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1-9.フランス革命

彼らの神々はどこにいるか、

彼らの頼みとした岩はどこにあるか。

彼らの犠牲のあぶらを食い、

灌祭(かんさい)の酒を飲んだ者はどこにいるか。

立ちあがってあなたがたを助けさせよ、

あなたがたを守らせよ。

今見よ、わたしこそは彼である。

わたしのほかに神はない。

わたしは殺し、また生かし、

傷つけ、またいやす。

わたしの手から救い出しうるものはない。

わたしは天にむかい手をあげて誓う、

わたしは永遠に生きる。


(申命記第三十二章より)

 一七八九年七月十四日。

 大学でものすごい歓声が上がった。ついに(きた)るべき日が来たのだ。フランスで革命が勃発(ぼっぱつ)したのである。

 そのニュースはボンにも早々に届いた。そしていわゆる共和主義の教授たちによって、大講義が繰り広げられた。それはすごい盛り上がりようで、学生たちともども泣くわ(わめ)くわの大騒ぎになった。

 学生のみならず、ほとんどのヨーロッパ人たちが、ここのところフランスの動きだけに感情を左右されていた。もちろん革命を嫌う保守派もいないわけではなかったが、今は、世界平和の存続よりも新しい世界を求めることの方が流行していた。


 フランスの動きは速い。八月二十六日には「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」が採択された。これを機に、特権階級の特権もすべて廃止されたという。つまり、僧や貴族も、平民たちと同じように国に税金を払うことになったのだ。

「かつてこんな素晴らしい時代があっただろうか?」

 と、共和党のオイロギウス・シュナイダー教授はいつにも増して教壇で熱弁を振るった。ギリシア文学のはずが、いつもこうなる。学生は熱狂する。


「おい、ルイジ。おまえの意に反して革命が始まったぞ」

 と、文字通りぼくの敵はこんなことを言ってくる。

「おまえの(ひい)()の王族たちも僧侶も、もうじきこの世から消えてなくなるぜ。残念だったな」

「ぼくがいつ革命に反対だと言った?」

 ぼくはそいつらに食ってかかった。

「おまえらは恥ずかしくないのか? 教授の考えにうなずくだけが革命じゃないぞ! 人間なら誰のものでもない自分の意見を持て!」

 親切にも、くどくどと言い聞かせた。

「今の時代を冷静に見てみれば分かることはたくさんある。そうすればおまえたちも野犬から人間に昇格できる。自分の頭で考えろ。それが革命だ」

 ここまで言ったが、彼らには通じなかった。


「どうしたんだよ、ルイ、また考え事かい?」

 と友人のアヴェルドンクははしゃぐ拍子にぼくの背中を叩いてくる。ぼくはついつられて笑った。

 しかし彼も、ぼくの心の中を知ったら、きっとこう言うだろう。そんなことに思考を巡らすのはあまりに不純だと。

 理想が着実に叶えられていくことだけを純粋に喜ぶ学生たちの中では、単なる客観的な観察さえも(よこしま)に見えてしまう。もちろん、ぼくも仲間たちとの革命的な話にはその都度乗ったが、内面ではこの先の展開を冷めた目で見通しては、本当に正しいことを探し求めていた。


「おい! ついにフランス国王一家がベルサイユを追放されたってよ」

 と、また歓呼の声が上がる。と同時に、ボンでは優雅に秋のオペラ・シーズンに入った。

 モーツァルトのオペラは二つ取り上げられた。『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』だ。

 二つとも舞台はセビリア。ぼくは今回初めてそれを聴く。ヴィオラの演奏をしながら、それらを辿(たど)っていくと、まるで黄金の油がほとばしり出てくるようだった。それは鮮明で、この世を浸食しかねないほどに濃い魂の力の放出。あの人がこの世にひどく傷つけられては、その身から噴き出させ、作品に流し込んだものだ。それは愛の音楽として完璧なものだった。

 モーツァルトよ。ここではもう、あなたを知らないという者はいなくなってしまった。あなたを知る者ばかりの中で、あなただけにしか(かも)し出せない神々しい光が炸裂(さくれつ)し、あなたをさらに映えさせている。すべての創造物を惹きつけてやむことがない女神よ。どうすればそんなことができるのか? この真夏の太陽の下でも輝かないものもあるというのに……。


「ジョヴァンニって、確かヨハンのイタリア語読みだよな」

 と、いきなり暴言が投げ付けられた。父を侮辱してきたのだ。ぼくはそいつを睨み付け、すぐその場を去ったが、怒りはなかなか収まらなかった。

『ドン・ジョヴァンニ』というオペラの中で、主人公のジョヴァンニは悪行の限りを尽くし、最後には地獄に落とされる。モーツァルトはこのオペラでいったい誰を地獄に落としたのだろう? 敵か? ぼくか? 彼女自身か? それとも……。


 ここで少し父ヨハンの話をしておこう。

 あの自殺未遂から、彼はますます酒と賭け事と女とに溺れていった。およそ中毒性のあるものはほぼ(もう)()したと言っていい。

 ぼくは、長らく続いた自己否定のしがらみから抜け出してからというもの、また彼を愛し始めていた。彼を正しい道に戻したい。他の者には必要な部分だけを見せていても、彼にだけは、ぼくが信じるすべてを訴え、従わせたいと思った。本当に正しい道を歩ませたかったのだ。

「父親をきちんと管理しておいてくれ」

 と、ついこの間は警察に注意された。つまりそれだけ彼の素行は悪かったのだ。警察や世間の言うことなどどうでもいいが、彼をこのまま悪徳に溺れさせておくわけにはいかなかった。

 彼は宮廷テノール歌手として年棒二百ライン・ターラーを稼いでいたが、それ以上の浪費が見えるとわざわざ密告してくる者もいた。

 ぼくは事あるごとに彼を問いつめた。また詐欺(さぎ)を働いたのか、それとも賭け事か、あるいはぼくの知らないところで無謀な商売でもしたのか、と。彼ならもっと悪いこともやりかねない。彼は昔から誘惑に弱く、道徳心に欠け、悪気もなく罪を犯してしまうところがあった。

 多くの場合は詐欺だった。彼は嘘がうまく、他の何はなくても感じの良さだけは天下一品。その上っ面の良さで、世間知らずにガラクタを売りつけたりすることはしょっちゅう。時にはお人好しの金持ちに言葉巧みに近付いて親しくなり、相手がすっかり打ち解けると、機会を狙ってその全財産を巻き上げる、というようなことすら何度かあった。そうして奪った金はすべて大博打(だいばくち)に消えるのだ。

 その事実を知るたびに、ぼくは父を、むしろ彼自身のために早く葬ってやろうと考えた。何度も、何度も、そう考えたのだ。だが、いつも未遂に終わっていた。彼はその都度(つど)ぼくの思考を先読みし、ぼくが殺意にかられたときは、事前に素早く姿を(くら)ました。何度も言うが、彼は「早足のヨハン」なのだ。そしてぼくの怒りがぼく自身に向かい始める頃になって、ようやく彼は帰ってくる。その繰り返しだった。

 恨みは募っていく。この、人の形をした(けだもの)のようなものが、ぼくを(さいな)んで()まない。だが、ぼくは彼を見捨てることなどできやしない。どんな人間でも、たとえぼくの肉の製造協力者でなかったとしても、これまで家族として同じ時間と空間を共有してきたのだ。彼を助けたい。彼は確かに嘘つきだが、それは夢見がちな彼の深い絶望から始まっているのだ。彼のありのままの心が、何かに突き当たって砕けてしまったとき、彼の中で、夢と現実の区別がつかなくなってしまった。そのときから、彼にとっての真実が、他の者にとっては嘘になってしまったのだ。彼は自分一人だけの世界で、寂しさを埋めるためだけに人を(おとしい)れ続けている。

 ぼく自身、騙されたこともあろう。きっと多くあろう。だが、もういいのだ。過去のことは忘れる。これからこそが大事なのだ。

 さて、父は一度大きな失敗をして評判を落としてからは、少なくともこの町では誰にも信用されなくなった。彼のこの町での詐欺行為はそこで終わっているはずだ。

 気がかりなのは、遠くの町で何をやっているかだが、彼は酒で足がフラついているのでなければ、すぐにどこかに出かけてしまう。そして何週間も帰ってこないのだ。

 ぼくが毎日これほど忙しくしていなければ、彼を四六時中見張ることもできように……。

 もう仕方がない。今日という今日は、ベッドに縛り付けてでも金の出どころを聞き出そう。それから、最近ことにひどくなってきた素行の悪さについても厳しく言って聞かせる。

「自分の今の状態をなんとも思わないのか?」

 父が帰ってくるなり、ぼくは言った。

「まるでやけっぱちじゃないか。母さんと妹が生きている頃にはまだ見えていた人間性も、今ではまるで見られない。まさに(けだもの)そのものだ」

 以前の、自分の思想をきちんと表明していた頃の父に戻ってほしくて、ぼくは殴られても説得し続けた。しかし彼は返事らしい返事も残さず、また家を飛び出し、帰ってこなくなった。


 音沙汰がないまま三日が過ぎ、もう待てないと、彼を探しに行こうとすると、

「兄貴……これ」

 と、上の弟カールが、一枚の紙切れをぼくに見せる。彼はいい弟だった。ぼくと一緒に音楽の道を志すと言ってくれていた。

「!」

 彼の示した紙切れの文字に目を疑った。そこには父の筆で、『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト様』と書いてあったのだ。

「……」

 ぼくは早速机に向かった。宮廷に提出する嘆願書を書くためだ。

『今後は、我が父を、宮廷の勤務から完全に免除させ、このボンからも遠ざけていただきたい』

 と書いた。その足で提出した。


 十一月二十日。宮廷から返事が来た。

 その返事を手に、今度こそ父を捜した。彼がよく入り浸っているという居酒屋で何日も張り込んだ。

 ようやくフラついた足取りの男が現れると、ぼくは即座に席を立ち、彼の前に立ちはだかった。

「うっ、ルートヴィヒ」

 彼はぼくを見ると嫌悪感を(あらわ)にした。

「おい、あんたは退()いててくれ」

 と、ぼくは彼が連れていた若い女を向こうに押しやった。

「よせ。何をする!」

 父はぼくを殴った。最近はもう痛くもない……すっかり腕の力も()えてしまったか。

「恥をかきたくないなら」

 ぼくは一枚の紙をポケットから出してチラつかせた。それを見て、彼は目を見開く。

「ルイ、これは……」

「見ての通りだ」

 ぼくは彼から離れるとカウンターに行って金を置き、すぐ店を出た。

「ルイ、ルイ、待ってくれ!」

 彼は追いかけてきた。そしてぼくの肩を(つか)む。

「どうか、これだけは待ってくれ」

「待つ?」

 ぼくは振り返った。

「あいにくと、あんたを待った覚えはない」

 ぼくは嘘をついた。

「これはあんたが犯した罪の罰だ。なんとしても(つぐな)わせる。償わないままでは生かさない」

 ぼくはまた歩み始めた。

「ま、待ってくれ。どうか」

 彼は、この()に及んでまだ罰を逃れようとしていた。

 ぼくは彼を無視して歩き続け、家に着くと、彼を(おのの)かせた布告に効力を持たせるための書類を用意し始めた。その間も彼は、許してほしいと言ってやまなかった。

「何もかもおまえの言う通りにする。これまでの生活は返上する。真面目に働くよ。給料の一部は必ずおまえに渡すから」

「そういう問題ではない」

「俺に死ねと言うのか? 俺は生きる価値のない人間だと言うのか?」

「……」

 そんなことを考えたこともあった。一度すべてを捨てたとき、何も必要じゃないとさえ思った。

 やがてアヴェルドンクの助言を得て、すべてを無にするその考え方をやめてみたら、今度は必要じゃないものなど何もないように思え始めた。

「生きる価値のない人間など、この世にはいない」

 とぼくは父に言った。

「そ、そうだろ? だったら、もう一度チャンスをくれ。約束は必ず守る。おまえが取り決めたことには従うから」

「……」

 しばらく考えて、ぼくはうなずいた。

「ただし今度約束を破ったら、即、この書類を提出する。よく覚えておくことだ」

「ああ、約束するとも」

「それからこれだ」

 ぼくは彼にもう一つの小さな紙切れを見せた。モーツァルトの宛名が書かれた紙だ。彼はそれを見て顔色を変える。

「こ、これは、実は賭けに負けて、金がなくなっちまって……」

「彼女に何を書いた!?」

 ぼくは彼の胸ぐらを(つか)んで怒鳴った。

「……彼女?」

「いや、彼だ。彼に何を書いたんだ!」

「誤解しないでくれ! まだ出しちゃいない。金を借りられないものかと思ったんだが、やっぱり、相手が相手だしな」

 ぼくはそれを聞いて、彼を投げ出し、軽く溜め息をつく。

「こんなことも二度と目論(もくろ)まないと約束してもらう」

「わ、分かった。決してしない。約束する」

 彼はすっかりうなだれていたが、ぼくはさらに続けた。

「これから女遊びは禁ずる。あんたの子供っぽさに付け込んで金を巻き上げていく生き物に弱さを見せるな。酒も極力控えてもらう。暴力事件は二度と起こさぬこと。自殺も禁止だ。死は快楽の道具ではない」

「……」

「それから、三か月ごとに二十五ライン・ターラーをあんたの手から支払ってもらう。守れるな?」

 彼は涙を流してうなずいた。


 このあと、ぼくは自分一人になった部屋で机に座り、手を組んで額にあて、目を閉じて、アフェルドンクの言っていた「神」なるものを、脳裏に展開させていた。

 はるか幼い頃のように、神に、祈っていた。


 神よ、ぼくに力を貸してくれ。

 生活だけなら、ぼくの収入だけでなんとかやっていける。だが、弟二人に人並みの教育を受けさせてやるには、そして彼らのくだらない虚栄心を多少なりとも満たしてやるには、父の快楽に費やされている金が少しくらい彼らに回されても悪くはない。父の欲望のままにはさせられない。破滅させずに、働かせるしかないのだ。

 世間は彼をどうしようもない父親だと……そしてぼくたち兄弟を憐れみの目で見つめる。そうした同情心は、なんと人間を惨めにすることか。そしてそれは同時に、父の改心の機会をすべて奪っている。

 父だけの話に終わらない。父の犯罪を許している怠惰な世間も、彼の存在を包含している悪党どもも、誰かが導かねばならない。彼らは自分がどうなろうと一向に構わない人たちなのだ。彼らは、自分が人間だということにすら、気付いていない。

 悪党どもよ。怠惰な世間に巻かれた人々よ。

 取るに足らない誘惑の声や動物的衝動にたぶらかされることなく、

 まず、ぼくのもとへ来てほしい。

 おまえたちがどれほど高貴なる魂を内奥に秘めているか、

 ぼくは揺り起こすように、その魂に直接ささやく。

 その後の人生、おまえたち自身でその魂を育てていけるように。

 神よ、それほどに強力な呼びかけができるだけの力を、ぼくに授けてくれ! 

 決して無為にはしないと誓うから!

【参考文献】


★『ベートーヴェン』(上)(下)

      メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)

★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)

★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)

★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)

★『古代の宇宙論』

    C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)

★『世界創造の神話』

    M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)

★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)

★『ギリシア・ローマ神話事典』

    マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著 

     木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)

★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』

         カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)

★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』

                 〈音楽選書65〉

       ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)

★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)

★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』

       アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)

★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』

        ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)

★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)

★『比類なきモーツァルト』

        ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)

★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)

★『ベートーヴェン大事典』

      バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)

★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)

★『ベートーヴェン全集』(講談社)

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