表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

1-6.ボン大学

彼らの神々はどこにいるか、

彼らの頼みとした岩はどこにあるか。

彼らの犠牲のあぶらを食い、

灌祭(かんさい)の酒を飲んだ者はどこにいるか。

立ちあがってあなたがたを助けさせよ、

あなたがたを守らせよ。

今見よ、わたしこそは彼である。

わたしのほかに神はない。

わたしは殺し、また生かし、

傷つけ、またいやす。

わたしの手から救い出しうるものはない。

わたしは天にむかい手をあげて誓う、

わたしは永遠に生きる。


(申命記第三十二章より)

 一七八九年四月。

 選帝侯マクシミリアン・フランツが、またぼくを呼び出した。面倒だったが、立場上仕方がないので出向くと、

「やあやあ、ベートーヴェン君!」

 彼はいつもながら陽気だった。

「モーツァルトが今、ドイツに来ているのを知っているか?」

「! いいえ」

「もう一度会いたいなら、旅費を出そうと思うのだが」

「……結構です」

 ぼくは力なく答えた。もう一度彼女に? 会えるわけがない。ぼくは彼女から排斥(はいせき)された人間なのだ。会いに行っても、おそらく平和な再会にはならないだろう。少なくとも、今のこんな状態のぼくになど、彼女はなんの用もないだろう。何より、今は彼女に会いたくない。すべての自信を失っているこんな姿など、見せたくないのだ。

「では、これはまた別の話になるが、大学に通ってみる気はないか?」

「え?」

「こう言ってはなんだが、君はものを知らな過ぎる。せっかく独特の考え方を持っているのに、それが偏り過ぎているのだ」

 後ろでは、彼のお抱えの管弦楽団が、モーツァルトの『後宮からの誘拐』の管弦楽編曲版を演奏している。彼はこのオペラが相当気に入っているらしい。

「その問題を解決したいんだ」

「いえ、別にいいです」

 ぼくには全く興味がない話だったので、断ろうとした。

「しかし、考える材料は多いに越したことはないだろう?」

「考える?」

 ぼくが首をかしげている間にも、ああだこうだと彼はぼくを口説き落とそうとする。とにかく、何がなんでも彼はぼくを大学に入学させたいらしい。

 この忙しいのに冗談じゃないと思い、そんなところに行く必要はないと何度も断ったが、結局押し切られてしまった。すべての金を出すということだったので、ぼくもそれでようやく納得した。


「ぼくを学校に……か」

 学校などというものに、いい思い出はない。ぼくは集団生活にはとことん痛め付けられてきた人間だ。過去のことは、今思い出しても苦しくなる。集団というものに埋もれることはできなかった。

 それにしても、二言目には金を出す金を出すと、選帝侯は言う。宮廷にはそれだけ余分な金があるってことか。学校なんてどうでもいいから、そのぶんこちらに分けてもらえないものか。

 金……今のぼくにはそれしかない。

 親父は、ぼくが金のために生きれば生きるほど、いっそうそういう人生を軽蔑していった。これまで、どんな窮乏(きゅうぼう)に見舞われようとも、金儲けの作業をしようとしなかった彼だ。彼は昔からその無意味さを雄弁に語っていた。彼は、金儲けの作業に(いそ)しむことは、死ぬことだと言っていた。それは肉体の死ではなく、魂の死だと言うのだ。

 世間は決して認めないが、ぼくには彼の考えも分かった。分かると言うより完全同意だ。逆に彼を責める世間こそ間違っていると思う。確かに彼らの言うように、肉体が生きることも必要なことなのだが、そのための動物的行為を誇って人に強いる必要はないだろう。

 ぼくが親父を養うことも、それはぼくが勝手にやっていることで、彼にはなんの関係もない。

 ぼくは、親父の考えるところの、そして自分でも考えてきた、真の働きをこなせないのだ。

 だからと言って、親父のように、何もしないでいるということは、ぼくにはできない。そこが彼とぼくの違うところだ。ぼくは、こんなふうになってしまった以上、今のぼくにできる範囲のことを懸命にやる。それは金儲けだ。今はそれでせいいっぱいのはずだ。余計なことは考えまい。

 ……としていたのに。


 一七八九年五月十四日。ボン大学に入学した。

 この大学は、一七八六年に選帝侯の改革でアカデミーから大学に昇格した。選帝侯は、兄であるヨーゼフⅡ世の影響でか、啓蒙主義者で、何よりも教育の普及に努めていた。市民に教育が施されるのは、おそらくいいことだ。

 哲学科に登録したときに知り合ったアントン・ライヒャと、カール・キューゲルゲンとともに、ぼくは大学の門をくぐる。

 嫌で嫌で仕方がなかった。どうせ大学なんて小学校の拡大版だろう。ひどく窮屈で退屈なところに違いない。狭い教室の中で小さな机にしがみついて授業と試験を繰り返すだけ。なんの根拠もない規律に縛り付けられ、ちょっと反抗したら殴られる。想像するだけで気が重くなる。

 ところが、門を過ぎると、空気がわりかしいいのに驚いた。構内は風変わりな考え方を持つ者が大勢いそうな雰囲気が漂っており、キャンパスのあちこちで小難しい議論が大声で展開されていた。

 面白いなと思いながら三人で指定された教室に入ると、前面の黒板には『自由・平等・博愛』と大きく書かれていた。その前で、多くの学生たちが肩を組み合い、涙を流しているのだ。

「すごいな……」

 ぼくも両側の二人も、その有様を見て驚いていた。ただただ茫然と立ち尽くしていると、学生の中の一人がぼくらに近付き、

「これが何か分かるか?」

 と黒板をバンと叩いた。三人とも首を横に振ると、

「共和主義思想だ」

 と力強く彼は言った。

「これからとんでもないことが起こるぞ。目を開いてしっかり見ていな。今までのすべては覆される。新しい時代が始まるんだ」

 ぼくたちは黒板から遠くの席を選んで固まって座り、

「共和主義思想ってなんだ?」

 と言うライヒャと、

「さあ、今から授業でやるんじゃないか?」

 と言うキューゲルゲンとの間でぼくはぼんやりとしていた。


 やがて教授らしき人が入ってくる。

「いい言葉が書いてあるな」

 と彼はまず黒板の文字を褒めた。そして話し始める。

「これは、人類の歴史が始まって以来、優れた人々によってずっと求められ、叫ばれ続けてきた理想だ。現実が追い付かず、これまではどんなに得ようとしても得られなかったものだ。それが今、実現しつつある」

 と彼は言った。

「すべての人間は、家柄に関係なく平等であらねばならない」

 彼は『平等』を、

「道徳律を持ったすべての人間に、完全な自由が許されなければならない」

 彼は『自由』を、

「すべての人々は愛し合わねばならない。小さき者も、大いなる者も、決して区別することなく、すべての人々を同じように愛さなければならない」

 彼は『博愛』を……唱える。

 喝采が上がる中、ぼくは静かにそれを聞いていた。確かに、この三つは同列に並んでいないと意味がない。一つ一つではいいものには成り得ない。

 平等は個の押し潰し合いになり、自由は他を殺し、ただひたすらに誰彼構わず愛するのみでは貞操も一途さも存在しなくなる。この世では、どんなものでも極めようとすれば犯罪者になる他ないのだから。


「ベートーヴェン君」

 授業が終わると、斜め前の席から誰かがぼくに声をかけてきた。ぼくの両側にいた二人はとっくに退席したあとだった。ぼくは何をするにも人より何歩か遅れてしまう。

「君、ウィーンに行ってた人だろう?」

 と彼は聞いた。また質問攻めに遭わされるのだろうか? しかし彼はこう聞いてきた。

「共和主義思想に興味はないのかい?」

「そうだな、特には」

「珍しいね。今はどっち向いてもその話ばかりだよ」

「みたいだな」

「無理もない話さ。時代が変わろうとしてるんだ。フランスではこの五月に三部会が開かれるって」

「三部会?」

「第一身分、第二身分、第三身分の人たちが、一つの場所に集まって話し合うのさ」

「第一……第二?」

 いきなりこんな専門用語を突き付けられても、ぼくにはさっぱり意味が分からない。

「つまり、フランスでは身分が三つに分かれてるんだ。僧侶、貴族、平民っていうふうにね。三部会っていうのは、その各身分の代表者が集まって話し合う会のことさ」

「……へえ」

「こんなことは今までは考えられなかったことだ。本当にすごいよ。きっと世界は大きく変わるよ。ボクには予感があるんだ。それはフランスから始まって、全ヨーロッパに広がっていく。なにせ世紀末だもの。きっと人類始まって以来の最高の理想郷が実現するはずさ。だって、アメリカだってフランスとかの協力はあったものの、ほぼ自力でイギリスから独立を勝ち取っただろう? 今度の革命だってきっとうまくいく。ヨーロッパの歴史上最大規模の変革になるに違いないよ。それをみんなが求めてるんだ。もう、その実現はすぐそこまでやってきてる!

 ボクはこんな素晴らしい時代に生きられたことを神に感謝するよ。みんなが本当に正しい世界を築き上げようと助け合ってる。こんな感動的な時代はない。素晴らしい時代だ」

 彼は全身でその喜びを表していた。その姿があまりに愛らしかったので、ぼくはつい笑ってしまう。

「な、な、君も嬉しいだろう?」

「ああ、嬉しいよ」

 と、ぼくもそう答えざるを得なかった。

「友達になろう、ルートヴィヒ君。ボクはセヴェリン=アントン・アヴェルドンクっていうんだ。よろしく!」

 とガシッとぼくの手を握り締める。

「明日もまた話そう。それじゃ!」

 と、彼は風のように去っていってしまった。それを見送りながら、なぜかまた笑いが込み上げてきた。あいつ……なんとなくあの人に似てる。あの人、モーツァルトに似てる。あの人が若い頃はたぶんあんな感じではなかったろうか。ぼくは久々に愉快な気持ちで帰途についた。

 

 大学に入って日が経てば経つほど、ますます実感してくる。この異様な熱気。いったい今、このヨーロッパに何が起こっているのだろう。どこもかしこもフランスで革命が起こるという話ばかり。王家とか教会とかいう支配階級に対して、ものすごい殺気が(みなぎ)っている。

 大学に入る前には知らなかった。オルガンやヴィオラを奏でているだけだった頃は、世の中の平和で穏やかな部分だけを汲み取っていたのだ。

 よく見ると、町の色も濃いではないか。長い間、貴族たちの圧政のもとで死を宣告されていた市民たちが、今、申し合わせたように同じ理想を口にし、新しい世界への希望に目を輝かせている。

 ぼくもちょっと前までは何よりもそれを望んでいたはずだった。いつも一人で叫んでいたような気がする。それは一人きりで逆行する苦しい日々だった。その苦しみに耐えかねて、つい最近すべてを捨てたのだ。

 それなのに、今のこの世相はなんだ。ぼくが捨てたものを民衆が拾い集めでもしたのか。


 疑問ばかりが積み重なって、いつまで経っても大学の空気に馴染めはしなかった。ぼくは明らかによそ者だった。アヴェルドンクだけは、ぼくのそんな様子など構わず喋り続けたが、ぼくの心に湧くのはそれとは逆の法則ばかりだった。言う必要もないので黙っていたが。

「たまには君の意見も聞かせてくれよ」

 と、ある日ついにアヴェルドンクが言ってきた。

「反対意見でもいいから言ってよ。この革命思想について、君はどう考えてるの?」

「……」

 今、口を開けば、ぼくの口からはいったい何がこぼれるのだろう。

 分からない。まるで世の流れの対極に定められた者のように、ぼくと世間とはいつも正反対だ。

 何かを語ることには強い恐怖さえ感じる。だが、自分でも確かめたくて、久々に口を開いてみた。

「そうだな。革命を起こすのもいいが、一人一人がそれに責任を持てるだけの強さをまず持つべきなんじゃないか」

「持ってないかい?」

「おそらくね。自分の主張に任せて人は殺せても、人のためには死ねない。主観的な人間ばかりだ」

 本当は、「自己中心的な人間ばかりだ」と言いたかったが、それはまるでモーツァルトを批判する言葉のような気がして、言えなかった。ぼくはさらに続ける。

「人とはそうしたものだ。だから好きにするがいい。人の愚かしさは今に始まったことじゃない」

「……ルイ」

 いつもは反応が良すぎるほどの彼の瞬発力も、このときはなぜか鈍ったようだった。

「驚いたな。君って相当変わってるね」

 しばらく続いた沈黙のあと、彼は笑って言う。

「反対だの賛成だのってレベルじゃないね。何も言わないから、てっきり反対なのかと思ってたけど」

「別に反対と取られても賛成と取られても構わないさ。人がどう取ろうとぼくには関係のないことだ」

「やけに冷めてるんだね。君の心には、ボクもいないのかい?」

 彼は笑顔でありながら、寂しげに問う。

「いや」

 ぼくは慌てて言い返そうとするが、やっぱりそれ以上のことは言えなかった。

 ぼくの心に真実がないと分かっている以上、何も言えない。黙っていなければ、また真実性の無いものを振りかざして、人を傷つけてしまう。こうあらねばならぬのだ! と無為に叫んでしまう。その結果に打ちのめされてきた過去が、ぼくの正体を(あかし)しているではないか。

 ぼくの愛は人を不幸にするだけなのだ。だから何に対しても関係ないと思うしかない。そう思わなければ、また不必要に手をさしのべてしまう。

「ぼくの愛は必要じゃないんだ」

 と彼に言うと、彼は優しく笑った。

「必要じゃないだって? そんなことないよ。必要じゃないものなんて、この世にないよ。みんななくちゃ困るよ」

「誰が? 誰が困る?」

「たとえばボク。君がいないと寂しいよ」

「本当か?」

 ぼくが彼を見上げると、彼はまるでモーツァルトのような笑みを浮かべる。

「他にもいるよ」

 と彼は言う。

「誰だ?」

「神様」

「その証拠は?」

「生きてる」

「……」

 ぼくはこのとき、ふと、そうかもしれないと思ったのだ。

【参考文献】


★『ベートーヴェン』(上)(下)

      メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)

★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)

★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)

★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)

★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)

★『古代の宇宙論』

    C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)

★『世界創造の神話』

    M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)

★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)

★『ギリシア・ローマ神話事典』

    マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著 

     木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)

★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』

         カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)

★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)

★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』

                 〈音楽選書65〉

       ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)

★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)

★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』

       アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)

★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』

        ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)

★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)

★『比類なきモーツァルト』

        ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)

★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)

★『ベートーヴェン大事典』

      バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)

★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)

★『ベートーヴェン全集』(講談社)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ