1-1.早足のヨハン
彼らの神々はどこにいるか、
彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
彼らの犠牲のあぶらを食い、
灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。
立ちあがってあなたがたを助けさせよ、
あなたがたを守らせよ。
今見よ、わたしこそは彼である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かし、
傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出しうるものはない。
わたしは天にむかい手をあげて誓う、
わたしは永遠に生きる。
(申命記第三十二章より)
どこから話せばいいだろう。
どこから、何を……たとえば自己紹介のつもりで過去のことを話すにしても、いろんなことがあり過ぎて、何から話そうかと迷ってしまう。
どうせだからぼくが生まれる前の話から始めてみようか。長い話になるかもしれないが、それほど入り組んではいない。単純な、どこにでもありそうな話だ。
まず、ここに紹介したい男がいる。
非常に変わった男だ。とにかく自由奔放。誰にも拠らず、自分の感情の赴くままに行動し、徹底的に既成概念を破壊しまくる男。人を底なしに感動させるほどの弁舌を持ちながら、同時に救いようのない悪人でもあった。
ぼくは彼について、昔から好奇心を抱いていた。生まれるずっと以前から彼を見ていたような気がする。それがいつからだったか詳しくは分からないけれど。
ある日の夕方、彼はいつものように前触れもなくふらっと家に帰ってきた。
ボンというケルン選帝侯領の首都の、ラインガッセ九三四番地。その二階建てのアパートの階段を彼が駆け上がるのは久々のことだった。何かといえばすぐ旅に出るのが彼の癖だったが、今回は特別の長旅だったからだ。
それだけに、彼の持ち物もいつもとは違っていた。確かに彼の帰りを一人で待っている父親への土産だったには違いないが。
彼は一人の女を連れていた。彼女はエーレンブライトシュタインの香りを全身に纏い、小悪魔を思わせる妖しさと威厳とを併せ持った魅力的な女性だった。ただ、二十歳という若さにもかかわらずすでに未亡人であったため、笑うのが苦手なようだった。笑顔が必要なときは口元だけで笑った。だがそれさえもまた上品に思えるほどの美人だった。彼女の名はマリアといった。
銀一色に統一されている部屋で、独り静かに楽譜の整理をしていた彼の父は、二人を見た途端、露骨に身構えた。特に女に対しては、見た瞬間に敵意を覚えた。
「この人と結婚したいんだ」
息子の口から予想通りの台詞が漏れるのを聞くと、彼は、
「そんな下卑た女と縁組をするなどと……正気で言っているのか?」
と怒鳴った。こんな存在感のある女にこの家に入られたら、これまでの一人息子との暮らしを台なしにされてしまうに違いないという警戒心があった。
マリアはそれを聞くなり、薄い唇を噛み締めて悔しさを露にする。息子はマリアを心から愛していたので、彼女を傷つけた父が許せず、逆上して父親に殴りかかった。
「ヨハン、やめて!」
マリアは慌てて恋人の怒りを抑えようとした。
これが一七六七年のことである。
だが二人は結局、父親の反対を押し切って、この年の九月十二日にボンで結婚式を挙げた。
しかし、この受洗した瞬間こそがまさに運命の分かれ目だったのだ。その結婚は、二人だけでなく、我がベートーヴェン家、およびこの家に関わるすべての親族にとっての、地獄の始まりとなった。
ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン。その結婚式で新郎となった二十七歳の男の名である。
ボンで彼を知らない者はいなかった。十二歳から優秀なボーイ・ソプラノ歌手として宮廷で働き始め、成人してからはテノール歌手となり、副業として貴族の令嬢たちにピアノと声楽を教えていた。彼は大変なエリートだった。容貌は特別美しかったわけではないが、中くらいの背丈、心持ち長い顔、広い額、丸い鼻、広い肩幅で、真面目な眼差しをしていた。
その性質は実に風変わりだった。彼はエリートだからというよりも、そのアクの強さゆえに目立っていたのだ。
嬉しいときは全身で喜び、悲しみに沈むときはどん底まで絶望した。人前では雄弁で豪快、まるで冗談のように感動的な演説をよくしてみせた。特に大好きな酒を飲んでいるとき、彼の感動的な心は、まるで彼が飲んだ酒と入れ替わるかのように口からあふれ出した。褒められた人格ではなかったが、外見を超えた特異な魅力を内から放っていたため、彼は人を惹き付けた。特に女にはモテた。彼の周りには常に個性的な人間が集まっていた。仲間は彼を頼りにした
彼は毎日、実現不可能な夢を語った。あまりにも現実から懸け離れすぎていて、多くの人間にとってはどんなに手を伸ばしても届くはずのない夢物語だったので、馬鹿馬鹿しいと本気にしない人間がほとんどだったが、酒場では人気があった。
「人の存在とはなんのためなのか? 人の欲望はなぜあるのか? なぜこうも禁じられるのか? 禁じている神とはいったい何者なのか? 禁じるなら、なぜ人に欲望を与えた……? この世にはいろんな疑問があるが、誰もその答えを知らない。キリスト教徒にゃ悪いが、俺は神なんてものの存在は信じちゃいねえ。だから自由に仮説を立てさせてもらう」
と彼は場所を選ばず、そんなことを大声で言った。
「ずばり言うと、俺たちゃサルの改造型なのさ。天地創造の後、神が『あー終わった終わった』って呑気に休んでる隙に悪魔がやってきて、サルをとっつかまえて脳みそにちょっと細工したらこんな高等生物ができちまったってわけよ。
神ってやつはそりゃ慌てただろうさ! それで人間たちの反逆防止のために、あれだけの長い戒律を突き付けやがった! ふざけるなってんだ。そんなもんに従えるかよ! 悪魔がかりの俺たちを馬鹿にするんじゃねえ! 神なんざ糞くらえだ!」
すると周囲のならず者たちから喝采が起こる。それに乗せられた彼はますます熱気にかられて言葉を続けた。
「キリストって何だか知ってるか? こいつは単に処刑されたユダヤ人なのか? とんでもねえ! キリストこそが本物の人類の主なんだ。でも神の子なんかじゃない。彼は悪魔のしもべだぜ。その証拠に実にずる賢い。神と人類、どっちにもいい顔をしてる。彼はかつての蛇なのさ! 『人間が言うことを聞かない。おまえが改造したんだから、おまえの責任でなんとかしろ』って神に言われて、一八〇〇年前、人の形をしてこの世に送られてきたんだ。ところがどっこい、彼はまた人間様の肩を持った! 要するに、トラブル好きなんだな。戒める傍ら罪を奨励していた。ありがてえことじゃねえか、罪を犯してもいいんだぜ。欲望のままに生きていいんだ。まあ考えてみりゃそうだよな。偽善者になろうが罪人になろうが、どのみち似たようなもんだ。どっちを選んだって個人の自由だ。迷惑をかけるな、なんていう奴は偽善者だ! 生きて息を吸ってるだけで充分迷惑なんだ。目糞が鼻糞を笑うない! 自分のことだけやってりゃいいんだ! 罪を犯さないと誓ったからには、俺たちがどんな横暴なことをしても許すがいいや。
だが、今の世の中、おかしいんだよな。逆に偽善者の方が横暴。それが常識になっちまってる。俺たち感性派の自由主義者は生涯汚名を着せられて縛り上げられるのか? それもなんの根拠もない、くだらないものにだ! 圧倒的な勢力で無言の支配を続ける伝統! 単なるでこぼこ舗装の積み重ねでしかない法律! 人を囲うためだけのような世間の常識主義! 勝手な思い込みでしかない正義感! 実にくだらない。こうしたものすべてが人間の潜在能力を抑えつけ自己規制に追いやってるんだ。そうじゃない! いくら吠えたっていいんだ! 俺たちは世界で一番偉大である! この言葉に目覚めた人間は例外なく比類なき存在である! 誰にも指図は受けない! どこまでも我が道を行け! 人類はすべて、一人残らずそうあらねばならない!」
ここでどこからか、褒めそやしに混じって、怒りの石つぶてが飛んできた。
「この大馬鹿野郎が!」
信仰心だけは厚いろくでなしたちであった。
「よくもキリストを汚してくれたな! 覚悟しろ!」
彼らはヨハンに殴りかかった。ヨハンはしかし、余裕の笑みでそれをヒラリとかわし、走り去った。いつもこうだ。彼は逃げ足だけは誰よりも速かった。彼の父親が「早足のヨハン(ヨハン・デア・ロイファー)」とあだ名していたのも無理はない。
こうしてろくでなしたちの間で敵を増やしていった彼だったが、味方もまた大勢いたのである。彼が何かにかられてそうした言葉を発するとき、なぜか決まってその身体には、神々しい力が宿っていたことを否定できない。
確かに彼は偽善者ではなかった。悪人だった。だからこそ他人を「偽善者」と罵ることができたのである。
しかし、いっぱしなのは口だけで、日常生活においてはまるで無能だった。彼は家庭内では音楽家としてエリート、というだけで許されていたのである。あとのことは父親が至れり尽くせりで面倒を見ていたため、彼には最低限の生活能力さえも身に付かなかったのだ。
後に、歳を取った彼に対して、世間の目は冷たかった。
それも仕方のないことだった。彼はその繊細さゆえに、よくやけになり、あちこちで喧嘩を売り買いした。また、しばしば計画的に人を裏切っては自分の価値を貶めた。見え透いた大嘘つきでもあり、自らの嘘を勘付かせまいと粋がっては、その気負いに自身が疲れ、あげくの果てには、その捌け口を賭け事に求め、大借金を作ったりした。
そして、女に溺れることも多かった。まるで熱病にでもかかったかのように誰かに夢中になり、恋して泣いて、別れては相手を恨んで……の繰り返し。結婚してからもそれは続いた。しかも自分の恋の痛手をすべて妻のせいにしたのだ。
何かにぶつかってぼろぼろになると、彼の口は凶器と化した。およそ人間とは思えないような冷酷なことを口走り、人を傷つけ、しばしば手足もそれに加勢した。
彼の妻マリアは、彼から虐待されていたと言っても過言ではない。しかし彼女は偉大だった。彼女はおよそほとんどの男にとって理想の妻といえたであろう。だからこそ頻繁に放たれるこの男の感情の爆発を普段はじっと耐え忍び、時には対等に言い争うこともできたのである。
二人が結婚して二か月後のこと。
ヨハンは飲み代や賭け金に困ったあげく、妻マリアの実家を訪ねた。
「わたしにお金を出せとおっしゃるの?」
マリアの母は正しい人だった。娘の結婚には、ヨハンの父親と同様、大反対だった。結婚後もヨハンのことを快く思っていなかった。その評判、振る舞い、言葉、すべてに彼女は嫌悪感を覚えた。
「お断りします。わたしは結婚と同時に娘とは完全に縁を切りました。ですから、あなたとも無関係です」
マリアの母ははっきりと言った。しかしヨハンは大声で笑いたてた。
「勘違いしないでくれ。これは賠償請求だ」
「……賠償ですって? なんの?」
「マリアの不貞の」
「え?」
「あのアマ、俺の親父と寝やがったんだ!」
少なくとも、彼はそう思い込んでいた。それは彼の孤独感が生み出したとんでもない妄想だった。
確かにマリアは義父を尊敬していた。初対面の印象こそすこぶる悪かったものの、ヨハンの父親は、深く知れば知るほど尊敬せざるを得ない人物だった。宮廷楽長という地位を若くして獲得し、その地位に相応しく、「ボンの正義」と呼ばれるほどに正義感が強く、誠実で真面目であり、誰にでも平等に接する人格者だった。マリアも、彼の家族の一員となってまもなく、それを認め、彼の崇拝者の一人となったのだった。
それが、彼女の夫には気に食わなかったのだ。と言うのも、彼女が事あるごとに夫よりも義父の意向を優先して実行したからである。家族の中で、ヨハンに力はなかった。すべて義父の支配下にあったのである。そして、マリアはそれに喜んで従った。
その様子は、いつの間にかヨハンのコンプレックスに火を付けた。彼は妄想のとりこになった。やけを起こしてさえいた。そして、次第にマリアを憎むようになっていったのである。
「ヨハンさん、あなたという人は……」
マリアの母は眉根を寄せて怒りに震えた。
「嫌ならいいんだ。俺は別に構わねえ。俺はもともと世評なんざに価値を置いちゃいねえんでね。だいたいこうしたゴシップの多くは俺自身の作り話が発端だったりするんだ……。金がねえと、ついお喋りになっちまう」
「………」
そしてついにマリアの母は観念し、口止め料として三百ターラーという大金を彼に手渡した。
しかしそれでは済まなかった。その後も、彼はたびたび義母にたかり、金を巻き上げた。そのため、彼女は財産のほぼ全部を失ってしまった。
マリアの母は、こんな男に娘を嫁がせてしまった自分を呪い、悩み苦しんだ末に、これ以上もないほどの過酷な禁欲生活を我が身に課した。ろくに食べ物も口にせず、衣服も最低限のものしか身に付けず、ろくに眠りもせず、その冬は吹きっさらしの中を野宿して過ごした。
なんとか年は越せたものの、老体にこの試練はきつ過ぎた。彼女はそのまま衰弱していき、その年の九月に亡くなった。六十一歳であった。
「どういうこと?」
マリアは、母親の不自然な死に方を怪しんだ。特に、その残った財産のあまりの少なさに目を見張った。
「どういうことなの? これは。ほとんど無一文だなんて……」
するとそばにいた彼女の夫が口を挟んだ。
「誰かに脅されていたんじゃねえのか?」
「こんなときに悪い冗談はやめて!」
「おっと、悪い悪い」
彼は陽気だった。しかしその内面には、なおもどす黒い憎しみが渦巻いていた。ここまでしてもまだ彼は、妻の「裏切り」によって負った傷を消すことはなかった。
ヨハンは父をも憎むようになっていた。それまでは軽く受け流してきたことでも、一つ一つ思い出しては憎しみの糧とした。
その最たる糧になったのが、父が母にした仕打ちだった。ヨハンは、自分の母親を廃人にしたのは父親だと思い込むようになっていたのである。
ヨハンは母を愛していた。母は、父の始めた稼業の酒販売のために、酒の利き方を覚えた。父はあまり酒が飲めなかったので、利き酒は母の役目だった。しかしそれが高じて、母は早々にアルコール中毒になってしまったのだ。仕方なく、父は、妻をケルンの尼寺に隔離することにした。彼女はその日を境に、一生、そこから出ることはなかった。
こんな形で母を失ったヨハンを、父親は非常に不憫に思い、異常なほど世話を焼くようになった。おかげでヨハンは何不自由なく育った。しかしそれでも、早いうちから酒を飲み過ぎる傾向があった。それは母への思慕の表れだったのかもしれない。
ヨハンは、母のことをしきりに思い出すようになった。そして、そのたびごとに、父を憎んだ。やがて、母を廃人にしたのは父だと、人前でも臆面もなく断言し切るようになってしまった。彼の恨みのほぼすべては、その憎き相手と結託した妻マリアに向かったのであった。
そのとき、マリアは彼の一人目の子どもを身籠もっていた。三か月であった。
順調に発育し、翌年一七六九年の四月二日に、無事男の子が生まれた。
しかし彼女はどういうわけか、産んだあと、赤ん坊の世話をほとんどしなかった。そのため、子どもは生まれて六日で死んだ。水もミルクもほとんど与えられないままに餓死したのである。その頃の彼女は絶望していた。自殺の機会を窺っていたほどで、新しい命を育てるどころではなかった。
結婚して一年半。この短期間のうちに、この夫婦の仲は完全に冷え、もはや修復不可能になっていた。夫は、彼女が身籠もっていた間中、他の恋人と旅をしていた。彼女は仕方なく一人で子どもを産んだが、夫の帰りを待って一緒に名を付けようと決めていた。偶然にも、出産したその日に夫は帰ってきた。ひどく酔っているうえに、見るからにはすっぱな女と一緒であった。彼女はショックを受けたが、打ちひしがれた思いに耐えて出産の報告をした。すると、彼は急に不機嫌になって疑いを言い放った。つまり、その子は自分の子ではない。父とおまえの子だろう、と。
彼女はそのあまりにひどい勘繰りに、返す言葉もなかった。ヨハンは当て付けがましく陽気なふうを装い、赤ん坊を乱暴に抱いた。赤ん坊は泣き出した。
「よしよし、呪われた子よ。おまえの名はルートヴィヒ・マリアにしよう」
と、恨みがましくあやしながら言った。「ルートヴィヒ」とはヨハンの父の名である。そのあとに妻「マリア」の名を続けたのだ。
このことがあって、彼女は生まれた子どもを育てることを放棄した。
「なんてことしやがった!」
ヨハンは赤子が死んでしまったのを知ると、気が違ったほどに怒った。彼はこのときほどひどくマリアを殴り付けたことはない。それはまるで、殺しかねないほどの勢いだった。
「おまえの心は石ででもできているのか……? おまえは自分の子どもを殺したんだぞ!」
「……」
「聞いてるのか?」
彼がいくら問いただしても、彼女は無表情で黙り続けるだけだった。
「おい! なんとか言ったらどうなんだ! せめて何か一言ぐらい言い訳でもしたらどうだ。
な……なんの罪もない子を……」
彼は涙をこぼした。
「なんの罪もない子を殺しやがって。ちきしょう、俺はバカだ! なんだってこんな女と結婚しちまったんだ!
俺はおまえを許さない。この罪を償う方法はただ一つだ。死んでしまえ! おまえのような無知無能な女が、無限の可能性を秘めていたであろう子どもを殺したんだ。それもわざと! おまえは殺人鬼だ。死んでしまえ! 死ぬくらいじゃ生ぬるいが、せめてそれくらいしろ。おまえみたいな奴は一秒でも早く死んだ方が世のためだ。いいか、今日中にだ! 明日その面を見せたら俺が最大の善意をもって殺してやる!」
「……!」
マリアはそこで、そばにあったナイフを手に取り、ライン川のほとりまで走り出た。そしてそのまま水に入り、ナイフで自らの喉を突こうとした。
「馬鹿! なんてことしやがる!」
ヨハンはあまりに唐突な妻の行動を、慌てて止めた。
「離して!」
マリアは彼の手を振り払う。彼女はもう心を決めていて、そこには渾身の力が込められていた。
「よせ、悪かった。さっきのは嘘だ。言い過ぎた。許してくれ」
「いいえ、もう駄目……」
彼女の顔は絶望に青ざめていた。
「マリア、お願いだからやめてくれ。後生だ」
彼は彼女を後ろから抱きすくめた。
「いいえ、もう死にたいの。生きているのが辛いのよ」
「オ……俺のせいなんだろう?」
彼は無様なほどに顔を崩して泣き出した。
「マリア、答えてくれ。なぜ俺と結婚したんだ。愛してもいないのに、なぜ……」
「愛して……いたわ」
「今は親父の方がいいのか?」
「……あなたって、どうしてそうなの」
マリアは意志をもって冷静さを取り戻し、夫の腕の中で彼に向き直る。
「お義父さまのことは、確かに心から尊敬しているわ。でもそれは、わたしだけじゃない。町中の人たちみんながそうよ。あの方は尊敬に値する方なのよ。わたしもその大勢の中の一人に過ぎないわ」
彼女は事実を語ることによって、もう一度、夫と心を通い合わせようと試みた。
「それは本当か? 一度も通じてないか?」
「本当はこんなこと話題にしたくもないわ。そんな恥ずかしいこと、よく言えると思うわ。という以前に、よく思い付くわよ」
「なんだと?」
ヨハンはマリアの言い方や振る舞いが気に入らなかった。いつも、いつも、ちょっとしたことで二人はすれ違っていたが、この日もそうだった。
「なるほど……。そういうことか。よく分かったよ」
ヨハンはいつものように、彼女の努力のすべてを、歪んだ受け取り方で汚し、水の泡にした。
「やっぱり、おまえが俺と一緒になったのは、親父に近付くためだったんだな? 最初から俺じゃなく親父が目当てで……。このあばずれめ!」
その後も、彼女は虐待を受け続けたが、かろうじて生きながらえた。彼女は、彼女に与えられている使命の重さゆえに生きねばならなかった。
そして「ぼく」は、これから生まれる者としての宿命を感じた。
この明くる年の二月、ヨハンの劣等感という名の支配的な鎖を感じるだけになってしまっていたマリアは、深い孤独の中で、心にも身体にもくっきりと残る憎しみと憤りに紛れながら、誰かに慰めを求めた。それが誰だったのかは、ぼくにも分からない。とにかく、ぼくはその誰かの息子として、母マリアの胎に宿った。
母はおなかに向かって話しかけた。ヨハンに対する仕返しにぼくを宿したと。ヨハンともちょうどその頃通じたから、ヨハンはうまくするとぼくを自分の子と思い込むだろうと。
母は言った。「ヨハンの種は洗い流した。これがわたしの復讐なのだ」と。
不安と焦燥の中、あとは生まれる日を待つのみとなる。
【参考文献】
★『ベートーヴェン』(上)(下)
メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦、勝村仁子訳(岩波書店)
★『ベートーヴェンの生涯』(上)(下)セイヤー著 大築邦雄訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ著(平凡社)
★『ベートーヴェン 生涯篇』属啓成著(音楽之友社)
★『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(音楽之友社)
★『ベートーヴェンの虚像をはぐ』武川寛海著(音楽之友社)
★『古代の宇宙論』
C・ブラッカー、M・ローウェ編 矢島祐利、矢島文夫訳(海鳴社)
★『世界創造の神話』
M=L・フォン・フランツ著 富山太佳夫、富山芳子訳(人文書院)
★『ギリシアの神々』曽野綾子、田名部昭著(講談社)
★『ギリシア・ローマ神話事典』
マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル著
木宮直仁、西田実、入江和生、中道子、丹羽隆子訳(大修館書店)
★『プロメテウス―ギリシア人の解した人間存在』
カール・ケレーニイ著 辻村誠三訳(法政大学出版局)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ベートーヴェン』(音楽之友社)
★『作曲家別 名曲解説ライブラリー ハイドン』(音楽之友社)
★『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚―二度ともとても幸せでした―』
〈音楽選書65〉
ヴィゴー・ショークヴィスト著 高藤直樹訳(音楽之友社)
★『シカネーダー伝―『魔笛』を書いた興行師』原研二著(新潮社)
★『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン/モーツァルト』
アントン・ノイマイヤー著 礒山雅、大内典訳(東京書籍)
★『ハイドン(1970年)(永遠の音楽家16)』
ピエール・バルボー著 前田昭雄、山本顕一訳(白水社)
★『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 石井宏訳(新書館)
★『比類なきモーツァルト』
ジャン=ヴィクトル・オカール著 武藤剛史訳(白水社)
★『ベートーヴェン事典』平野昭、土田英三郎、西原稔編著(東京書籍)
★『ベートーヴェン大事典』
バリー・クーパー著 平野昭、横原千史、西原稔訳(平凡社)
★『モーツァルト大事典』ロビンズ・ランドン監修 海老澤敏訳(平凡社)
★『ベートーヴェン全集』(講談社)




