2、式紙
─ あ、空気の流れる気配がする。
きっと、もうすぐ『あれ』が飛んでくるだろう。
そう予測をした彼女は、なんの迷いもなくすっと、
自身の右手を空へ向けて差し出した。
それを合図に、どこからともなく風が、サァーっと吹き抜けていく。
煽られたセーラー服が、まるで鳥の羽ばたきみたいに、
ふわりと可憐に広がった。
風が消え去ったあと、乱れたスカートの裾を直しながら
彼女、呉林のの香は、微かに
表情を緩めた。
その顔は正真正銘、笑顔のはずなのに。
どこか上っ面で、テープで貼りつけたように、とても
ぎこちない。
彼女の表情筋は、日ごろから余り仕事をしないのだ。
それには、きちんとした『理由』があるのだけれど。
のの香以上に美羽が気にして、過度な反応をする。
よって普段から、彼女はあえてその話題に触れなかった。
少しぐらい表情が死んでいても、生きる上でとくに
問題はないのだ。
(……だって、わたしには美羽ちゃんがいるもの)
そう。いつも一番近くにいて、守ってくれる。
この世で、お互いが唯一の相手。
無条件で自分を受け入れてくれる存在が、いつだって
のの香に力をくれた。
心のなかで美羽への秘密の思いを吐露したあと、己の指先を占領する存在へと、視線を向ける。
彼女の白く、細い人差し指に、ちょこんと留まっていたのは、一羽の透明な折り鶴だった。
手のひらよりも、小さな鶴が指先に乗っかり、まるで血の
通っている本物の小鳥のように、ぱたぱた羽根をばたつかせている。
例えるならば、ガラスや水晶などの、透明さによく
似ていた。
透き通った本体が、朝のきらめく太陽の光を反射し、
屈折具合によって、七色に輝く。
それは、とてもとても、美しく、おとぎ話のように不思議な光景だった。
「おはよう。こヅルちゃん」
「姫様!おはようございます。今朝も麗しく、健やかなご様子。安心いたしました」
のの香に、『こヅル』と呼ばれた折り鶴は、きらきら虹色に輝く羽根を広げると、すぐさま飛び立ち、くるくる彼女の周りを旋回し始めた。
つられて、のの香も瞳だけでその姿を追う。
「主が、お待たせして申し訳ありません。間もなく参ります。もう少々お待ちください」
恐縮しきった声が頭のなかに直接、響く。
こヅルはいつも、のの香に対してこんな風に、堅苦しい
言葉遣いをする。
『姫様』と呼ばれるのも、いまだに慣れず、とても
恥ずかしい。
赤面しても、彼女の表情の変化を読み解く者など、
滅多にいないのだけれど。
「大丈夫。今日はいつもより、少し早いから」
だから、焦らず気をつけて来て欲しい。
そう言ってもらうように、告げる。
「姫様、お優しいお言葉、ありがとうございます。そのように主へお伝えいたします」
ぴぃぴぃ、小鳥のさえずりによく似た、嬉しそうな
鳴き声がする。
美羽にメッセージを飛ばしているのだろう。
自身を生み出し、使役する主に対し労りの言葉をかけられ、喜んでいるようだ。
そう、こヅルは美羽が操る、式紙だ。
「昨日の夜も、遅かったから。美羽ちゃん、疲れてないかな?」
……心配。
ぽつり、と小さくつぶやいたら、ふんわり柔らかな
感触が頬をくすぐる。
「もちろんです。我が主は、姫をお守りするため、この世に生まれたのですから。何があっても、貴女様を悲しませることは絶対にありえません」
透き通る羽根を器用に使い、寄り添うように、のの香を
慰めた。
美羽の霊力によって命を吹き込まれた、折り鶴。
あの子の思いを具現化した式紙もまた、いつだって、
のの香に優しかった。