三十路共の戯れ1.5
前回、三十路共の戯れ1・2・3は上の短編からどうぞ。
今回は一作目の夜編で短いです。
7/6三十路共の戯れ4短編に上げました。
「ぁああっ、ぐしゅっ…、ぅうううマリカちゃそ…ひっぐっ、ぅあああ…」
「はぁ…、頼むから落ち着いてくれ…。」
王城から放り捨てられ、真っ先に困ったのは今日の寝床。荷物その他は、申し訳ないが部下に頼むとしても、俺は王城内の寮に住んでいた。首切りにあった今、寮で一泊するのは無理だ。そもそも、いくら酔っぱらって吐瀉物に塗れていても、聖女を男ばかりの寮に入れる訳にもいかない。…冒険者時代に世話になっていた宿屋なら、何とかなるだろうか。
「…軽すぎないか。」
流石に背中に乗せると頭から第二波を浴びる事になる為、抱えて運ぶ。聖女は召喚されてから全くこちらを意に介していないのか、捨てられようと抱えられようと、譫言の様に知らぬ名を呼んでは泣いている。こんなに泣いて、よく涙が枯れないものだ。長い黒髪で見えない顔は、さらに自身の手で覆い隠され…顔も名前もわからない女を気にして、職を失くしたのかと思うと笑えて来た。…まぁ、いいタイミングではあった。俺が生涯忠誠を誓ったのは、あの方だけなのだから。あの方が居ない国に、王城に、未練などなかった。
「あら、ロックスじゃないか。久しぶりねぇ!」
「すまん、部屋に空きはないか?」
「なんだい、騎士団長様が…女連れで。珍しいこともあるもんだ。部屋なら一部屋、でもそんな汚くちゃいくらロックスでも入れらんないね。そっちはあたしが綺麗にしてやるから、あんたもその恰好何とかしといで。」
恰幅のいい女将、ミランダにバシバシと背中を叩かれ、聖女を引き取って裏手に連れて行ってしまった。相変わらずでよかったというか、話が早くて助かる。部屋が一部屋なのは…、空いていただけ感謝しよう。どの道、酔っぱらいの介抱で寝る事もない。
「はいよ、服はこっちで洗っておいてあげるから。娘の服で悪いね。」
「いや、助かる。ありがとう。」
井戸で服を洗い、借りた部屋に干していると、戻ってきたミランダが聖女をベットに放り投げた。一瞬心配になったが、呻き声を上げた後は獣の様に小さく唸るだけで、…元気そうだな。
「余りだけど、無いよりマシだろう?食べれそうなら嬢ちゃんの胃に入れときな。」
「すまない。」
ぽい、とパンにハムと野菜を挟んだサンドウィッチを投げ渡すと、事情も聞かずミランダは退出していった。…相変わらず、ミランダには頭が上がりそうもない。
サンドウィッチをサイドボードに置き、ベットで丸くなる聖女を見る。唸るか泣くか、鼻を啜る音しか聞こえないが…。ふと、シーツが濡れて色が変わっていることに気づく。涙でぬれたにしては、いや、ミランダに丸洗いされたのか。長い髪が濡れて、水分がシーツに移ってしまっている。
「ほら、そのままでは風邪をひく。ちゃんと乾かせ。」
一瞬迷ったが、聖女だ女だという前に、酔っぱらいだ。世話をすると決めたのだから。と己に言い聞かせて聖女の肩を叩く。何度繰り返したか、そろそろ無理矢理座らせるかと悩み始めた時、ゆるゆると手をついて顔を上げた彼女と目が合った。
「……っ、」
泣き腫らして赤い眦、涙で潤む黒曜石の様な瞳。何もかもに棄てられたと言わんばかりに引き結ぶ唇に、眉根が不安そうに下がっている。王城でみた、手負いの獣の様なぎらつく瞳とまるで違う、小さく脆い生き物。その生き物は、俺を見ているのかいないのか、瞳に涙を溜めると、ぽろぽろと涙を流して。
「ぅううっ、すき…っ、」
今思えば、あれは不可抗力というか、どうしようもなかったのだ。生きる為に冒険者になって、剣の才能を買われて騎士団に入った。一生を捧げる主を見つけて、より腕を磨いた。階級が上がるにつれ、忙しくも充実した日々を送って。35年の人生で、たまの処理程度に商売女の相手をする以外、女を相手にしたことがなかったのだから。
「…っはぁああああ、」
だがこれは、一目惚れなどというものではないのだと、自分に言い聞かせて。好き、愛してると繰り返し愛を唱えて泣いている聖女を横目に、熱を持つ自分の顔を手で抑え込んだ。ちら、と小さく吠える様に泣く聖女を見る。…自分は、酔っぱらいの面倒を見るんだ。これは仕事だ。やましい事などない。断じて。
「ちゃんと拭け。」
よし、と気合を入れて聖女にタオルを被せて、出来る限り優しく髪を拭く。見るからいけない、見なければいいんだ。未だ唸って泣いている聖女を出来る限り視界に入れないように、顔をそらす。
「なんで良い匂いがするんだお前は…っ、」
酒と吐瀉物の匂いを洗い流され、まだ少し酒の匂いが残っているが、それとは別に乾き始めた髪から、甘く爽やかな、ハーブや果物の様な香りが鼻を擽って、理性がグラついてくる。勘弁してくれ…。冷静に今の状況を分析している自分と、今まで考えもしなかった衝動に身を任せようとしている自分が拮抗していた。
「んん゛っ、ほら、あまり泣くと眼が溶ける。」
咳払いで衝動を押しやる。もうほぼ乾いているのだから、あとは気になるなら本人がやるだろう。髪を拭いていたタオルで、聖女の目元を軽く抑える。そのまま、タオルから手を離そうと…、
「ひっぅ、…おに゛いざん、ぐしゅっ…だれ?」
揺れる瞳に、しっかりと俺を映している。離そうとしていたタオル越しに、傾いた頭が、俺の手に頬をすり寄せて。
「っ、」
泣き濡れて紅潮する白い頬の柔らかさに、動揺して手を引っ込める。早鐘を打つ心臓に、必死に冷静になれと唱え続けていた。やっと動悸が落ち着いて、顔の赤みもひいてきた頃、名乗ろうと顔を上げると、聖女は既に夢の中へ旅立っていて。
「…こども、ではないよな?」
無防備に小さく丸まって眠る聖女を、じ、と見つめる。酒を飲んでいる辺り、成人(16歳)はしているだろう。あの金の髪の聖女を思い出すと、此方の方が幾分年上に感じる。20は超えているだろうか…、いや、流石に15も下だと俺の倫理観が…。最低、25位なら…。
「ぅ…、マリ…た…、」
「…馬鹿か、俺は。」
未だわからぬ名を呼んで、閉じた瞼を涙で濡らす聖女。こんな馬鹿なことを悩んで、どうするつもりなのか。俺自身、まだわかっていないというのに。…マリカ…、名前の響きからして、女だろうか。こんなにも泣いて身を崩す程、愛し合っていたのか…、もしくは、片恋だったのか…。ふと、10年もの間一人の相手に懸想している部下を思い出す。
『恋は落ちるものだからどうしようもないです。』『客でいいんです。俺が通う程、少しは彼女の生活が潤うので。』『はぁあ、…振り向いて欲しいと思うのは、我が侭ですかね。』
飲み屋で酔いつぶれては愚痴っていた部下と、聖女の状態は当たらずしも遠からず…な気がする。
「んん、マリカた…しゅき…」
良い夢を見ているのか、目頭に涙を溜めたまま、柔らかく様相を崩して幸せそうに笑う聖女。彼女にこんなにも愛されているマリカが気になるのと同時に、羨ましく感じるのは、なんだ?
ぐ、と息苦しさを感じる喉を押さえる。喉が渇く様な、腹の底から湧き上がるような不快感。…疲れているんだろうか。思いのほか小さく纏まって眠る聖女の横に、身体を倒す。規則正しい呼吸音に、だんだんと自分の瞼が下がってくる。ああ、彼女が起きたら、説明を…、それから…、
翌朝、『マリカ』に対する彼女の愛が本物であると同時に、『マリカ』が偶像だと聞いて、腹の不快感が無くなったことを、その理由に気付かないふりをすることにした。