1-4.協奏曲
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
一七八八年六月十七日。
ぼくの作曲を大いに期待してくれたワルトシュタインが、長い修練期間を経て、ついにドイツ騎士団に入団した。
その頃、ぼくは久々に作曲に取りかかった。頭には何もなかったが、これは賭けだ。もし、これが書けなければ、ぼくは音楽家の道を諦める。もし……ぼくはそのとき、途轍もなく感動的な記憶を蘇らせていた。
あの日聴いたクラヴィーア協奏曲、あれはニ短調だった。
ニ短調……ぼくは思い出して身を震わせた。
「ルイ!」
ぼくが野に寝そべって空を眺めていると、ブロイニング家の姉弟たちがやってきた。
「ねえ、聞いて、ルイ。シュテファンがね、恋をしてるのよ」
とエレオノーレが言うと、
「バカ!」
と、シュテファンは走り去って行ってしまった。
「あらあら、照れちゃって」
エレオノーレは笑う。
「あまりひやかさない方がいい」
とぼくは言った。
「ねえ、ローレンツは? 誰かに恋してるの?」
と彼女はさらに歳下の弟に問う。
「ないよ、そんなもん。女なんか気持ち悪いだけだ」
と彼は言う。この台詞に、ぼくはつい笑ってしまう。
「確かにそうだよな。ぼくもおまえくらいのときには、そう感じてた」
とぼくはローレンツに言う。
「まあ、女のどこが気持ち悪いの?」
「だってさ、体が違うし」
「ローレンツ、そんなこと言うもんじゃないわ。恋って、心の問題よ」
「そういう君は? エレオノーレ」
ぼくはまた口を挟む。すると彼女はすぐに顔を真っ赤にして、
「いやだ、そんな人、いないわよ」
と言う。嘘のつけない人だ。
「当ててやろうか?」
「え?」
「すぐ分かるよな、レンツ」
ぼくはローレンツのことを「レンツ」と呼んでかわいがっていた。
「うん、ワルトシュタ……」
と彼が言おうとしたので、慌ててその口を塞いだが、手遅れだった。彼女は気を動転させ、走り去ってしまう。
「やっぱり、そうか」
ぼくは彼女の後ろ姿を見つめながら呟く。
「ねえ、恋って何なの?」
残ったローレンツは少し不満げに問う。自分だけが蚊帳の外だと感じているのだろう。
「なんだろうな。ぼくにも分からない」
「恋したことないの?」
「あるけど」
「え? あるって……」
「あったけど……」
「どんな人?」
「そんなこと、なんで知りたいんだ?」
「よく分からないから」
「……そうだな、よし分かった。話してやろう」
ぼくはなぜか話す気になった。思い出すのは怖かったけれど、でも、なぜかこの日、ぼくはそこを見たくなった。思い起こそうとすると、ふわっと何か大きな意思のある熱い風が、ぼくにしがみついてきた。
「その人は、わがままで、子どもっぽくて、自分のものは自分だけのものにしておかないと気が済まない人だった」
と、取り巻いてきたものに対して、つい反抗的なことを言ってしまう。ローレンツはきょとんとしていたが、ぼくは続ける。
「付き合うのは大変だったよ。ちょっとしたことですぐに怒り出すし、かと思うと落ち込む。
身勝手で、いつも不安にかられてて、ぼくは、いつもそれをなだめることに忙しかった」
「……なんか、最悪だね。もういいよ」
と言う彼を見ると、どこか青ざめていて、ぼくの言葉がどれだけ彼を傷つけたかをまざまざと感じた。彼はもうそのまま向こうに行ってしまった。
「違うんだよ、レンツ」
一人残されたぼくは、呟く。
「本当は、全然違うんだ……」
クラヴィーア協奏曲。ぼくの愛した彼女は気高く美しく、神の声を持っていた。それを誰にも知られないように隠そうとするのだが、駄目なのだ。彼女のそこかしこからあふれてしまって……。
その声が、今ここに泣き声のように伝わってくる。誰にも伝わらないと、泣いている。
「……伝わるよ」
ぼくはそれらの感情にささやいた。
「あなたは本物の愛を持っているから、伝わらないわけがない。もし、この世に救いがあるなら。ぼくは他の何も分からないけど、あなたの持っているものが、どれほどの想いに満ちていて、どれほどの苦しみを孕んでいるか、知っているから、なんの心配もしていない。真実からあふれ出すものは真実に伝わっていく。
だからそんなに悲しむことはない。自分を信じてほしい。あの日に見た、本当に大切な、信じるべき光を。あなただけがそれを放ち続けることができるんだ」
そういう音楽を表すことを、ぼくたちはあんなに怖がっていた。この世界には、ぼくたちが語っているような真実はないんじゃないかって。二人で夢見ては、それが壊されてしまうことを考えて怯えていたんだ。
壊されることなんかありゃしないさ。あの日見付けた真実の愛は、ぼくたちの中では永遠なんだ。
「ルートヴィヒ」
そこへ、エレオノーレがやってくる。
「みんなが呼んでるわ」
と。それでブロイニング家に戻ると、そこには男の群れ。彼らは何かを議論していた。
「音楽に不可欠なのは調和だ。他の創作物においても同じだが、新しければいいというものではない」
と誰かが力強く熱弁している。
「ベートーヴェン」
ワルトシュタインは少し眉根を寄せてぼくを呼ぶ。ぼくは彼らと同じテーブルについた。
「君か、伝統を無視した音楽家の卵は」
今まで喋っていた男が、非常に挑戦的に、ぼくに問うてくる。
「いえ、まだ分かりません。もちろんそうなれれば言うことはないのですが」
ぼくも敵対心を燃やして言い返す。すると彼は矢継ぎ早に次の問いを放った。
「君に重要なことを聞くが、音楽とは何だ」
「分かりません」
「私は君の演奏を聴いたことがある。あの演奏はなんだ。心が無くて不快なだけだ」
と彼は言った。それ以後も言葉の限りを尽くして批判されたが、ぼくはただ黙ってそれらを聞いていた。
彼が帰っていくと、ワルトシュタインは何も言い返さなかったぼくをじっと見つめる。
「ルイ、いったい何を考えていたんだ?」
「いや、ちょっと考え事を」
ぼくたち二人はまだ同じテーブルにいた。そこには友人のヴェーゲラーやエレオノーレもいた。彼らはぼくを気遣ってか、黙っていた。
「実は、ワルトシュタインに作曲をしてみたらどうかと言われてから、ずっと考えていたことがあるんだ。長らく忘れていたことだったが、ワルトシュタインのおかげで思い出した」
とぼくは彼らに話した。
「心の中に、真実の愛を持っていなければ、音楽家にはなれない。果たしてぼくにそれがあるのか……」
「あると思うわ」
とエレオノーレ。
「ぼくもそう信じたい。だが、こればかりは生まれ持ったものなんだ。残酷なことだが、事実、そうなんだ」
「努力では?」
ヴェーゲラーが問う。
「分からない。真実の愛っていうのは、死んだ人間を蘇らせる力だ。理屈や思い込みでどうにかなるものではない」
彼らは静まり返る。
「作曲をしてみようと思う」
ぼくは言った。
「もし、これで作曲できなければ、ぼくは音楽家の道を捨てる」
彼らの驚きが伝わってきたが、ぼくはもう固く決意していた。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




