第4妖 カラスが鳴くから帰らなくちゃ
少女は保健室のベッドの上で目を覚ました。倒れてしまったみたいだ、とそこまでは覚えているのだが、それから後の記憶がすこんと抜け落ちている。日に何度も倒れるだなんて、今日はついてないなと少女はうなだれる。もしかしたら朝のバチがまだ当たっているのかもしれないと思い、さらに深くうなだれた。
そういえば、看てくれた保健室の先生が、いつの間にかいなくなっている。ベッドから降りて、
寝たことでシワが寄った制服を軽く叩いて直し、くるくると辺りを見回してみた。ベッドを3台置くだけのスペースはあるものの、やはり狭い保健室の中である。ざっと調べただけで人がいるかいないかなんてすぐにわかる。
きっと職員室かどこかに出ているんだと勝手に納得した少女は、自分のカバンからメモ用紙を取り出し、
『おかげさまで大分よくなりました。またお礼に来ます。今日はありがとうございました』と書き残して養護教諭の机に置いた。
部屋の壁掛け時計を見ると、現在時刻午後2時過ぎ。
「2…時…」
自分が寝ていた時間に唖然としながら、ともかくカバンを引っ掴み、急いで保健室を出る。
男の子と同じように、少女も自分の教室である2年3組の前にばたばたと走っていき、
教卓側のドアを勢いよく開けた。
「お…はようございます!」
その第一声に、教室は一瞬しんと静まり返り、やがて誰かが噴出したのを皮切りに大爆笑の渦へと
巻きこまれた。少女は呆気にとられたが、すぐに自分がいかに妙ちくりんな行動をしてしまったかに
思い至り、耳の先まで真っ赤っかになる。正面には、呆れて言葉も無い、をわざとらしく表している
担任の先生。額に当てた手を離すと、「もういいから、席に着きなさい」とため息をついて言う。
「は…はい……」
自分の席は後ろの方だ。これから教室を闊歩するなんて恥ずかしさのあまり悶死してしまいそうである。一旦廊下に出、そろそろと開けたドアを閉めると、一段と中の笑い声が大きくなった。
何だかんだで下校時刻。
帰りに朝からいままでのことを担任に説明すると、「そりゃ聞いてないなあ。野槌先生忘れたのか…」
とぼやかれた。今まで問題を起こしたことも無く、これといって特に素行も悪くないと評価されている
のか、少女の言葉をあっさり担任は信じた。もちろんこれが真実なのだから、納得してもらわないと
困る。
「まあ、気を付けて帰りなさい。スピード出しすぎないように」
大人しそうな少女の印象からして、それくらいしか注意すべきことが見当たらなかったのだろう。
担任は呼びつけていた職員室から出るように指示し、少女も素直に従った。周りの慌しさからして、
これから職員会議があるらしい。邪魔にならないようにと、少女も慌てて席を立つ。
「失礼しました」
歩くたび傷口がぴりぴりと微かに痛む。騒ぎ立てるほどではない。けれど傷の痛みから、朝の出来事と
あの少年が思い出される。確か、同学年で別のクラスだと。考え事をしているうちに下駄箱にたどり
着き、自転車置き場に行く道中であれは誰だったのだろうと思い悩む。その時、少女は人影を認めた。
夕焼け空の下、ぽつんと、めちゃめちゃに壊れた自転車の前に佇む2人の少年。
1人は中腰になって自転車のチェーンやライトを確かめ、1人は自転車を視ている者の頭上から何事か
話しかけている。
自分の自転車に男子生徒が寄っているのを見て、思わず少女は駆けだしていた。
すぐに分かった。
1人は知らない人だが、もう一人は今朝の少年だ。
少女に気づかない二人は、黙々と作業を進めている。
「何とかなんねーのか?」
「いやー無理だろ。こりゃ買い換えたほうがいいわ。今なら安いのあるってその子に言っといて」
「おいいい!もしかしたら思い入れのある自転車かもしんねーだろ!どうにかなんない訳!?」
「いや……そんなママチャリに入れ込む奴いるか……?」
「あの!」
2人の会話を遮って、息を切らしながら呼びかけると、見計らったようにビクッと肩を震わせてこちらを振り向いた。間違いない。1人はやはり初めて見る顔だが、もう1人は紛れも無くあの少年である。
2人とも悪戯が見つかった悪ガキの様にギョッとした挙動で、慌てて自転車の傍を離れた。
バツが悪そうに視線を宙に逸らす。
「あ、あのう…」
その時。
何か思いついたと言わんばかりの堪えたような笑顔で、もう1人の少年は手を振りながらこう言った。
「ではではごゆっくり~。く・ら・まくん」
「あってめ!」
嫌味ったらしく、しかしにやにやと笑いながら、『うししし』というポーズで去っていく男子。
傍らに停めてあった自分の自転車に跨り、きっついツッコミを受けないうちにさっさと退散する。
「くらま……って?」
「………あー」
苦い顔をする少年。不思議がる少女。
「本当はもっと別の場所で改めて言いたかったんだけどな。………俺の名前」
「あっ!そう名前!教えてもらいたかったんです!」
少女ににじり寄られ、少年は若干頬を染める。
目を点にし、口をぱくぱくさせ、大いに焦りながら言う。
「馬の鞍で『鞍馬』。で、な、名前は勘介。鞍馬勘介」
「あいつ、近所の自転車屋の息子。俺と同じクラスなんだけどさ、店も手伝ってるみたいだし……
見せたらアドバイスくれるかなって」
「そうだったんですか」
2人はボロボロ自転車を押しながら歩く。勘介は今度も自分が持つと言い張ったが、少女も負けじと
勘介ばかりに運んでもらって悪いと押し切り、今は少女が自転車を世話している。
軋む音を響かせながらタイヤは回る。
無言。ガタガタ。無言。ギリギリ。
相手に互いに遠慮して黙りこくる2人の間に、自転車の断末魔が入り込む。
最初に切り出したのは勘介だった。
「俺さ、今日は嬉しかったよ」
「……えっ?」
思いがけない言葉に、少女は驚きの声を漏らす。
「自分って何にもできないって思ってたんだ。最近いろいろあって、ちょっと落ちてて。
でもきみを助けられたことで、俺なんかにできることあるんだなあって……きみのことじゃないけど、
久しぶりに憂さ晴らしもできたしさ」
「?」
首を傾げる少女を見た勘介は、苦笑いをする。そして、微笑む。
「……名前」
「なま、え?」
「名前、聞いてもいいかな」
あ、と息をつく。そうだ、まだ名乗ってなかった――
「私の名前は――」