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第一話 出発=脱走


 闇夜にひらりと小さな影が降り立つ。目を凝らさないとわからないほど闇と同化した影は、足音や物音を立てぬように細心の注意を払いながら、夜間警備の目をかいくぐるように身を低くして大通りを横切った。わずかに緊張を孕んだ息づかいは、それと悟られぬように押し殺されていた。蒸した熱帯夜の重苦しい空気が肌にまとわりつき、じっとりとかいた汗が、気持ち悪い。


 もう少しだ。もう少しでここから出られる。


 後数分で警備の交代時間になる。ほんの一瞬、警備の目がなくなる時間。


 今だ!


 姿勢を更に低くして走り出す。月を反射した目の金の軌跡が残る。


 バレたら駄目だ。全部台無しになる。


 封士が住まう地区には、幾つか門がある。封士が狙われることはままあるからだ。その門には人が夜間勝手に入って来ないように鍵が掛けてあり、許可を申請しないと通ることができない。影はそれを一瞥して、街を囲む外壁を封じてしまった。その時の光を見られるとまずいのだ。だから、人目のない瞬間が必要である。するりとすべるように抜け出して、壁を元に戻して駆け出した。


 ここで気を抜いてはいけない。もっと遠くに行かなければ、二日もすれば連れ戻されかねない。それでは意味がないのだ。

 影は足を止めることなく森へと逃げ込んだ。


「で? お前はまた俺を置いてどこへ行こうと言うんだ?」

 低めで耳触りのいい声がすぐ後ろから聞こえてくる。明らかに、今までとは種類の違う心地のいい風が爽やかに吹いた。小さな影は走り続けながらちらりと後ろを振り返った。

 森の中には月の光も届かない。けれど、全体から薄ぼんやりとした光を放つ青年の姿ははっきり見えた。宙を飛んでいる。暗い常磐色の髪はほとんどが闇と同化しているが、金緑の瞳は強い光を放っていた。


「なんだ、嵐瑛。お前も来たのか?」


 風の精霊だ。走らず飛行しているのはずるい。


「来たのか、じゃない。煌蘭、どうして俺を置いていく。俺はお前の守護精霊なんだぞ?」


 小さな影は(れい)煌蘭だ。封縛(ふうばく)という術を操る封士(ほうし)で、その封士を束ねる封士連(ほうしれん)のトップである(ろう)煌蘭老師の正体だ。


「お前なら気付くだろう? 今回だってちゃんと気付いたじゃないか」


 煌蘭はさも当然と言う口調で嵐瑛を見もしない。純粋にそう思っている金茶を見て、嵐瑛は諦めたように肩をがっくりと落とした。


「せめて、あの封士には言って出たらどうだ?」


 あの封士とは封士連滅部(めつぶ)部長、(りょう)景斗(けいと)のことだ。煌蘭が脱走することでいつも貧乏くじを引いている、ある意味可哀相な男である。


「そんなことしたら確実に止められるだろう?」

「どうしてわかっててやるんだ」


 嵐瑛はこれ見よがしにため息をついた。

 走っていた煌蘭は、足を止め、横を飛ぶ嵐瑛を恨めしげに睨みあげた。飛んでいても、地面に立ってもその頭が上にあることは変わりない。


「お前だってあのテルト神殿から出せ出せと騒いでいただろう? 今更私にそれを聞くのか?」


 およそ三ヶ月半前、煌蘭はテルト神殿に六百年もの永きの間封印されていた嵐瑛を解放した。その時ちょっとしたいざこざがあり、それ以来、嵐瑛は煌蘭の守護精霊をしている。主従とは言っても、ほとんど形だけだ。


 煌蘭の金茶の瞳の中の金色が少し強くなったことで、彼女がわずかに怒っているのに気付いた嵐瑛は頭を軽く掻くと、わかった、とばかりに両手を顔の横にあげた。


「すまない。悪かった。で? 今からどこへ向かうんだ?」

「これを見ろ」


 パッと四つ折りにされた紙を煌蘭が懐から取り出す。嵐瑛はそれを受け取って広げた。


「なんだ? 依頼書?」


【 依頼主:(りゅう)清信(せいしん)

 場所:江州(こうしゅう)淙渮江(そうかこう)中流沐露(もくろ)の領主瀏邸

 依頼内容:魔物の封縛】


「……えらく、簡潔な依頼書だな」


 嵐瑛の顔からもう少し何か書いてあっても、と読み取れるような呆れ顔だ。


「ん? ああ、本当だったら現地調査員が入って結果を報告した後で本部の人間が派遣されるか、そのまま現地の奴らに任すか決めるんだ」

「……じゃあ、最初から現地の奴らが依頼書受け取ればいいんじゃないか?」

「もちろん。現地の方にも同じものが行っている。依頼主は二つ所に依頼する義務があるからな。まあ、少なくとも現地には必ず。だから、こちらが何か言わずとも、とりあえず向こうが先に調査を始めてるが、向こうに命じるのなど電話一本で済む」

「面倒じゃないか?」

「まあな。だが、現地の奴らの職務怠慢で手遅れになったことがあったらしいんだ。かなり昔の話でよくは知らないんだがな。封士連は責任を追及されたんだが、何せ、そんな依頼があったことも知らなかった。そのせいで、一時封士連の信用ががた落ちになって、魔術師協会に国内進出を許してしまったと聞く。だから、全ての依頼書を中央で(さば)いて、調査状態をいちいち監視しているんだ」

「へえ……何でその依頼書をお前が持っている」

「他でもない、この私が捌いているからだ」


 懐に依頼書をしまい込みながら煌蘭は当たり前のことのように告げたが、嵐瑛にはあまり仕事の話しをしていないことに気が付いた。

 嵐瑛がわずかに瞠目して煌蘭を見るので、煌蘭は不敵な笑みを返した。


「黙って行っていいのか?」


 嵐瑛が本当に思わず言ってしまったように聞くと、煌蘭は眦をつり上げて嵐瑛を睨み付け食ってかかった。


「私一人で捌いているんだぞ!? 毎日毎日、それも何百枚も! このほかにだって仕事押しつけられているのに!」


 煌蘭が仕事をしている間は執務室には近づくなと言っているので、嵐瑛が知らないのはしょうがないが、それをまるでサボリのように言われるのは腹が立つ。

 煌蘭は鼻を鳴らしてわざわざ地面踏み鳴らすように歩き始めた。元々煌蘭は無意識に気配と足音を消す癖がある。


「……お前がいない間はどうするんだ?」


 嵐瑛も煌蘭に合わせて歩き出した。煌蘭はそれを当然だと思っているので何も言わない。


「爺どもが片づけている。しかも、二十五人で。奴ら、五十人ばかりいるからな。二班でやってるんだよ。くそ!」


 憎々しげに毒づく煌蘭の顔は、暗くても嵐瑛にははっきり見えたようだ。普通なら相手の顔など見えないくらいの闇が辺りには降りているが、精霊である嵐瑛は暗さなどものともしない。

 煌蘭の冴え冴えと輝く金色は見たもの全てを眼光で刺し殺しそうだ。嵐瑛は一瞬息をするのを忘れたように固まっている。息をしなくても死なない精霊が息をしていることは、煌蘭にはささやかな疑問の一つだった。そのくせ、首を絞めると苦しがるのだからますますもって判らない。


「た、大変なんだな」


 嵐瑛はハッと我に返ると冷や汗を掻きつつ言った。


「たまには押しつけ……いや、外に出ないと体が鈍るし、不健康だろう? 腕なんて、白さ通り越して透明になりそうだ」


 嵐瑛に捲られた腕は確かに闇夜に浮かび上がるように白く、そして、今にも折れてしまいそうなほど細かった。嵐瑛はそれを見て目を細め独り言ちる。


「……ほっそい腕……」

「しょうがないだろう? 絶食が多いんだ」


 煌蘭は三食必ず取っている上に、三時のおやつは欠かさない。その時は大抵嵐瑛と一緒にいるので、なぜ絶食が多いのか判らないらしい嵐瑛は少し考えてからああ、と頷いた。


「大技を使いすぎなんじゃないか? それで寝込んで飯食えないんじゃ体壊すぞ?」

「そんなもので壊れる体なら今ここにいない。昔は、本当にひどかった。一週間の絶食なんてざらだった……」


 昔の記憶を思い出して、煌蘭は視線を遠くへ投げる。あの頃に比べたら一食二食抜くのなんて屁でもない。

 そんな煌蘭を嵐瑛は痛ましいものでも見るような顔で見つめていた。







    *            *               *






 馬で一週間はかかる長い道のりを嵐瑛の風ならば一日半で飛び越えてしまう。もちろん、昼夜飛び続けているわけではないので、夜はきちんと宿を取っているが、それでもやはり速い。


 煌蘭はやっぱり便利だな、となぜか自分を抱きかかえて飛んでいる嵐瑛の顔を見上げた。抱きかかえられてはいるが、特に暑くはない。日よけにはなるな、と納得する。夏の日差しに目をやられないように気をつけながら嵐瑛の顔をしげしげ見た。


 金緑の瞳を持つ切れ長の双眸は真っ直ぐに前を見つめている。目を伏せたとき、長めのまつげが光り放つような肌に薄く影を落とした。すっと通った鼻筋にきりっとした細めの眉。常磐色の髪は首の後ろで一括りにされ、強い風で後ろにたなびいている。


 あまり注意してみたこともないし、特に気にもとめてはいなかったが、精霊だけあって端整な顔をしている。その中に矛盾もせず精悍さがあることに一種の感嘆を覚えた。道理で封士連の女達が騒ぎ立てるはずだ。主に、女性に人気のある涼景斗、(めい)燈夜(とうや)(れい)滋旺(じおう)などとは違っているのだろう。煌蘭にとっては興味もないし、あまり意味のないことではあった。なので、煌蘭はそのまま不躾なまでの視線で嵐瑛を観察しながらとりとめもない思考の海へとその身を投げた。







「……何見てる」


 じっと見つめられて、嵐瑛は内心かなり動揺していた。人間で言う心臓だって通常よりやや速い。それが抱き寄せている煌蘭にも聞こえてしまうのではないかと、別の意味でもどきどきしていた。


「いや。整った顔をしているな、と思って」


 一瞬力が抜けて高度が下がった。

 まさかそんなことを言われるとは。

 あまりに直球過ぎる煌蘭の物言いは時に心臓に悪い。


「お前なぁ……」


 そう言うのなら自分だって、という言葉はしまう。言ったら最後、墓穴を掘りそうだ。

 けれど、キラキラ輝く金茶の目にただ見られているのにも耐えられない。


 嵐瑛は心の中でうめく。


 自分だって、気の強そうなややつり目のくりっとした目に、控えめな、けれど顔の調和をよく考えた小さめの鼻。唇は淡い紅色で小さい花のようだし、細くてしゅっとした眉が更に勝ち気さを象徴しているようだ。肩口に寄せられた頭の赤茶の髪が先ほどから嵐瑛の首筋をくすぐっていた。


「だからって、そうやって人の顔をじろじろ見るな」

「他に見るものもない」


 確かに。


 嵐瑛が煌蘭を正面から抱きしめている体制だったので、見るものは空か嵐瑛しかない。空は真夏の太陽が燦々と大地を照らしている。見れば恐らく目が焼けるだろう事は容易に想像出来た。嵐瑛だってそんな太陽見るのも嫌だ。

 思わぬところで癖が出てしまった、と嵐瑛は内心で冷や汗を掻いた。


「……今度から背中に乗せてやる。落ちるなよ?」


 その時には煌蘭に直接太陽が当たらないような方法を考えなければならない。


「もちろんだ」


 嵐瑛はこのときの煌蘭の考えを知らない。知っていれば、もしかしたら前言を撤回、もしくはきちんとした説明を入れていただろう。


 嵐瑛は眼下に流れる幅の広い大きな川を見ていた。かつても来たことのある淙渮江はあまり変わっていない。やや幅が広くなったかな、と言う印象があるだけだ。ただ、その近くにある街並みは一変していた。


「もうすぐ街か……煌蘭?」


 やけに静かで、視線も感じなくなったと思ったら、煌蘭は寝息を立てて眠っていた。こんな不安定な状態でよく眠れるな、とあきれるよりも先に感心してしまう。


 街はもう目と鼻の先だ。もう少しでつくのなら、と嵐瑛は速度を落とした。


 理由としては、早く着いてしまうとそれだけ早く起こさなければいけない、と言うのが二割、もうしばらく、このぬくもりを抱いていたいのが七割、後一割はなんだか嫌な気がして気が進まない、と言うものだ。


「……何もなければいいんだが……」


 嵐瑛のつぶやきは風にながされ、溶けて消えた。









 暖かい風の中で、煌蘭はまどろんでいた。

 やさしくて、けれど、それだけじゃない。力強くて激しい風だ。自分を守る風。とても心地よい風だ。もう過ぎた春の匂いがする。ずっとこの中で眠っていたい。

 煌蘭は規則正しく刻まれる鼓動を聞いていた。トクントクンと、人とは少し違う響きの鼓動。この音はどこか安心する。


『煌蘭』


 誰かが自分を呼んでいる。そして、自分はその誰かを知っている。この風のように優しくも力強い低い声。それを知っている。それこそずっと前から……。



「嵐……瑛?」



 いつの間にか風がやんでいる。それもそのはず、もう空は飛んでいなかった。代わりに川の轟々と流れる音が聞こえる。

 嵐瑛は川の近くにある大きな木の下に腰掛けて煌蘭を抱きかかえていた。日陰の下は風が吹けば涼しくて気持ちがいい。その風は煌蘭の前髪をくすぐるように吹きぬけて言った。

 嵐瑛は煌蘭が目を覚ましたのを見て、やっと起きたか、とため息をついた。


「前にも言ったが、寝過ぎだ」

「……もう着いたのか?」

「まあな」

「……起こせ」

「起こしたよ。いくらやっても無駄だったが」


 何度も名を呼んで、頬を軽くたたいたが、あどけない幸せそうな顔で寝ていて、起きる気配は全くなかった、と嵐瑛は呆れ顔で笑う。

 煌蘭はボンヤリとしながら嵐瑛の柔らかい金緑の瞳を見ていた。どれだけ見ても、飽きることがない。光の加減によって色々な耀きを見せてくれる。金が消えたらどんな色になるのだろうか。


「……やっぱりその目、いいなぁ……」


 言うと、嵐瑛はクシャリと煌蘭の頭を撫でた。


「はいはい。やるって言ったろ? だから早くしゃっきりしろ」


 煌蘭は嵐瑛の腕から離れるとパキパキと体を鳴らした。ふとした違和感に、川の方に目をやり、首を傾げる。


「煌蘭、どうかしたか?」

「……いや。なんでもない。気のせいだ」


 嵐瑛も川を見るが、それは少し荒れただけのなんの変哲もない、ただの大河だった。







    *             *               *







「助けて……助けて……」


 幼い声が聞こえる。今にも泣きそうな、もしくは、すでに泣いているような声。


 怖い。あいつがいる。逃げたい、どこへも行けない。誰か、誰か……


「助けて……誰か……」


 とても小さなその声は大河の流れに呑まれていった。






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