霧の国の沈黙
――カルビレス共和国治安局秘密警察主任ヨハンネス・クルト
カルビレス共和国は、その重厚な石造の街並みに似つかわしく、沈黙と規律を尊ぶ国家であった。北方の大国イゼルニア連邦の庇護を受け、形式上は独立を保ってはいるものの、その内実は連邦の意志に忠実な、歯車の一部に過ぎなかった。
共和国中央庁舎、五階南棟。灰色の石壁と鉄扉に囲まれた、無音の執務室に彼はいた。
ヨハンネス・クルト――共和国治安局の〈特別監視課〉主任。
彼の瞳には熱も色もない。まるで工業炉で鍛え上げられた鋼の塊のように、誰もその奥を見通すことはできない。
今日もまた一枚の報告書が、卓上の緑のフォルダに追加された。
「容疑者:エミル・ファウスト。副都大学文学部准教授。国家転覆思想の拡散および外国工作員との接触の疑い。」
ヨハンネスは、報告書を一読し、微動だにせず立ち上がった。
容赦もなく、憐憫もない。
彼にとって摘発とは、正義の行使ではなかった。誤作動した時計の歯車を取り替えるような、冷徹な修復作業に過ぎない。
副都の冬は厳しい。白い吐息の向こうに立つヨハンネスの黒いコートは、街の人々にとって恐怖そのものだった。彼が建物に入るたび、目を合わせる者は一人もいなかった。
エミル・ファウストの拘束は迅速に、かつ静かに行われた。
夜明け前の自宅。家族が眠る中での逮捕。
「抵抗の意志は?」
「……ないさ。ただ、どうして読書が罪になる?」
その問いにヨハンネスは答えなかった。
代わりに、エミルの眼をじっと見つめた。
その視線に、罪の重さや裁きの厳しさはなかった。ただ、空虚な確認だけがあった。
「お前は、この国の定義する“秩序”から逸脱した。」
数日後、大学には一通の通知が掲示された。
「ファウスト准教授は、共和国の安全を脅かす思想を流布した容疑により停職処分とする。関係者は接触を慎むように。」
誰もが黙ってうなずいた。
それは恐怖からでも、同情からでもなかった。
この国では、そうする他に方法がないのだ。
ヨハンネス・クルトは報告書の裏に、何も記さなかった。
彼にとって、これはただ一つの事務処理に過ぎなかったからだ。