ホリック(作:葵生りん)
目が覚めて、ぼんやりと霧がかかったような頭と視界で一人暮らしをしているワンルームマンションのどこかに落ちているはずの眼鏡を探す。と、いつからそこにあったのか――少なくとも一月くらいは使っていないと思う――ベッドの下に潜り込んでいた枕に、きのこが生えていた。
赤い傘に白い斑点の、なんていうかメルヘンチックな感じのきのこが。
「うっわ、気持ち悪ぃ。捨てよ」
爪の先でなんだかしっとりと重い気がする枕を摘んで、ゴミ袋を探す。
ぐちゃぐちゃのベッドの脇。参考書とノートが広げられ、コーヒーの染みがついたマグが置かれたままのテーブルの下。脱ぎ捨てたのか洗濯したのかわからない衣類の山々の間。洗い物が溜まったキッチンの流しの脇。
(……あ、そうか。昨日の朝ゴミ出したんだっけな)
そこまで探してから思いだし、今度は新しいゴミ袋をどこに片づけたんだったか――と首を捻る。コンビニのレジ袋に押し込んで、コンビニのゴミ箱に捨てられれば話は簡単だが、枕はかさばるからな――と思った時だった。
「待って……」
女の子の声がした。
自分で言うのもなんだが、女の子がこの部屋に足を踏み入れたことなど一度もないというのに。
「待って。捨てないで」
悲しげな声に振り返れば、間違いなくそこに赤いワンピースを着たかわいらしい女の子が立っている。濡れ羽色のパッツン前髪の下で潤んだ瞳が見つめる。
「……お願い……」
潤んだ瞳が目と鼻の先で揺れたかと思うと、くらりと目眩がした。酒に酔ったように足下がおぼつかず、よろめいて尻餅をつく。
「大丈夫?」
さらりとこぼれる横髪を耳にかけながら前屈みになって見つめる女の子の唇は赤く艶やかで。開いた襟元から覗く白い肌に思わず生唾を飲む。
するとくるりとしたつぶらな茶色の瞳が、長い睫のついた瞼に塞がれた。
「え? え??」
混乱するばかりで動くことができないうちに目を伏せて迫り来る、女の子の唇。肩に手が置かれ、反射的に目を閉じる。
少しひんやりとして湿っぽく――けれど柔らかな感触が唇に触れた。
心臓が跳ね、反射的に息を止める。
――私を食べて。
吐息のように囁かれた言葉の意味を考えるより早く、するりと口の中になにかが潜り込んできて――。
「まぁああ!! なんなの、これ!!!」
母の悲鳴に、おぼろげに目が覚める。
窓が開けられ、むっとした――けれど新鮮な空気が流れ込み、コンビニのレジ袋の数々がゴミ袋にぼんぼん放り込まれていく様を見つめる頭が醒めていく。
「ヤダ! 布団にきのこが生えるって、あんたどんだけ掃除してないのッ!? さっさと退きなさい!もうこんな気持ち悪い布団捨てるからッ!!」
「ま……待ってくれ! 捨てないでくれ!!」
「なにいってんの、新しいのちゃんと買ってあげるから!」
布団とそして甘い夢から引きずり出され悲鳴を上げるが、母は一時も手を休めることなく彼女達の棲んでいる布団を畳んで廊下に運び出していく。
その間に慌てて枕を大して使っていないクローゼットの奥に隠し、服の片づけをしているフリをする。すると以前、登山部に入った友人にもらった一冊の本が出てきた。
サバイバル辞典というタイトルの、山歩きの基本から食べられる野草やきのこなども紹介されている本だ。何気なくぱらりとめくると、あのきのこが載っていた。
――「ベニテングタケ」……嘔吐下痢のほか、幻覚症状が現れる毒キノコ。
背筋がすっと冷えた次の瞬間、クローゼットの奥からくすくすと笑う女の子の声がした。にゅっと伸びてきた白い手が艶めかしく唇に触れ、硬直している口の中に入ってくる。
――食べて。私を、食べて。
ぼんやりとした意識に響くくすくすという笑い声。
そして笑い声に混じる誘い言葉のまま、しっとりとして柔らかい指にゆっくりと歯を立てる。するとぽろりと欠片が落ちた。口の中に落ちた欠片を奥歯で噛みしめると、甘い香りがいっぱいに広がって、笑い声がさらに強く響く。
くるりとしたつぶらな瞳がクローゼットの奥で光る。
赤い唇が、音もなく近寄ってくる。
白い手が、ゆっくりと手招きをしてからそっと頬を包みこむ。
――食べて。
甘い、甘い幻が誘いかける。