1.マンションの一室と危ないクスリ
白鳥愛は自分の指先を見つめていた。微かに震えている。それで彼女は実感する。“ああ、自分は今、怯えているのだな”と。怯えた自分を冷静な自分が観察しているかのような奇妙な感覚があった。
マンションの一室。リビング。
目の前の食卓の上には、日本酒が置かれている。もちろん、彼女に飲めという意味だ。だが、“これは絶対に飲んではダメだ”と彼女は考えている。普通の日本酒だったなら、警戒もしないし怯えもしない。しかし、
――この日本酒には、絶対に危ないクスリが入っている。
そのリビングの中には男が三人いた。一人は風船のように肥った独特の体型をしていて、ソファに深く腰を下ろし、腕を後頭部に回して面白そうに彼女を眺めている。もう一人は意地悪そうな矮躯の男で、ベッドの上で別の女を後ろから嫌らしい手つきで抱きしめ、愛撫をしている。その女は、肉感的なタイプで男にモテそうに見える。何の抵抗もせず、男の行為を受け入れているが、それが彼女の意思なのかどうかは分からなかった。何故なら、彼女は恍惚とした表情を浮かべていて、明らかに正常ではなかったからだ。
酩酊している。
彼女は酒を飲んでいたが、アルコールだけでそんな状態になるとは思えなかった。ほぼ確実に、彼女が飲んだアルコールには、違法薬物が混入していたのだ。
「――どうしたんだ? 飲まないのか?」
白鳥の傍らには狂暴そうな顔の男が座っていて、酒を飲むように促していた。彼女の方から彼に声をかけたのだ。会社の知り合いから、「人数が足りないから参加して欲しい」と頼まれた飲み会に彼は来ていたのだった。
彼女には特に男好きだという自覚はない。ただ、偶に妙に惹かれる男性に巡り合う事があり、そういう時はつい“近しい関係になりたい”と自分から声をかけてしまうのだ。
本能的に惹かれる…… と言うか。
ただ、いつもアクシデントが起こって、結局、毎回、関係は終わってしまうのだが。
男の名前は火田修平というらしかった。中肉中背で不健康そうな顔立ちで、正直言って怖い印象を受ける。ただ、それでいて理知的な雰囲気が強く感じられた。単なるイメージだが、頭を使うギャンブルが得意そうだ。
そして、どうやら彼は男達のボス的なポジションにいるようだった。
“きっと、この人達は何かの犯罪者グループなんだ”
そう彼女は思っていた。
飲み会の後、「続きは別の場所にしないか?」と彼に誘われて連れ込まれた先が、そのマンションの一室だった。部屋に入ると、既に先の男二人と女性がいて、女性は既に“出来上がって”いた。だから、どんな経緯でその女性がそうなってしまっているのか、何者なのか、彼女はまるで知らなかった。
そして、それを見て、彼女は自分が危機的状況に追い込まれている事を悟ったのだ。
「ちょっとトイレに……」
このまま薬物入りの日本酒を飲んで酩酊してしまったら、絶対に性的なサービスを強制される。或いは、違法なセックスワーカーにさせられてしまうかもしれない。
そうしたら、人生が終わる。
絶対に逃げなければ。
たどたどしい口調で彼女は「もうけっこう飲んでいるので……」と請うように言った。
「ふーん」
火田は薄目で彼女を見る。威嚇しているように彼女には思えた。
「まぁ、いいぜ。トイレは廊下を出て直ぐの所にあるから行って来な」
彼はホテルのボーイのような丁寧な所作で腕を上げてトイレの場所を指し示した。ふざけているのだ。頭を軽く下げると、彼女はトイレに向かう。そして個室に入るなり、彼女はスマートフォンを取り出してコミュニケーションアプリを起動させた。助けを求めるつもりだ。
が、しばらく文字を打ち込んで絶望を覚える。
「……ここ、電波が来てないじゃない」
電波が届いていなかったのだ。
これではヘルプコールの送信ができない。
もちろん、彼らはそれを分かっていたのだ。だから平気でトイレに彼女を行かせた。きっと連絡を取れないように細工されたマンションなのだろう。
彼女はそれでも助けを求めるメッセージをグループチャットで打ち込んだ。さっきのリビングなら、もしかしたら電波が通じるかもしれない。ポケットにスマートフォンを入れておいて、気付かれないように送信ボタンを押せば誰かが観てくれる可能性はある。
トイレを出ると、同じ部屋にいた肥った男が廊下に出て来ていて彼女を監視していた。これでは逃げられない。大人しく部屋に戻ると、彼女はできるだけゆっくりとした動作で腰を下ろした。酷く酔っている演技をしながら。火田はそんな彼女の下手な演技を見て笑っていた。ほぼ間違いなくバレている。
彼女の席には、相変わらず、日本酒が置かれていた。
「そろそろ飲んで楽しみなよ」
彼女が腰を下ろすと、火田はそう言って笑った。彼女の肩に腕を回す。
「いい酒でさ。飲むと最高に幸せな気分になれるんだ。高いんだぜ。君の為に奮発したんだ」
「そうなの? それは楽しみだわ」
と、ぎこちない口調で返すと、彼女は「でも、さっきも言ったけど、もう飲みすぎちゃってて。もうしばらく休ませてもらえない? つまみとかあると嬉しいな」と続けた。
きっと彼女を早くドラックで酩酊させる為だろう。つまみは用意されていなかったのだ。火田はそれを受けると少し悩んだようだったが、やがて目配せをして肥った男に指示を出した。肥った男は、冷蔵庫の中から生ハムとチーズを取り出して持って来た。
その隙に、彼女はポケットの中のスマートフォンの送信をボタンを押した。と言っても、手探りで押したので本当に押せたかどうかは分からなったのだが。“つまみを食べて時間を稼いで、もう一度トイレに行くと言って画面を確認しよう”。そう彼女は考えていた。考えていたのだが……
突然、玄関チャイムの音が鳴った。肥った男が面倒くさそうにドアホンに向かう。
「ウーパーイーツです。注文のあったインドカレーセットをお届けに来ました」
カメラの向こうには配達員の姿が見え、そう訴えた。
「はあ?」と、肥った男は返す。
「そんな注文、した覚えはねーぞ!」
苛立たしげなその言葉に、配達員は困惑した表情を見せる。辺りをキョロキョロと見渡し、スマートフォンを確認すると、
「いや、でも、間違いなくこの部屋です。支払い済みですし、受け取ってもらえないと困るのですが」
そのような事を訴えて来る。
注文ミスだろうか?
肥った男は、火田の顔色を窺う。てきとーにあしらえ。そういう顔を彼はしていた。肥った男は、「チッ」と舌打ちし、「ちょっと待ってろ」と返して玄関に向かった。
リビングのドアを開けっぱなしで向かったので、彼女にも様子が見えた。玄関ドアのチェーンを付けたまま、肥った男は玄関ドアを開けて、「さっさと渡せ」と手を出した。
――その瞬間だった。
黒いジャンパーに黒い皮手袋の腕が、いきなり彼の腕を掴んだのだ。そして、強く引っ張る。彼は「うおっ!」と悲鳴を上げ、それとほぼ同時に大型のペンチが差し込まれて玄関ドアのチェーンを切断した。異変を受け、矮躯の男はナイフを取り出し、火田も立ち上がって懐に手を入れようとした。
が、二人が玄関に気を取られたそのタイミングだった。突然、彼らの背後で、掃き出し窓のガラスが「パリーンッ」と物凄い音を発して割れたのだ。
“なんだぁ?”とでも言いたげな顔で二人は振り返る。見ると、ドローンが三機ほど部屋に突入して来ている。ドローンは「ポンッポンッポンッ」と三連続で破裂音を響かせる。何かが転がったかと思うと、それは大量の煙を発し始めた。発煙筒だ。大量の煙が立ち込め、目も開けていられない。火田やもう一人の男もそれは同じだろう。彼女は咄嗟に息を止めた。
そんな中、誰かが玄関から部屋に突入して来る気配があった。恐らくは、先の黒いジャンパーの腕の主だろう。
「てめぇ、ナニモンだ!」
火田の声が聞こえた。彼は銃を撃ったようだったが、当たらない。気配とおぼろげなシルエットで分かる。警棒のようなもので、彼は突入者に殴られていた。
“何? 何が起こっているの?”
白鳥は混乱していたが、それでも犯罪グループ同士の抗争に巻き込まれたのではないかとはなんとなく思っていた。
が、どうやら違うようだった。
「これを付けて」
ボイスチェンジャーで変更されたざらついた声。突然、黒いゴーグルとマスクを付けた男の顔が目の前に現れ、手にしたマスクを差し出して、それを彼女に付けるように促して来る。彼女は大きく頷き、急いでマスクを付ける。付け終わった瞬間、強く手を引かれた。
特殊なゴーグルを装着しているのか或いは訓練を受けているのか。煙の中でも彼は自由に動けるようだった。彼女を強く引きながら、彼は迷わずに玄関を目指した。玄関前には肥った男が倒れていて、近くには配達員が慄いた表情で立ち尽くしている。
玄関を駆け抜け、二人は外へ逃げた。
「クソッ! 逃がすか!」
そんな声が後ろから聞こえた。見ると、火田と矮躯の男が追って来ている。だが、そこで火田の頭をドローンがかすめた。さっきの三機のドローンが、援護にやって来たのだ。ドローンに二人が足止めされている間で白鳥と黒いマスクの男はマンションの外へと脱出した。
「助かった……」
マンションを出てしばらく駆け、人通りの多い通りに出ると、そこでようやく二人は立ち止まった。
はあはあと、息を切らせながら、白鳥は黒装束の男にお礼を言う。
「ありが、……とう、ございます。助かり……、ました」
それから「あなたは何者ですか?」と彼女は続けようとしたのだが、そこでまたアクシデントが起こった。いきなり彼が蹴りを入れられてしまったのだ。
見ると、チンピラ風の男が三人いる。
「火田さんのマンションを襲ったっていうのはお前だな? 目立つから直ぐに分かったぜ」
運が悪い。
どうやら火田の仲間が近くにいたらしい。三人のチンピラは、それから一斉に彼に襲いかかった。彼は大きく跳ねて退くと、カウンターで拳を一人の顔面に叩き込んだ。その勢いを殺さず回転すると、二人目にバックナックルを入れ、最後の一人を回転足払いで転ばせる。
あまりにも綺麗なモーションでの反撃に、三人は面食らっているようだった。
「おい! こいつ、強いぞ?!」
三人いれば余裕で勝てると思っていたのだろう。気を引き締め、慎重にいくべきだと判断したようだ。だが、それも彼の狙いだったのかもしれない。服の中から何かを取り出すと、迷わずそれを三人に向かって噴射したのだ。それは、痴漢撃退スプレーの超強力バージョン…… のようなものだったらしい。
「うおお! 顔面がいてぇ!」
スプレーをかけられた三人は悲鳴を上げて、苦しみ始めた。
いつの間にか、周囲には人だかりができていた。スマートフォンで撮影している人までいる。
彼は白鳥を見つめ、少し迷ったようだったが、これだけ人が集まってくれば彼女はもう安全だと判断したのか、それから駆け出して何処かへと去っていってしまった。




