1-3.ネーフェ
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
ブロイニング家が雇ってくれたおかげで、金銭的な問題から精神的な問題までの多くが解決された。生活費も家政婦の給料も、ここから得られる収入で賄うことができた。しかもブロイニング夫人は、昨年の借金までも肩代わりしてくれたのだ。ほとんど動かなくなっていたぼくの心も、このときばかりは震えた。ブロイニング夫人は以前と全く同じようにぼくに接した。聖母のような優しさもそのままだった。そして彼女の天使のような子どもたちも。
「モーツァルト弾いて!」
と彼らは事あるごとにぼくにねだってきた。この家族はみんなモーツァルトが大好きだった。
だが、ぼくにはどうしても弾けなかった。
「いいよ、弾かなくったって」
と、いつもシュテファンがその場を締めくくった。彼はあれからずっとぼくに対して静かな怒りを溜め込んでいるようだった。
「なんでもいいのよ。あなたが弾きたいものを、弾きたいときに弾けば」
と夫人は言ってくれた。夫人はいったいどう考えているのだろう。ぼくがモーツァルトを弾けなくなった理由を? ぼくがモーツァルトと仲違いをして帰ってきたのだと思っているのだろうか。それとも、モーツァルトに会いに行ったがために母の死に目に会えなかったからと、ぼくがモーツァルトを恨んでいるとでも考えているのだろうか。
本当のところは、自分でもどうなのか分からない。だが、なぜか弾けないのだ。いや、弾きたくないと言った方が近い。それで、子どもたちにクラヴィーアを教えるときも、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハばかりを使うことになった。モーツァルトが使えないとなると、使える作曲家はそういない。迷いに迷ったが、この、大バッハと呼ばれるヨハン・ゼバスティアン・バッハの次男以外に思い当たらなかった。モーツァルトと比べると劣るが、致し方なかった。
モーツァルトを弾けとせがまれるではないかと恐れていた誕生日会も、ブロイニング夫人の配慮があったのか、誰からもそれを言われなかった。そうして年が明けると、ためらいも次第に薄らいでいった。彼らブロイニング家の人々の活力が、少しずつぼくに気力を取り戻させてくれた。
「ワルトシュタイン伯爵がいらしたわ」
とエレオノーレがはしゃぐ。一七八八年の二月に入るとすぐに彼を紹介された。ワルトシュタイン伯爵は一七八七年にウィーンからボンにやってきた貴族だ。
彼はぼくの演奏を聴くと、
「君は、作曲はしているのかい?」
と聞いてきた。
「いいえ、それどころでは」
「君は演奏でこれほど特殊なことができる人だから、作曲でもきっとものすごいことができると思うよ」
彼は一言で言って、紳士だった。見栄えが良く、穏やかな人柄で、ブロイニング家の人々と同じく誠実で、一緒にいると心が安らいだ。
作曲、か。このところ、考えもしていないことだった。しかし、こんなときだからこそ、自分を変えるいい機会になるかもしれない。ぼくは彼の言葉で思い立った。せっかくウィーンでいろいろと経験したのだ。今の自分を確かめるためにも……。
今の自分? そんなものがあるのか? 何も見えない。自分が無い。そういえば、モーツァルトを失ったあの日、捨てたのではなかったか。ぼくの心はあの日、止まったままだ。
それで作曲を? 何のために? ぼくはいったい……音楽家になど、本当になりたいのだろうか。ぼくは耐え切れず、ブロイニング家を飛び出した。
「ルイ」
しばらくとぼとぼと歩いていると、通りすがりの誰かが声をかけてきた。見ると、そこには友人の一人ヴェーゲラーの姿が。彼と会うのは誕生日会以来のことだ。
「どうしたんだ?」
彼は早速問うてきた。
「誕生日会ではブロイニング夫人に、君にモーツァルトを弾けと言わないように、と念を押された。あれはいったいどういうことだ?」
「ああ、ちょっとな」
ぼくはどう答えていいか分からず、うろたえてしまう。
「もうクラヴィーアは弾けるんだろう?」
と彼はさらに聞いてくる。彼は母が死んだときも駆け付けてくれた。しかしそのときのぼくは誰とも口が利けない状態で、何も話せぬまま帰ってもらったのだ。誕生日会で再会したのはとても久し振りだった。だが、ブロイニング夫人の目があったせいか、彼は何も話せなかったのだろう。
「……いや、なんでも弾けるわけじゃない。まだ即興は無理だ」
「そうか、今度、なんでもいいから聴かせてくれないか。もし君さえ良ければだけど」
「もちろん」
「無理は言わない。調子のいいときでいい。じゃ、そのときに」
と言って、彼は去っていった。彼とは不思議と、少し話すとすぐ打ち解けられるような気がする。彼にはぼくの悩みを話せるような気がする。だが、まだ早過ぎるのだ。肝心なことの整理ができなくて言葉にならない。
ぼくはしかし、久し振りに、幼い頃からの音楽教師であるネーフェのところに行ってみた。彼とは、ウィーンから帰ってきてから会っていない。もうぼくになんて会ってくれないかもしれないとも思ったが、思い切って彼を訪ねた。
彼はぼくの姿を見て、とても驚いていた。
「お久し振りです、先生」
ぼくは礼儀正しく挨拶をした。
「ルイジ君! 今まで、どうしていたの?」
彼は優しくぼくに接した。半年以上も音沙汰のなかった弟子のことなど、もう忘れていても不思議ではないというのに。
「ウィーンに行って? その後の調子は?」
「……実は」
ぼくは、前からそうしていたように、今回も、彼に打ち明けた。
「実は、音楽家になるべきかどうか、迷っているんです」
「!?」
彼は目を丸くしてぼくを見た。本当に心底驚いたようだった。
当然といえば、当然かもしれない。彼は、ぼくが小学校を退学したばかりの頃から、ずっとぼくの支えになってくれていた。ぼくの音楽的才能を他人では最初に認め、できることはなんでもやってくれた。自分の知っていることはすべて教えると約束してくれた。そればかりでなく、ぼくの曲の出版を助け、仕事まで譲ってくれた。
そして、このボンに、ぼくの音楽的才能を宣伝したのも、また彼だったのだ。
「とにかく、話してみて」
彼は優しく言った。ぼくは彼に話してみようと思った。彼なら許してくれそうな気がしたからだ。ぼくがなぜここにいるのか。なぜそう思い始めたのか。彼なら分かってくれるかもしれないと思った。
彼はぼくを小さな部屋に招いて座らせ、ドアを閉める。彼が近くに座ったので、ぼくは話した。自分に全く自信が持てなくなってしまったこと。と言うより、空っぽで何もない状態になってしまったこと。まだ自分の心の内をちゃんと言葉にできない状態だったけれど、それなりに組み立てて一生懸命に話した。結局、着地点がどこにも見当たらないような話になったが、彼は黙って聞いてくれた。
「それで、音楽家になるかどうか迷っているの?」
彼はぼくの話が止まると、口を開いた。
「はい」
「もしここでやめたら、今までこんなに一生懸命にやってきたことも、全部無駄になってしまうけど……」
「分かっています」
「君がそういうふうに考えるようになったのはいつから? ウィーン旅行から?」
「たぶん、いえ、分かりません」
「お母さんを失ったこととは?」
「分かりません」
「……そう」
彼は、ぼくがあまりにひどい状態なので、内心は驚いていたはずなのだが、なるべく感情を出さないように、用心深くぼくに接した。
「そんなに急いで結論を出さなくてもいいんじゃないかな? 私は君を長い間見てきて、君がどれほど大きな可能性を持っているか、もしかしたら君よりも分かっているかもしれない。でも、今、君には、それが見えなくなってしまったんだろう?」
と小さい声で彼は言った。
「しばらく休んで、考えたくなったときにまた考えてみればいいよ。今は無理をしない方がいいと思う。君はきっと今、とても疲れているんだよ。
でもこれだけは覚えておいてほしい。世の中には辛いことはある。どんなに避けても、それは時としてどうしたって君を襲ってくるだろう。だが、そういうときに、君が自分の狭い世界の中に閉じこもってあれこれ考えるだけなのか、それとももっと広い目をもって全世界を見渡し、すべてに通じる真理について思いを巡らすのか。
今はしばらく休んだ方がいいかもしれないが、充分時が経って、君の傷が癒え始めたときには、このことを思い出してほしい」
「……はい」
「私には分かるよ。君は大丈夫だ。必ず立ち直れる」
「……」
不思議だ。
彼の言葉にはぼくはいつもうなずかされてきた。ぼくたちは長い間信頼によって固く結ばれていた。
今も、彼はこのように、いろいろと気を配り、ぼくを傷つけぬように、おそらくは最大の思いやりをもっていろいろと言ってくれる。だが、なぜかそれすら心に響かない。彼の視線はいったいどこに向かっているのか、その先には、ぼくがいないような気がした。こうなるのが怖くて、なかなか会いに来られなかった。ぼくはモーツァルトと切り離して彼のことを考えることができなくなってしまっている。彼もモーツァルトと同じフリーメーソンなのだ。モーツァルトがそうだったように、所詮組織のために動く人間でしかない。
そんな先入観をもって彼を見てしまうから、愛情のこもった彼の言葉も、まるでぼくが漠然と漂っているだけのこの世界の鏡面に広がる花畑のようにしか感じられない。まるで咲き誇る棘のない薔薇の花びらのように、ただただ綺麗なだけなのだ。
なぜなら彼は、本当はぼくなど見ていないのだから。あの日のモーツァルトと同じように!
「どうもありがとう」
「また、いつでもおいで」
話を終えた帰り道、なぜか心が寒かった。彼は変わっていない。本当に親身で、疑う余地などない。だが、考えれば考えるほど、その当たり障りのない思いやりに、何か逆らえない調和を強いられているようで……。
彼はぼくを裏切ってはいない。ぼくの方が変わったのだ。ぼくは一年前とは明らかに違う。モーツァルトの洗礼を受けて、変わってしまった。
この心の傷は、長い間ぼくには見えていなかったもの。これまでのぼくと彼との関係では、見落とされていたものだ。誰にも理解されることのない心を、彼はその他大勢に押し流されるように見逃しているような気がした。大事なものから遠い。彼はつながりを求め、つながらないものを否定するかのようだ。彼が見落としているものは、あまりに大きく、あまりに神聖で、人知の及ばないもの。それらがいともたやすく誤解され否定されるのを、ぼくは今日、この身に感じたのだった。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




