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前編

大学の文芸サークル所属期(およそ2年程前)に執筆しました。

当時しっかりと調べて書いた割には、

周囲から感想がいただけず。

改めて投稿してみます。


歴史(日本史)好きでも、相当マニアックな人しか知らない

徳川家重の一代記です。

少しでも多くの方に読んでいただき、感想いただければ幸いです。



 一七五一年、父であり、大御所徳川吉宗が没した。

 家重が、父病態の報を聞いたのは、今日も大奥で酒色に溺れ、本丸へと戻る途中のことであった。

「殿、大御所が西の丸で倒れました!」

 側用人である大岡忠光の言葉に、家重はそれまでの心地よい余韻が一気に飛び去った。

「現在、奥の間にて、医師の治療を受けているとのことですが、今日明日が関の山と……」

「あいわはっふぁ、すうにむかふ」

 ついに来るべき時が来たか、家重は至って自分が冷静でいることに、自ら驚きつつ、父の生活する西の丸へと向かった。

 

 西の丸奥の間に着くと、すでに弟宗武、宗尹が父の側に控えていた。

「ひ……ひひふえ!」

 宗武の隣に空けられた空間、家重はドタバタと足音を鳴らして、そこに着座した。

「大御所、殿がいらっしゃいましたぞ」

 向かい側には、それまで吉宗と苦楽を共にした多くの老臣が控えていた。

 その中の代表格で、吉宗最大の理解者、大岡忠相の言葉に、吉宗はゆっくりと目を開け、体を横に向けた。

「おお……来たか家重。ふん、体を鍛え、健康にも気を遣っていたはずじゃが、わしゃ、もうだめだ」

 顔を青ざめ、床に臥せっている父は、それまでの血色盛んな豪傑ではなく、死に絶え絶えの病人そのものであった。

「宗武と宗尹には既に話した。わしの死後も共に家重を支えてくれと。二人は承知したぞ。のう、宗武、宗尹」

 吉宗が視線を向けると、二人は揃って頭を下げた。

 吉宗はうんうんと満足そうにうなずくと、再び家重に目を向け、

「家重、わしがそなたに頼みたいことはただ一つ、良い家臣を見つけ育て上げることじゃ。さすれば、そなたの治世も安定、孫の家治につつがなく将軍職を渡すことも出来る」

 良い家臣を見つけ育てる、自分が無能なことを知っている父として、それは最良の願いであった。

「わはりまひた、ひひふえ。いえひげ、ひはと、こころうへまひた」

 その言葉に吉宗は、にっこりと笑みを浮かべると、

「頼んだぞ、家重……うっ、うほうほっ! うっ、ううっ、っはあっ!」

「恐れながら、今日の面会はここまでで……さあっ、大御所。今日はもうお休みなさいませ」

 再び苦しそうにせき込み出した父に、医師はこう告げ、場は解散となった。

 家重は去り際、もう一度父の姿を確認した。これが家重にとって、生前最後の父の姿となった。

 

 翌日未明、父吉宗が事尽きた。

葬儀は上野の寛永寺、老中首座、松平武元の手でつつがなく行われた。

その晩、家重は本丸の自室で珍しく物思いにふけっていた。

今日からわしが、この国を治めていくのか。

わしよりも弟宗武……いけない、それはもう終わったことだ。

家重は首をぶんぶんと振ると、父が最後に託した言葉、良い家臣を見つけ育てるということに思いを馳せ、自らの人生を振り返った。


一七一二年、家重は吉宗の長男として、江戸で生まれた。

幼い時から病弱だった家重だが、物事を考えるのはそう苦手ではなかった。

時代は、後に享保の改革と呼ばれる、父吉宗の治世。

二代将軍秀忠直系の前将軍、家継に子息は無く、自身も七歳に満たずに夭折した。

 後継将軍を巡って、家康が創設した御三家、尾張の継友、水戸綱条と共に父も紀伊家代表として候補に挙げられた。

 結果、吉宗が第一候補に指名され、後継将軍を頼まれる。

 断り続ける吉宗であったが、当時の大奥最高権力者天英院の、

「これは先代将軍家宣公(前々将軍)、御本心ですぞ」

 という言葉に触発され、将軍職を引き受けた。

 以後吉宗は、町火消・小石川養成所等の都市政策、倹約・増税を主とした財政再建を行い、さらには司法や学問にもその手を広げていった。

 改革は順調な成果を挙げ、万々歳の吉宗であったが、ただ一つ気がかりなことがあった。

 それが後継将軍である。

 

 「家重! お主また、鳩巣先生の帝王学講義、無断で休んだな」

 ドシドシと部屋に入ってきた吉宗は、昼寝をしていた家重に怒鳴り散らした。

「あんなもの、ちっほもおもひろふありまへぬ。そえよりも、いえひげは、しょふひやのうをきわめとふございまふ」

 孫子や韓非子を学んでなんになるのか。それよりも家重は、自分の好きな将棋や能をもっと究めたかった。

「ならぬ、次こそしっかり出るのじゃ! それとこの後は弓の稽古もある。今日はわしも見学に行くから、宗武より良い結果を出してくれ」

 そう言うと吉宗は、寝起きで機嫌の悪い顔をする息子を尻目に、その場を去っていった。

 

吉宗が嫡男家重の異変に気付いたのは、彼が五~六歳の頃である。

 発する言葉が尋常ではなく、全く理解できないのだ。

医師に見せると、病気の一環とのことであった。

「恐らく、先日患った大病の後遺症かと。されど他に体に異常はなく、治療法もわからぬゆえ、気長に治るのを待つしか」

 将軍に就任して間もない吉宗は、自身が多忙なことも重なり、それ以上の心配はしなかった。

 しかし家重は、元服さらに一九歳で結婚後も、全く発話の異常は治らなかった。

 対する弟の宗武は、聡明利発、特に国学や剣述に優れ、周囲から時期将軍と期待されていた。


 「殿、そろそろ弓の稽古の時間です」

 昼寝から覚め、詰将棋をしていた家重は、忠光の言葉に、

「いはぬ。どうせ、むねたへとくらべられ、ひかられるだけじゃ」

 めんどくさそうに、こう答えた。

「しかし先程、大殿から参加するよう、仰せになったばかり……」

「うるはい!」

 ダン!

 襖を開け、忠光を見下ろすと、家重は颯爽と部屋から出ていった。

「殿!」

「わひはいまから、おおおふへいく! ゆみのけいこはやふみじゃ」

 なおも叫ぶ忠光を無視して、大奥への通路をスタスタ歩く。

 悪い、忠光。

幼い時から、文武共に苦手であった。初めは努力して稽古を続けたが、講師との意思疎通が出来ないため、上達できずに諦めたのだ。

 思えばわしの言葉を理解してくれるのは、父と側近の忠光だけ。

 そのため、様々な物事を考えても、この口のせいで、うまく相手に伝えられない。

 そこで家重は考えた。 

 わしが暗愚になれば、父は宗武を後継将軍にする。

 さすれば宗武は、自分より安定した政権運営を行ってくれるだろう。

 こう結論づけた家重は以降、講義や稽古を意図的に休むようになり、周囲から暗愚と呼ばれるよう、一人心がけていった。


 江戸城の一画にある中庭、吉宗は宗武の弓の腕前に目を見張っていた。

 スパっ!

「お見事、的中」

 最後の四本目の矢も、見事的の中央に当たった。

周りも、宗武初めての皆中に、大きな歓声を上げた。

「宗武、お主剣術だけでなはなく、弓の腕前も挙げたようじゃな」

「はい、お褒めの言葉、ありがとうございます!」

 礼儀正しく一礼する宗武に、吉宗はうんうんとうなずき、

「これも、指導する講師が良いからじゃな。のう、乗邑。いつもありがとう」

 弓術の講師で、宗武の侍従、松平乗邑にねぎらいの言葉をかけた。

「はっ、ありがたき幸せ。しかし家重殿は、今日も休みのようで」

 心配そうに、隣の空いた空間に目を向けた。

「あやつ、先程声をかけたと言うのに……忠光、家重は何をしておる!」

 庭の片隅でちぢこまっていた忠光は、突然声をかけられ、びくっと震え、

「はっ、何でも今日は休みとのことで、大奥に向かわれてしまいました。私が、大殿がいらっしゃることを申しましても、全く聞く耳を持たず……」

 申し訳なさそうに、小声で返答した。

「父上! 兄上がいらっしゃらない分、宗武の弓をもう少し見ていて下さい!」

 兄の不在もどこ吹く風、宗武は再び弓を構え出した。

 吉宗はそれに笑顔で応えると同時に、心の奥底に宗武を後継将軍という思いが、沸々と湯水のように湧いてきた。


 それから一〇年経った、一七四五年夏。

 いつしか吉宗は還暦を越える年齢となっていた。

幕政は、増税に反発する百姓一揆が各地で起こってはいたものの、吉宗が生涯にわたった関心事、幕府財政はなおも潤いを維持していた。

幕閣では、吉宗時代の老中、側近が多く引退・没し、代わって次の世代の幕閣が台頭していた。

その代表格が、宗武の侍従から老中首座となった松平乗邑である。


 「殿、そろそろ後継将軍を、明らかにしておいた方が、よろしいですな」

 蝉の鳴き声がわずかに聞こえる、江戸城の一室。

締め切った部屋で、吉宗とその最大の理解者、大岡忠相が面と向かって話し合った。

「うむ、今まで延ばし延ばしにしていたが、わしも今年で六一。そろそろ、次の地盤を築いておかなければ」

「左様、それで殿はどちらを。周りは、幕府の中心が乗邑殿ということで、皆、宗武殿を支持しておられます」

 旗本から寺社奉行として、長年苦労してきた証の、深く揺るぎない眼差しをゆっくりと主君に向けた。

「わしの心はすでに決まっておる。それより忠相、わしが話す前に、お主の意見を腹蔵なく聞かせてくれ」

「はっ……私の意見ですか」

 そう言い、暫く押し黙っていた老臣は、ふと天井をゆっくり見上げ、

「恐れながら、竹千代様と鶴松様以来の……」

「……やはり、お主は生涯わしの右腕じゃな」

 忠相が言わんとすることが、自身と同じであることを知り、吉宗は不敵な笑みを浮かべた。

 その後、改革者とその懐刀は、障子が真っ赤に染まるまで、次の指導者とその対策について、ゆっくりと話し合った。


 二日後の夕方

 家重は、息子家治を携え、本丸で父が来るのを待っていた。

 昨夜、忠光の口から、父の呼び出しを知らされた時、家重はなぜか胸騒ぎを覚えた。

別に父からの呼び出しは過去に何度もあったはず。  

その際、家治も連れて来いというのも、何かわけがありそうだった。

「おう、待たせたの」

 予定に少し遅れて、父は現れ、上座に座った。

「ひひふえ、かきゅうのよびたひ、いったひ、なにごとにございまふか」

 もしや、先日起こした側室を巡っての諍いで、お叱りを受けるのではないか。

 しかし、父は家重の言葉に答えず、

「家治もよく来たな。お主、今年でいくつじゃ?」

 家重の隣で、小さく着座する孫に声をかけた。

「はい、八歳にございます!」

「ほう、もうそんな歳か」

 満足そうに、孫の顔を見つめた。

「実は長崎より、カステイラという珍しい菓子が届いてな。孫に食べさせたいと思って、お主も呼びたしたのだ」

 そう言うと、側近に命じ、奥の襖を開けた。そこには、初めて見るもの珍しい菓子が、菓子台の上に置かれていた。

「わしはお主の父と話がある。悪いが、話が終わるまで、菓子を食べつつ、向こうで待っていてくれ」

「はい、わかりました」

 家治は素直にうなずき、側近に連れられ、奥の間へと消えていった。

 それを見届けると、吉宗は改まった態度で家重に向き合い、

「今日呼び出したのは他でもない。後継将軍だが、お主を指名したい」

「はっ……」

 即座に父の言葉が、理解できなかった。

 後継将軍指名、家重は予想だにしなかった最悪の事態に、顔から血の気がひいた。

「なへ……なへ、わたひなんか……わたひはがふもんやせいかふでも、むねたへより、おとっておひまふのに」

 突然のことに困惑しつつも、家重は自らの意見を述べた。

 なぜなら後継将軍については、遅かれ早かれ、弟の宗武と確信していたからだ。

 今年二九となった宗武は、年を経るごとに聡明さを増し、また幕閣は乗邑を代表として、ほとんど宗武を慕っていた。

 対する家重を支持してくれるのは、少数の側室と忠光のみ。その忠光も、この一〇年ずっと側用人の地位のままであった。

「こんな……ことばもはなへないわたひは……こうへいしょうぐんにふさわひくありまへぬ!」

 ドン! 

 感極まった家重は、畳にこぶしを打ちつけ、真っ赤な顔をして抗議の色を示した。

「まあ、落ち着け。わしも散々思い悩んでの決断だ」

 吉宗は、珍しく息子が、思いのたけをぶつけていることに、半ば驚きつつ、なぜ後継将軍に指名したのか、とくとくと語り出した・

「確かに、お主の言う通り、宗武は文武両道、性格もよく、家臣からの信頼も厚い。対する、お主は昔から虚弱体質、大奥に引きこもり、学問や武道を怠ってきた」

「そへなら、なにゆえ……」

 それも全て後継将軍にならないため。

家重自ら考えての行動であったことは、いまだ誰一人として話してはいない。

 なおも真剣な表情で見つめる息子に、父は苦笑いを浮かべつつ、

「確かに一次は、わしも宗武をと思った時期もあった。しかしわしが最後まで譲れなかったことが……長幼の序じゃ」

 そこで吉宗は、一旦言葉を区切り、

「たとえ、言葉が話せず、暗愚な人間でも、嫡男である限り、後を継がなければならない。  

そもそも我が家系でも、神君家康公は、弟忠長ではなく、嫡男の家光公を三代将軍に指名した。結果、家光公は幕政の基礎を築いたのに対し、忠長は転封先の甲府で圧政を強い……」

「うっ」

家重はここにきて、父の性格を甘く見ていた自分に、小さくうめき声を漏らした。

 そうだ、父は昔から何よりも、旧習を重んじていた。

全ては儒教精神の下、家重は観念したように首を垂れた。

 その後も、古来の事例をいくらか紹介していた吉宗だが、ふと言葉を止め、

「以上が最大の理由だが、それだけではない」

「え?」

 嫡男として生まれたということに、神をも呪う気持ちでいた家重は、他にも理由があると聞き、

「ほはにもなにか、ございまふのか?」

 不思議そうに尋ねた。

「うむ、一つは今日連れてきた孫の家治じゃ。あやつ、わしが教える帝王学もしっかりと理解しておる。それにこの前の書の手習いでは、半紙を飛び越え、畳に龍と書きよった。

あの大胆さ、お主や宗武には受け継がれなかった、わしの血を継いでいる」

 そう言い、目線を隣の襖へ向け、 

「お主が将軍を継げば、その次はあやつじゃ」

 はっきりと言い切った。

 確かに父は、自分と似つかわない孫の家治を溺愛し、自ら文武の教鞭をとっていた。

 父の視線に合わし、自身も隣の襖を見つめる。

 注目の対象は、今頃襖の向こうで、私たちを待ちわびているのだろうか。

 出来の良い自慢の息子に、家重は目を細めた。

「そして、もう一つ。これは今考えついたことだが」

 目線を戻した吉宗は、ひたと息子を見据え、

「お主はよく、物事を考える。今日話し合って、わしの考えは確固とした」

「えっ……」

 家重が唯一自認している長所を、父は初めて指摘してくれた。

「それまでお主は、わしでさえ、何を考えているかわからなかった。

しかし今日、お主の口から将軍にふさわしくない理由を聞けて、わしは安心した。ちゃんと自分を客観視出来ているではないか。

これは簡単そうで意外と難儀なこと。それが出来ているお主は決して、将軍にふさわしくなんかないぞ」

「ひ、ひひふえ」

 それまで父から、一言も褒められたことのなかった家重は、目元を潤ませた。

 父から褒められる、しかも唯一の長所を見抜いてくれた。

 家重は、迷いを断ち切り、目元を拭うと、

「こうへいひょうぐんひめい、ひかとこころうへまひた」

 一〇年以上にわたる考えを修正し、今日から後継将軍にふさわしい行動をしていこう。

 喜びにあふれる父を見やり、家重は、しかと心に命じた。

 

 家重父子が去った部屋で、吉宗はことがうまく運び、一人笑みを浮かべていた。

 実は真の狙いは、自身の実権維持であった。知的で性格の良い宗武や、武勇に優れた宗尹を将軍にした場合、彼らによって完全引退に追い込まれてしまう可能性もある。

 その分、愚鈍な家重の場合、大御所として暫くは政治に口出しが出来そうだ。

 吉宗は、先日の忠相との会話を改めて思い返し、まだまだ完全に引退するかと、深い権力欲をのぞかせていた。


 季節が秋へと変わった折、江戸城を揺るがす事態が起きた。

 松平乗邑老中罷免、後任は酒井忠恭

 理由は、大量の賄賂を受け取っていたことが判明とのことであったが、乗邑には根も葉も無い誹謗であることは、明白であった。


 宗武の屋敷には、事態を知り驚愕する宗武と、涙を流す乗邑、その一派がいた。

「殿、乗邑。天地神明に誓って、賄賂を受け取っておりませぬ。これは陰謀、誰かが私を追い落とすための陰謀にござる」

「そんなこと、小さい頃からお主の人柄を知り尽くしている私が、よくわかっておる。大丈夫、安心せい」

「殿……」

 還暦間近の乗邑は、白髪の混じった髪で、深々と頭を下げた。

昨日まで幕府の行政を掌っていた人間が、今は屋敷の一室で主君に助けを請うとは。

「明日、わしが父上に会って、真相を晴らしにいく。だからお主は、安心して、今日一日日頃の疲れを癒してくれ」

「はっ……ありがたき幸せ」

 心優しい宗武の言葉に、乗邑は目元を拭った。

 宗武にとっても、最近父の態度が冷たいことが気がかりであったが、次期将軍たるもの、家臣を見捨ててはならない。

 不安な気持ちを振り払い、翌日宗武は父に面会の伺いを入れ、本丸へと向かった。


 その後、父から指定された時間に、江戸城本丸へ向かうと、なぜかそこには兄家重の姿もあった。

「なぜ、兄上が……」

「構うな、宗武。それともなにか、今日の要件は、家重がいると不都合なことであるのか」

「いえ……」

 隣に控える兄の姿をもう一度確認する。

口元を開け、首を傾けている様は、相変わらず暗愚の象徴そのものであった。

 こんな奴が、わしや父上と同じ血が流れているとは。

 宗武は気持ちを切り替え、今回の一件について意見を具申した。

「乗邑の罷免を撤回して下さい。彼は天地神明に誓って、賄賂を受け取っていないと申し上げております。昨日まで職務に励んでいた忠臣を、虚偽の情報で追放するとは、あってはならないこと」

「しかし宗武。この件は、多くの証言があるように事実とのことだ。にわかに信じがたいことだが、わしとてどうすることも出来ぬわい」

 話はそれまでという様に、父は立ち上がり、姿を消そうとする。

 明らかに父の態度は変わった。

 このままでは、一番の忠臣を悲しませる結果になってしまう。

と同時に、自身がふがいないことへの腹立たしさに、宗武は深い憤りを覚えた。

 その時、ふと兄と目が合った。

 真実かはさておき、宗武の目には、弟の様を嘲笑うかのように、口元をゆがめ、目元をにやけさせる姿がそこにはあった。

 その時、宗武の中の何かがはじけた。

 宗武は、立ち上がり、退出しようとする父に向って、

「父上、今日こそ私に後継将軍を指名して下さい!」

 鬼気迫る表情で、父に詰め寄った。

 横では、ぽかんと口を開ける兄、それとは対照的に父吉宗は、普段は見せたことのない厳しい表情で、

「ならぬ! 今まで、家臣の悪事を見過ごしていた主君に将軍職は譲らぬ」

 明確な拒絶の言葉であった。ということは何か、後継将軍は兄家重ということになるのか。

 頭を金槌で殴られたような、衝撃であった。宗武はついに、我を忘れて兄の欠点を列挙し出した。

「こんな、こんな兄上が後継ですか……何を言っているのかわからず、頻尿で家臣を困らせ、女遊びだけを生業として、家臣、民を一向に顧みない。そんな、そんな奴に……」 

「宗武!」

 堰を切ったように、とめどもなく流れる宗武の本心は、父の一喝で打ち切られた。

「弟が兄を侮辱することこそ、あってはならないこと……それとお主も、今回の件では主君として責任をとってもらう。処分は追って沙汰する……良いな」

 そう言うと、父は側近を連れて、今度こそ立ち去って行った。

 残されたのは、後継将軍家重と、それに敗れた弟。

 何のために、今まで勉学や武芸に努力してきたのか。宗武は茫然自失に立ち上がると、うつろな表情で本丸を後にした。


 数日後、宗武の処分が決まった。

 三年間の途城停止、宗武にとってはもはやどうでもよかった。

 その期間中、父の政策の一つ「御三卿の設置」で徳川姓を捨てさせられた、田安宗武は、以後機械のように家重に仕え、その生涯を終えた。


 一七四五年九月、江戸城本丸で家重の将軍就任式が行われた。

全国の諸大名が集まる中、家重は改めて、将軍の重みを実感しつつ、式を全うした。

 それに合わせて、家重最大の部下、大岡忠光も上総勝浦一万石の大名へと大出世を果たした。

以後、大御所に退いた吉宗が補佐しつつ、六年間、将軍としての生活を続けていった。

 

 「殿、よろしいでしょうか?」

 襖越しにかけられた声で、家重は現在へと引き戻された。

「おゆうか、はいえ」

ややあって、襖がスッと開き、中から遠慮気味に側室お遊が入ってきた。

「大御所様のご逝去、大変お悔やみ申し上げます。そんな中での私への呼び出し、一体どうされたのですか」

 質素な化粧に地味な身なりと、おしとやかな見た目に反し、しっかりとした軸をもつお遊は、家重お気に入りの女であった。

「じふはの、おゆう……」

 家重は父から託された「良い家臣を見つけ育て上げる」という遺言を彼女に話しだした。

 家重が彼女に見惚れたのは数年前、それまで、派手で美人な女が好みであったが、彼女のもつ奥ゆかしさと人間性に一気に虜になった。

 以後、彼女を口説き、側室に迎えることに成功した家重は、夫婦の営みを行うと同時に、折を見つけては自身の悩みを打ち明けていた。

「……ということじゃ。だえか、ふさわひいにんげんを、そなたはひっておるか」 

話終えると、それまで黙って聞いていた彼女は、

「それなら、実は最近大奥で、話題となっている小姓がいます。何でもよく気が利き、話し上手な若者とか。一度会ってみてはいかがでしょう」

 彼女の言葉に、家重は暫く考えこみ、

「よひわかった、こんひゅうのうひに、そのものにあってみよう」

 わしの家臣にふさわしい男だといいが、家重は期待しつつ、隣の寝床へ彼女を連れ込んだ。

 

 二日後、江戸城本丸。

 家重は、一昨日の夜お遊の言っていた、大奥で評判の小姓を呼び出した。

 一体どんな人間なのか、家重は興味を抱きながら、時間まで待っていた。

 時間丁度、外から

「参上仕りました!」

 という声が聞こえた。

「はいえ!」

 数秒後、颯爽と入ってきた小姓は、すたっと腰を下ろし、平伏した。

「くるひゅうない、おもてをあげえ」

 ゆっくりと顔を上げた相手は、目鼻立ちきりっとした、若くて真面目な好青年であった。

「そのほう、名前をなんと申す!」

 側に控える忠光の言葉に、好青年は室中に響き渡る声で、

「はっ、それがし、元小納戸頭主意行が長男、従五位下主殿頭、田沼意次にござりまする」

 田沼意次、家重は育てがいのありそうな、好青年に、気付けば熱い視線を向けているのであった。


後編は一週間後に、投稿します。

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