再会、再開────。
きめ細やかな雪が、音もなく降り続けていた。
真っ暗な空に引かれる無数の白線は、力なく揺れながら落ち、寂れた運動競技場のトラックに触れた瞬間、静かに溶けて消えていく。
厚い雲に遮られた月光の代わりに、点けっぱなしのスタジアムライトが、舞い落ちる雪片を硝子の破片のようにきらめかせていた。
無人の観客席。プラスチック製の長椅子が並ぶそこに、二つの影があった。
「私、雪は嫌いだな」
静かな声が雪に吸い込まれた。
ヒビ割れた椅子に腰をおろした少女は、手の平に落ちてくる雪をじっと見つめている
目深に被ったキャップが表情を隠し、灰色のパーカーに包まれた細い身体からは、どこか現実から遊離したような物憂げな空気が漂っていた。
その近くで、もう一つの影が動いた。
「俺ちゃんは今日で雪が好きになった!んまいっ!!」
手すりに積もった雪を鷲掴みにし、それを口いっぱいに頬張ったまま、少年は深く頷く。
パンチパーマのアフリカ系人種。
アニメのキャラクターがプリントされたTシャツの上から黒いジャケットを羽織っていて、どこかガチャガチャした格好をしている。
「そっか、ザードくんはアフリカ出身だったね。雪は初めて?」
「生まれはナイジェリア〜。でも生まれてすぐ先生に拾われたから外は知らない」
「……」
イカロスは地下施設。外出の機会はなく、ただ人工的に演出された室内空間の昼と夜を繰り返す。ザードはそこに赤子の頃からいたらしい。
「胸花チャンはロシアにいたんでしょ?なのに雪が嫌いなの?」
「だからだよ。雪は……故郷を思い出すから」
胸花は、手のひらに積もった雪を握り込む。
体温で溶けたそれは、あっという間に形を失い、水となって指の隙間から滲んだ。
その光景に、ザザッと過去の記憶の断片が蘇った。
白い雪。赤い血。
視界いっぱいに広がるのは、色のない夜に塗られた赤。
少女の手のひらには、べっとりと血が付いている。
雪の上にへたり込んだ彼女の前には、血の海が広がっていた。
音はない。風もない。ただ鼻を刺す鉄の匂いだけが、冷たい夜の雪山に重く漂っていた。
ガシャンッ。
遠くの方で音が鳴った。胸花は現実に引き戻される。
音の方を見ると、対面の鉄網の扉の方に二つの影が見えた。
「来た」
雛織悠と終幕個体。それが彼女の標的だった。
少女の視線を追いかけた少年は、つまらなさそうに目を細めた。
「簡単に吊れた。張り合いね〜の……」
「張り合いなんてない方がいいんじゃない?」
「胸花チャンはそうだろ〜ね、次失敗したら後がないし!ヒャヒャヒャッ!!」
退屈そうだった少年が、今度は大袈裟に笑った。
少女は怪訝な顔をしつつも、特に言い返すことはない。
向かいの二つの影が、スタジアムに降りた。
悠の顔には、荒々しい殺意が剥き出し表れている。
「怒ってら怒ってら!そんなにこの女が大切〜?俺ちゃんのタイプじゃないんだけどなぁ」
少年の視線は、観客席に横たわる未海樹に向けられていた。
「……人が何を大切にしているかなんて、当人にしか理解できないよ。君が私と違って、先生を好きなようにね」
少女は未海樹を持ち上げる。見下ろす瞳には、どこか寂しさと嫉妬の色が滲んでいた。
「そう言う胸花チャンには、大切なモンがあるの?」
「あった。でももういらない」
雪が弧を描いて、跳ねる。二人は、観客席からスタジアムに降り立った。
◆◆◆◆
ナナの鼻を頼りに誘拐犯を追いかけ、僕はショッピングモール近くの古い陸上競技場に辿り着いた。
今は陸上競技はオフシーズン。人はいない。スタジアムには、1.2センチほど雪が積もっていた。
サクッ
二人の誘拐犯が観客席から降りてきた。女の腕には未海樹が抱えられている。
口元から白い息────。未海樹は気絶しているだけだ。
未海樹の無事を確認し、僕はひとまず安堵した。
それより……
「やっぱりテメーか。鬼ごっこの次はかくれんぼって……ガキとやっとけよ」
女はあの時の傭兵だ。俺の勘違いじゃなかったらしい。
「つれないな〜。君とやるのが楽しいのに。ね、雛織ゆ〜くん?」
「チッ……」
相変わらずの「私は余裕です」みたいな笑みだ。気にくわねぇ。
「私は胸花・フォン・リーネ。胸花って呼んで」
気味が悪いほど透き通った、耳心地のいい声。だが、それがかえって僕には不気味に聞こえた。
「ナナ、両腕」
「ん」
短いやり取りを交わす。
直後、ナナの腕は消え、僕の腕に白銀の装甲が巻き付いた。
骨なのか樹木なのか、未だはっきりしないそれはナナの魔法だ。
「御託はいい。さっさと未海樹をこっちによこせ」
「お買い物の約束……してる、の」
僕とナナは一歩詰め寄る。
緊張した空気が場を支配している。
「もちろんもちろん!でもその前に、私たちのお願いも聞────」
「ヒャハッ────!!」
胸花の言葉は途中で断ち切られた。
アフリカ系の少年が雪を蹴って、一気に懐に入ってくる。
低い前傾姿勢。硬く握られた拳は、僕のみぞおちを狙っている。
判断は一瞬だった。
僕は、ナナの魔法を纏った両腕を交差させ、拳を防ぐ。
衝撃はほとんどない。軽い振動が伝わっただけ。
しかし、
「いってぇーーー!!死ぬーー!!死ぬーー!!」
少年の方はそうもいかなかったようで、拳を抱えて転げ回っている。
「アホかこいつ……」
「いた、そう……?」
そりゃそうなるに決まってる。落ちてくる木すら受け止めた腕を、生身の拳で殴ったんだから。
「ちょっと!ザードくん作戦覚えてる!?」
僕とナナが呆れ返っていると、胸花が慌てた様子で叫んだ。
だが、ザードと呼ばれた少年は首を傾げて、
「んあ?んだっけそれ」
あっけらかんと言い放った。
どうやらこの奇襲は、胸花にとっても想定外のことらしい。
「まずは交渉!!それから────」
「交渉?そんなんしてたら、また失敗しちゃうよ〜ん!よいしょっ」
さっきまで痛がっていたのが嘘みたいに、ザードは軽く跳ねて立ち上がった。
「人質がいる。主導権があるのは俺ちゃんたちの方だ。違う?」
ニヤッ、と口角を上げた少年。
胸花は苦虫を噛み潰したような顔になっている。
「いかにもって感じのゲス発言だな。保険がなきゃ戦うの怖くてできません〜ってか?」
僕が軽口を叩くと、少年は振り向いて不愉快そうに顔を歪ませた。
「日本人が、生意気……」
「なら帰ってママに泣きついとけ、『バカにされた悔しい〜』ってな。得意だろ?お前みたいなやつは」
ギリっ、とザードの歯が軋む音が聞こえた。
「俺ちゃんにママはいない……!」
「ああ通りで。碌な育て方されてこなかったんだな」
「ああ!?」
ザードの声に怒気がこもった。額にも血管が浮き出ている。
「よくも……よくも先生をバカにしたな……!!ボコボコのグチャグチャにしてローストしてやる!!カモン────アルニコル!!」
ザードが頭上を指差す。
そこには、優雅に寒空を泳ぐ魚がいた。
揺れるヒゲ。波打つ透明な背びれ。トサカのような触覚。
リュウグウノツカイを思わせる十メートルほどの巨体には、宇宙空間が映し出されていた。
「お前……バディいたのかよっ……!!」
てっきり、生身で攻撃してきたからいないもんだと思っていた!畜生、キレさせたのは判断ミスだ!!
「これで、2対1!今更謝っても許してやらないぞ!!なあ胸花チャン!!」
少年がこちらを睨んだまま叫ぶ。
しかし胸花は、静かに僕を見ていた。
「……」
「あ?胸花チャン?」
「……はいはい。おいで────アスクァエナ」
小さく嘆息をついた少女。その背後が歪む。
竜と見紛うほど神々しい白蛇が、姿を現した。
「くそが……」
「ウヒッ!そうそう!それでいいのだ!!」
ザードが歓喜する。
目の前にいるのは、過去にすべてを奪った存在。そして未知の脅威。
俺は歯を食いしばり、その二体を睨みつけた。




