に龍平に鼻の骨を折られてからは見て見ぬふりをするようになった。それは姑のりつ子も同様で、龍平に「死ね、このクソババア」と言われてからは、龍平の存在自体を無視するようになった。それは幼い頃あんなにかわいがっていたことが嘘のように冷たい態度であった。
ある日の午後。買い物から帰ると玄関に見慣れない女物の靴があった。義姉の千春だ。何かお茶菓子でも出そうと急いで家に上がった阿佐美の耳に、かん高い千春の声が飛び込んできた。
「それでどうするのよ。お母さん」
「どうするっていったって、あんた。私がどうにかできる問題でもないのよ。全くあんなとんでもない子になるなんてねえ」
「阿佐美さんの育て方が間違っていたんじゃない」
「小さい頃はあんなに可愛がってやったのに」
「甘やかし過ぎたからいけないのよ。とにかくみんなで龍ちゃん龍ちゃん、なんだもの。今だから言うけどね、私はいつかこうなるんじゃないかと思ってたわよ」
「あんなんじゃどうしようもないねえ。近頃は学校にも行かないで遊んでばかりいるようだし」
「阿佐美さんは何してるのよ。黙って見てるってわけ?」
「知らないよ。口出しなんか怖くてできないもの」
「うちはその点、何も問題がなくてよかったわあ」
「もう龍平はいいよ。あきらめた。あんな子は孫でも何でもない」
「阿佐美さんもさ、あんな子に育てちゃうなんて母親失格よね」
阿佐美は耳を塞いだ。母親失格――。これでは何のためにあの子を今まで育ててきたのかわからない。思えば十四年前。男の子を生まなければ嫁失格だと言われて、この家の嫁として認めてもらいたい一心で龍平を――手に入れた。それがこの結果なのか。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。あんなに・・・あんなに実の息子として愛情を与えてきたつもりだったのに、何が悪かったのだろう。阿佐美はそのまま姑と小姑のいる客間の脇を通り過ぎ、二階の寝室へ行った。
一昨日、龍平に殴られたところが痛い。あざになっているかもしれない。阿佐美は鏡台に向かった。鏡に顔を近付けてみる。やはり目の辺りがうっすらと青黒くなっている。こんな顔でこれから店に出るわけにはいかない。一段濃いファンデーションを塗ろうと鏡台の引き出しを開けると、以前大石からもらった――いや正確には自分で買ったブローチが入っているのを見つけた。シルバーで作られたバラのモチーフの中心に、阿佐美の誕生石であるルビーが添えられたブローチだ。
大石に会いたい。そのブローチを手に取った瞬間、強烈にその思いが込み上げてきて、阿佐美は顔を覆った。
大石との別れは突然やってきた。四年前。大石を龍平に合わせてから阿佐美は真剣に大石との結婚を考えるようになっていた。信也に対する愛情などはもうとうの昔になくなっていたし、店の仕事も、もともと自分には向いていない。亜紀はどうせ自分にはついてこないだろうから、龍平だけ連れて家を出ればいい。幸い大石には子供はいない。きっとうまくいくに違いない。阿佐美はそう信じていた。
信也は阿佐美が離婚したいといえば、反対はしないだろう。もともと子供たちにはとんと無関心な父親であったし、阿佐美に対しても淡白であるだけ、未練などはなさそうである。阿佐美が他の男と会っていることも全く気付いていないはずはないのに、何も言ってはこない。大体、何も言ってこないというのはどういうことなのであろうか。
阿佐美は、大石との逢瀬を重ねるごとに、夜家を留守にするということに対して大胆になっていった。初めのうちこそいちいち言い訳を考えていたのが、だんだんそれも面倒になり、ただ「ちょっと出てきます」というだけで済ませるようになっていた。これでおかしいと思わないはずがない。それでも信也は妻に対して何を問いただすというわけではなかった。これは案外、妻が浮気してくれたほうが自分も自由にできて都合がいいというところかもしれないな、と阿佐美は自分勝手に勘ぐったものである。あとは大石が離婚話を進めてくれるのを待つだけだ。そんな甘美な思いの中に浸り切っていた阿佐美にとって、あの日起きた出来事は突然現れた悪夢であった。
それが現れたのは、昼の営業を終え、店が仕込みの準備に追われている時分だった。入り口が開いて、いきなり女が店の中に入ってきた。その時阿佐美は、直感でその背の低い小太りの女が大石の奥さんであるとわかった。どうしてわかったのかと聞かれてもうまくは説明できない。ただ直感としか言いようがなかった。
「すいませんね。まだ準備中で――」
りつ子が言いかけると、それを制するように、
「こちらに赤川阿佐美さんいらっしゃいますか」
女は化粧っ気の全くない顔を直に向けて言った。女にしては、低いくぐもった声であった。店にいた人間が一斉に阿佐美を見たのと、その女が行動を起こしたのはほぼ同時であった。女が胸元から何か光るものを取りだして阿佐美に向かってきたのだ。
「危ない!」
誰かの声に阿佐美はとっさに身体をよけた。女が手にしている光るものは包丁であった。女は包丁を持ったまま、また阿佐美に向かってこようとした。逃げ回る阿佐美を女が追いかける。調味料やナプキンがきちんと並べられていたテーブルはあっという間にぐちゃぐちゃになり、調理場では仕込み中の料理が次々と床にこぼれ落ち、店内は見るも無残な状態になった。
りつ子も信也も店の従業員も、あまりのことに呆然としてそこに立ちすくんでいるだけであった。女は阿佐美を執拗に追い回した。阿佐美はとうとう店の隅に追い詰められた。
殺される・・・・!
阿佐美はせまって来る女の顔を凝視しながら覚悟した。まさかこんな形で人生が終わりを迎えるなんて思っても見なかった・・・・。
そう思った時、いつの間に来たのか亜紀が阿佐美の前に立ちはだかった。調理場にあった包丁を両手に持ち、女に向けている。
「どきな!」
低い声で女が叫んだ。
「どかない。絶対にどかない」
亜紀は震える足を必死に踏ん張った。そこに従業員の誰かが呼んだのか、パトカーのサイレンの音がした。警察だ。警察が来た。
女が音に気をとられた瞬間に、信也が駆け寄って包丁を取り上げた。すぐに警察官が数人店に入ってきて、女はすぐに取り押さえられた。
「人のダンナを取りやがって! ちくしょう!絶対に許さねえからな!」
女は叫びながら連行されていった。女がいなくなっても阿佐美は床にへたり込んだまま立ち上がれずにいた。震えが止まらない。亜紀が起こしてくれなかったら一人では動くことすらできなかったであろう。殺されそうになったことよりも、あんな恐ろしい女が大石の奥さんだったことのほうがショックだった。
まさかあんな女が――。これはきっと悪い夢を見ているに違いない。阿佐美はそう自分に言い聞かせた。
「一体どういうことなの。これは!」
りつ子の金切り声に、我に返る。これは現実なのだ。そう実感したと同時に、阿佐美は深い絶望感に襲われた。
――あれ以来、一度電話で話をしたきり、二度と大石と会うことはなかった。その電話でのやり取りを阿佐美は今も克明に思い出すことができる。
「君か」
受話器の向こうから聞こえてきた大石の声は、それまで聞いたことのないほど暗く沈んでいた。
「悪かったね。迷惑かけて」
「本当に驚いた・・・」
「こっちもだよ。まさかあいつがあんなことするなんて」
阿佐美は大石から「大丈夫か」とか、「怖かっただろう、もう心配ないよ」という言葉をかけてもらえるのを待っていた。しかしそんな阿佐美の期待に反して、大石はただため息をつくばかりで、一歩間違えば自分のほうが阿佐美より大変なのだとでも言いたげなのであった。
阿佐美は仕方なくぐずぐずと甘えるのをやめ、通常の会話をすることにした。
「奥さんも別れたがっているのじゃなかったの」
「しょっちゅうそんなことを言っていたんだけどな。本心は違うんだとさ。わからないもんだよ」
口では離婚離婚と騒いでいてもいざ夫が本気で離婚を考え出したとたん、慌てて追いすがるような女はいくらでもいることは、阿佐美も知っていた。でも大石の妻だけは違う、条件さえ整えはすぐにでも別れてくれるはずだとどこかで思い込んでいたことに阿佐美は気付いた。どこまで自分本位だったのだろう。
「それで・・・・これから大丈夫なの」
本当は大石のほうから切り出してほしい話題だったのだが、大石が黙り込んだままなので渋々阿佐美からそう言った。
「大丈夫も何もないよ」
大石は、重い口調で事件のあった日の夜、妻が手首を切って自殺未遂をはかったことを告げた。
「そんな・・・・」
「もうこっちもクタクタでさ。まいったよ」
絶句する阿佐美に八つ当たりするような言い方であった。それはこっちのセリフだわ。と阿佐美は心の中で叫んだ。奥さんが自殺未遂をしたことは確かに気の毒なことかもしれないが、こちらがなぐさめるべき筋合いのものではない。まいっているのはむしろ自分の方だ。大石は夫婦の問題だけで済むかもしれないがこっちは家族を巻き込んでしまったのだ。夫や姑のいる前であんなことになるなんて・・・・。あれ以来阿佐美は家でも店でも針のむしろであった。
「そういうことだから。今は身動きが取れない。また連絡する」
大石とは結局それきりであった。阿佐美の元には三年間払い続けなければならないローンの残高のみが残されたのであった。
「私、これからどうすればいい?」
ある夜、阿佐美は信也に思い切ってそう聞いてみた。信也はあんな事件があったあとも相変わらず無視を決め込んでいた。まだ激しく問い詰められたほうがすっきりするのに・・・なぜこの人は何も言わず何も聞かないのか。これではまるで他人ではないか。
阿佐美はいつのまにか自身の罪はどこかに置き去ってしまい、自分の苦しさを作りだしている張本人として信也のことを責めていた。阿佐美は剣山の上を裸足で歩かされているような生活にはもう耐えられなかったのである。
「そんなこと俺に聞くなよ」
「だって・・・このままじゃ私どうしたらいいのか」
「出て行きたきゃさっさと出て行けばいいじゃないか。ただお袋は出て行くなら龍平だけは置いていけと言ってる。ここの跡取りだから絶対におまえに渡すわけにはいかないそうだ。亜紀はどっちでもいいよ」
阿佐美だって龍平とは離れたくなかった。ここで龍平を手放したら、一体何のために聡子を巻き込んであんなことを・・・・。阿佐美は信也が出ていってしまった寝室で、一人血がにじむほど唇を噛みしめた。
そもそも赤川家を出て行くといったところで、実家はもう両親と同居している姉夫婦の代になっていて、阿佐美がのこのこと出戻りのできるような雰囲気ではない。かといって、今さら外で働いて自立できる当てもない。結局のところ、阿佐美は婚家の人々に丸裸を見られているような恥ずかしさの中で暮らしていかざるをえなかった。そんな日々の中、隆平だけが阿佐美の支えであった。
「龍ちゃんと離れたくないからお母さんは我慢してこの家にいるしかないの」
「お母さんはね、龍ちゃんだけが頼りなのよ」
そんな阿佐美のグチを龍平はいつも黙って聞いてくれたものだった。亜紀は阿佐美をあからさまに軽蔑の目で見たが龍平だけは違う。阿佐美の気持ちをわかってくれている。そう思っていたのに・・・・。
階下から千春の笑い声が聞こえてきた。もう何も、何も聞きたくない。
阿佐美は固く耳を塞いだ。
少年
ゲームセンターの中は、信じられないほどの大音量が鳴り響いていた。
訳のわからないフレーズを繰り返しがなり立てる音楽、それに負けじと、大声を張り上げるアナウンスの声、それとメダルのぶつかり合う音や客たちの嬌声が交じり合い、ものすごいことになっている。いつもこうした場所に来るとひどい耳鳴りがして、そのうち必ず頭が痛くなる。
案の定、店内に入って数分もしないうちに、額の脇の辺りに不愉快な鈍痛が走り出した。奈津子はこめかみを押さえて顔をしかめた。そしてそのままの格好で、周囲にいる若者たちに視線を走らせる。皆この騒音の中、涼しい顔でゲームに興じている。一体この子たちの耳の構造はどうなっているのだろう。自動的に音量を調節する装置でも仕込んであるのではないだろうか。奈津子はやけになってそんなことを思いながら指先に力をこめた。
夏休みが始まってすぐのこの時期は、一年のうちで一番子供たちが非行に走る確立が高い。ということは必然的に、補導センターに勤める奈津子の仕事も今が一番忙しいということになる。奈津子が現在の職に就いたのは二年前。行政職からの移動であった。こうして若者たちが集まる盛り場を巡視して歩くことも、補導センター所員の重要な仕事の一つなのである。
おそらく女子高生だろうか。若い肌には似合わない派手な化粧をした、三人連れの女の子たちがぶらぶらと店内を歩いている。彼女たちを視界の中に入れながら奈津子は思う。自分があの年頃の頃は何をしていただろう。少なくともこんなところで時間をつぶすような真似は一切したことがなかった。
当時は一日も早く自立すること、ただそれだけを思って生きていた気がする。自分がきちんと就職して働きさえすれば、家の中の問題はすべて解決するものだと思っていた。そう思えば何があってもどんなことでも我慢できた。働いて自分の力でお金を稼ぐこと――。それだけが支えであった。
しかし――実際はどうだったのだろう。高校在学中に初級公務員試験に合格し、卒業後は念願通り公務員として働き出したけれど、今も現実は何一つ変わっていない。唯一変わったことといえば、兄の実が施設に入ったことだ。
ある年の冬、実は、近所に住む五才の女児を物陰に連れ込み、下着を下げていたずらをするという事件を起こした。そのことをきっかけに奈津子の家に――それは、ようやくと表現してもいいくらいであったが――行政の手が入り、実は重度の知的障害者ということで、区の養護施設に入所させられることになったのだった。
一方父はまだあの家にいる。奈津子は就職と同時に家を出てアパートで一人暮らしを始めていたが、だからといって父を放っておくわけにはいかず、今でも毎日のように自宅に立ち寄っては、父の面倒を見ている。父は起きている時はひたすら酒を飲み続け、寝て起きてはまた酒を飲む。排泄はすべて垂れ流し――そんな廃人同然のような暮らしの中につかっていた。
奈津子は家に入ると、決まった作業のようにシーツを交換し、布団を干し、洗濯物を片付け、父に食事をさせるのであった。つまるところ、奈津子の家の根本的な問題はあの頃と何も変わっていないのである。現実という名の塊は、今もまだ同じ場所に居座ったままなのだ。所詮奈津子がいくらお金を稼ごうが自立しようが、そんなことだけでは何も変えることなどできなかったのだ。
人生に疲れた――。この言葉が似合うようになるのは一体どれくらい生きてからなのだろう。いや、それは違う。長く生きたから人は疲れるのではない。その人生の質が重要なのだと奈津子は思う。その意味では奈津子は三十を越えたばかりであるが、もう充分に疲れ切っていたのであった。
「どうやら特に問題はなさそうだね」
一緒に巡視に出ていた、同僚の原口という男が言う。
「しかしいい若い者が、真っ昼間からこんなところにたむろってピコピコやってるなんて、エネルギーがもったいないとつくづく思うよ。こういう子供たちに、青空の下で思いっきり野球なんかさせたら非行問題なんか一気に解決するんだけどなあ」
昔、野球小僧だったという原口は、こういう話が好きである。
「でも野球ができない子だっていますよ」
「いいんだよ。それだって。みんなで汗を流すことが大事なんだから」
原口がバットを振る真似をした。
だからそういうことの嫌いな子だっているでしょう、と奈津子は心の中でつぶやいた。
無意味な議論をしても仕方がない。たとえば、野球が好きな子供は自分以外のみんなも野球が好きに違いないと思っている。他の価値観を知らないのだ。
奈津子が学生時代に出会った教師にもそういう考え方をする人は多かった。この原口もきっとそうしたタイプの人間である。人はあまり大きな挫折を知らないまま育つと、自分自身の価値観が絶対的なものであると思い込んでしまうものなのかもしれない、奈津子はひそかに思っている。
原口のように、たまたまスポーツが得意だったり、あるいは勉強ができたりと、何かに打ち込める子はいい。でもそれは「たまたま」に過ぎないのだ。世の中には何かに打ち込めるほどの才能を神から授かっていない子の方が圧倒的に多い。
特に得意なこともなければ、それほど好きなことも見つからない。そんな子供は有り余るエネルギーをこうした場所で発散させるしかないのである。
奈津子自身は、いわゆるまじめな学生時代を送ってきた。あくまで外から見える印象は、という意味であるが。しかしあの頃、心の底に流れていたものは、そんな外見とは明らかに違うものであった。
こういう仕事をしていて矛盾していることは自分でもわかっているが、奈津子は非行少年と呼ばれる彼らに共感とまではいわないが、一種の憧れのような感情があるのであった。この原口のように、子供たちを更正させなければ、非行の芽をくい止めなければという強い思いは自分にはない。もっとはっきりといえば、彼らの反抗を応援したくなってしまうのである。そういった意味では、自分は一番この仕事には向いていない人間なのかもしれないと思う。
奈津子がまじめな学生であったのは、奈津子自身の意思ではなかった。家庭の状況が横道にそれることを許さなかった。そんな余裕はどこにもなかったのである。ティーンエージャーであったあの頃、何も考えることなく、思うがままに非行という道に走れたらどんなによかっただろうか。しかし子供にとって、反抗し得るだけの何かとてつもないものがそこになければ、何をしようとそれはもう非行とはいわない。ただの一人の大人の行為に過ぎないのである。
これまで多くの少年たちと関わってきた結果、気付いたことがある。非行少年と呼ばれる子の目には特徴があるのだ。目つきが悪いとかそうした問題ではなく、彼らの目には全くといっていいほど生気がないのである。だがどんなに悪いことをしていても、基本的に親の愛情を受けていると思われる子供はそうした目をしていない。悲惨なのは、目に諦めが宿っている子供たちである。世の中に絶望している目なのである。その目に出会うたびに、当時の自分もあんな目をしていたのだろうか。と奈津子は彼らに自分の姿を重ねている。
この仕事には向いていないのかもしれないが、奈津子は少年たちと接することは嫌いではなかった。危うい年頃の子供たち、特に少年は、それだけで独特の存在であると思う。
「じゃあ、次行きますか」
「そうですね」
奈津子と原口は、ゲームセンターを出てまた大きな通りに戻った。
その時。少し先にある書店から、少年たちが二、三人飛び出してきた。
「万引きだ!」
そのあとを店主がすごい形相で追いかけてくる。少年たちが奈津子のほうに向かって走ってくる。とっさに奈津子は「待ちなさい」と叫んだ。一人の少年が、びくついたように一瞬奈津子を見た。その目に奈津子は見覚えがあった。救いようのない絶望を底に潜ませた目。今までに何度もこんな目をした少年たちと出会ってきた。でもそれだけではない。この子は・・・・。少年たちはT字路まで出ると、そこでバラバラの方向に散った。
「隆平、乗れ」
少年の前に別の少年の乗ったバイクが止まり、少年はバイクの後ろに飛び乗った。
「待て!」
店主が追いかける。自分も一緒に少年たちを追おうと走りかけた奈津子を原口が止めた。
「無理に追跡しないほうがいい。警察に連絡してくる」
公衆電話に向かって走っていく原口に、
「お願いします」
そう言葉をかけ、奈津子はまた少年の乗ったバイクに目をやった。
すべては一瞬の出来事であった。少年の乗ったバイクが停車してあった車に激しく追突した。少年の身体が宙に舞ったー―。
真実
「乳ガン検診ですね」
受付にいた看護婦が、書類を揃える手を止めないまま無愛想に言う。
「これにご記入してお待ち下さい」
奈津子は差し出されたバインダーを受け取り、待合室の椅子に戻って上から順番に書き入れていった。初潮の年齢、最終生理日まで記入したところで奈津子はペンを止めた。
「妊娠・出産の経験がありますか」
この何気ない質問が、いつも奈津子をひどく悩ませる。必要なことなのだから仕方がないとわかってはいてもとにかく腹立たしい。問診をする側の人間である医師、特に男性の医師はこうした類の質問を受けるたび、身がねじれるほどの苦悩に苦しむ女がいることを少しは知っていてくれるのだろうか。奈津子はどこからか込み上げてくる苦い感情を噛みしめながら「はい」のほうに丸を付けた。
出産の経験は確かにあるが、授乳をしたことはない。あの十八才になる年の春。生まれた赤ん坊に一度もお乳を含ませることはなかった。
金曜の午後のせいか、婦人科は混み合っていた。一度立ち上がるとすぐに他の患者が空いた場所に座ってしまい、戻るところがない。とりあえず立っているしかなさそうだ。奈津子は受付にバインダーを返し、その横の壁に軽くよりかかった。
(検診か・・・)
カーディガンの上からそっと乳房を押さえてみる。右側の乳房に前から気になっていたしこりがある。医学書を読んで仕入れた知識から、おそらく悪性のものではないだろうという思いと、病院に来るのがおっくうでずっとそのまま放っておいた。奈津子が特に宗教的な思想を持っているというわけではないが、死んだら死んだまでのことだ、という思いがどこかにあるのは事実だった。しこりを見つけたからといって、さあ助けてくれとばかりに、あたふた騒ぎまわる気にはなれないのであった。
今日この病院に来たのも、検査を受けることが一番の目的ではなかった。いわば検査は、そのついでといってもよかった。他の大事な目的があるのであった。
検査が済んだ時には、外はもう夕闇がせまっていた。
支払いが済んでも奈津子はすぐには帰らずに、そのままロビーの椅子に座り続けていた。あと少しで診療時間が終わってしまう。そうしたらここに座っている理由はなくなる。やはり勤務のシフトを確認してから来ればよかったかもしれないーー。そう後悔しかけた時だった。
来た。髪の毛を小気味いいほど短く切り揃えた看護婦が歩いてきた。奈津子は場所を移動しながら彼女に近付き、すかさず胸のネームを見た。
「平沢聡子」
間違いない。あの人だ。よかった、やっぱりまだここで働いていたのだ。奈津子はさっき触診してもらったた医師から、なぜもっと早く来なかったのかと渋い顔で叱られたことなどすっかり忘れていた。
初めてあの人を見かけたのは三年前。急に胃の調子が悪くなり、奈津子はたまたま最寄り駅から近いこの病院を訪れたのだった。胃のほうはすぐに治ったが、それよりも――平沢聡子という名前の看護婦がここで働いているということが奈津子には衝撃であった。平沢聡子という名前には覚えがあった。
十四年前のあの日、奈緒子は永井産婦人科の裏口に隠れるように立っていた。赤ん坊が誰かに保護されるのを見届けるまで、どうしてもそこを立ち去ることができなかった。そして一人の看護婦が赤ん坊を抱き上げた。その看護婦の胸についていた名札の文字を、奈津子はずっと覚えていたのである。
今回この病院に来たのは彼女に会うためだった。十四年間心の奥底に封印してきたあの疑問を、どうしても彼女に聞かなければならない。彼女なら知っているはずなのだ。もし彼女があの赤ん坊を保護した看護婦本人であるならば。
本当は、乳がん検査などはどうでもよかった。死ぬときは死ぬ。それでいい。その疑問の答えだけが奈津子の知りたいことであった。
奈津子は静かにその看護婦に近付いていった。
「あの・・・すみません」
「はい。どうかしました?」
彼女は、微笑を奈津子に向けた。
「あの・・・」
「はい」
「失礼ですが、平沢聡子さんですよね」
「そうですけど・・・・・」
「ちょっとお話したいことがあるんです」
奈津子は彼女の目を見据えて言った。
彼女の顔から患者に向けるための笑顔が消え、代わりに明らかに警戒の影が浮かんだ。十四年前、病院の裏の薄明かりの中で見たあの看護婦がこの人なのかどうか、奈津子には判断がつかなかった。
「何でしょう」
「できればどこか他の場所で」
「いきなりそう言われましても・・・」
「失礼なのはわかっています。でもお願いします」
「あの、ご用件は何なんでしょう。私に何か」
「ですので、それはその時に」
「今日私、夜勤なんですよ」
「少しだけでいいんです。何時でもかまいません。待っています」
「でも・・」
「お願いします」
彼女は観念したように、じゃあこの地下にコーヒーが飲めるところがあるのでそこで待っていてほしい、あと三十分ほどしたら行けると思う、と言った。
「そんなに時間は取れないと思いますけど・・・」
「大丈夫です。すぐに終わります」
指定された場所で奈津子は待っていた。病院内に併設してあるコーヒーショップだ。面会に来た人が立ち寄るのだろうか。サンドイッチやエビピラフなどの軽食もメニューに載っている。今まであまり病気や入院などとは縁のなかった奈津子には、病院の中にこうした俗っぽい場所があること自体がとても不思議な気がする。
きっかり三十分たったところで彼女がやってきた。一度店内を一周するように見回し、奈津子の姿を見つけ近付いてくる。
「お待たせしました」
「すみません、お仕事中なのに無理を言って」
「いえ。それでご用件は」
「突然ごめんなさい。以前永井産婦人科という病院で働いていませんでしたか」
「え・・・」
「十四年前です」
「確かにそこに勤務していたことはありますけど・・・それがどうかしたんですか」
奈津子は迷った。今十四年前に起きたことをこの人に告白したら、何かの罪にとわれるのだろうか。でもそれでもかまわない。たとえ法に裁かれようとも、あの頃と違い、今の奈津子には守るべきものなどない。それよりもこの機会をのがすことはもう絶対にできない。
「十四年前、あの病院の裏口に捨てられていた赤ん坊を覚えていらっしゃいますか」
「・・・・」
「私・・・」
聡子は目の前にいる女性を改めて見た。自分よりおそらく十歳ほど若いだろうこの女性は・・・。
「もしかしてあなた――」
聡子が言うと女性はかすかにうなずいたように見えた。
「あの子の母親です」
やはりそうか。しかしあの赤ん坊の母親が今更自分に何の話があるというのだろう。そもそもなぜ自分のことがわかったのか。聡子は気を落ちつかせるため、ウェイトレスが運んできたコーヒーをブラックのまま一口飲んだ。
「あの時のこと覚えていますか」
女性はもう一度同じ質問をした。
覚えている。忘れるわけがない。
聡子は黙って首を縦に振った。
「どうしてもあなたにお聞きしたいことが」
「ちょっと待って下さい。なぜ私に・・・」
「あなたがあの子を保護してくれた看護婦さんだからです」
「・・・・」
「そうですよね」
女性は聡子の顔をまるで睨むような目で見据えている。その迫力に押されるように聡子は小さく「ええ」と言った。
「私が生んだのは男の子でした。それは絶対に間違いありません」
「――」
「それがあのあとの報道では、置き去りにされていた赤ん坊は女の子だということになっていました」
「――」
「どうしてでしょう。これはどういうことなんでしょうか。私が生んだ赤ちゃんはどこにいってしまったのでしょう」
聡子はまだ黙っていた。
「我が子を捨てた私が今更こんなことを言い出すのはおかしいってわかっています。もちろん何があったにせよ、誰かを非難したりするつもりはありません。私にはそんな資格なんかないですから。でも・・・どうしても本当のことが知りたいんです」
「知ってどうなさるおつもりですか」
「どうもしません」
女性は少し間を置いて話し出した。
「こんなことを言ったら軽蔑されるかもしれませんが、あの子を手放したこと、後悔はしていないんです。あの時の私はまだ若くて・・・若すぎるほど若くて、何も知らない未熟者でした。ああする以外、他にどうしようもなかった。他の方法なんて思いつきもしなかった。自分を弁護するつもりはないですけど、あれがあの時の私の精一杯でした」
この女性の言っていることはきっと本当なのだろう、と聡子は思った。おそらく三十になったかならないかというこの人が赤ん坊を産んだ頃は、逆算すればまだ十代だったと思われる。あの状況から出産の様子を想像することは、仮に聡子が看護婦でなかったとしても容易であった。少なくとも病院で手厚いケアを受けながらのそれではなかったことは確かだろう。
十代の女の子がたった一人で子供を生んだ。どんなに不安で苦痛だったことか。想像しただけで気の遠くなる出来事である。悲しいことだけれど、この人のとった行動を誰も非難はできない。
そして聡子は更に思う。少女は自分の産み落とした小さな命を託したのだ。消してしまうことなく。それは赤ん坊の命を救ったのと同じことである。それなのにその少女の行為を我々が利用してしまった・・・・。
「でも・・・この十四年間あの子のことが頭から離れた日はありません。ずっとずっと考えていました。不思議だったんです。どうして私が生んだ赤ちゃんが女の子ということになってしまったのか。よほどあの病院に行って聞いてみようかとも思ったんですけど、結局そんな勇気はなく、ここまできてしまいました」
女性が声をつまらせた。
「ごめんなさい」
「いえ・・・」
聡子は逡巡した。何も知りません、と言って済ませることもできるだろう。しかしそれが許されることなのだろうか。
「それでどうしてもあの時、あの子を保護して下さった看護婦さんにお聞きしたくて。ずうずうしくこんな・・・・ほんとにすみません」
「私のことはどうして・・・」
「お名前を覚えていたものですから」
その答えで、聡子はこの人が十四年前のあの日、一部始終をどこかで見ていたのだと悟った。十七、八才の少女が、身体が辛いのもかまわずじっとどこかに身を潜めて、我が子の安否を案じていたのだ。
それなのに・・・大人であった自分のした行為は、何と愚かなものであったのだろう。もし誰かが責められるべきだとすれば、それはこの人ではなくこちらのほうかもしれない。
「わかりました」と聡子は言った。
このことがもし世間に知れたら、看護婦としてはもう働けなくなるかもしれない。でも聡子はたとえそうなってもかまわないという気になっていた。この人の真剣さにきちんと向き合う責任が自分にはある。この人の十四年間の苦悩を引き受けなくてはいけない。
「お話します」
コーヒーカップを置き、聡子は話し出した。
あの時永井産婦人科の裏口で保護した赤ん坊は確かに男児であったこと。それがたまたま同じ日に出産した友人が赤ん坊を交換してほしいと言ってきたこと。個人的な事情からその頼みを断り切れずに、そのようにしてしまったこと・・・・。
女性は聡子が話している間中、身動き一つせずに聞き入っていた。すべてを話し終えた時、聡子はどこか清々しいような気持ちになっていた。重い荷物を降ろしたような爽快感であった。ただそれはやはり一瞬のことで、すぐにまた自分のせいで二人の子供の運命をもて遊んでしまった罪悪感が襲ってくる。
「そうだったんですか・・・・」
女性は深くため息をついた。
「私の息子の代わりに、その女の子が施設に預けられたんですね」
「ええそうです」
「私の・・・・私の息子の名前は、何というんでしょう」
「赤川龍平くんといいます」
「龍平・・・」
どこか悲しげに見える彼女の顔がゆがんだ。彼女は顔を覆い、低く嗚咽を漏らした。
やはりそうか。聡子は彼女の様子に自分の想像が当たっていたことを知った。この人は何かの偶然で成長したあの子に会ったのだ。母親としておそらく何か感じるものがあったのだろう。そしてあの子がバイクの事故で亡くなったことを知り、以前から見かけていた自分のところにやってきたに違いない。
聡子は胸の名札を右手で軽く握った。
「・・・あの子は幸せだったのでしょうか」
「ええ、友人は龍平君のことをとてもかわいがっていました」
「そうですか」
そう、阿佐美はあの子をとても可愛がっていた。それは確かである。それがあの子にはなぜか良い作用を及ぼさなかっただけなのだ。
二人の女はしばらくその場所にいた。聡子は、十四年という歳月を経て、あの赤ん坊に関係する二人の女がここに向かい合っていることの不思議さを思っていた。強い西日が二人の横顔を遠慮なく照らした。
見知らぬ娘
龍平が笑いかけている。こちらに向かって笑っている。
「龍平・・・・」
阿佐美は龍平の遺影に微笑みかける。龍平、と何度も呼びながら。そうしているだけで気持ちが安らいでくるのがわかる。
龍平が、あの龍平が死んでしまった――。隆平がもうこの世のどこを探してもいないということが阿佐美にはどうしても信じられなかった。あの日から何日過ぎても龍平がいなくなったことの実感がわかない。阿佐美の時間は隆平がバイクで事故に遭った日からずっと止まったままなのであった。
背後でふすまの開く音がし、
「またここにいたのか。母さんが探してたぞ」
信也が阿佐美に話しかけるが、阿佐美は黙っている。
「いつまでこうしているつもりなんだ。隆平はもう死んだんだぞ」
信也の声に苛立ちが交じる。
もう一周忌も済んだというのにいつまでも店に出ようとしない阿佐美にいらだっているのだ。
「いいかげんしっかりしてくれよな。店だって暇じゃないんだから」
信也は吐き出すように言い、荒々しくふすまを閉めて出て行った。
あの信也の様子では、りつ子もきっと阿佐美のことを何の役にも立たない嫁だと悪口を言っているに違いない。そういえば、最近小姑の千春が連日のように顔を出しに来る。以前の阿佐美なら千春が来れば気をつかっていそいそと奉仕をしたものだが、今はとてもそんな気力はない。
もう姑も小姑も夫もどうでもよかった。あの人たちに何を言われてもかまわない。そんなもの、龍平を失ったこの苦しさに比べたらーー。阿佐美は目の前の遺影を抱きしめるように撫でた。もしかしたら信也の言うように仕事をしているほうが気がまぎれるのかもしれないが、やはりそんな気にはなれない。
夫は、自分でお腹を痛めたわけじゃないから、龍平が死んでもあんなに淡々としていられるのだ。男親には所詮母親の苦しみなどわからない。そこまで考えて阿佐美はふとおかしくなった。
自分だってあの子を産んではいないではないか――。そんなことも忘れている自分がおかしかったのだ。もし今信也がここに入って来たらさぞ怖がるだろう。妻が遺影の前に座ったまま薄ら笑いを浮かべているのだから。阿佐美はまたおかしくなって声を上げて笑った。そのうち涙が頬を伝い流れた。
玄関でチャイムが鳴った。
しばらく無視しているとまたピンポンと鳴る。誰だろう。こんな時間に客などめったに来ないのに。何かのセールスだろうか。阿佐美はのろのろと立ち上がった。
戸を開けるとそこには見覚えのない女の子が立っていた。
「こちら・・・赤川龍平君のお宅ですよね」
「何か?」
阿佐美は無愛想に答えた。その女の子の風貌に驚いたからだ。濃い化粧に金色に染めた髪の毛。これ以上は一ミリたりとも短くはできないと思うほどの丈のスカートをはき、これもピアスというのだろうか、下唇のところに銀色の玉がぶら下がっている。
阿佐美はあからさまに警戒心をむき出しにしてその子を見た。一体こんな不良娘がどうして龍平のところに来るのだろうか。
「あの、あたし・・・龍平君にお線香を上げさせてもらおうと思って」
「あなた・・・龍ちゃんとどういうご関係ですか」
「友達です」
友達? こんな子が?
「あたし――」
初めて家に来たというのに、ものおじもせず、じっと阿佐美の目を見ながら何かを言おうとする女の子を見ているうちに阿佐美は急に怒りがわいてきた。
「変なこと言わないの!」
いきなり大声を上げた阿佐美を女の子が不思議そうに見る。
「龍ちゃんがあなたみたいな子と付き合うわけないでしょう。帰りなさい。うちには上げられません」
女の子はまだ何か言いたそうに口を動かしたが、阿佐美がにらみつけると、すぐ観念したようにすみません、と言った。そしてもう一度「本当にごめんなさい」とつぶやくように言い、帰っていった。阿佐美はいまいましい思いですぐに戸を閉めた。
そしてまた仏壇の前に座り、龍平と二人きりの世界に戻るのであった。それきりその女の子のことは阿佐美の記憶から消え去ってしまった。
身体が重い。夜勤をこなすのが年ごとにきつくなってくる。
やれやれ。聡子はアパートの急な階段を手すりに助けられながら何とかやっつけ、ドアノブに鍵を差し込んだ。ドアを半分ほど開けたところで部屋の中で電話が鳴っているのに気付いた。慌てて靴を脱ぎ、受話器を取ると、
「おばちゃん」
友恵の声がした。しかしいつものはずんだような声ではない。消え入りそうなかぼそい声であった。
「どうしたの。何かあったの」
聡子は思わず受話器を強く握りしめた。
「私・・・・もうどうでもよくなっちゃった」
「どういうこと?」
「もう、どうだっていいんだ」
「あなた・・・・また何か変なことに手を出しているんじゃないでしょうね」
以前友恵は、覚せい剤に手を出して補導されたことがある。聡子は嫌な予感がした。
「だってもうどうだっていいんだもん。あたしの人生なんか」
「友恵ちゃん?何があったの。きちんとわかるように話しなさい」
「おばちゃん、ごめん。あたし・・・あの人に会いに行っちゃった。絶対会いになんか行かないって言ったのに、約束やぶってごめん」
友恵が阿佐美に会った・・・。聡子は友恵の次の言葉を待った。
「あたしのこと、娘だって気付いてくれるかなあ、なんて思っちゃったんだ。ばかみたいだね。でももうどうでもいい」
しぼりだすようにそう言い、電話は切れた。
友恵が阿佐美に会いに行ったなんて・・・。聡子はついさっき肩から外したばかりのバックをもう一度つかみ部屋を飛び出した。身体は泥のように疲れていたが、そんなことにかまっている場合ではない。あの友恵の様子は尋常ではなかった。何かあったのだ。阿佐美と友恵の間に何か・・・・。
道を走りながら嫌な予感が胸に満ちてくるのを聡子は必死で打ち消そうとしていた。
実は、阿佐美の娘、友恵のことを聡子はずっとひそかに見守ってきたのであった。本来なら実の両親のもとで何不自由なくすくすくと育つはずだった子。それが自分のせいで施設に入る運命になってしまった子をどうしてもそのまま見捨ててしまうことはできなかった。
乳児院から養護施設、また他の養護施設と友恵の居場所が移るたびに、聡子は様々な方法で彼女の消息を把握することにしていた。
友恵が小学校四年生の頃、里親の家に行くことが決まった時は、これであの子もやっと幸せな家庭の味を知ることができる、よかったよかったとひそかに喜んだものだ。しかし友恵はわずか三ヶ月で里親のもとから施設に帰ってきてしまった。その理由は聡子にはわからなかったが、施設の関係者によればこういうことはよくあるのです、要は相性の問題でしょう、ということらしかった。
その後友恵は、二度と里親に預けられることもなく施設から学校に通い、中学校を卒業した。卒業後は高校には進学せず、友恵は施設を出てアルバイトをしながらアパートを借りて一人暮らしを始めたのであった。
義務教育を終えたとはいえ、施設から高校に通うことも当然できるのだが、友恵はどうやら自立の道を選んだらしかった。それはあまりにも早過ぎる、聡子の目には痛々しいほどの自立であった。
友恵がアルバイトをしていたのは、アパートの近くのコンビニであった。聡子は友恵のアパートの近くに住まいを移し、何度か客を装い、その店に通った。どうせ気ままな一人暮らしである。勤務先の病院から極端に遠いところでなければどこに住もうが聡子にとっては大した問題ではなかった。それよりも友恵の近くにいたかった。
これまでのように、聡子と友恵の間に施設という公的な塀が取り払われたということは、この先いつ友恵を見失ってしまうかわからないということでもある。何しろ友恵は自由なのである。明日引っ越してしまおうがどこかに長期の旅行に行こうがすべて彼女の意思一つなのだ。せめて友恵の居場所がわかっているうちだけでも、そばにいておきたいと思ったのである。
何度かその店に通ううち、友恵は聡子の顔を覚えたらしく、聡子が行くと「こんにちは」と商売用のマニュアルではない挨拶をしてくれるようになった。
ある時いつものように仕事帰りにコンビニに寄ると、ちょうど入り口から友恵が出てくるところだった。
「あら」
「こんにちは」
聡子と友恵はどちらからともなく挨拶を交わした。
「もうお仕事終わり?」
「今日はお休みなんです。今ちょっと忘れ物を取りに来て」
「そうなの」
聡子が友恵と直接口を聞いたのはこの時が初めてであった。
「これからどこかに行くの?」
「いえ別に」
「そう、あなたお腹すいてない?」
もう昼時であった。聡子にすれば、たった十五才で自活している友恵が不憫で少しでも食費を浮かしてやりたいという思いからであったが、友恵にとって聡子は時々店に来る客でしかないはずだ。そんな人になれなれしくされるのは変なものだろう。警戒されるかなと思ったが、
「すいてます」
友恵は素直に言った。今どきの若い子なら、何なの、変なおばさん、などと悪態のひとつもつきそうなものだが全くそんなそぶりはない。可愛い子だ。聡子は愛しさが込み上げてきた。
「じゃあ、よかったらおばさんが何かおごってあげるわ。どこかに行かない」
「はい」
聡子の誘いに友恵はまた素直にうなずく。
聡子は思いがけずこんな展開になってしまったことに少し戸惑いながらも嬉しさがわいてくるのをおさえられなかった。
友恵が行政の手を離れ、自由になったということはこちらも自由に友恵と接触できるということなのだ。今までは施設の職員や法律などが見えない壁になって直に触れ合えなかったが、これからは一個人として友恵と付き合うことも可能だ。それに何より、実の親の顔を知らずに成長したにもかかわらず友恵の精神が真っすぐに育っているらしいことが聡子には嬉しい発見であった。
「何が食べたい?何でも好きなものを言ってね」
「好き嫌いはないんで、何でもいいです」
ということで、二人は連れ立って周囲の飲食店を数件回ったが、ちょうどサラリーマンらのランチタイムに当たっていたこともあり、どこも満杯であった。車でならともかく徒歩で行ける範囲にはもう目ぼしい店はなさそうであった。聡子は困惑したが、友恵はニコニコしながら、
「その辺で何か買って外で食べませんか」
と言う。結局友恵の提案通り、テイクアウトのサンドイッチと紙パックのコーヒーを買って、穴場だという公園で食べることになった。
「悪いわね。おごってあげるなんて言ってこんな食事になっちゃって」
恐縮する聡子に、友恵は、
「全然。お金がない時はいつもこうしてるから」
あっけらかんと言い、ハムと卵のサンドイッチをほおばった。
聡子は四十を過ぎて若い女の子と公園のベンチに並んでパンをかじっている自分が何だかおかしくなり、わざと、こういうのもいいわね、と大きな声で言った。そんな聡子に気を許したのだろうか。友恵が二つ目のサンドイッチに手をつけながら、
「あたしね、親がいないの」
いきなりそう口にした。
「そう」
聡子は努めてさりげなく答えた。
「親の顔も知らないんだ。どんな人かどこに住んでいるのか。ううん、生きているのか死んでいるのかも知らない」
「そうなの」
答えながら聡子はひょっとして友美は自分のことを母親の友人だと知っているのではないか、とも思ったが冷静に考えればそんなはずはない。きっとただ誰かに自分の身の上を話したくなったのだろう。
「お母さんに会いたい?」
聡子の質問に、友恵は少し間を置いてから口を開いた。
「うん。まあね。でもどこにいるのか全然知らないから無理。あたし実の母親から捨てられたんだって」
「誰がそんなこと言ったの?」
「中学ん時のセンコー。あたしあんまりまじめじゃなかったから、あたしのこと気にくわなかったんじゃないかな。そんなだからおまえはお母さんに捨てられたんだ、施設にやりたくなったお母さんの気持ちもわかる、だってさ」
そんな話をしたあとですぐに、このサンドイッチおいしいね、などと笑ってみせる友恵が聡子はいじらしかった。できるなら友恵を抱きしめてやりたいと思った。
「私ね、あなたのお母さんを知っているのよ」
そう口にしたとたん、聡子は激しく後悔した。なぜこんなことを。今までせっかく遠くから見守ってきたのに。友恵が警戒したらどうするのだ。
しかし友恵は聡子の意表をつくように、
「知ってるよ」
と驚きもせずに言った。驚いたのは聡子のほうであった。
「えっ・・・・」
「おばさん、ずっとあたしのこと見ていてくれたでしょう。施設にいた頃、よく外からおばさんがこっちを見てたの気付いてたよ。コンビニで働くようになってすぐ、おばさんがお客さんとして店に来てくれたじゃん。それで、ああ、やっぱりおばさんは他の子じゃなくて、あたしのこと見てたんだなって確信したの。初めはね。おばさんがあたしのお母さんかもしれないなんて思ったりもした。そうだったらいいのになって。でもさ、よくよく考えたら、おばさんとあたしって全然似てないじゃん。だからたぶん、お母さんの知り合いか何かなのかなあ、なんて勝手に想像してたんだ」
「そう・・・・」
何と聡明な少女なのであろうか。聡子は感慨深い思いであった。
「友恵ちゃん、お母さんに会いたい?」
聡子がもう一度聞くと、友恵は今度は間を置かずにうんと言った。聡子は迷った。今この子に阿佐美を会わせることがはたしていいのかどうか。
「おばさん、お母さんに会わせてくれる?」
「それはいいけど・・・その前にあなたに言っておきたいことがあるの。今お母さんには、あなたの他に子供がいてね――」
「いいの、わかってるよ」
友恵は聡子の言葉をさえぎるように言った。
「いろいろあるんでしょ。わかってる。だからこっちから名乗り出たりはしない。ただどんな人か見てみたい。それだけなんだ」
「友恵ちゃん・・・・」
「ほんとだよ。あたしを産んでくれた人に会えればそれでいい。おばさん、あたしを一体いくつだと思ってるの。もうお母さんなんて甘えるような年じゃないんだよ」
友恵は心配しなくてもいいよ、というふうに鼻にしわを寄せて笑ってみせた。
「お母さんに会ったからといってどうこうするというつもりはないよ。ただ会ってみたいの。それだけでこれから頑張って生きていける気がするんだ」
自分を産んだ母親に会うことで、この子は自身の人生にけじめをつけたいのではないか。聡子はそう思った。自分の出生のありかをきちんと納得したうえでこれから先の人生を前向きに進んでいきたい。そんな友恵の気持ちを聡子はよく理解できた。
「わかったわ。おばさんがお母さんに会わせてあげる」
聡子は友恵を「花ふじ」に連れて行った。もちろん店の中には入らない。外からこっそり阿佐美に会わせるつもりだったが、二人が行くとちょうど阿佐美が外の掃除をしているところであった。聡子は阿佐美に見つからないよう、自分は少し離れて友恵を見やすい場所に立たせてやった。せっせと掃除をする阿佐美の姿を友恵はじっと見ていた。聡子がもういい?と声をかけるまで目を離さなかった。
「ありがとね。おばさん」
阿佐美に会ったあとも友恵の態度には変わりがなかった、だが、聡子は念をおさずにはいられなかった。
「あのね、友恵ちゃん。しつこいようだけど、今はあなたとお母さんが直接会うにはまだ早いと思うの。お母さんにはお母さんの生活があるし、ううん、だからといってそれはあなたのことを忘れたというわけじゃないのよ。でも今無理にお母さんに会えば、もしかしたらあなたが傷付くこともあるかもしれない。おばさんはそれが怖いのよ。いつか必ず自然に会える時がくると思う。その時がきたら私はいくらでも力になってあげる。だから――」
「わかってるよ」
友恵は笑っていた。
「会いに行ったりなんてそんなばかなこと絶対にしないから。約束する」
そう言って笑っていたはずなのに。あんなに明るく笑っていたのに・・・・。
脇道を入って突き当たったところに友恵のアパートがある。
聡子は古いアパートにありがちな急な傾斜の階段を駆け上った。チャイムを押すのももどかしく、直接ドアノブを回してみる。鍵はかかっていない。ドアを開けたとたん独特の匂いが鼻をつく。
聡子は口を押さえながら部屋の中に上がった。奥の襖を開けると、六畳ほどの和室に若者たちが五、六人寝そべっていた。みんな目の焦点が合っていない。明らかにクスリをやっている。友恵は以前警察に補導された時、迎えに行った聡子に泣きながらもうクスリは絶対にしない、と誓ったはずなのに。どうしてこんな・・・・。しかし室内に友恵の姿はなかった。
「あなたたち!」
聡子はその中の一人の肩をつかんでゆすりながら叫ぶように言った。
「友恵ちゃんはどこ? あの子はどこにいるの!」
「友恵なら出てったよぉ」
だらしなく口を開けた少女がろれつの回らない声で言う。聡子はすぐに部屋を出た。友恵から電話を受けた時から感じている嫌な予感は勢いを増している。
通りに出ると、少し先で人だかりができていた。聡子は慌てて駆け寄っていった。
「マンションから人が飛び降りたんだってさ」
「やだ、自殺?」
「若い女の子だって」
「即死らしいよ」
聡子はなおも襲いかかる嫌な予感を打ち消しながら人ごみをかきわけて前に進んだ。そこで聡子が見たものは――友恵がアスファルトに横たわっていた。頭部から血が水溜りのように流れ出ている。聡子は意識が遠のいていくのを必死でこらえた。
友恵が死んだ。自殺だった。
遺書はなかったが、警察の検証によると、遺体の状況等から見て衝動的に飛び下りたということであった。マンションの最上階には、友恵の履いていたブーツがきちんと揃えて置いてあったらしい。一体友恵に何があったのか。「もうどうでもいいんだ」あの時の電話の声。あれは間違いなく人生に絶望し切った声だった。
与えられた人生を恨むでもなく、あれほど前向きに立ち向かおうとしていた子を死に追いやるほど絶望の淵に落し入れたものは何だったのか。聡子は考え続けていた。
友恵は、阿佐美に会いに行った、と言った。友恵は自分の意思で阿佐美に会ったのだ。その際、阿佐美と友恵の間でどんなことがあったというのだろう。間違いなく何かがあったのだ。友恵を苦しめた何かが。それで自暴自棄になった友恵は、もうやらないと誓ったクスリに手を出し、あげくのはてに絶望の中で死を選んだ。
聡子はその原因を何としても知りたかった。自分にはその義務がある。もし阿佐美との間で友恵にとって決定的な何かがあり、それが友恵を死に追いやったとしたらその責任は自分にあるのだ。やはり阿佐美には合わせないほうがよかったのかもしれない。友恵のためにも阿佐美に会って、あの日のことをすべて聞き出さなければ。
聡子は赤川家を訪ねた。呼び鈴を押すと、和風の引き戸が開いて信也が顔を出した。
「あ・・・」
「おう・・」
二人ともほぼ同時に小さく声を上げた。まさか信也が出てくるとは思わなかった。阿佐美が家に一人でいる時間を狙ってわざと遅めに来たのに。
「今出ようとしてたところなんだ」
「忙しい時にごめんなさい」
突然の訪問者に驚いたのは信也のほうも同じらしく、咄嗟に作った笑顔がぎこちなくゆがんでいる。こうして改まって二人で向き合うことがどことなく気恥ずかしい。この感情は過去に男と女として時間を共有した者同士特有のものなのであろう。
そういえばこの男性と最後に逢瀬をしたのは何年前になるだろう、と聡子はぼんやりと思った。
「今日はどうしたの。阿佐美に用かな」
「ええ、いるかしら」
「いるんじゃない。まあ上がれば」
ここで聡子はやっと信也の機嫌が悪いことに気が付いた。ぎこちないと思ったのは聡子の思い違いで単に不機嫌なだけなのかもしれない。阿佐美と喧嘩でもしたか、それともよほど聡子の顔を見たくなかったのか。相手の気持ちに人一倍敏感な聡子はいつもなら気をつかって退散するところだが、今日はそんなこともいっていられない。
「お邪魔します」
わざと鈍感なふりをして、堂々と家の中に上がった。
「たぶん仏間にいるよ」
信也は案内するでもなくぶっきらぼうに言う。聡子は仕方なく一人で赤川家の長い廊下を歩き奥の部屋に進んだ。半開きになっている襖の向こうに、仏壇の前に座っている阿佐美の背中が見える。中に入ろうとして聡子ははっとして足を止めた。
そこにいる阿佐美はまるでかげろうのようであった。このまま消えてしまってもおかしくないほど線が細くなってしまっている。
「いつまでもこうだからね。家の中が暗くてさ。いいかげん嫌になるよ、こっちも」
いつの間に来たのか、背後で信也の声がした。信也の言葉が聞こえているのかいないのか、阿佐美はただ老婆のように背を丸めている。
「ま、ごゆっくり。俺、店があるから」
信也は吐き捨てるように言い、行ってしまった。聡子は彼の不機嫌の原因がわかった気がした。
今の今まで聡子は、阿佐美に対して胸ぐらを思い切りつかんでやりたいと思うほどの感情を持っていた。阿佐美の態度によっては、あんたは自分の娘に何を言ったの!どんな仕打ちをしたの!そう怒りをぶちまけてやろうと意気込んでいた。なのに、実際に阿佐美を見たとたん、不思議とそんな気持ちは消え去ってしまった。
そこにいるのは、実の娘にひどいことをした鬼母ではなく、あまりにも息子を亡くして悲観にくれているただの母親だった。
阿佐美、と声をかけると阿佐美はビクンと肩を持ち上げ、すすり泣きを始めた。
聡子はたまらなくなって阿佐美に駆け寄り、彼女の細い肩を抱きしめた。
「阿佐美、大丈夫よ。大丈夫だから」
そう言うと、阿佐美はまるで母親に甘える幼子のように聡子に身体を預けてきた。そしてより一層強く泣き出したのであった。
阿佐美のせいではない。一番いけないのはこの自分だ。
聡子は阿佐美の背中をあやすようにポンポンと叩きながら唇を噛んだ。
顔を上げると、ガラスケースの中の龍平の笑顔が目に突き刺さった。聡子は以前病院で会った奈津子の顔を思い出した。やはり似ている。目元や頬の線の辺りがそっくりだ。この少年の人生は幸せだったのであろうか。聡子はしみじみと思った。この子もまた実の母を知らずに旅立ってしまった。そして友恵もまた――。
私たちはどこまで罪を重ねればいいんだろうね。ね、阿佐美。
聡子の問いかけには答えずに、阿佐美はそのまま聡子の腕の中で泣き続けていた。
憎しみ
薄明かりの中で目が覚めた。
枕元の時計に目をやると、蛍光塗料で光った針が六時をさしている。昨夜目覚ましはセットしなかったはずなのに習慣というものはおそろしいものだ。どうしてもこの時間に一度目が覚めてしまう。しかし今日は週に一度の休日である。いつものようにもう少し眠りたいと懇願する身体を無理矢理ベッドから引き剥がす必要もない。亜紀は一度寝返りを打ち、またすぐに眠りの中に落ちていった。
再度目を覚ました時はもうお昼過ぎだった。さすがにこれ以上は眠れそうにない。亜紀はベッドから出て冷蔵庫を空けた。ここしばらく買い物にも行ってなかったからろくなものがない。バターにトマト、干からびたハム。この豆腐を買ったのはいつだったっけ。
亜紀は少しだけ残っていたチーズをかじりながらビールを取り出した。夕方涼しくなってから買い物に出ればいい。誰に気を使うこともない、この時間が亜紀にとっては至福のひとときなのであった。
ベッドの上に寝そべり、ビールを一口飲んだところで子供の騒ぐ声が聞こえてきた。隣の部屋に住んでいる女の子の声である。ベランダで母親相手に何か話しているようだ。亜紀は慌てて耳を押さえなるべくその声が聞こえないように窓から離れた。とはいえ狭いマンションである。どこに行っても子供特有の甲高い声が耳に飛び込んでくる。
亜紀はその子が苦手であった。いや、別にその子だけではない。亜紀は子供という存在がどうにも苦手なのであった。いや、それも少し違う。正確に言うならば、女の子供が嫌いなのである。こうして女児の甘えたような声を聞くだけで心がざわざわと波打ってくるのだ。不思議と相手が男児の場合はこんなふうにはならない。
理由は何となくわかる。女だからと母親にとことん疎まれて育った、あの子供時代の体験が関係しているのだろう。ただそこまでは見当がついても、それがどのように自分に影響を及ぼしているかとなってくると亜紀には皆目わからなかった。わかるのは、声を聞いただけで虫唾が走るほど、自分があの女児に対して嫌悪感を抱いているという事実だけであった。
時々マンション内の通路で顔を合わせたことのある女児の母親は、亜紀と同じくらいの年に見えた。亜紀は一生結婚はしないと決めていた。結婚自体に興味もなかったし、そもそもこんな自分が母親になるなどと考えただけでも恐ろしいことであった。もし間違って女の子が生まれたらどうするのか。間違いなく自分はその子にひどいことをしてしまう。自分がされたのと同じように柔らかな心に取り返しのつかない傷を付けてしまうだろう。
結婚はしない。そう決めた時から亜紀はせっせと貯金に励み、去年大分背伸びをしてこのマンションを購入したのだ。
高校を卒業するのと同時に逃げるように実家を飛び出してからもう十年がたつ。誰にも迷惑をかけることなく自分のことは自分で面倒をみよう。そう思って真面目に生きているだけなのに。なのになぜ邪魔をするのだろう。
女児はどうやらシャボン玉遊びを始めたらしく、透明のシャボン玉が風に乗ってベランダを伝ってくる。それに合わせて女児の声が一層高くなる。
「ママ、ほら見てえ」
傍らにいるらしい母親の声も聞こえてくる。
「りなちゃん、上手ね」
普通の人ならばきっとほほえましく思うであろう、こんな親子の会話を一方的に聞かされるのは亜紀にとってはまさしく拷問であった。自分は母親とこんなふうに遊んでもらったことなどただの一度もなかった・・・。ただの一度も。
そう思うだけで、普段は押さえ込んでいる何かがとめどもなくあふれそうになってしまう。
もう嫌だ・・・・・。耐えられない。亜紀は残りのビールを一気に飲み干すと下着姿のままキッチンの隅にうずくまった。
数日後。外から帰った亜紀がマンションのエレベーターを降りると、ちょうど玄関前の通路で例の女児が縄跳びをしているところであった。
女児は亜紀を見咎めると急におびえたように動きを止めた。亜紀は女児に向かって歩きながら軽く舌打ちをした。この子はいつもこうだ。亜紀に会うたびにいちいちびくついた顔をする。亜紀は無性に腹が立った。どうしてこの子にこんな態度を取られなければいけないのだろう。こっちはただ自分の家に帰ってきただけだ。それをまるで化け物でも見るような目で見やがって。
女児の横を通り過ぎる時、母親が仕上げたのだろう、きれいに編みこまれた髪の毛が亜紀の視界に入った。次の瞬間亜紀は女児の髪の毛をつかんで思い切り引っ張っていた。女児は一瞬きょとんとしたあと、ぐずぐずと泣き出した。亜紀は自分に驚いていた。いや、その行動にではない。女児の髪の毛を引っ張った瞬間たとえようのない快感が身体の中心を貫いたことに対してだった。
亜紀は必死の努力で笑顔を作り、女児に話しかけた。
「お姉さんのお部屋にこない?」
女児は涙をためた目で亜紀を見上げる。明らかに亜紀に対する恐怖心で固まっているようだ。亜紀は女児の腕をつかみ無理矢理自分の部屋に連れ込んだ。自分では動こうとしない女児の身体を押すようにしてとりあえずリビングのソファーに座らせる。
「ジュースでも飲む?」
自分でも気色悪いほど優しい声が出た。両手でグラスを持ちオレンジジュースを飲む女児の後ろ姿を亜紀は見た。きちんと洗い上げた服に行儀のいい仕草。母親に手をかけて育てられているのがわかる。
見ているうちに亜紀の中にある欲求が突き上げてきた。亜紀は女児に近付き、また髪の毛を引っ張った。驚いて振り返る女児の頬をすかさず引っぱたく。女児はここでようやく大声で泣き出した。
「うるさい!」
亜紀は女児を床に突き倒し、その柔らかい身体を蹴り上げた。女児は身体を丸め、わあわあと泣き叫ぶ。ああ、何て気持ちがいいんだろう。亜紀は女児を何度も蹴りながらいいようのない快感に震えた。足先がマシュマロのような皮膚にくい込むたびに、亜紀の体内にこびりついていたタールのような汚物がはがれ落ちていくのがわかる。ずっとずっとこんなふうにしてやりたかったのだ。
「おまえはどうして母親に可愛がられているんだよ!」
「女のくせに! 女のガキはかわいがられちゃいけないんだ!」
「母親に愛されるのを当たり前だと思いやがって! ちくしょう!」
亜紀は頭に浮かぶまま、理屈にならないことを叫びながら女児に暴行を加え続けた。
その頃、隣家では女児、りなの母親である育子が娘を探し回っていた。玄関先で遊んでいたはずの娘がいない。育子は近所の公園や神社、りなが行きそうなところを探しながら生きた心地がしなかった。あの臆病なりなが一人でこんなところに来るわけがない。ひょっとしたら不審者に連れて行かれたのか。それとももっと遠くに行って迷子になってしまったか。やはり警察に届けたほうがいいだろうか。つい最悪のことが頭をよぎる。育子がよほど憔悴しているように見えたのだろう。一緒にりなを探してくれていた親しいママ友達が、
「一度あなたは家に戻りなさいよ。りなちゃんがひょっこり帰っているかもしれないでしょ」
と言ってくれた。
「でも・・・・」
「りなちゃんは私たちが探すから。何かあったらすぐに連絡する」
「じゃあ・・・そうするわ」
ママ友に言われるまま、とりあえずマンションに戻ってきた時だった。
どこからか子供の泣きわめく声が聞こえている。育子ははっとした。あれはりなの声だ。あの語尾が上がる独特の泣き方――間違いない。りなだ。
りな! どこにいるのだろう。どうやら泣き声は隣の部屋から聞こえている気がする。育子は時々顔を合わせる隣に住むOLらしき女性の顔を思い浮かべた。
彼女は子供が嫌いらしく、会うたびにりなをにらみつけてくるので正直こちらもあまりいい感情は持っていなかったが、当たり障りのないように挨拶だけはしているつもりであった。
なぜお隣にりなが?りなが好んで行くわけがない。りなはあの人を怖がっていた。ただ遊んでいるだけでいつもあんなに睨まれればそれも当然だろう。子供というものは、自分を嫌っている人には寄り付かないものだ。
育子は隣のドアを叩き、チャイムを幾度も押した。誰も出てこない。泣き声は一層大きくなっている。育子はいてもたってもいられず、部屋に戻りベランダに出た。このマンションのベランダは両隣とも一枚の壁で仕切られているだけで、壁の上部には人一人が通れるほどの空間ができている。これをよじのぼれば何とか隣に行けるかもしれない。もしバランスを崩して下に落ちたらひとたまりもないが、この際そんなことは言っていられない。意を決して、育子が壁の上部に手をかけた時だった。隣のベランダから娘の身体がゆっくりと落下していくのが育子の目に移った。どさり。すぐに鈍い音がした。
亜紀は銀色に光る手すりに手をかけながらずるずると崩れ落ちるように冷たい板張りの床にへたり込んだ。
終わった・・・・・。
「龍平の代わりにおまえが死ねばよかったのに!」
「あの子が死んで、何であんたがのうのうと生きているんだ!」
龍平の葬式の日、阿佐美に投げつけられた数々の言葉がよみがえってくる。でもこれでやっと解放される。あの女の呪縛からやっと・・・・。
育子の絶叫と、亜紀の狂ったような高らかな笑い声が午後のマンションを包んだ。アスファルトに打ち付けられた女児の身体はぴくりとも動かなかった。
遠い娘
阿佐美の目の前にこげ茶色の建物がそびえ建っている。それは独特の威圧感を漂わせており、黙って見ていると、建物ごとこちらに向かってせまってくるようであった。門柱には「○○刑務所」と彫られている。
まさか自分の人生の中でこんな場所を訪れる時がくるなどとは考えたこともなかった。一生自分には縁のないところであると何の根拠もなく信じ込んでいた頃が愚かしい。
亜紀が、隣の部屋に住んでいる小さな女の子を部屋に連れ込み暴行し、あげくのはてにベランダから突き落として殺した。その事実を聞いた時の衝撃をどのように表現したらいいのだろう。
高校卒業と同時に家を飛び出して以来、ただの一度も顔を見せたことのない娘であった。
亜紀が実家に寄りつこうとしない理由は阿佐美にもわかっていた。龍平を自分の産んだ子供として家に連れて来た時から、亜紀との溝は深くなっていく一方だったように思う。初めの頃は龍平にかわいそうなことがあってはいけないと意識するあまり、実の娘である亜紀に少し冷たくあたることでちょうどいいバランスが取れるはずだと思っていた。
しかし実際はどうだったのであろう。
少し待っていると、ガラスの向こうに看守に伴われた亜紀が現れた。
久しぶりに見る娘であった。化粧をしていないせいか、髪の毛を後ろに束ねてうつむいている娘の姿はすいぶんと老け込んだように見える。阿佐美は目の前の娘に何と声をかければいいのか迷った。
「許してね。本当はあなたにわざと冷たくしていたの。そうでもしなければ龍平に悪い気がして。どうしたってお腹を痛めた子のほうが可愛くなるでしょう。でもそれじゃあの子に申し訳ないと――」
阿佐美は言いかけて思わず自嘲した。今この娘にそんなことを言い訳がましく言ってみたところでどうなるというのだろう。それにやはりこれは真実ではない気がする。なぜ自分は娘に対して愛しているという自信を持てないのであろうか。面会に来ながら何一つ言葉をかけてやれない母親をこの娘はどう思っているのだろう。
亜紀は膝の上で拳を握りしめた。看守がそばにいなければ席を蹴ってここから立ち去りたい思いであった。なぜ面会になど来たりするのだろう。阿佐美は今の自分の姿を一番見られたくない相手であった。
ふと亜紀は、阿佐美が自分のために行動してくれたのは後にも先にもこれが始めてであると思った。
こんなふうに二人きりで向かい合うことなど今まで一度もなかったような気がする。亜紀はあの家でいつだって一人ぼっちであった。ごく幼い頃は阿佐美は店のことやら何やらでいつも忙しくしていて、ろくにかまってなどはくれなかったし、隆平が生まれてからは阿佐美との距離は遠くなる一方であった。阿佐美は亜紀にとってあくまで「隆平のお母さん」だったのである。
自分が取り返しのつかない罪を犯してしまったことによって、初めて阿佐美と向き合えることができたとは何と皮肉なのだろうか。亜紀はその不条理さにもだえる思いであった。
どこでこの母娘の人生は狂ってしまったのであろうか。それは本人たちにもわからないのであった。母と娘はお互い相手の心情を推し量りながら言葉もなく、ただ無機質なガラスを挟んで向かい合っていた。看守が二人に面会時間の終了を告げた。阿佐美ははじかれるように立ち上がった。
「また来るからね」
阿佐美はそう言って亜紀に笑いかけた。その顔を亜紀は昔どこかで見たことがあると思った。
そうだ、この顔は・・・・「花ふじ」で阿佐美が客に向けていた商売用の笑顔そのものであった。
帰って行く阿佐美の後ろ姿を見送りながら、亜紀はおそらくもう二度とこの人はここにやって来ることはないだろう、と思った。
お雛様
西日が容赦なく差し込む部屋に、赤い毛せんを敷いた段飾りが置かれている。
五人ばやし、三人官女、お茶道具に牛車、黒塗りの箪笥・・・阿佐美はそれらを手に取り、しばらく眺めたあと雛壇の上に丁寧に飾っていく。お雛さまを飾るという、こうした一つ一つの作業がこんなに楽しいことだとは知らなかった。雛壇が人形や小物でうめられていくたびに心が満ち足りていく気がする。
あれは半月ほど前だったか。三月が近付き、街に流れるひなまつりの曲に誘われるようにデパートの雛人形コーナーにぶらりと立ち寄った時だった。おそらく阿佐美が女孫のために雛人形を求めにやってきたように見えたのだろう。若い女店員が「いかがでしょうか」と声をかけてきた。
なぜそんな気になったのかわからないが、阿佐美は生まれて初めて雛人形というものを買った。娘が生まれた時でさえ購入しようとは思わなかったのに、五十に手が届くような年になって初めて手に入れた雛人形であった。
最後にスタンドに乗ったぼんぼりを一段目の両端に置きながら、阿佐美はなぜ自分は亜紀に雛人形を買ってやろうとしなかったのだろう、と若かりし頃に思いをはせた。
あの頃はほしかった男の子ではなく、女の子を授かったことでよけいに雛人形などというものからは目をそむけていたように思う。そもそも阿佐美自身がこうした節句のお祝いなどには縁がなかった娘であった。自分を産んだ母親もまた同じだったのであろうか。そして自分が親から与えられなかった楽しさをせめて娘には伝えてやりたいという当り前の優しさを知らず、むしろ娘に対してゆがんだ感情しか持てない類の人間だったのであろうか。そうだとしたらそのループの中で自分は何て醜い連鎖をつむいでしまったのだろう。
阿佐美は今初めて、それまで見ようとしなかった自分の母親の内面に思考を巡らせていた。
昨年の秋、乳がんを患っていたりつ子が亡くなった。長期の闘病になると家族の誰もが覚悟していた矢先のあっけない死であった。そのりつ子の死によって「花ふじ」は経営を人に譲ることとなり、以来信也も以前にも増して家には寄り付かなくなった。一体毎晩どこに行っているものか、家に帰ってくる時は必ず前後不覚に酔いつぶれている有様である。そんな飲み方は身体に悪い、という阿佐美の訴えなどどこ吹く風、何かにとりつかれたように飲み歩く夫に呆れながらも、阿佐美は夫なりに誰よりも愛していた母親の死を乗り越えようと必死なのだろうと理解することにしていた。それほど息子にとって母親という存在は偉大なのであろう。阿佐美自身は実の母親が亡くなった時はあそこまで悲しみに浸りはしなかったように思う。
一方、舅の史郎は、りつ子が亡くなる数年前から認知症の症状が著しくなってきており、今は介護付きの病院に入院中である。両親のいなくなった実家に小姑の千春が寄り付くはずもなく、いつしか自然と阿佐美がこの家に一人でいる時間が多くなっていた。
店の跡取りである男の子を産まなくては自分の存在価値がないと思い込んでいた若い頃の自分。
時が過ぎた今、そんなことはどうでもよかったように思えてくる。
なぜ男だとか女だとかそんな誰の力も及ばないどうしようもないことに、あんなにとらわれていたのだろう。
結局はそのために、実の娘である二人を不幸に陥れてしまった。そして龍平も。自分では必死で愛していたつもりでいたが、もとをたどれば、結局それも阿佐美の自己愛に過ぎなかったのであり、あの子にとってはどうだったのか。男の子だけが価値があるという不自然な愛情が、あの子を無意識のうちに苦しめていたのかもしれない。
西日が一層強くなり、部屋に光の筋をいくつも作り出している。さてお茶で飲もうかと立ち上がりかけた時、縁側から聡子がひょっこりと顔を出した。阿佐美が顔を向けると、これこれ、というふうに手に持ったケーキの箱をかざしている。
「グッドタイミング」
阿佐美は学生の頃のようにおどけた言い方をし、聡子を家の中に招き入れた。
「あら、どうしたのよ、これ?」
部屋に上がった聡子が早速、部屋のほとんどを占領している雛壇に目を丸くする。
「買っちゃったの。小さな子供もいないのに、変でしょう」
「変だってことはないわよ。今は自分のために雛人形を買う大人も多いって聞くし・・・・。それにしてもまたずいぶんと豪華なものにしたわねえ。七段飾りじゃないの。今どき珍しいわよ」
「どうせ買うなら本格的なものがいいと思って。子供の頃ほしかったようなーー」
阿佐美は思わずはっとした。そうだ。子供の頃自分はこんな雛飾りがたまらなくほしかったのだ。
ひな祭りの時期に友達の家に遊びに行くと大抵そこに飾られていた赤い階段。なぜうちにはないのだろう、そのたびに悲しくなったものだ。その思いを素直に娘に返してやれなかったところに自分という人間のゆがみがあるのかもしれない。知らず知らずのうちに何かが自分の中に積み重なっていたのだ。
もし娘の亜紀が幼い頃、こんなふうに一緒に雛人形を飾ってやっていたら、そんな母娘の時間を娘と共有していたら今頃自分も孫を抱いていたのであろうか。
「やっぱりいくつになってもお雛様っていいものよね」
聡子が阿佐美の淹れた紅茶をかきまぜながら目を細める。
「ゆっくり堪能していってちょうだい」
阿佐美は思う。人は犯してきた罪を背負いながらそれでも生きていかなければいけないのだとしたら人生とは何と重いものであろうか。しかし誰もがいつか、すべてを清算しなければならない時がやってくるのだ。死という形をもって。所詮人間はどう抗おうとも運命という名のもとに組み込まれたその日まで精一杯日々を重ねていくしかないのだ。
もしかしたらいつかこうして亜紀とも一緒にお茶を飲める日がくるかもしれない。
いつか人生の中で。
阿佐美の手によって居場所を与えられたばかりの雛人形が、金色に反射しながら静かに二人の女を見下ろしていた。