1-7.モーツァルトはお好き
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
アヴェルドンクとは日に日に親密さを増していった。
実を言えば、ぼくはつい最近まで、学校よりも宮廷や劇場での仕事を優先させていた。革命思想には距離を置きたかったし、金が儲かる方がいいからと。
だが、彼に神を示されてからは、彼に会いたい一心で学校にも毎日通うようになった。
「もう何も無いと思った」
学校帰りのライン川のほとりで、ぼくは洗いざらいを彼に打ち明けた。
「心から愛した人を失ってから、何もかもがどうでもいいように思えて」
彼はいつものお喋りを返上し、ぼくの話を黙って静かに聞いてくれた。
「モーツァルトに出会って、真理により近いものを見せられて……敵わなかったんだ。それどころか、何もできなかった。その打撃で、すべての自信を失った。できると思ったんだ。最初から何も無かったことに。普通の生活に戻ることで、すべてを忘れてしまえると……。
だが、忘れられはしなかった。あとは君も知っての通りだ」
「……」
「ぼくは間違っていた。ウィーンから帰ってきてから今までの間、ぼくはこれまで犯した罪をひっくるめた以上の大いなる罪を犯していた。親父の自殺未遂にさえほとんど打撃を受けなかった。自分自身が死んでいたからだ。ぼくは自分で自分を殺していた。ぼくこそが自殺していたんだ。これまで驕りのために犯してきた罪の数々が自殺によって贖われるなどと、どうして考えてしまったのか。
ずっと絶え間なく真実を求めてきた。求めたからにはそれに耐えるべきだったはずだ。たとえ真実という刃にザクザクに切り刻まれようと、それを全身で受け止めるべきだったはずなんだ」
「……」
「そうだ。捨てたからと言って、何一つ償われはしない!」
ぼくはアヴェルドンクにこれらを語ったあと、
「だが、それもまた試練だったのだ」
と独り言のように呟いた。
「ルイ、君にそんなことが……」
と驚く彼の手を握り締めて、ぼくは彼の緑色に輝く瞳に誓った。
「もう二度と嘘はつかない。真実のみを愛する。こうあるべきことだけを許し、それ以外は決して許さない自分を取り戻すんだ」
ぼくは、あの春の日にそうしたように、失いかけたものを再び示してくれた彼を、自分の家族以上に大切に思い、愛するようになっていた。
それからというもの、ぼくの交際範囲は広がっていった。アヴェルドンクの顔の広さもあって、友人と言える者たちは次第に増えていった。ぼくはもう遠慮なく彼らに自分の考えを話した。
世紀末という時代の効用か。ほとんどの者が、ぼくの精神的な考え方に興味を持ってくれた。
もちろん中にはひどくそれに反発する者もいた。
「何様のつもりだ」
と言われることもあった。それでぼくが、
「ぼくはベートーヴェンだ」
と答えると、相手は呆れた顔をして去っていく。その彼が人に語ったところによると、こんな人間をまともに相手にしたくない、ということらしかった。
「権力の味方か!」
と、時に誤解されて革命反対派だと思われることもあった。それでぼくが、
「権力は憎むが、権力者は権力から救われるべきだ」
と言うと、
「奴らがそんなことを考えるものか!」
と彼らは言う。
「奴らはその見せかけだけのデカい名を振りかざして、多くの市民を死に追いやった。人殺しだ! 彼らも当然死をもって償うべきだ」
「貴族は皆殺しにしろと? そういう考え方では何も解決しない。悪人には善人以上に配慮すべきだ」
「不可能だ!」
「そんなに欲望を達成したいのか? 人を生かす欲望以外は達成されるべきではない。それは誰にとっても同じ至上命題だ」
そんな議論を、日夜繰り返した。
「自分を特別だとでも思ってるのか?」
と言われたときは、
「ぼくだけが特別なわけがない。みんなが特別になるべきだ」
と答えた。
「とんでもなく驕ってやがる」
と、通りすがりの奴にすれ違いざまに毒突かれたこともある。たいていのことは相手と冷静に話し合っていたぼくも、そのときばかりは振り返ってそいつを睨んだ。
野犬にも劣る者どもよ。よく聞くがいい。驕りに心煩わせるのはぼくにはまだ早いのだ。いっぱしに自己制限できる身分ではない。ぼくは、ぼくであることだけでせいいっぱいの未熟者だ。
失ったもの、自分自身と言えるもの、なんとしても取り戻さねばならない。その意味は、いつか必ずおまえたちの目の前に現れるだろう。ぼくはそれを証明するために生きている。
さて、大学での革命や哲学の話とは全く違う、穏やかな音楽の会話を楽しめる場所、ブロイニング家。
ここでは今日も、多くの音楽愛好家たちが、音楽の話に明け暮れていた。
「モーツァルトはお好きですか?」
とワルトシュタインが誰かに尋ねる。誰だろう? 初めて見る顔だ。
「モーツァルトか。好きは好きだが、彼の音楽はなんとなく疲れるときがある」
と相手は冷め切った目をして答えた。
「モーツァルトが疲れる?」
ワルトシュタインが目を丸くする。
「ああ、私はもう少しさっぱりしている方がいい」
そんな浅はかな台詞を聞き、ぼくはそいつの横顔を睨んだ。その男はさらに続ける。
「なんと言うか、モーツァルトは個性がキツ過ぎる感じなんだ。少し官能的でもあるしな。他の音楽と比べて、どこか汚れた感じがある。ある意味、病的とも言える。だから彼は神じゃなくてモーツァルトなんだろうが」
「なんだと?」
そこまで聞いて、ぼくは我慢がならなくなり、怒りにかられて奴に噛み付いた。
「あんたには分からないのか! あの意味が」
「まあ、待てよ、ベートーヴェン君」
ワルトシュタインは上品に割って入る。
「クレーヴェルトさん、彼は大のモーツァルト崇拝者のベートーヴェン君です」
「ああ……はじめまして」
その男は茫然としたままお辞儀をする。
「ルイ、こちらは医師のクレーヴェルトさん。喧嘩ではなく、話をしよう」
とワルトシュタインは言った。それで少し気持ちを落ち着けて、ぼくも会話に加わった。
「それで、モーツァルトがお嫌いとか?」
とぼくは嫌味なほどに品良く聞く。
「いったいどういうところが気に入らないんですか?」
「それは、さっきも言ったように、味付けが濃過ぎるところだ。だが、誤解しないでくれ。私は今まで出てきた音楽家の中では、モーツァルトが一番好きなんだ」
「え?」
「ルイ、彼はもともと大のモーツァルティアンなんだ。だが、彼が言うには、モーツァルトはまだ完全ではないと」
ワルトシュタインが説明する。
「完全ですよ」
ぼくはそれを受けて断言した。
「彼にたとえ官能めいたものがあったとしても、それは普通の人間が考えるような、気色の悪いものじゃない。それは決して病的なものじゃない。彼の官能は、そのまま天国に続いていくようなものだ。清々しくて明るい本物の愛が、そこにはある。
それを感じ取ることができるようになるまでには、時間がかかりますよ。彼の理想は普通の感性では計れないものだから」
「ちょっと待ってくれ、ベートーヴェン君」
医師はぼくを止める。そしてあろうことか彼はまるで吹き出しそうになりながら、といった語気で、ぼくに言った。
「君も音楽家を目指しているんだろう? そんなふうにダラダラと褒め言葉だけを並べて、大丈夫なのか? もしモーツァルトが本当に君の言うような完全無欠のものだとしたら、君のすべきことはもう無いってことじゃないか」
愉快だ、若手の何の実績もない丸裸な男を突っつくのは。そんな思いが見えた。
しかしぼくは品を落とさずに答えた。
「いや、そうでもありませんよ。彼にも落ち度はある。それは美し過ぎるということだ」
「だったら君は破壊者になるつもりか?」
医師はそう言って嘲りをもう隠さずに高笑いする。
「クレーヴェルトさん、あんまりそういう言葉は……」
と、エレオノーレが気遣って止めるが、
「構わないよ。実際にそうではないんだから」
とぼくは答えた。すると医師は今度はもっと悪気を込めて、からかうように言う。
「君は彼のあとに何をするんだ? 私は今後の音楽の在り方を考えるために、モーツァルトに欠けているものを探しているんだ。それなのに、これから音楽家になろうという君が、彼の音楽に満足しているのはなぜなんだ」
「……」
ふざけた言い方ではあるが、これは重要な問いだ。ぼくはそう判断し、自分の思うところを真っ直ぐに彼に告げようと決意した。
「あなたがなんと言おうと、彼の音楽は完全です。そしてぼくは破壊者にはならない。ぼくなりにこれからどうあるべきかは考えています。
ぼくの考えを言いましょう。モーツァルトの音楽についてですが、彼の音楽には魂があります。これは他の音楽には無いものだ。ぼくは二年前にウィーンに行ったとき、彼に直に会いました。それで分かったことがある。ぼくも彼に会うまでは、クレーヴェルトさん、あなたのように考えていたんです。彼の音楽は完全ではないと。ぼくの感じていたことでは、彼の音楽には何か今一つ足りない弱さがある、と。ところが、そうではなかった。見かけの派手さやか弱さなど、問題ではなかった。彼は技術も完璧でしたが、それ以上に、作品に命を吹き込む術を知っていたんです。それは彼自身が真実の愛に生きることで得た、特別な力だった。普通では想像もつきませんよ。彼はそういう生き方をしていたんです。この世の中においてあり得ないほどの危険な生き方を。彼は自分をボロボロに砕いては作品に命を与えていた。誰が今までにそんなことを思い付いたでしょうか。ぼくはその術を彼に教わったんです」
周りの者たちは、ぼくの言葉を聞き、しばらくは何も言わなかったが、そのうちクレーヴェルトが、やはり少し呆れたように溜め息混じりで、こう尋ねてくる。
「それでは、君にとって、モーツァルトの位置付けはあくまでも最高位なのか?」
「彼の音楽自体にはなんの問題もない。問題なのは聴き手なんだ。彼は自分の考えつく範囲で聴き手のレベルに合わせてはいるが、それでも、彼には思い付けないような悪も、この世には存在する。彼自身のように、はじめから善いものを目指そうという人間ばかりじゃない。世の中の悪人! ぼくももう少しでそうなるところだった。ぼくも美し過ぎる彼を憎もうとしていた。人間は弱いから、こんな汚れ切った世の中に痛めつけられ続ければ、美しいものすべてを憎みたくもなる。ぼくは幸運にも彼の音楽の真意に気付いて思い留まったが、ずっと絶望の淵から出てこられない人々もいる。そんな人は、モーツァルトに気付けない以上、モーツァルトを悪の象徴にさえ変えるような、まったく違った新しい芸術でも創り上げない限り、救われない。だが、そんなことなどできずに、ほとんどの人々は堕落していく。芸術の力を知らないばかりに!」
ぼくは拳を振り上げて語尾を強めた。
するとクレーヴェルトは少し感心したような真顔を見せた。
「ふむ、そんな要素も君には見えているんだな。それなら君は美しいだけの音楽から脱すると言うのか」
「彼は美しいだけじゃない。そう思うのは聴き手の問題で、誤解なんだ。彼は音楽でこうすべきだということを語った。つまり芸術の意義を」
「なるほど。その正しい解釈を、君が?」
彼はまた少し語調を崩して呆れ顔を見せたが、
「いや、そんなことはすべきじゃないし、そもそもできない。誰も彼以上に彼の真実は語れない。彼を知るには、その音楽を聴くしかない。だが、それですべての人間が救われるわけではないという事実がある以上、音楽の歴史を終わらせるわけにはいかないよ」
ぼくがそう言うと、彼の瞳には光が宿った。
「そうだな。モーツァルトの網に引っかからない人々を、今度は君が救うんだ」
とワルトシュタインが言い、クレーヴェルトも大きくうなずいた。
その日の別れ際、クレーヴェルトは、
「話せて良かった。今まで、君のことは演奏でしか知ることができなかったが、今日は君の演奏そのもののような内奥を知ることができて、とても嬉しく思うよ」
と握手を求めてきた。彼はぼくの演奏を知っていたのだ。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




