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老医師が殺した

作者: 絵岸 仁

小説を書こうとしてみたものの小学生の作文レベルの物しか書けませんでした。

一人称単数過去形という方法でなんとか小説みたいなものを書き上げることができました。

この発見で少し自信がつきました。

よそ様に読んでいただける価値があるかもと思ってます

わたしは人を殺してしまいました


まず最初にお祝いの言葉を述べなければいけません。

西山慎一郎先生、ノーベル賞生理医学賞の受賞おめでとうございます。

本日はこのような晴れがましい席にお招きいただきまして誠に申し訳なく思っております。

本来であれば断るべきなのですが、どうしても言わなければいけのいことがあって来ました。

このような御目出度い席で本当に申し訳ありません。

この場で私の過去の罪を告解しなければいけません。

そのために、こうやってアフリカから車椅子で戻ってまいりました。

御不快に思う方も多いと思います。

本当に申し訳ありません。

でも、これは神が私に下した罰だと思います。

私には他に選択肢はありません。

どうか優柔不断、決断力のない私を許してください。


私は人を殺してしまいました。

そのことから逃げ、一生誰にも言わず、墓場まで抱えていくつもりでした。

亡くなられた若山先生から、この西山慎一郎先生の授賞式で挨拶をしろと御手紙をいただきました。

その御手紙を受け取った時には、もう若山先生はお亡くなりになられてました。

皆様方は若山先生はご存知ですね。

本日の主役の西山慎一郎先生を教え育てた先生です。

今ではワカヤマ氏病と呼ばれる病気を免疫療法で根絶させた方です。

それを発展させ、西山先生が多くの病気を免疫療法での治療法を確立されました。

私も十年と少し一緒にお仕事をさせていただきました。

若山先生は航空便ではなくわざと船便で手紙を出されてたのです。

お断りの返事をすることもかないませんでした。

もう私には、人を殺してしまった事を告白し懺悔するより他には選べなくなりました。


すいません。

私も年齢が九十歳をとうに超え、内容をうまくまとめて話せません。

読めば良いように何度も何度も書いては直しましたが、それすら上手にはできませんでした。

あったことを順番にひとつずつ話すしかないと思います。

きっと老人特有の話が長いと思われると思います。

私の脳は衰えて他に手立てはありません。

ただ、自分の弁解のために長くすることはないように心がけたいと思います。


さきほど、私の前に御挨拶された江上哲太郎元総理大臣。

彼も挨拶で少し触れてましたが、元総理と私は小学校の同級生でした。

私にとって哲くんは、失礼、小学校の時の呼び名で呼ばせていただきます。

先ほど哲くんも私をちゃんづけで呼んだのに合わせさせていただきます。

私にとって哲くんは1番の親友でした。

これは思い出に補正をかけてるのではありません。

哲くんはみんなの人気者でした。

男子も女子も、みんな哲くんを好きでした。

みんなが哲くんと友だちになりたがってた。

哲くんには私以上に親しい友人は何人も何人もいたと思います。

でも引っ込み思案で内気な私にとっては哲くんが1番の友だちだったのです。


哲くんは学年で1番の天才。

いや、先生方はこんなに頭の良い子は初めてだと褒めてらっしゃいました。

私も学校の成績は良い方だったと記憶してます。

ただし運動は全くダメでした。

もちろん哲くんは運動もかなり出来る方でした。

サッカーなどをする時はスポーツが得意な友人とやってた。

何かクイズみたいなことを考える時は私と遊んでくれました。

私が記憶してるのは面積を求める問題。

何かのきっかけで複雑な形の図形の面積を求める方法を話してた時です。

「厚さが均一の金属からその図形を切り出し重さを計れば良くないか」

そう私が哲くんに言ったことがあります。

その時にずいぶんと哲くんに褒められた記憶があります。

私の小学校の思い出で1番楽しく誇らしい記憶です。

でも、あれは彼が私に勇気を与えようとおだててくれたのかも。

今ではそう思ってます。

後で彼は真相を語ってくれるでしょうか。

それとも忘れてしまってるのでしょうか。


どういうわけか自分の自慢話をしてしまいました。

話しておきたい小学生の時の哲くんとの思い出があります。

哲くんと私のクラスに教育実習の先生が来られました。

数学の男の先生だったのですがスポーツも抜群にできたようです。

しかも手品もすごく上手でした。

放課後にクラスの子供に手品をいくつも見せてくれました。

その中で記憶してるのは黒板に貼る円盤型の器具の手品です。

磁石になっていて黒板に書いた表に〇と×の代わりに色で示すような。

奇数だと青、偶数だと赤、そんなように表の中に入れる器具と記憶してます。

大きさは子供の手のひらより少し小さいくらいだったでしょうか。

教育実習の先生は「青」とか「赤」とか言って、それを宙に投げます。

そして手の甲で受け取ると、それが投げる前に言った色を上に落ちてるのです。

その日の学校からの帰り道だったと思います。

私は少し前に見た手品に興奮して、その話をずっと哲くんにしてました。

「僕は半分以上のタネはわかったよ」と哲くんが言ったのです。

手品のタネを見ただけでわかるということに驚きました。

「円盤を投げて自由自在に表裏を出すのは練習したら誰でも出来るよ」

その時に哲くんにタネを教えてもらい毎日毎日十円玉で練習しました。

運動が苦手で鈍重な私でも1ケ月後くらいには出来てたと思います。

あれは自転車も乗れなかった私が初めて身に付けた特技だったんじゃないかと思います。


そんな哲くんが転校して行ったのは5年生になる時だったでしょうか。

市長だったお父様の都合だったと記憶してます。

その後は年に数回市内の小中学校の行事で見かけたり、街で見かけたりはしてました。

そんな時も人見知りの私は哲くんを遠くから見るだけでした。

哲くんは転校前に、祖父の後を継いで医者になると言ってました。

私はその言葉をたよりに、医者の道を歩めば哲くんと再びめぐりあえる。

その時にこそ哲くんとホントに仲の良い友だちとして過ごしたい。

そう思って、そう信じていました。


それで私もいつしか漠然と医師を目指して猛勉強を始めました。

とりあえずは地元で1番の進学高校に入学したい。

普通の公立中学に進学した私は一生懸命に勉強を始めました。

数学と物理は学年で1番だったと思います。

理科系学科もそれ以外はなんとか上位の成績は取れてたと思います。

文系、特に歴史は全くダメでした。

歴史はストーリーで記憶しろと歴史教師に言われてました。

私の人見知りと関係あるのかもしれません。

人間関係の感情や推移を記憶するのは本当に苦手でした。

それでも歴史は暗記物と割り切って一生懸命に勉強しました。

教科書を何十回も読みました。

イヤ、百回以上も読んだと思います。

そうやって苦手な科目も克服しました。

そして地元で1番の進学高校になんとか合格出来ました。


そうやって入学した高校ですが哲くんはいませんでした。

お父さんが市長から国会議員となり東京の高校に進学したと聞きました。

私はショックを受けました。

入学試験の時に哲くんを見かけなかったことを気にはしてました。

でもいないような気もしてました。

哲くんとは医師を目指した人だけの集まってる大学で再会する。

そんな気がしてたのです。

それでこそ真の友人として仲良くなれる

そう思ってました。

そんな私には哲くんがいない事よりショックなことがありました。

高校での私の成績は本当に底辺だったのです。

数学だけは上位だったと記憶してます。

物理も平均よりは上だったと思います。

でも他はみじめなものでした。

私の点数が私のクラスの最低点ということも珍しくはなかったのです。

歴史の教科書なんかは、私が何回も何回も読んでます。

でも、1回読んだだけで内容を覚えてる同級生が何人もいました。

同級生たちは歴史の話の流れはそれだけで頭の中に入るのです。

彼らはあとは試験前にでも固有名詞をしっかり記憶すれば勉強終了してました。

進学高校の生徒は半分はそんな感じだったと思います。

私の成績では国公立の大学は完全に無理。

私立大学でも一流と言われる大学はほぼ無理。

一生懸命に勉強すれば少しは成績も上がるでしょう。

でも上位の生徒とは頭の中身から違ってる。

そう言われてたと思います。

自分でもそう思ってました。

進学高校に入学すれば何とかなると無邪気に思ってました。

そうでも無かったのです。

それでも私は勉強をしてました。

中学時代からと変わらず勉強してました。

成績を上げるほどではないけど、落ちこぼれて授業についていけないほどではない。

その時の自分が何を考えて勉強してたのか全く記憶がありません。

自分の将来を考える能力も自覚も無かったのだと思います。

ただただ自分の習慣となってた毎日の勉強を何も考えずに繰り返していたのだと思います。


そんな私が転機を迎えたのは忘れもしません。

高校1年生のクリスマスイブでした。

私の母の下の弟、私の叔父がクリスマスイブに何年かぶりに遊びに来たのです。

叔父は大学中退して東京で音楽関係の仕事をしてるという話でした。

「高校の入学祝いもあげてなかったね。クリスマスプレゼントあげようか」

そう言って叔父は私に音楽プレイヤーをくれました。

その音楽プレイヤーには7千と93曲が入ってました。

「それ、そろそろ曲数が限界でさ。新しいの買おうと思ってるんだ」

「おれのお古だけど、それでも今年買ったんだぜ」

その時の私はどうだったんでしょう。

お礼とかも言えてたのでしょうか。

当時の私には音楽を聴く趣味はありませんでした。

趣味が無いというか余裕がなかったと思います。

時間的、精神的な余裕がなかった。

音楽を聴きながら勉強してはいけない。

そう言われてました。

ですから音楽はテレビで聞いてたくらいじゃないでしょうか。

そしてそのすぐ後の元日です。

私は毎年毎年、元日から勉強すると決めてました。

その年は日本史と世界史の教科書を最初から最後まで読み通す。

そう決めてました。

元日のような日に読むことで少しでも記憶力の助けになれば良いな。

そう思ってたと思います。

普通の私なら絶対にしないことを、その元旦にしました。

音楽を聴きながら教科書を読んだのです。

先に読んだのは日本史です。

次に読んだのは世界史。

そんなことまで覚えてます。


記憶してるのはそれだけではありませんでした。

全部です。

音楽と一緒に教科書全部を記憶したのです。

教科書と音楽を混然一体と記憶してしまったのです。

教科書に書いてあるすべてを記憶しました。

歴史の固有名詞は教科書に書いてあるまま映像で記憶しました。

それを読んだ時の音楽と一緒に記憶してました。

教科書の固有名詞を書いたページを思い出せば音楽を思い出す。

音楽を思い出せばそのページの映像を思います。

どっちかがきっかけとかではありません。

本当に一体として記憶してるのです。

その元日に教科書を読んで、音楽とともに教科書に書いてあることを全部記憶しました。

文だけでなく写真や絵や図や表まで、全部記憶しました。

頭の中に音楽が鳴り、教科書の1ページ1ページを思い出せるのです。

その時に記憶したことは、十年と少し前まではちゃんと思い出せました。

今は霞がかかったようにもやもやとしか思い出せませんが。

学校の三学期の歴史の試験はもちろん満点でした。

今思えばカンニングを疑ってたのかもしれません。

先生がどうやって勉強したと聞きました。

「教科書は全部記憶してしまいました」

「何ページと言ってもらえれば、書いてあることは全部言えます」

先生は言いませんがクラスメイトは「何ページ」「何ページ」と次々と言いました。

「〇〇について書いてあるページだな」

それだけではありません。

そのページの最初の文字から最後の文字まで全部言えたのです。


三年生になって、私の成績は最底辺から学年トップになりました。

「音楽と一緒に読めば全部記憶できます」

私のその言葉を信じてもらえてたのかはわかりません。

相変わらず私は人の表情や感情を読み取るのが苦手でした。

ただ、本当に教科書を全部記憶したというのは全員が信じたと思います。

暗記科目はほぼ満点を取れるようになりました。

音楽を聴きながら読んでない事項が問題として出た時だけ答を書けない。

むしろ1番の得意科目だった数学の成績だけが上がらない。

高校三年生の最初に教科書と参考書を数冊読んで数学以外の勉強をやめました。

数学の勉強も問題集の問題と解答を一生懸命に読むだけです。

たまに問題も解いてみるくらいだったでしょうか。

試験の問題を見て、似た問題を記憶の中から音楽とともに思い出す。

それで数字を当てはめてみて解答を考える。

数学もちょこちょこ満点を取れるようになりました。

そうやって数学でも学年トップになったのは夏休みくらいだったでしょうか。

二学期には完全な学年トップです。

暗記科目は誰も私に勝てません。

それ以外もほぼ私がトップを取るのが当たり前。

しかし、この高校三年生の時が中学1年生から1番勉強時間が少なかったと思います。

たぶん、半分以下だったでしょう。

音楽と一緒に覚えたことは全部記憶して忘れない。

いつか自分の脳味噌の容量を記憶が超えてしまうんじゃないか。

何も新しいことを記憶できなくなるんじゃないか。

そんな心配もしてました。

そうして私は東京大学医科学類合格。

昔からの希望通りに東京大学で医学を学ぶことになりました。


大学に入学した私が最初にしたことは哲くんを探すことでした。

哲くんは法学類に合格してました。

おじい様ではなく御父上の後を継ぐのかな。

当時はそう考えたんじゃないかと思います。

私は哲くんの友人に幼馴染として紹介されました。

学校の食堂で哲くんや哲くんの友人と月に1、2回は食事しました。

それは私にとって学生生活で1番の至福の時でした。

もし私が法学類に入っていたなら哲くんともっと仲良くなれただろうか。

そうではない。

きっと月に1、2回食事するくらいがちょうど良かったと思います。

哲くんも哲くんの友人も私には光り輝いて見えました。

私があの中で同じように輝けたとは思いません。

とてもあの光の中へ私が入れたとは思いません。

月に1回か2回だけ、違う学部の客分として参加する。

私にはそれが精一杯だったろうと思います。


一方、医学部での私には困ったことが起きました。

そもそも医者になろうと思って医学部に入ったのではありません。

ただただ哲くんと仲良くしたい。

哲くんは勉強して医者になると言ってた。

じゃあ私も医者になる勉強をする。

たったそれだけの理由で医学部に入ったのです。

そもそも私は医者には向いてません


私は人見知りで人の感情を読み取るのが苦手です。

「患者さん、あなたの状態はコレコレです」

「治療のためにあんなことやこんなことをしてください」

そんな風に良く知らない人を判断して指示する。

日常的にそんなことをできるとは思いません。

法学類を受験しなおそうかとも思ったくらいです。

そのことを哲くんに相談しました。

「基礎やれよ。基礎医学。臨床より絶対に向いてるよ」

哲くんはそう言ってくれました。

基礎医学とは、ようするに医学の研究者です。

実験器具や薬剤やせいぜい実験動物相手の仕事です。

私に打って付けだと思いました。

そうして私はかなり早い段階で基礎医学をやることに決めたのです。

そんな時期から基礎医学を志望するのはかなり変わってる学生だった。

いや、それとは関係なく変わってると思われていたかもしれません。

それでも私は哲くんに自分の将来を決めてもらって大喜びでした。

私のような人間でも医者の仕事ができそうでした。


哲くんに励まされた私は勉強にも意欲がでました。

私の頭脳の容量をあまり気にしないようにしました。

音楽を聴きながら記憶することで試験も簡単にクリアしました。

言い忘れたことがあります。

私に音楽プレイヤーをくれた叔父は私が東大入学直後に事故で亡くなりました。

私の入学試験合格は母が知らせてたと思います。

私は叔父にお礼を言ったのでしょうか。

東大合格の最大の恩人である叔父にお礼を言った記憶はありません。

私には人間として大きな欠陥があるとしか思えません。


話を続けます。

大西教授が私を研究室に誘ってくださいました。

早くから基礎をやりたいと言ってる成績優秀な学生がいる。

そんなことで私を選んでくれたのだと思います。

大西教授は免疫学の権威でした。

大学院の専攻も大西教授に決めていただきました。

大学院を卒業するころまでは大西教授に大変可愛がっていただきました。

私は肝心なことを知らなかったのです。

大学の研究者は研究者であるとともに教育者でもあるのです。

私に教育などできるはずがありません。

「何も教えてくれない」と後輩からの評判は散々でした。

研究者としても失格でした。

先生方に指示された内容をよく理解できてなかったんだと思います。

しばらくは大西教授も厳しく指導してくれてました。

目先に捕らわれる、準備不足、注意力散漫、指導力不足。

私は記憶力だよりのペーパーテストだけ優秀なダメ人間だったのです。

その大西教授も数年で私の指導を諦めてしまいました。

私は上から見放され、下からは疎まれ孤立しました。

ほぼ医師免許の必要がない雑用係となってしまいました。


私は雑用係として四方名誉教授のお付きを命じられました。

雑用係の私にとって1番重要な仕事が四方名誉教授のお付きでした。

わかりやすく説明すれば四方名誉教授のかばん持ちです。

秘書的な仕事ではありません。

どこかの大学の教授のお嬢様がアルバイトで秘書的仕事をされてました。

交通手段の切符の手配等はすべてその方がされてました。

私が交通移動についてやった仕事はそんなことではありません。

手を挙げてタクシーを停車させる。

預かってた財布からタクシー料金を支払う。

領収書をもらう。

でも私は四方名誉教授と一緒に行動するのは大好きでした。

四方名誉教授は哲くんのように本当に私に色々とためになる楽しい話をしてくれました。

おとなの人で緊張せずに話せる数少ない人でした。

しかもそれが基礎医学界では知らない人のいない四方名誉教授です。

自分のやってることが医者の仕事なのかと疑問は持っていました。

自分の立場の悩みについて四方名誉教授にもお話ししたと思います。

「君に合った仕事に出会えると良いね」

四方名誉教授はいつもそう言ってくれました。

「四方名誉教授のお付きが自分に1番合った仕事です」

そうお返事したこともあったように思います。

そんな私の楽しい日は突然に終わったのです。


「君は〇〇県の出身だよね」

「はいそうです」

「〇〇大学の医学部が教官を探してる。行ってみる気はないかね」

「私に教育が出来るとは思わないのですが」

「学生相手の講義とかはしなくて良い。君は免疫の研究をやってくれれば良いそうだ」

「それで良いのですか」

「ああ、〇〇大学はそう言ってる」

「前にやりたい研究があると言ってたじゃないか」

「はい。ある病気に免疫療法が効果があると思ってます」

「あれをやれば良い。なかなか良いとこに目を付けたと感心してたんだ」

「はい」


私に断ることのできる話術があれば断ってたと思います。

尊敬する四方名誉教授の依頼を断ることは私にはできませんでした。

私は任期制の講師でした。

四方名誉教授の話を断れば次回の更新はないとも思いました。

〇〇大学は任期のない採用だと聞かされました。

もしそれで好きな研究だけをさせていただけるなら良いかな。

私は承諾して〇〇大学の岡田教授に合わせていただきました。

岡田教授は私に准教授になれとおっしゃいました。

「准教授とは聞いてないんですけど」

「四方先生に内緒と言われてた」

「内緒」

「先生は准教授だと引き受けてくれないとおっしゃってた」

「もちろんそうです。」

「教授を希望されて私が追い出されても困るからね」

「そんな」

「研究だけしてくれれば良いから。優秀な助手もいる」

「本当に研究だけしてれば良いのなら」

「もちろん。おれは死ぬまで教授やる。政治的なことはしないでくれよ」

本当に冗談の好きな方でした。

でも冗談ではなかったのです。

二年しないうちに岡田教授は病気で亡くなられました。

自分の余命を知っていて私を准教授に推薦してくれたのです。

私のどこが良かったのか今でもわかりません。

しかし岡田教授のお陰で私は30代半ばで教授となりました。


西山先生の受賞ニュースの記事も読みました。

わたしの事を華麗な経歴の若き天才医師だったと書いているネットの記事も見ました。

表面の経歴だけを読むとそうなんでしょう。

それは作られたものです。

作ったのは四方名誉教授と岡田教授たちだと思います。

あまりにも本筋から外れた話が多いですね。

なるべく短く話を続けさせていただきます。


岡田教授のおっしゃってた優秀な助手とは若山先生でした。

「先生、わたしの事はわかりますか」

「わかりません。すいません」

「先生の高校の1年後輩の若山です」

「若山くん?」

「残念です。先生は1回見たものはすべて記憶してると有名だったですがね」

「それは嘘ですよ」

「でも2年から3年の春休みに2週間勉強して成績が下位からトップになりましたよね」

「それも少し大げさだけど、偶然たまたまですよ」

「先生の助手は一生懸命にやらせていただきます」

「よろしくお願いします」

「僕は医学部入りなおしたので医者としては5年後輩になります。ご指導よろしくお願いします」

「そこは自信ないのですが全力でやってみます」


若山先生は優秀な人でした。

岡田教授が病気療養されてる時から実質の教授は若山先生でした。

私は比喩で言うなら表紙だけの表向けの顔でした。

それは私が教授になり若山先生が准教授に就任されてからも同じです。

晩年に医学界で大活躍されたのも当然だと思います。

今回ノーベル賞を受賞された西山先生の指導者として最適だったでしょう。

私はその若山先生と共に研究を始めることになりました。

そう、今ではワカヤマ氏病と呼ばれる病気の免疫治療法です。

当時は移植手術後に免疫抑制剤で治療してました。

5年後生存率0%の致死の病気でした。

それを自己免疫で治療する。

今までと正反対の治療法です。

その最初のアイデアだけは確かに私が偶然に思いつきました。

その後は若山先生におんぶに抱っこの研究でした。


そんな時に中学生だった西山慎一郎先生がワカヤマ氏病で入院してきました。

そうです西山先生もワカヤマ氏病を患ったことがあるのです。

その時の御経験から医師を目指したそうです。

西山先生の少し前には落語家の松家師匠もワカヤマ氏病で入院されていました。

はっきり記憶してますが、松家師匠のお嬢様は当時小学生でした。

その後に大学生の時に再会された西山先生とご結婚されたのは知りませんでした。

昨今の報道で知りました。

それは驚きではありますが、当然のことのようにも思えます。

西山先生は約1年の闘病の後でほぼ完治となり退院されました。

その後に若山先生が何十と言う論文を私と連名で発表されました。

その論文が評価されて若山先生は東京大学に教授として移籍されました。

研究にも才能がない事を自覚した私は大学を辞めました。

言葉のわからない場所なら患者さんの相手もできるかと思いアフリカ行きを決意しました。

アフリカで町医者をしようと思ったのです。


どうしても言わなければならない大切なことがあります。

そのことを避けて話を進めてしまいました。

若くして教授になった私はほぼ研究だけに没頭しました。

どうしても出席しなければいけない会議などを除き教授としての仕事は若山先生に丸投げでした。

大学の他の教官から見てもわがままな変人だったと思います。

東大時代の私を知らない人たちには虚像の私を信じてました。

県下1番の進学校でトップだった。

教科書だけでなく専門書でも1回読めば内容を覚える。

岡田教授が後継者として三顧の礼で迎えた。

医学界の権威に可愛がられてる。

出来の悪い人間として面倒をかけてただけなのですが。

そんな周囲の誤解を利用して私は研究を続けました。


そうこうしてるうちにワカヤマ氏病の免疫治療に役立ちそうな薬をつくれました。

後に若山先生が完成させた治療法の原形の原形みたいなものです。

あとは人に対してどの程度の効果があるか実験したい。

でもワカヤマ氏病の発症率は数百万人にひとりと言われてました。

日本国内の患者数は多くても30人はいない。

研究に協力してくれる患者さんは見つかるのだろうか。

そう思ってる時です。

テレビで松家師匠のニュースを見たのです。

松家師匠がワカヤマ氏病を発症したというテレビのニュース番組です。

「オレは5年で100パー死ぬ」

「現代医学じゃ治らない」

「神様がオレの寿命を決めたんだ」

「病気が治る霊水とか飲んでやる」

「神様なんか蹴倒す精神力で絶対に5年は生きてやる」

「オレの寿命は神様じゃなくオレが決める」

私は思わず歓喜の声を上げました。


私は翌日には松家師匠のご自宅に会いに行きました。

人見知りな私ですが一生懸命に松家師匠に説明しました。

当時の松家師匠は還暦手前でした。

落語界ではまだまだ若手だとおっしゃってました。

でも名人として有名でしたよ。

とんでもないオーラを感じました。

松家師匠は口は悪いけど優しい方でした。

「オレがね。恥も外聞もなくテレビに出たのは先生のような人が現れると思ったんだよ」

「殺されるんなら神様じゃなく、先生に殺されてやるよ」

松家師匠にそう言っていただきました。

そして松家師匠は種々の段取りを済ませて入院されました。

松家師匠が入院のための準備をされてる間にすべき私たちの用意もありました。

学内の倫理委員会に実験承認の申請書を提出しました。

普段なら若山先生が作成する申請書でした。

若山先生は準備に忙殺されてたので私が書きました。

過去の申請書の必要な部分を書き換えるだけの簡単作業です。

私はそう思ってました。


松家師匠の臨床実験前検査も無事に終了しました。

翌日から治験試験を始めようという前日の午後だったと思います。

西山先生がワカヤマ氏病で緊急入院してきたのです。

西山先生はまだ中学生でした。

病気の進行は中期に差し掛かってました。

同じ病院にワカヤマ氏病の患者が二名いる。

奇跡のような出来事です。

年齢も違う患者。

病気の進行度も違う患者。

最初の実験で2種類のデータを入手できる。

倫理委員会の一度の承認で実験を繰り返せるように申請してありました。

本来であれば何も問題はないはずでした。

私のミスがなければ。


比較対照実験とする。

倫理委員会の承認ではそうなってました。

治験患者が複数の場合は比較対照実験とする。

私が申請した通りに承認されていました。

比較対照実験。

つまり2名以上の場合は比較しなければなりません。

この場合の比較とは。

一方には治験薬を、一方には偽薬を使えと言うことです。

つまり一方には薬を使うなと言うことです。

薬を使う患者と使わない患者の比較実験をするということです。

その時の場合では、松家師匠と西山先生。

どちらかの治療はしないということです。

比較するためには今までの治療方法は行いません。

ただただ偽物の薬を飲み続けるのです。

その時の申請書には書く必要のない文でした。

私は見本の申請書からそれを削除しないで写したのです。

このミスが人殺しも同然でしょう。


当時の西山先生の病気の進行状況を考えれば倫理委員会に再申請する余裕はありません。

もう申請書通りに実験をするしかない。

当然ですが、そんな結論に達しました。

患者さんには内容を書き換えた同意書にサインをしてもらう必要があります。

私は同意書にサインをしてもらうために松家師匠の病室に行きました。

謝罪しながら松家師匠にはすべてを正直に話しました。

松家師匠のオーラの前で取り繕うのは無理でした。

松家師匠はふたりだけで話したいとお弟子さんを外に出しました。

私も付いて来た助手を返しました。

すぐに同意書を受け取った松家師匠はサインしました。

松家師匠は自分の名前を三回書いた感じでした。

その後で拇印を押してボールペンを返してくれました。

でも同意書を渡してくれません。

そして話し始めました。

私は黙って聞いてました。

「オレと同じ病気の人が入院したって聞いたんで合わせてもらって来たよ」

「少し進行してるって聞いてね」

「この先の自分がどうなるか知りたいと思ったんだ」

「まだ中学生だってね」

「なかなか苦しそうだったよ」

「つらそうだったねえ」

「でも良い根性してたよ」

「落語家にしたいよ」

「でも違った道で天下取るんだろうな」

そこまで話して十分ほど黙ってらっしゃいました。

私も声はかけられませんでした。

「先生、オレは大名人になりてえ」

「今ね、らくごの"ら"の字が見えるとこまでは来た」

「落語の面白さもわかってきた」

「もっと勉強してさ、大名人と呼ばれるような落語を語りたいんだ」

「あと25年ぐらい修行してさ、80歳超えたらいけそうに思ってる」

「だから死にたくねえんだよ」

そこまで言ってしばらくして同意書を返してくれました。

私はすぐに松家師匠のサインを確かめました。

サインは確かにありました。

しかしその下にはこう書いてありました。

「ただし、にせの薬はオレが飲む」

私はそれは無理だと言いました。

「先生だってオレに無理難題言ってるじゃねえか」

「先生、もうダメなんだよ」

「落語には人間が出るんだよ」

「生き残ったってダメだ」

「女子供を死なせて生き残った奴の落語を聞いて笑える人はいないよ」

「オレは生き残ったって落語はできねえんだよ」

私は必死に断り続けました。

実験対象を医者が恣意的に決めるのは倫理的に許されることではありません。

医者は神ではありません。

「先生さ、オレは死ぬのは怖い」

「でも、それ以上に同じ病気の男の子が苦しんで死んでいくのを見ながら生きるのが怖いんだ」

「もしそんなことになったら死んでやる」

「実験途中で、先生殺してオレも死ぬ」

表面的には私を脅迫してるような言葉です。

医者は神ではありません。

でも松家師匠の言葉は神の言葉でした。

命を込めて話す言葉。

落語家とはシャーマンなのだと思いました。

でも医者として人として許されないことです。

なんとか断りの言葉を言って松家師匠の部屋から教授室へ逃げ帰りました。


私が自分の部屋に逃げ帰るとすぐに若山先生が来てくれました。

私は少し考えましたが証拠隠滅はしたくないと思いました。

同意書に松家師匠が書いた「ただし、にせの薬はオレが飲む」を二本戦で消します。

若山先生に松家師匠に二本線の上に拇印を押してもらうように頼んできて欲しいと言いました。

部屋には助手がひとり残ってました。

「明日の朝、十万円記念金貨が発行されるから1枚買って来てほしい」

部屋にいた助手にお願いしました。

「明日の朝は治験について会議をしてるけど、かまわず入ってきてくれ」

「よろしいんですか」

「もちろんだ。君にも会議に参加して欲しいからね」

これはアリバイ作りと言うのでしょうか。

若山先生はすぐに戻ってこられました。

松家師匠は何も言わず拇印を押してくれたそうです。

私の弱い心を充分に知ってたのだと思います。

大学の保管庫を探せば残ってるはずです。

松家師匠が「ただし、にせの薬はオレが飲む」と書いた同意書が。


翌日の朝の会議。

思ったより早く助手は記念金貨を買って来てくれました。

「これは皇室の慶事の記念金貨です。どうしても欲しかったんですよ」

会議に出席した全員が怪訝な顔をしたと思います。

「比較実験の対象はこの金貨に決めていただきましょう」

そう言うと間髪を入れずに続けました。

「表なら西山さん。裏なら松家師匠に真薬を飲んでいただきましょう」

そう言ってる途中で金貨を投げ上げました。

「お願いいたします」

そう言いながら金貨をキャッチしました。


もう少し大掛かりな治験なら二重盲検法が行われたはずです。

二重盲検法とは投薬してる医者ですら薬の真偽を知らないでやる方法です。

その時の試験は研究室の開発した薬の初めての小規模な人間にたいする実験です。

実験の様子によっては即時中止もあります。

ですから医者が薬の真偽を知っているのも変ではありませんでした。

でも金貨の表裏で決めて良い物ではありません。


松家師匠は亡くなられるまで私の顔を見ると「ありがとう。ありがとう」とおっしゃられました。

「あの中学生は元気になって娘と遊んでくれてるよ」

「娘はアレに惚れてるみたいだな。初恋なんだろうね」

「男を見る目はあると思うね。安心したよ」

「娘の結婚式には出てやれないけど、初恋の様子は見られたから悔いはない」

「アレは落語家にするにはもったいないな。落語家はやめろと言わなきゃ」

そして「ありがとう。ありがとう」とおっしゃるのです。

「自分の寿命は自分で決めて嬉しかったよ」

松家師匠が私に残してくれた最期の言葉でした。

死ぬまで大きなオーラをまとってる人でした。

アフリカには人間なのに神様がいらっしゃいます。

松家師匠も神様だったのでしょう。


その後も色々ありました。

コインの表裏で人の命を決めた。

若山先生はそう思われたのでしょう。

私からは距離を取るようになりました。

そして私は十年ほど生きる屍となってました。

ワカヤマ氏病の患者が来られれば全員に真薬を飲んでもらいました。

何回かは入院時期を調整して比較対象実験にはならないようにもしました。

律儀な若山先生はたまに「次の論文も先生と共著で発表します」と報告してくれました。

その論文が海外で評判になってると聞きました。

ワカヤマ氏病の死亡率が日本だけ極端に低いことも論争になってましたね。

海外から多くの医学者が見学に来てらっしゃいました。

若山先生が全部お相手されてました。

治療も論文も教育もすべて若山先生がしてました。

私は何をしていたのでしょう。

思い出せません。

それが十年ほど続いていたのです。


そんな日々に東大の大西教授に呼び出されました。

西山先生が病気回復後に東大医学部に入って来年卒業する。

そして私の研究室に入りたいと言ってるので入れてあげて欲しい。

ワカヤマ氏病の治療薬開発には莫大な資金が必要である。

それを負担できるのは東京大学だけなので研究室ごと移籍して来て欲しい。

その二点をお願いされました。

もちろん両方断りました。

西山先生と一緒に働くことは人を殺してしまった罪を常に突きつけられることになります。

研究については私には何も出来ないことは十年かけて証明してしまいました。

研究室の実質的はリーダーは若山先生であることを説明しました。

若山先生の研究室として私以外のメンバーを移籍させるなら承諾すると言いました。

西山先生については若山先生の許可を取って若山先生の研究室に入れてもらって欲しいと。

「研究者は向いてないとわかりました。患者さんの相手をする臨床をしたい」

そう言う私を、大西教授は悲しい目で見てました。

私が少し期待していた憐みの気持ちは微塵もないようでした。

大西教授も教え子である私の心配をしてくれていたんだ。

そして私はその期待には砂粒1個分も応えられなたった自分を恥じました。

「私は医者失格なのです」

そう言いましたが違いました。

私は人間失格だったのです。

人殺しなのですから。


アフリカに行ってしばらくして若山先生から電話がありました。

私に何かの許可を得ようと思ったらしいです。

それには答えませんでした。

「もう全部を君が決めるべきだ」

「出来るなら過去の論文の共同執筆者から私の名前を外して欲しい」

「そして二度と電話しないでくれ」

その三点だけ伝えました。

それ以降は若山先生から連絡はありませんでした。

それがふた月ほど前に若山先生からの手紙が届きました。

簡単な荷物と共に船便で届きました。

最後に会ってから五十年近くになります。

その手紙にはこんなことが書いてありました。

自分の寿命が手紙が届くころには尽きていること。

自分の代わりに西山先生のノーベル賞受賞を祝う会で挨拶して欲しいこと。

今でも私を尊敬してること。

西山先生にも私のような医者を目指せと教育したこと。


日本ではそんなバカなことがまかり通っているのかと思いました。

どうしても訂正しなければならない。

逃げ回っていた罪から罰をうけなければいけないと。

若山先生は私がコインの表裏で患者の人生を決めたと思い込んで死んだんだと。

江上元総理はまだいらっしゃいますか。

ありがとう、哲くん。

哲くん、君も知ってるよね。

僕がコインの表裏を自由自在に出せることを。


足腰が立たないのですが車椅子からは降ります。

このような高い場所から申し訳ありません。

松家師匠のお嬢様、本当に申し訳ありません。

ごめんなさい。

私はあなたの大事なお父様を殺してしまいました。

そして50年近く逃げ回っていました。

こんな私を許してくれとは言いません。

どうか私を恨んで下さい。

どうか私を軽蔑してください。

どうかお願いします。

本当にごめんなさい。


哲くん、お願いだ。

今から警察に自首する。

どうか付き添ってくれないか。

最後に哲くんがいてくれて良かった。

『文学フリマ短編小説賞』で何かしらの賞をいただけたら、著作権は放棄しようかなと思ってます。

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