10. ヘーデン氏の稽古
主人公、修行?後編
良い暇つぶしとなりますように。
結局、先輩とは上手く時間が合わず、受身のおさらいは三日前にできただけだ。自己練習も入れて三日しかできなかったので、きっと大して上達していないだろう。
先輩には、柔術の苦手な私が急にそんな事を頼むのを少し不審がられたが、素直に本当のことを言った。師範には言い難いが、それ程年も離れていない先輩には言いやすい。つまり、結婚したい女性のために、鍛えなおしている、と。師範に言えば、女のために鍛えるとは何事か、と説教されるところだが、先輩は逆に応援してくれた。
とにかく、受身だけ教えて欲しいと言うと、少し変な顔をされたが、まぁ一番の基本だからと言って、丁寧に教えてくれた。
組技も教えようとしてくれたのだが、受身が身についてからよろしく頼むと言って断った。変に欲を出してはいけない。
先輩は感心して快く応じてくれたのだが、いつになることか。
師匠に対して突進するばかりでは、やはり芸がないから、一つ二つは柔術の技も身につけておきたいのだが。
きっと、師匠から技を盗めるようになるのは、その後だろう。
寺の門をくぐり、勝手に奥へと入ってゆく。今日はセージさんは庭に出ていないようだ。他出しているのかもしれない。
離れが見えてくる。師匠はいつものように窓べりに腰掛けている。
今日もサーシャさんが一緒のようだ。
「おはようございます。本日もよろしくお願いいたします」
まず師匠に一礼し、サーシャさんには目礼する。少女は笑みを返す。
本当に、よく父親に似ている。きれいな少女だ。
挨拶を終え、いつもの位置へ下がり、履物を脱ぐ。
深呼吸をする。
向かっていこうとしたところで、師匠にそらされた。
「そういえば、ヘーデン君、前回の課題はやってきたのかぇ」
「はい。残念ながら、三日しかできませんでしたが、一日は柔術を得手としている先輩に基本から見ていただきました」
「ふむ。まぁその調子で毎日打ち込むことだね。受身は、君の得意の反復訓練だ。型さえしっかりしていれば、そのうち身に染み込む。それで、もう一つの謎かけの方はわかったのかぇ」
「一つだけですが。私の勢いが強いほど、投げ飛ばされる距離が伸びていたのではないでしょうか」
「うん。まぁ合格かな。尤も、今はかなり手加減しているから、細かいところはわかるめぇ。それで、あんた懲りずにそこから突っ込むのかい」
それで止められたのか。
「はい。無芸なもので。受身が少しでも上達しておればよいのですが」
何というか、他に方法が思いつかなかったのだ。
「ふん。じゃ、おいで」
「はい」
もう一度深呼吸して気持ちを切り替える。気合声を上げながら突進し、とにかく体当たりをしようとしたのだが、足を引っかけられる。
「おあああああぁぁぁぁぁっ」
我ながら情けない声を上げつつ、とにかく頭をかばって転がる。
投げられる予想をしていただけに、急速に地面が近づき、危うく顔面から突っ込みそうになった。
何回転しただろうか。頭がくらくらして、容易に立ち上がれない。
「ヘーデン君、大丈夫かね。ひとまず受身の状態を確かめたんだが」
なるほど、そういうつもりだったのか。
「だ、大丈夫であります。それで、いかがだったでしょう」
まだしゃがんだ体勢のままだが、とにかく訊ねる。
「そうだな。最初の頃と比べればずっとましだ。しかし、ちと転がりすぎじゃねえか?せっかく衝撃を逃がしても、それじゃ庭石か立ち木にぶつかるぞ」
うう、そう言われても、こちらも全く意図したわけではないので、いかんともしがたい。
心底情けない気持ちになりながら、やっと立ち上がる。見ると、最初にいた所よりも一、二歩分、師匠から遠ざかっていた。
本当にすぐ近くに立ち木がある。
「気をつけます」
それ以上何も言えず、師匠から一間ほどの所まで近づいた。
深呼吸して気持ちを落ち着け、かかる。
少しは気をつけていたのだが、また足をかけられた。
しかし気をつけた分勢いは殺され、回転は一回で済んだ。
いや、一回半か。これならいっそ二回まわりきった方が身体は楽だ。
師匠も同様に思ったのだろう。からかい混じりの声で、器用だねぇ、などと言っている。ますます情けなくなってくる。
立ち上がりながら、思わず額を押さえる。何かいい手はないものか。
考え込んでも、よい知恵などない。
自分のことは知っている。足元に注意すれば、きっと投げられるだけだ。そうなればろくに受身も取れまいから、今までより危険になる。
諦めて、突撃体勢をとる。走る。転がる。
今度は捕まえようとかかってみる。避けられ、足を引っかけられる。転がる。
ここまでくれば何となく解ってくる。どうも今日は、受身の特訓ということらしい。師匠はひたすら足を引っかけてくる。腕は体側に自然にたらした状態だ。どうも柳に風、という気分になる。
それでも、意図がわかったので、ひたすら突撃していった。
それに、腕を組まれていないだけ、初日よりもましだ。
しかし、かすりもしないというのは、受身の訓練だとわかっていても、疲労がいや増す。だんだん息が上がってきた。
「じゃ、ちと休憩にするか」
その一言に、情けないが緊張を解かれ、思わずその場にしゃがみ込む。
「ヘーデン君、体力がないねぇ。もうちっと鍛えなさいよ」
今一番辛い一言だ。
師匠はずっと同じ位置にいて、足をかけるだけとはいえ、全く息が乱れていない。それ程私は軽い相手なのだろうか。
少なくとも今はそうなのだろう。
大体、本格的に始めてまだ日が浅いのだ。落ち込むには早すぎる。
自分に言い聞かせ、立ち上がって井戸へ向かった。
今日はひたすら転がされたので、泥団子のようになっている。
汲み置きの水で、手をすすいでから、桶を井戸へ繰る。
一度顔をすすぎ、残りを頭からかぶる。
髪から滴る水も、にごっている。二度、三度と頭をすすぐ。
どうせもう一度泥だらけになるとはいえ、汗を流すだけでも心地よい。体温も上がっているのだろう。
次いで、上着を脱いで、簡単に絞る。ここで稽古をした後の洗濯は、上も袴も泥だらけになるので、水汲みが大変だ。寮には洗濯してくれる小母さんがいるが、さすがにこれは頼めない。帰って着替えてすぐに、自分で洗っている。幸い、いつも日暮れ前には帰るので、灯りに困ることもない。
稽古二日目に、泥だらけで帰ると、寮の下男をしているラクスに驚かれた。どうも、誰かにいじめられたかと思ったのかもしれない。何故か彼は私を子ども扱いするので困惑する。しかし、師匠のことを話すと、ああ、と納得するのでこちらが驚いた。どうも以前世話になった人の知り合いで、腕が立つことも聞いていたらしい。おかげで余計な説明はせずに済んだが、そのラクスに、稽古着は自分で洗うよう諭された。
言われてみれば尤もなので、ラクスに教わって自分で洗うようになったというわけだ。……この辺が子ども扱いされる由縁なのかもしれないが。
いつものように、踏み石に腰掛けていると、サーシャさんが声をかけてきた。
「ヘーデンさん、これどうぞ」
見ると湯呑みだった。中身は白湯だろう。
礼を言って受け取り、口をつける。
先程水も飲んだのだが、また違ったよさがある。
そこで、師匠にお願いしたい事があったのを思い出した。
立ち上がって振り返る。奥にいるのか、見当たらない。
残っていた湯を全部飲んで、玄関の方へまわった。
戸は開け放してある。
「ごちそうさまでした」
まず礼を言って、玄関を入る。考えてみれば初めてだ。
「はい、おそまつさま。そこに置いておきな」
師匠は土間の上がり口に腰掛け、ゆっくり飲んでいるようだ。
言われたとおり、かまど近くの台に湯呑みを置いて、向き直る。
「あの、師匠にお願いがあるのですが」
あまり願えた筋でもない気もするが、とにかく言ってみる。
「何だぇ」
「誰か、書の先生を紹介していただけませんか。字は一通り書けますが、その、あまり体裁の良いものでもないので」
要するに下手くそなのだが。今まで読めればいいだろう、という程度にしか考えてこなかったのだが、リシアさんの字を見るほどに、これでは良くないと思えてきたわけだ。
「ああ、上手くない訳だ。それでよく、あんな長いものを書くねぇ」
やはり見られていたか。中身はともかく、厚さは知っているようだ。
「はあ。それで、少しでも上達した方がよろしかろうかと思いまして」
赤面に冷や汗も背に掻きつつ、伺ってみる。
「そりゃ、字は上手いに越したこたないよ。しかし、俺はあんたの字を見てないからね、どんな師匠がいいかは判らんな」
「そうですか」
紹介できないということかと落胆しかけたのだが、
「ま、次にでも何か文章を書いて持ってきな。そうだな、それをそのまま師匠への紹介に使うから、教えを願う文がいい」
早合点であったらしい。
「あ、ありがとうございます。用意しておきます」
なんとも親切な人だ。
「で、字は一応知っているんなら、何か他に勉強したいことはあるかね。来籍、歌、経文、後は何があるかな。外来学や本草学なんかもあるが、こりゃ先生に迷惑だろうしね。ああ、自称国学者てのもいたな」
なにやら顔も広い。まぁラクスも知り合いらしいが。
「いえ、あまり一度に色々できませんので、字を直してもらうだけでも」
「それじゃあ寺子屋に行きな」
そのとおりだ。そこで思い切って訊いてみる。
「あの、リシアさんも、やはり歌道のたしなみがおありですか」
自分に好感情を持っていない父親に聞くのは勇気がいる。
「そりゃ、俺の知ってるだけは教えたがね。あれはさほど得意ではないね。古典を二、三首覚えたくらいじゃないかね」
最後の方は、部屋の中からこちらをうかがっていたサーシャさんに向けて言う。
「そんなことはありません。姉様も、五、六首は覚えておいでです。ただ、苦手なだけにおつくりにはなりませんが」
少し意外だが、苦手の言葉に安心する。手紙のやり取りがこれからも続けば、そのうちそういうものまで心得ていなくてはまずいかと危惧していたのだ。
「そうだな。ま、あれはどちらかといえば、来籍の仁道の方を好んでいたね。何がいいのか」
「姉様は、父様と違って理想の世を信じているのではありませんか」
「そうだろうな。まだ人間に希望を持っている。サーシャは違うのかぇ?」
「私は、今の世の中に特に不満を持っておりません」
話しを聞いていると、どうにも子供とは思えない。末恐ろしいというか、何と言うか。それを不思議にも自慢にも思わない親も親だが。
変な親子だ。
とにかく、リシアさんの嗜好は教えてもらえたので良しとする。
「そりゃ結構だ。で、ヘーデン君、どうする?」
「あ、では来籍のほうを。昔一度やったはずなので、何とかなると思うのですが」
我ながら情けない一言だ。しかし仁道書なら一度は暗唱もしたはずで、他のものよりはましだろうと思う。
そういえば、経典も上がっていたが、あれは冗談だろうか。
「じゃ、その方向で。相手の都合もあるから、最悪本を書写することになるがね。字なんざ心がけで上達するもんだよ。好みの字に近づけるのはまた別だがね、今まで下手だったのは、その程度に考えていたからさ」
全くその通りなので、言葉もない。
「申し訳ありません。よろしくお願いいたします」
つい、謝ってしまう。
「俺に謝るのは筋違いだ。そりゃいいとして、あんた、書を習う暇なんてあるのかい?ここに来た後はやめなさいよ、汗臭いから。行くんなら、こっちの前に行きな」
言われるまで気付かなかった。
第一、ここに来た後に直行はできない。ドロドロだ。
第二、着替えるにしても、確かに汗臭いだろう。
第三、稽古着はなるべく早く洗わなければ、翌日までに乾かない。
「お言葉に甘えさせていただきます」
後から考えれば、まだ通えると決まったわけでもないが、それはまた別の話で、どうせ他に良い考えなどなかったのだ。
その後も、やはり盛大にスッ転ばされて、この日の稽古は終わった。
読了ありがとうございます。
存在がファンタジー(不思議ちゃん)な彼ですが、じわじわと彼女に近づこうと奮闘中です。……まだまだ道は遠そうですが……、文通内容が気になるところですね。
むしろヨリアスとの距離が縮まってますよ、もう特に嫌ってもいないんじゃないでしょうか。「気に入りのおもちゃ」くらいの位置づけか?




