手紙(side A)
100年続いた祭りにも終わりが来た。そのことを整った文字が悠然として語っていた。
拝啓 風薫る時候と相成りました。すっかりご無沙汰ですが、お変わりありませんか。
村の皆もだんだんと年老いてきて、なにをするにもとても時間がかかってしまいます。貴方が村を出てからというものの、時間が止まったまま流れているように感じられるのです。若い人手がいないと皆んな嘆いております。
さて、やまなき祭は今年で最後となるようです。続けていくのが難しいのだとか、どうか久々に村に顔を出してください。お会いできるのを楽しみにしています。つぼみの風船が割れてしまう前に。敬具
2023年5月1日 伊瀬 千尋
柳内 義一 様
村で例年催されている祭りが、高齢化に担い手不足が手伝って今年でその幕を閉じるということらしかった。そのため地元最後の祭りくらい顔を出せというのだろう。この辺りの事情というのは、昨今一般的な地域社会のテーマであるように思う。思う、のであればこの便箋一片で他人とこうして連絡を取ったりなぞしない、ましてやフェイストゥーフェイスではなおさらである。客のいない昼下がりのファミレスには乾いた空気が充満している。最大8人掛けのテーブルを挟んで向かい、彼はうつむき固く口を一文字に結んだまま喋ろうとしない。ほらな、と心の中で思う。他人と関わってもロクなことはない。いつごろからかこれは俺のモットーであり、信条であり、あるいは下卑た社会におけるたった一つの普遍の真実なのだ。──とはいえこの俺が数年のスランプを満喫させられているのも、やはり不変の真実に違いなかった。さて、とてもとても忙しい俺を呼び立てて、貴重な時間を浪費させるけしからん不遜者に一言義理立ててやらねばなるまい。立夏にしてはやけに刺す日差しが、飲みかけのアイスコーヒーの氷に融解点を与え、からんという音が涼しく響いた。
5月のはじめ、俺の四畳半を境にして外界は出会いや門出といった祝い事の薔薇色、いや桜色の雰囲気が落ち着いて来た。それとは裏腹に俺の部屋には積み上がった古本が陰鬱な陰を作っていた。花びらが舞って部屋のなかに入ってくるのを目に映すのもなんだか癪にさわるので、窓はずっと締め切っていた。善い座り心地を探す度にぎいぎいと鳴る椅子は、急かされているようで厭だった。物書きの才能がないわけではないと思っていたが、ここまで打てど響かずとは思わなかった。ことごとく受賞を逃した作品たちを思うと胸が締め付けられる。そんな時だった、ほとんど鳴るはずのない携帯電話が鳴ったのは。机の上でわななき振動するそれは、カラカラの日常に変化と潤いをもたらすような気がした。見たことのない番号だった。家族もおらず独り身の俺にかかってくるのは2つの選択肢しかない。1つは何かしらを勧誘してくる怪しい電話。もう一つは無名の作家にほとんどあり得ない電話だ。出ると同時に俺は名乗った。
「はい、大成です。」
「もしもし、わたしは佐々木という者なのですが、この電話は大成ミステリ研究所、で間違いないでしょうか。」
あり得ない方の電話だった。
◇
俺のような三文文士にとって、題材やネタというのはあればあるほど困ることはない。サイトを作った当初はそんなことを考えていた気がする。ダメで元々と似合わぬ楽天家思考を携えていたような気もするし、もしかしたら一種の現実逃避のようなものであったかもしれない。とはいえ、自分でミステリ研究所と銘打っているのだから自己批判のようなものではあるのだろうが、かかってきた電話を無下にするほどニヒリストでもないのだ。兎に角、いくばくの充電期間を経てそのサイトが役割を果たし始めたらしい。
「ええ。小説家の大成です。ネタのご提供のお電話で......。よろしいですか?」
「はい、そうなんですが......。できれば実際にお会いしてお話したいんです。なんだか一人でこの話をするのが怖くて。今日おかしな手紙が見つかったんです。」
お願いしている身で恐縮だが、できるなら早めにしてほしい、とも続けた。若い男の声の主は、想像しうる限り最悪な提案してきた。がばり、と電話を持っていない方の手を顔に当て、静かにため息をついた。我ながらオーバーなリアクションをとるものだ、とどこか他人事のような俯瞰をする。ほんの僅かな時間逡巡したのち、俺はいくつかの事情を天秤に掛け、指定された俺のアパートから近くのファミレスで会うことを決めたのだった。了承を得るのにそれほどの交渉もなかった。
押し黙る彼に喝を入れてやろうかと考えながら、改めて見せられた手紙を見つめた。字も整っているし、紙自体も印刷されたばかりのようにぴっしりとしている。手紙は一度読んでからは手をつけていないという。会って早々にこの1通の綺麗な便箋を差し出され、読むよう促されて今に至るのだが......。これを見て何か気になることと言えば、電話口でこの男は佐々木と名乗っていたが宛名は「柳内義一」となっていること。加えて、やけに意味深長な最後のとってつけたような一文。俺もミステリ作家の端くれだ、僅かに存在するであろう灰色の脳細胞を少しばかり活性化させてみようではないか。
──この柳内義一という人物はなんらかの理由で居を移すと、この佐々木という男がその後に入居した。手紙の差出人「伊瀬千尋」はそのことを知らずに以前柳内が住んでいた住所に手紙を出した。ここまではなんら不思議はない。最後の文は一旦置いておくとして、この事実が恐怖を帯びるとき、というのはどんな場合が考えられるだろうか。例えば柳内がすでに死んでいる場合などはどうだろう。詰まりこの佐々木が入居したのは事故物件だった、のである。悪くはない、と思うが事故物件と分かっていて物件を借りるやつがそこまで肝っ玉が小さいとも思えない。仮に入居時に知らなかったとして、どうやって死んだことを知るものだろうか。すでに死んでいる人物に対して手紙が来る。届くはずのない相手に対して。そこになんらかの情が生まれようがそれはおおよそ恐怖とは別のものであろう気もした。もう少しなにか別のスパイスが必要だ。なにか、なにかないか。と、俺はあることに気づいた。コップの残した水滴を避けるように広げられた一枚の紙を改めて眺めてみる。やはりだ。普通送付された手紙と言ったらなくてはならないものがない。この手紙はあまりに綺麗すぎるのだ。手紙を送る上では紙を折りたたみ封筒に入れてそれをするが、これには折り目すらないではないか!例えコピーしたものであっても折り目の痕くらいは残りそうなものだ。しかし目の前のものにはそれがない。いくつかの可能性の中で最もこの男が怖れそうな事実。結末とすれば至ってシンプルなものだろう。推察するにこれは郵便局員がポストに投函した、といういわゆる一般的なプロセスから逸脱して彼の元に現出したのではなかろうか。俺の考える通りなのだとしたらこの手紙を発見したのはきっと投函口ではなかったはずだ。思い当たる場所とすれば、あるいは......家の中で。確かめてみよう。完全に決め打ちした俺は少しいたずら心を働かせた。数刻置いて俺は彼を見据え、彼も俺の視線や表情から何かを察したらしい。俺はたぶん自信満々で手紙を指しながらこう言った。
「不法侵入でもされたのなら、警察に行くのが妥当な判断でしょうに。」
「合格です。」
くいっと上がった口角に微笑が浮かぶのを俺は見逃さなかった。ほらな、ロクなもんじゃない。
◇
言い表すなら侮蔑が含まれているような表情。そんな単純なものじゃなかったか。どちらにせよ相手の顔を見て、試されたと気付いた俺は間違いなくはらわたがぐつぐつと煮えくりかえっていた。彼もそれを察したのか、フォローにもならない言葉を掛けてきた。
「試したわけじゃない、と言ったら嘘になりますがかといって下に見るようなことは絶対にありません。」
「わたしはただ最近自分と同じアパートに作家先生が住んでいると大家から聞いて興味が沸いた、というかミステリーの肥やしになればいいというようないたいけな老婆心というか......。ミステリーが好きなんですよわたし。」
呆れた。こいつのどこに恐怖なんて感情が、いやそれより件のサイトに住所まで載せたのが間違いだったか?いや住所は号室をずらして書いていたはずだが。同じ建屋に住んでいたのならばそんな気遣いも無用であったと省みる。それにだ、その作家という呼び方は勘弁してほしい。自分がそうでないことをいっそうありありと浮かび上がらせるので、首筋、背中、腰、とにかくどこかがむず痒い。
「まあ、それはいいから。詳しい事情を話してくれないか。」
「事情、と言ってもほとんど察していらっしゃるようじゃないですか。さすがですね、やはり作家さんだ。」
「私が家に帰ると、自分の机の上にこれが置いてあったんです。そりゃあビビりましたよ!金目のものは一通りあることは確認したんですがね......。」
わざとらしい言い口はさておき、佐々木は手紙の内容を読むと前の住人宛てだということに気づいたらしい。俺の推理がいたらなかった部分と言えば、手紙を置いた人物、おそらく「伊瀬千尋」は堂々侵入したということだ。大家にすぐに駆け込むと、見知らぬ女性が部屋に入っていくのを目撃したことを話してくれたという。で大家は余計様に俺のプライバシー侵害をした結果、このような状況になったというわけだ。
「確かに電話した時点ではマジでビビってましたよ。でも女の人と縁ないわたしですから、それはそれでいいかな、と思うようになりましてね......。」
もはや何も言うまい。時間の無駄だった。俺が離席しようとすると、
「待ってくださいよ、分かってるんでしょう?勿体ぶらずに教えてくださいよ。」
「はあ?」
「最後の一文の意味ですよ!侵入者Xはわたしに前の入居者柳内氏となんらかの関係があり、手紙を置いたわけですよね。でもわざわざどうしてそんな回りくどいことする必要があったんでしょうか。そこも気になるじゃないですか。なんか気付いているんならヒントだけでもお願いしますよ!」
最後の一文というとこれだ。机上に目を向ける。「つぼみの風船が割れてしまう前に」。なにかのメッセージだろう。それに勝手に家に上がり込んでまで伝えたいのだ、ポストに入ったまま開かれない手紙、そのまま捨てられてしまう手紙......。そういう結末を回避したかった、のだろうか。ある意味で圧をかける上では最も効果的方法かもな、とも思う。もし俺に置き換えたらきっと投函物をいちいち開いたりするほどマメではない。公共料金の催促とかでもない限りは。そのまま気付かず捨ててしまうだろう。メッセージ......なるほど。
「最初の質問の答えなら簡単な洒落だよ、佐々木さん。」
「洒落、と言いますと?」
「風船のような蕾をつける花と言えば桔梗......。手紙の内容と合わせて考えれば帰郷と掛けているんだろ。小学生並みだ。」
よほど納得するようなことでもあるまいに、彼は手紙をまじまじと見ながら何度も首を縦に振っている。あるいはミステリ好きだという彼の中にも答えがあって、それと一致したのだろうか。俺は、最後に一つ懸念点を確認した。
「その、大家さんには柳内義一の名前は出したのか?」
「いえ?不法侵入するような人物を見かけなかったか?とだけ聞いたんです。手紙のことを言ったって信じてもらえなさそうでしたから。」
「そうか、それなら良かった。今日は面白いネタを聞いた。一編出来上がったら一番に教えるよ。」
「本当ですか!ありがとうございます!いやあその時にはサインをもらったおきたいですね!」
心にもないことを述べると俺はファミレスを後にした。本当に通報かなにかしたほうがいい、と思うが俺は世話好きではなく人嫌いなのだ。自分と同じアパートにこんなやつが住んでいたとは思わなかったが、収穫はあった。丁度良い。やまなき祭は今年で100年の節目。おあつらえ向きだ。家に着くと俺は簡単な荷造りを始めた。祭りの開催は3日後の5月5日だ。今夜は雲が厚いのか、いやに暗かった。
◇
自分のいびきで起きる、ことが度々ある。口の中は異常なほど乾いていて、布団をはぐってすぐにふらふらと台所へ向かった。いつも何かに苛まれて眠れないことが多いが、昨日は特別眠れたような気がする。話作りの糸口が掴めそうだからだろうか、ぼやけた思考回路でそんなことを考えながら喉を潤した。山の奥からキジバトの鳴き声が聞こえた。時計はこの部屋にはないが、朝早くではあるらしかった。もっとも日が出ていないのは柔らかに降り出したこの雨のせいだろう。1階の窓からしっとりと濡れていく景色を見て、折りたたみ傘を荷物から出しておいた。大きなビニール傘を携えていくからだ。このままご機嫌な朝食を済ませたいところだが、あいにく厚切りのトーストも湯気のたったコーヒーもない。あるのはしみったれた半額とシールが押されたこの菓子パンだけだ。失礼。この貧乏作家先生にとってはご馳走なのだ。例のやまなき祭が催される六麗村は県を跨いでおよそ見積もっても100km以上離れている。気軽に行ける距離ではないし、なによりこの俺がわざわざ人ばらに向かうというのはやはり尋常ではないという自覚はある。自分自身、一体どういう風の吹き回しだ、と思わないでもないが、事実気が進まないのは変わらない。取材のためだと言い聞かせてやるといくらか楽になる気はする。人と関わるのは嫌いだが、それ以上に限られた社会、コミュニティで形成された人間関係というのは色濃い毒煙が鼻の曲がる異臭を放っているようにさえ感じられるのである。つまりとある村のとある祭に行こうというのは気が触れているということだ。手紙はやはり俺の重だるげな腰を浮かした、どころか突き動かしたと言えるだろう。窓にはしきりに小粒の雨が打ちつけている。
朝一番に出て六麗村に着いたのは15時過ぎで、気付けば雨もいくらかましになっていた。距離が、というよりは交通機関の少なさがネックであったが、村に一番近くの駅まで来てみれば、そこからはまだバスが出ていたので助かった。近くと言っても歩いてはとてもいけなかったが。村内には一つだけ小さな民宿がある。予約などはしていないが、よほどのことがなければ泊まれるだろう。年季の入ったバスに揺られて、山か、森か、とても人が暮らしているとも思えない辺りにバス停があり、俺はそこで降りた。バス停は錆び、ところどころ剥げ落ちている。正直田舎のそれにしては体裁を保っているほうだと思う。重しとなっている石礎の部分は苔むしており、雨でめっぽう緑を強めていた。頼りないビニール傘を広げて、村の方向に歩き出す。この先250m六麗村、とある看板がある方へ。道のりはいくらか勾配になっていた。道中、人のいる証拠がいくつも見受けられた。点在する田畑と隣接して建てられた青いトタンの小屋。よく手入れされた道祖神と卒塔婆、これは岩をくり抜いたスペースに設置されておりその足元には古くもない備えものと、熱燗の空き瓶に雑に生けられた仏花があった。ふと、「匂い」が違うと思った。雰囲気や景色が違うという形容ではなく、匂い。異質な人間たちが積み上げてきた日本という統一国家からはみ出した空間。そこに溜まり醸成されてきた人間の悪意。少し吐き気がした。乗り物酔いをする方ではないのだが。どこからか途絶えていたアスファルトを抜けて少し歩いていくと、開けた場所にでた。この地方の山脈の中にある盆地を切り拓いて造られた村である。雨だからか外に出ている村人は見受けられなかった。俺は若干疲れていたのもあってまっすぐ民泊に向かった。最近草が刈られたのだろうか、車一台ほどの村の入り口はさっぱりとしていた。やはりこの時期、辺りに人がいないのはひどく珍しい。
閑散とした家々を背にしながら、あまりの田舎具合が逆に笑えてくる。土地はだだっ広いというのに、意外にもその肌を隣合わせているものであり、ずらりと軒を連ねる構図は写真家などなら喉を鳴らすかもしれない。ざり、と靴の底の土を落とす。着いた民宿はほとんど他の家と変わらない。民宿「千客」。雨で変色した木の立て看板にはそうある。古民家を思わせる、というより実際そうなのだ。今時にはそういうコンセプトを持ったカフェなどがあり商売にしているからむしろ新鮮な気もする。がらがらと横開きの扉を開くと、明らかに客を相手しますという態度でない老婦人が、土間を上がった先で本を読んでいた。どこか虚ろな表情でかろうじてカウンターの体をなしている受付に立つと、本を指しおりで閉じ、小さくいらっしゃい。とだけ口にした。こちらを気にせず一瞥もしないのだから、客商売としてはよくできている。
「一人です。2泊。」
「お旅ですかぁ、珍しいですねぇ。わかりました。」
ならばどうやって生計を立てているのだ、と思わないでもない。チェックインの説明を受けていると、ふと民宿の人がこちらの顔を覗く。怪訝な顔して、一拍。驚き慌てて奥に引っ込んでしまった。はあ、と大きなため息を吐くと俺はあまり大きくない土間のロビーの椅子に腰掛ける。受付は上がり框を隔てて、奥に続く廊下と上階への階段がある。天井は高く、大きく檜が一本存在感を示していた。すると、奥から先ほどの女性ともう一人若い女が走ってくる。もう一度深くため息を着いた。若い女は物凄い形相で近付いてくる。5m、3m、1m......。磁石のSとN極のように向かってくるそれに呆気に取られているうち、俺の視界ははじけた。と知覚した後すぐに土の床に口付けを交わしていた。俺は格好を気にする方ではないし、現に今日着ているものだってシャツに薄いカーディガンを背負っているだけだが、やはり汚れるのは気になる。赤く熱くなる右頬とは裏腹に俺の頭は引くほど冷静だった。
「馬鹿!」
つんざくな、耳を。
「つんざくな、耳を。」
「うるさい!こっちがどんだけ......」
土を払いながら長椅子に腰を戻しつつ、彼女の表情に目をやると俺よりひどいもので目のあたりは涙が溜まっており、悲しいとも怒りともとれた。受付のおばさんの制止を振り払い、二発目の平手打ち。正直、効いたね。悲鳴をあげる頬をさすりさすり労りながら、俺はこの不条理さを説いた。
「なんで俺が、人違いだと思うが?仮にあなたの思い浮かべる人物と俺が一致していたとして、やっていいことと悪いことがあるだろ」
「こんな理屈バカがこの世に二人もいてたまるか!その憎たらしい顔もな!」
冗談だろ、と刹那に思う。注射はその刺さる瞬間を見た方が痛いとどこかで聞いたことがあるが、それは顔にくる衝撃に際しても同様なのだろうか。冗談だろ、三発は。
「やめなさいよぉ。」
「やめない!殺す!」
帰郷して早々にこんなことになるとは思ってもみなかった。どうか殺さないで。
◇
おばさんの説得があって、フーフーと危ない息を漏らしながらこちらを睨むまでになだめられた。さて、落ち着いたところで、いや少々マシになった程度だが一応断っておく。
「俺は大成尊人、作家です。一体誰と勘違いしているのか知りませんが......。」
「義一さんもつまらない意地張ってないで、こっちに帰ってくるなら一報あってもよかったと思うわよぉ。」
「いいのよ、お母さん。こいつが作家を目指してたのだって知ってるでしょ。それにあんたが大成だって名乗るならそれはペンネームなんでしょ?本名を言ってみなさいよ!」
「それに!こいつのペンネームの意味知ってるのよ!大成して尊敬される人物になる、っていうつまんない名前なの!」
言ってくれるな。
「分かった、負けたよ。俺の本名はそのギイチ?とかいうダサい名前でいい。ヤナイギイチ。それが本名ってことにしといてやる。」
いずれこうなってもおかしくないと思っていたし、受け入れることにした。ならばこちらも俺がここにいる発端について聞く権利があるというものだ。
「しかし、手紙の件はちょっと強引だったんじゃないか?鍵だってどうやって開けたんだよ、俺の住所は不法侵入した部屋の一つ下の階だったんだからな。」
「大家さんと佐々木っていう人に協力してもらったのよ。訪ねたらちょうどお会いしたの。サイトなんか作って住所を書くわりに実際のとは少しずらすくらい性格が終わってる人には、効果覿面だったでしょ?」
回りくどいことをする。もっとも俺がここにいる以上効果はあったことは認めなければなるまい。なにしろわざわざ子供のころしていた、メッセージを伝える方法を文末に添えていたのだから。
奥から大柄な男が歩いてきた。受付より奥の廊下は今いるロビーの土足より一段高く、ひなびた木張りの床になっている。その床をみしりと揺らしながらこちらへ寄ってくる。
「何事だ。」
「あなた、いつも話していたでしょう?義一さん。小説家志望なのよ。ムカつくけど一昨年には賞までとっているのよ。」
俺は自分の心臓の鼓動が、自分の顔の皮一枚下を視界が歪むほど揺らしているのをゆっくりと自覚した。あるいは分かりきっていたことを、目下現実として突きつけられたのだ。ちょうど6年前のやまなき祭の日。俺はこの六麗村を我が身一つで飛び出した。その理由は至って単純明快で、この千尋という女性に清々しいほどに振られたからだ。こんな小さな村で一番身近な人間に拒否されることの辛さを15歳にしてやっと身をもって知ったのである。両親が幼い頃他界してからというもの、この伊瀬家で俺は過ごした。兄妹のようなものであり、あるいは親友でもあった。6年前振られるまでは。だから今日会ったとき心のどこかで俺は安心していたのかもしれない。あの頃まま俺たちは何も変わらないんだ、これから一緒になってもいいんだ歪んだ愛情にも似た俺自身も形容しがたい感情が、噴出してまとわりついた。その矢先に。
「義一、私の夫の陣代三芳さん。あんたも知ってるでしょ、山鳴神社の神主の......。」
「ちょっと!どこ行くのよ!」
もしくは今回の帰郷で俺は期待していたのかもしれない。千尋が何事もなくそこにいて俺を受け入れてくれることを。そう思ったら走り出していた。変わっていなかったのは自分だけだと思い知らされたからか、ちっぽけな存在に過ぎないことを見せつけられたからか。しばらく走り、息が上がり、筋肉が乳酸という悲鳴をあげ始めるころ、あの時の遊び場に倒れ込んでいた。森の中、少し開けた叢林の先にある秘密の場所。ここで交換日記をして、つまらない花の名前の洒落を披露しあったのだ。
◯月◇日 薄紅色の風邪をひいた。ティッシュを使いすぎるなと怒られた。あんたも気を付けてね。ずーっと長引いちゃうから。
⭐︎月△日 今日はおしゃか様の体育。熱いときはやっぱりこれだよなー!
◻︎月×日 綺麗な花の王様が落ちてた。きっと派手な服を着てるトシさんのよ。
↑それは無理やりすぎないか?
↑そんなことない!!
古い百葉箱の中、べこべこのクッキー缶の中に入っている日記帳は色褪せてはいたが、問題なく読めるものだった。タイトルはサンフラワー。いわく、日で持ち回りの交換日記ということらしい。あまりの子供っぽさと懐かしさに弛緩し笑ってしまった。一番最後のページを見ると、俺の知らない文章があった。日付とペンの様子からしてごく最近のものもあるらしい。日記で年を跨ぐとは、と思いつつもふと6年前のあの日のことが気になった。飛び飛びの日付を遡っていくと、あった。
5月5日 花あやめ一夜に枯れし
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、まずその異質さに目がいった。そう、具体的な花の名前を今まで千尋は出したことなどなかったことに。5月5日には毎年記述があることを。もっとも後ろのページはおそらく今年のもので、日付は昨日。
5月2日 いずれがアヤメかカキツバタ
一体どんな意味だったか。小説家のはしくれでありながら自分の学の無さを呪う。一体どんな気持ちでこれを書いたのか?どんなメッセージが込められているのか?その一端すら俺には伺いしれないのだ。もどかしい。これがわかれば、俺はあの日、6年前断りを告げられたあの日の意味が理解できそうな気がする。あの日と決別できそうな気がする──。
彼女は俺の告白に対してこう言ったのだ。
「明日のやまなき祭で私はもう私じゃない。だから付き合えない。でも100年目のやまなき祭で私、きっと......。」
俺はその先は覚えていないというよりも、聞こえなかった。いや聞こうとさえしなかった。断られたというショックだけが先行していた。当然俺は翌日の祭りには参加していない。
5月5日 花あやめ一夜に枯れし
やまなき祭まであと2日。