Children of Sanuma 〜Memories with piglets〜
今日は幼稚園の写生会である。
昨年は八幡神社へ出かけて絵を描いたが、今年は幼稚園でサプライズがあるとのことで園児たちはその日を心待ちにしていた。
「何描くんだべ!」大地はじっとしていなければならないお絵描きは好きな方ではないが、昨日先生が言った、
「とても素敵な動物がやってきてくれます」との言葉に胸躍らせていた。
「ライオンがいいべ! 強くてかっけえべ!」と大地。
それを聞いた朱里は恐れおののき、慌てて首を横に振る。
「わたしはペンギンがいい。水族館で見たもん。かわいいもん」そんな声もあれば、
「砂沼にいる猫のやづらみんな連れて来てよお、好きなやづ描いたらいいべ」極めて現実的な声も出る。
「なにが来んだべ」
園児たちの興味は絶えることがなかった。
そんな中で一人、口元を両手で押さえてくつくつ笑っている男の子がいた。
ーー伊織である。
彼は唯一、今日のサプライズで登場する動物を知っていた。
それもそのはずである。伊織の家からその動物はやってくるてはずとなっているのだ。
今年度の頭に交わされた、先生と母親の会話を伊織は一緒に聞いていた。
「ええ、今年の秋に予定している写生会では、幼稚園で動物を描かせたいと思っておりまして、ぜひ伊織君のおうちにご協力を頂きたいと……」
「お安い御用ですよ!」母親は笑顔で意気込んだ。「うぢにはいっぱいいますからね、特別おとなしい心根の子引っ張ってきますから、子どもたちも安心して描けますよ」
「よろしくお願いします」
「伊織君、みんなには当日まで内緒にしててね。みんなをびっくりさせたいから」
「うん!」
伊織はその約束を守り切ったのである。同じ農家つながりで仲の良い大地にも、口が堅いというよりは口の利けない朱里にも、誰にも何も言わなかった。
そうして写生会当日を迎えたのである。
園児が教室で配られた画用紙片手に、ぞろぞろと園庭に集まってくる。
本日は快晴。秋の冴えわたる大空の下、園児たちはどうぶつどこ、などと言いながら滑り台の下を覗いてみたり、ゾウの乗りものに向かっておめだっぺか? と聞いてみたり一通り騒がしく過ごした。
そこに、砂埃を立てて一台の軽トラックがやってきた。荷台には檻が載せられており、そこはブルーシートで囲われている。
「ライオン来た!」と大地。
「ペンギン来た!」
「猫来た!」
好き勝手な喚声の中で、シートがひらりと取り払われた。
そこに現れたのは、一匹の豚だった。
「ぶただ!」子どもたちは手を叩いて飛び上がる。
伊織の家は農業と共に養豚も行っていた。
数十頭を飼育できる豚舎を有しており、市内でも有数の畜産農家であった。飼育している豚たちの中でもとりわけおとなしい性質の雌の豚を伊織の母は選んで、本日こうしてトラックの荷台に乗せて来たのである。
豚は檻を取り払われ、荷台から斜面を下って降りると、早速砂場の砂を鼻で掘り始めた。
大地は我先と豚に駆け寄った。「ぶた! かわいいべ!」
わあ、と歓声を上げながら子供たちも近寄ってくる。
「さあ、今日は皆さんのお絵描きのために、豚さんが伊織君のおうちから来てくれました。皆さん、好きなところに座って豚さんを描きましょう」
大地は早速豚の目の前に陣取る。鼻がひくひくと動いているのも、砂をほじくったために幾分鼻が汚れているのもよく見える。大地はうわあ、と嘆声を上げると笑顔で豚の絵を描き始めた。
伊織も早速「うちのぶただど?」と自慢しながら、大地の隣に陣取る。「でっけえべ?」
「でっけえし、かわいいな! 特にお鼻がかっけえべ! あど、おなかもまん丸くていいな!」
伊織は満足げに何度も頷いた。自分の家の豚を可愛いと思ってくれていることが、嬉しくてならない。
「今度うぢの豚小屋に遊びに来てくろよ! もっといっぺえいっぺえいっから!」
「行ぐ!」大地は即答する。今までにも何度か伊織の家に遊びに行ったことはある。
でもその時は母ちゃんと一緒だったし、豚舎までは行かなかった。
園児たちは豚を取り囲むようにして座り込み、画用紙にそれぞれの豚の絵を描いていく。
ーーぶうぶう
豚が鳴くと園児たちはきゃあ、と騒いだ。
「三匹の子豚の、何番目だべな?」
「でっけえからあんちゃんかな?」
「もっとでっけえぶた、いっかもしんねど!」
話題は昨日先生が読み聞かせてくれた絵本、『三匹の子豚』にも波及していく。
「わらのおうちはやめた方がいいど」
「ほだ、れんがが一番だ」
豚に進言する者も出る。
写生会は大盛況だった。
先生たちはサプライズ大成功、良かった良かったと、頷き合った。
しかし、そこに朱里の姿はなかった。
朱里はというと、園庭の一番端にある桜の樹の幹に隠れ、ぶるぶる震えながら顔を半分隠して遠目に豚と、それを取り巻く友人たちを眺めていた。
豚が恐ろしかった。
体がとてつもなく大きいし、ぶうぶう言っているし、鼻で土を掘っているし、とにかく全てが恐ろしかった。とてもではないが近寄れるものでは、ない。
朱里はぐす、と鼻を鳴らす。そして握り締めたために手汗で少々皴の寄った画用紙を見つめる。
このままでは何も描けないまま、写生会が終わってしまう。
ーーしゅりちゃんはどうして何も描いていないんですか? 先生はそう困った顔で言うだろう。
ーーせっかくぶたさんが来てくれたのに、描かないとだめでしょう。 先生はそう怒るかもしれない。
ーーぶたさんはこわくありません。『三匹の子豚』を昨日読んだでしょう? そう、読んだ。末の子豚は立派なおうちを作って、兄弟たちを守ったのだ。賢い。
でも、本物の豚は、怖い。
朱里はぎゅっと目を瞑る。
ああ、砂沼にいる猫さんたちだったら近寄れたのに。撫でれもしたのに。ぶたさんではだめだ。だって自分よりも大きい。ぶうぶうと大きな声で迫ってくるかもしれないし、あの大きな鼻で突き飛ばされてしまうかもしれない。
でも、絵を描かなきゃ。
豚を見るべく、えい、と勇気を振り絞って朱里は目を開けた。遠く園児たちの頭の向こうに見えるのは、ピンク色の背中だけだった。顔も、脚も、見えない。見えるのはこんもりとした背中だけ。朱里は涙目でピンク色のなだらかな曲線を画用紙に描いた。
写生会は午前中で終了した。豚は園児たちに手を振られ、再びトラックの荷台に乗って帰っていく。
朱里はほとほと疲れ果てたとでも言うように、ピンク色の丘陵にも見える奇妙な絵を裏返しにしてこっそり先生に渡して、教室へと戻った。
それで済むものだと思っていた。
もう豚とは無縁に過ごせるものだとばかり。
周りの子どもたちも、もう豚の話題を終え、それぞれお弁当を出して今日のおかずについての話題で盛り上がっていた。
写生会が終わり、家へ帰るなり、大地は幼稚園バッグを玄関先に放り投げて伊織の家へ行った。
大地の来訪を心待ちにしていた伊織は、早速自宅の道路を挟んで向かいにある豚舎へと連れていく。
「うぢにはな、ぶた五十匹もいんだど!」
「五十匹!」大地は讃嘆する。「すっげえ!」
「でっけえのも、ちっちぇえのもいっぱいいんだど!」
「見てえ見てえ!」
豚舎に近づくとぶうぶう、ぶうぶう、と豚の鳴き声が聞こえてくる。
うわあ、と言いながら大地は中へと駈込んだ。
すると左右に並んだ部屋にそれぞれたくさんの豚がいた。
部屋の隅に敷き詰められた藁に寝転んでいるものもいれば、餌箱に顔を突っ込んでいるのもいる。
伊織と大地の姿を見つけて何やらぶうぶう鳴いているのもいれば、部屋の中をどすどすと歩いているのもいる。
「すんげえ!」大地は目を輝かせて豚たちの姿を見つめた。「今日幼稚園さ来てたのよりでっけえやづいる!」
「ほだよ、母ちゃんがあんまでっかすぎんのは連れてぐの容易でねえがら、中ぐらいの連れてったんだ。こいつだべ」
そう言って伊織は奥へと大地を誘った。
そこにはたしかに見覚えのある、きれいな豚が、藁の上ですっくと立って伊織と大地たちを見つめていた。
「こんにぢは」大地は挨拶をする。
「こいづはな、母ちゃん豚なんだ。子どもの豚はこっちだべ」
そしてさらに隣の部屋へと連れていく。
「うわあ」大地は歓声を上げる。
十匹程いる子豚はどれも小さかった。ピンク色の鼻をひくひくさせながら、部屋を歩き回ったり、追いかけ合ったりしている。
「うわあ!」
大地は目を輝かせて木枠に張り付いた。
「かわいいいい!」
伊織はその様を見て、満面の笑みを浮かべる。「子豚めちゃくちゃかわいいんだど!」
そう言って伊織は木枠の上から手を伸ばし、手前にいた一匹の子豚を持ち上げる。
「ほれ、抱っこしてみるか?」
「うん!」
大地は胸に預けられた子豚をそっと両手で抱きしめた。手にはずしりとした重みを、じんわりとした温かさが直に伝わってくる。
「あったけえ。ほかほかだべ」
そう言って子豚の頭にほおずりする。子豚はじっと大地の腕の中に納まっていた。
「こら、とんでもねえかわいさだべ!」
大地は何度もほおずりをしながら、感嘆の声を上げた。
伊織は嬉しさに飛び跳ねて、「かわいいべ!」と叫んだ。
「伊織はいいな! 子豚と一緒にいれて!」
「うん!」そう言って伊織は少し考え込み、
「ほだ! おめにそいづくれてやっぺ」と言った。
大地は目を見開き、
「やったー! この子豚くれんのか?」そう言って今度は力強くぎゅっと抱きしめた。
「うん」伊織は大きく頷いた。「だって、うぢいっぺえいるもん! 父ちゃんと母ちゃんもきっといいよって言うべ!」
「いやった! いやった! おれの子豚だべ! おれの子豚、おれの子豚! 今日からまいんち一緒にお布団入ってねんこすべ! ご飯も一緒に食うべ!」大地は舞い上がる。
「うん! かわいがってくろ!」伊織は満足げに頷いた。
そうしてそのまま大地は子豚を抱きしめて帰宅した。
「ただいま!」
大地の声が暗い三和土に響く。
母親は夕飯作りの手を止めて、玄関に出向き、
「幼稚園さがら帰ってきてバッグさぶん投げで、どこさ行ってたんで? こっだに遅くなって……」と言い切らないうちに電気を点けると腰を抜かした。
「ななな、な、何だべそらー!」
「子豚だべ」
大地は笑顔で答えた。
ぶう、子豚も答えた。
「そ、そそそそ、そら、見ればわがる! ど、どど、どっから拾ってきたんだー!」
「拾ったんでねえど。伊織にもらった」
「は? い、伊織くんが豚? くれた?」
「ほだ」大地はよっこいせ、と上がり框に上がろうとして、母親に両肩を抑えられ止められる。「待て待て待て!」
大地は不審げに眉を顰め、
「ぶーこにおれの怪獣見せてやんだからどいてくろよ」
「ほっだごど言ってる場合であんめ!」母親は子豚を取り上げようとして、大地は抵抗する。「ぶーこはおれんだ!」
「何がぶーこだ! 返しにいぐど! ……ちょっと、父ちゃあん!」奥へと声をかける。
玄関での騒ぎを聞きつけて、何事かと居間から父ちゃんがやってくる。
「何してんで? ……ぶ、豚ー!」母ちゃん同様にたまげた。
どうにかこうにか母ちゃんは豚を大地から引き離し、大地の届かぬところまで高々と両手で持ち上げた。
「ぶうぶう!」何事かと豚が鳴く。
「ぶーこを返せ! おれのぶーこ!」大地はぴょんぴょん飛び跳ねて豚を取り戻そうとする。
慌てて父ちゃんも参戦する。母ちゃんから豚を受け取り、さらに高々と掲げた。
「大地、どっから連れてきたんだこいづ」大地によじ登らせそうになりながら、父は尋ねた。
「伊織にもらったんだよお!」
「文右エ門ちの倅だべ」母親がほとほと呆れ果てたとでも言うように呟く。
「おめ、この子豚ごどどうする気なんで?」父親が尋ねる。
「いっちょに遊んでいっちょに寝んだ!」
「餌はどうすんで?」
「おれのご飯あげる!」
「豚は人間の飯は食えねど?」
「じゃあ、買ってくる!」
「どこで売ってんで?」
「ジャスコ!」
「ジャスコに豚の餌はねえ!」
大地は肩を落とす。
「子豚を飼うにはちゃんと準備しねえどだいなんだ。伊織くんちだって立派な豚小屋あっからあんだけ飼えてんだど」
「じゃあ、うぢにも豚小屋作ってくれよう!」
はあ、と父は深々とため息をついて、
「ほっだらごど言ったって、ほれ明日作りましょうってわげにはいがねべ。うぢが完成すんのは何カ月もかかんだど」
「じゃあ、その間うぢでいっちょに暮らしたらいがべよ!」
「豚はみるみるえがくなっと! 父ちゃんよりずっとずっと重くなんだかんな。おめなんておっぺされ(注:押されて潰れ)ちまうど!」
「だいじだよ!」
「だいじなもんか! ほっだにえがくなっだら寝るとこもねえし食わせるのだって容易でねえ、ほっだのうぢではできね!」
そこまで言われてしまうとどうしたらよいのかわからなくなる。大地は飛び跳ねるのを止めた。目からは大粒の涙が零れ落ちる。もう言葉は出ない。
「今から父ちゃんと伊織くんちに豚返しにいぐど。おめも来い」
子豚を左手に抱え、泣きじゃくる大地を右手に引っ張り、父は伊織の家へ行った。もうすでに空には月が昇り、街の電燈がほつほつと人気のない道を照らしていた。
「こんばんは!」
ガラガラと玄関を開けると、すぐに伊織の母が顔を出した。
「あれ、平野さん……ぶ、豚!」
父は渋い顔をして子豚を丁重に伊織の母に手渡した。
「申し訳ねえです。うぢの大地が吉田さんぢの豚さ連れてきちまいました」
「あれあれ」預けられた母の腕の中で豚が身をよじる。
そこに伊織もやってきた。「あ、大地! 子豚いらねぐなっだのが?」
大地は泣きながら首を大きく横に振る。
「おめが、大地くんに豚くれたのが?」母は尋ねる。
「ほだ。だってうぢにはいっぺえいっからよ」
「いっぺいたってだいだっぺよ」呆れたように伊織の母は言った。「大地君が持ってったんでねえですよ。うぢの倅が迷惑しちまって、すみませんでした」
「いえいえ、うぢの倅がなーんも考えねで豚さ連れてきぢまって、本当に申し訳ねえ限りです」
しゃくりあげながら「お、お、おれの、……ぶーこ」大地は呟く。
「おめのでねえ」大地の父はぴしゃりと言い放った。
伊織は難し気な顔をして、豚と大地を交互に見詰めた。
「大地、豚ごど可愛がってたんだど? なあ?」
大地は大きく頷く。
「ほっだごど言ったって大地くんちは豚小屋もねえし、餌もねえし、豚はえっがくなるし、普通のおうちじゃあ飼えねえのわがっぺよ?」伊織の母は息子に向かって情けない声を放った。
「だって」伊織は口を尖らせる。「大地、抱っこして可愛がってだもの」
「おめ、いっぐら可愛がってもらっだって、豚は、もう、すーぐに体重100kg超えんだど。どうやったって普通のおうちじゃ飼えねべ」
「100kg……」大地は目を丸くする。
「ほだよ、大地くん。豚はすーぐえがくなっで、100kgより重くなんの。おうちで飼ったらおうちぶっ壊れっちまうど」
大地は苦しく頷いた。
「……ぶーこ、また抱っこしにきてもいい?」
伊織の母はしゃがみ込んで微笑んだ。
「当たり前だべ。いづでもおいで」
そうして差し出されたぶーこを、大地は愛おし気に抱きしめた。
ーー翌日のこと。
幼稚園の廊下にずらりと張り出された絵を見て、お迎えに来た保護者たちは挙って讃嘆してみせることとなった。
「あんれ! 上手に描けたでねえの」
「かわいい豚さんだごど」
「伊織くんちから連れてきてもらって、いがっだなあ」
そんな声が飛び交う中、朱里の母親も笑顔で我が娘の絵を探し、そしてピンク色の見様によってはファンタジックにさえ見える丘陵の絵に目を留めるとしばし硬直した。
顔もなければしっぽもない。耳もなければ手足もない。あるのはなだらかな曲線一本である。
朱里は母の視線に気づき、恥ずかしそうに俯いた。
「ずいぶんでっかく描いたでねえの、飛び出してきそうでねえが!」大地の母は息子の絵を見て笑い出した。
「だって、おれぶたの一番前で描いたんだもん! よぐよぐ見て描いたんだど!」
「あれ、伊織くんのお母さん!」大地の母は伊織の母を見つけて声をかけた。「昨日は本当にすみませんでした。もう、うぢの倅がとんでもねえごどしでかしまして……」
「いえいえ、こぢらこそ、うぢの倅が迷惑かけて、平野さんもさぞかしたまげだでしょう」
「たまげるにはたまげましたけど、本当に大切な豚だのにほいほ連れてきぢまって、もう、考えなしにも程があるってもんですよ」
「いいんですよ、……大地くん、いづでもまた子豚に会いにきてくろな」
「うん!」
「ありがとうございました。……幼稚園に豚さ連れてくんのも大変だったでしょう」
「ほっだごどねえんですよ、おっとなしい気質の豚連れてきたから。それよりみんな子どもたちが喜んでくれて、いがっだですよ。こっだにうぢの豚さ上手に描いてくれて……」
それを耳にした朱里は肩を縮こませた。
「あれ、朱里ちゃん……?」
伊織の母は朱里の絵を見て、それから俯いている朱里を見た。
「しゅ、朱里、……これ、豚さん描いたんか?」朱里の母は恐る恐る尋ねた。「な、なんだが、ずいぶん色々とこっ足んねえようだけど……」
「もしかして朱里ちゃん」伊織の母は朱里の前にしゃがみ込んで深刻そうに言った。「豚さんのごど、ちゃんと見れねがったんでねえのが?」
朱里は自分の意志とはいえそれはその通りだと思いなし、小さく頷いた。
「やっぱり!」伊織の母は立ち上がって、演説さながら朱里の母に言った。「朱里ちゃんは、ほれ、おどなしくって遠慮がちだから、他の子どもさんが囲んでっとこに行げなかったんでしょうよ、かわいそうに。ほっだら、うぢさ来で、しっかり豚ごど見てもう一回ちゃんと絵描いたらいいべ」
朱里は目を見開いて顔を上げた。
「な、そしたら周りに遠慮すっこどもねえべ」伊織の母は我ながら最善のアイディアだと言わんばかりに、満面の笑みで大きく頷いた。
「おれも、またぶーこに会いに行ぎてえ!」
「いいどいいど! じゃあ、朱里ちゃんと大地くんで今度の日曜日にでもうぢさ来たらいがっぺ」
「あれ、いいんですか、迷惑かけてばっかしで……次から次へど……」大地の母が恐縮する。
「ほっだごどねえですよ、伊織も友達来てくれっど喜びますから、な」
「うん!」伊織が笑顔で頷く。
「ありがとうございます」なんと、朱里の母は深々と頭を下げる始末。朱里はわなわなと口元を震わせた。
まったくもって、とんでもないことになってしまった。
ようやく豚から逃れられたと思ったら、今度は真正面から見るはめになってしまった。
朱里は泣きたかった。できることなら大声で泣き喚きたかった。ーーでも、できない。
朱里は暗澹たる面持ちで数日を過ごし、遂に日曜日を迎えることになった。
母は、引っ込み思案の朱里が友達に自宅に誘われ、普段接することのできない動物と邂逅できるとなって浮き足立っている。
一方朱里はその夜、家の前を無数の豚が行列を成している夢を見て魘された。怖くて怖くて、家の中から震え上がりながら豚の行列を眺めていたのだ。
朝起きて、それが間もなく現実化するのだ、となると一気に気分がどんよりと重くなった。
翌朝、大地が迎えに来る。
母は画用紙とクレヨンの入った手提げ袋を朱里に持たせた。
「じゃ、行ってんべ」
大地は、歩きながら歌い出す。
ぶたぶた、でっかくなる、ぶたぶた、いまだけこぶた、ぶーこぶーこ、ほかほか、ふわふわ、元気かなー、と妙なオリジナルソングを歌いながら伊織の家へと歩いた。
「こんにぢは!」おつかいでも発揮される大地の大きなあいさつが披露される。
すぐさま笑顔の伊織が飛び出してきた。
「よぐ来たな! 大地! 朱里! 豚小屋こっちだど!」
大地が笑顔でついていく。
庭を出ると道路を挟んですぐ正面に、豚舎はあった。
ぶうぶう、ぶうぶう、声が聞こえてくる。
ああ、ついに豚とまた対面だ。
朱里はこんなことになるのなら、写生会できちんと豚の全身を描いていればよかったと、後悔の念で頭がくらくらする程だった。
豚舎の前まで来ると、区分けされた部屋にそれぞれたくさんの豚がいる。
「ぶた! こんにぢは! また来たど!」大地ははしゃいでいる。
朱里は身を固くしながら後に続く。
「こっちは豚の父ちゃん母ちゃんたち。ぶーこはこっちだべ」
伊織は先頭に立って二人を手招きした。朱里は極力豚を視界に入れぬよう、足元だけを見ながら続いた。
「ぶーこ!」大地の喚声が上がる。
釣られて思わず朱里も顔を上げた。
するとそこにいるのは、先日見たのとは全く違って小さな愛らしい豚だったので、朱里はぽかんと口を開けてその姿に見入った。
大地はすぐさま子豚を抱きしめて、頬ずりする。
「ぶーこ、元気だったか?」
「ぶーこ元気だべ」伊織は自慢げに言った。「飯も食ってる、うんこもしてる」
「ほが! いがったべ!」
「しゅり、なでてみろ」大地はそう言って、腕の中の子豚を差し出した。
朱里は目を瞬かせる。
「ぷにぷにしてあったけえど」
子豚はじっと大地の腕の中で納まっていた。
朱里は恐る恐る人差し指で、子豚の額に触れる。
その瞬間、「ぶう!」
子豚の鳴き声にびくり、と引き下がる。
「あっは! 大事だべ。こいづはまだ赤ちゃんだかんな。おめのごど噛みついたりしねえ」
大地の声に背を押され、再び恐る恐る朱里は人差し指を差し出した。
子豚は鼻を持ち上げて朱里の指に興味を示す。
「お鼻かわいいどな!」
「おなかもぷりぷりしてっと」伊織が言った。
朱里はそろそろと指をお腹まで持ってくる。
そこは温かく生き物の感じがした。
朱里の口の端がほんの少しだけ上がった。
「ほだ、おめ絵描けな。おれ、こうして持っててやっから」
朱里は笑顔で頷いた。
「あら、いい絵でねえの! 今度はちゃんと豚さんのお顔もおなかもあっぺな!」
朱里の母は夕飯をテーブルに並べる手を止めて、朱里が持ち帰って来た画用紙を見て讃嘆した。
今度は豚の顔もお腹も、手も脚もあった。大地が抱っこして見せてくれたそのままを真正面から描いたのである。
朱里も笑顔で頷く。あったかいおでこ、柔らかいお腹、全部存分に描けた。
「今度はちゃんと見えたが、いがっだいがっだ」
そこに帰って来た祖父が秘書を携えて入ってくる。
「あれ、じいちゃんお帰りなさい」
「ただいま。……あんれ、何だべこら」
そう言って朱里の絵を食い入るように見つめた。
「今日、文エ門ぢで朱里が豚見せてもらって描いたんだど」
「ほお」そう言って祖父は唸った。朱里は緊張しながら祖父の顔を仰ぎ見る。
「うーむ、こらなかなかの出来だべ。下妻の豊かさを象徴する、立派な絵だべ。豚のお腹が真ん中にきてるところが、ながなが見らんねえ構図だいな。……ほだ! こら飾らせてもらうべ!」
朱里は目を瞬かせた。
「これ、……これ片付けっちまうべ。ほんでこの絵さ飾るべ」
そう言って祖父が指さしたのは、わざわざ外商から買い付けた、著名な西洋の画家の絵である。
「え、じいちゃんこれ、片付けっちまうのが?」さすがの母も恐れ入る。
「構わめ。もう見飽きた。朱里の絵の方がよっぽどいい出来だべ。今、おれはな、農業と食料にづいで議員らど議論を戦わせてっとこなんだ。これからの日本は農業と食料が担ってるといっでも過言ではねえ! ……おい、これ取っ代えてくろ」
「はい」秘書が言われるがまま、薔薇の花束を描いた、長らく鈴木家のリビングを華やかに飾って来たその絵を外す。「額縁はこのままでよろしいでしょうか?」
「ほだいな。とりあえずはいいべ。今度、外商にこの豚に似合う額持って来させべ」
黄金色の額縁に朱里の描いた豚が入る。
朱里は顔を赤らめて俯いた。
「ううむ、つくづくいい絵だべ。茨城の豊かさがここに全部表現されてる」
朱里は本当かと祖父の顔を見上げる。
「うん、立派だべ」
新しく張り替えられた絵画を見つめ、祖父は満足げに頷く。朱里も改めて豪華な額縁に入った、ピンク色の豚の絵を見つめた。
大地に抱っこしてもらって触った、あの温かさと柔らかさが蘇ってきた。
「大地、おめにプレゼント買って来たど」
そう言って大地の祖母がリボンの付いた紙袋を差し出したのは、子豚事件の翌週のことだった。
「ばあちゃん、ありがとう!」
大地は笑顔で受け取り、びりびりと袋を破く。そこから出てきたのは、子豚のぬいぐるみだった。
「おめ、豚こと好きだって父ちゃん、母ちゃんから聞いてなあ。本物はくれられねえから、これで我慢しろな」
「うわ、ぶーこだべ!」
大地は目を丸くする。
「おめがほっだに豚ごど好きなの知らねぐっで、悪がっだなあ。ほっだに豚ごど好きならばあちゃんいっくらでも豚小屋作ってやっだのになあ」
「誰がやんだ」農業新聞を読んでいた父が眉根を寄せて言った。
「おめだべ」
「おれは米と梨で手一杯だべよ」父は情けない声を出す。
「ああいな父ちゃんだからしゃあんめ。な、この豚で我慢な」
「ありがとう!」
大地はぬいぐるみを抱きしめた。
でも、ぬいぐるみは温かくなかった。柔らかいけれど柔らかすぎた。ぶう、と鳴くこともなかった。
でも、本物のぶーこと暮らすことはできない。でかくなりすぎるし餌は買えないし、父ちゃんも母ちゃんもだめの一点張りだ。
だとしたらこのぬいぐるみぶーこと暮らすしかない。
可愛がって可愛がって可愛がり尽したら、もしかすると、ぬいぐるみぶーこが本物ぶーこになるかもしれない。
そう思って改めてぬいぐるみを凝視してみると、本物ぶーこによく似ている気がした。耳がぴんとしているところも、鼻が大きくて上向きなところも、尻尾が丸まっているところも。
可愛がって可愛がって可愛がり尽したら、神様が本物にしてあげようと思うかもしれない。そうしたら、もう父ちゃんも母ちゃんもだめとは言えないだろう。
大地はそれからぬいぐるみぶーこと四六時中一緒にいることにした。
ご飯を食べる時も、遊ぶ時も、寝る時も、常に一緒である。
ぶーこに自分と同じご飯を食べさせようとして、口に米粒をくっつけて母ちゃんに叱られる。庭の柿の木に一緒に登って一緒に落ちて汚れ、砂沼に一緒に釣りに連れていって一緒に水浸しになった。ブランコにも一緒に乗って一緒に飛び降りたら遠くに飛んだ。自転車にも一緒に乗って一緒に転んで汚れた。汚れ、破れてぬいぐるみぶーこは何度もばあちゃんの手によって洗われて縫われた。だんだん萎んでくるとばあちゃんが今度は綿を詰めてくれた。そうしてぶーこはいつまでもぶーこのままだった。
「なあ、こいづ、可愛がってたら本物のぶーこになれねえかな?」
朱里と遊んでいた時、いつかそう聞いてみたことがあった。
朱里は小さく首を傾げただけだった。
「学校さ行ぐようになってもずっとずっと一緒にいたら、本物に、なれねえがな?」
朱里には大切にしている七人のこびとのぬいぐるみがあった。これは自分がしゅり雪姫になるための大切な相棒であって、家にいる時はどこにでも連れ回している。でも、本物になるのか考えてみたことはなかった。ぬいぐるみを可愛がったら本物になる、そんなことは今まで聞いたことがなかったから。
大地は本物にしたくてぶーこをいつも遊びに連れてきているのだろうか。朱里はよく考えてみる。そうではない気がする。大地はぶーこがただ好きだから一緒にいるのであって、本物になれば嬉しいけれど本物にならなくても、好きな気持ちはきっと変わらない。
朱里は大地が小脇に抱えているぶーこをそっと引っ張って、抱きしめてみた。
少し温かい気がした。
ーー本物になりかけているのかもしれない
朱里はそう思って笑顔で頷いた。
ーーそれから二十年後。
「どこさ、いったっけがなあ。昔使ってたスノボ板。高校のスキー合宿ん時買ったんだけどなあ。……ん? 何だべ、こら」
実家の引き出しの奥に、何やらしまい込まれた古びた箱があった。蓋を開けてみるとおもちゃ箱である。
「懐かしいなあ、こら!」
大地は笑顔になって怪獣だの、小さな木琴だの、ブロックで作ったロケットだのを次々に引っ張り出してみた。
そこに、くたびれた子豚のぬいぐるみが出てきた。
大地は一瞬体を硬直させ、「……ぶーこ!」思わず感嘆の声を上げる。
大地の脳裏に、伊織の家から子豚を連れ帰ってきた記憶と、その後案の定飼えずに父ちゃん母ちゃんに叱られた記憶とが一挙に押し寄せた。それからばあちゃんがこの豚のぬいぐるみを買って来てくれて、どこへ行くにも一緒だったこと。終いにはボロボロになりすぎて、洗われて縫われてそれでもぶーこと名付けて可愛がっていた。
「ぶーこ、おめ、ここにいたのが!」
何事かと、リビングで大地の両親と夕飯後の茶を飲んでいた朱里がやってくる。
「おお! おめ、これ覚えてっか? ぶーこ!」大地はそう言って豚のぬいぐるみを朱里の目の前に突き出した。
朱里は一瞬考え込むような表情をしたが、すぐに目を丸くする。
「幼稚園の頃だっぺ、あっぢこっぢ連れ回してたぶーこだよ! ここにいたんだど!」
朱里はみるみる笑顔になり、手を差し伸べる。記憶よりも随分小さく手に収まった。そして愛おし気に撫でる。
「伊織んちの豚小屋さ遊び行ってよお、おめも、絵描きに行ったっぺな」
朱里は何度も頷く。ぶーこを大地に戻した。
「その伊織らと高校ん時のメンツで来月スノボ行ぐのに板探してだらよ、ぶーこが見つかんだもんよ! こいづもスノボ連れてってやっぺかな」
朱里は腹を抱えて笑い出す。
そしてスマホにーー連れていったら? いつも一緒だった、と打ち込んで見せた。
「ほっだいな! ……いんや、懐かしいな!」
そう言ってぶーこの瞳をじっと覗き込む。そこには二十年前と変わらぬ、地元と友を愛する大地の笑顔と、そんな大地を慕う朱里の穏やかな笑顔があった。




