僕の指定席を十分貸します。その代わり、面接官をやってください
僕の指定席で、知らない男があんパンを食べていた。
袋の底をきれいに折り、膝の上で、次のひと口を待っている。落ち着き方だけなら、この車両の大家だった。
「あの。六番A、ですよね」
「そうだよ」
「僕の席なんですけど」
「……そうか」
男はあんパンを袋に戻した。
そこまではよかった。そのあと、動かなかった。
窓の外では、ホームの屋根から雨水が滝になっていた。列車はまだ発車していない。遅れているという放送は、僕が乗ってから二回あった。
通路には立って待つ人がいて、僕の肩の鞄にも、ときどき肘が当たった。
「次の駅まででいいんだ」
「僕も、次の駅まで座りたいです」
「その次は?」
「終点までです」
「長いな」
「その分、買ったので」
ポケットから切符を出す手が震えた。怒っているせいもあるけれど、駅まで走ってきたせいが大きい。
僕は二十五歳で、明日の朝、地元の食品会社の採用面接を受ける。会社を辞めてから四か月、今日着ている紺のスーツだけが、順調に仕事をしていた。僕のかわりに、何社もの椅子に座っている。
今夜は実家に帰って、何も考えず寝たかった。
そのために買った座席に、他人の体温が蓄積されていた。
「車掌さんを呼びます」
「うん」
呼べるものなら、と言われた気がした。
僕は近くの人に断ってデッキへ出た。車掌の姿は見えない。通りかかった清掃の人に尋ねると、いまは別の車両にいると思う、と言われた。
急いでいることを伝え、見かけたら声をかけてほしいと頼んだ。
席に戻ると、男はもう一度あんパンを出していた。
「呼んでいます」
「そうか」
「立ってもらっていいですか」
男は食べかけをしまい、今度は腰を浮かせた。
足元の黒いスーツケースを引き出そうとして、止まる。ケースと自分の膝を見比べ、息を吐いた。
「……すまん。起き上がるとき、これを少し押さえてもらえるか」
最初にそう言えばいいのに。
口まで出た言葉を飲み込み、持ち手を押さえた。男は肘掛けに両手をつき、ゆっくり立った。
座面が空いた。
それだけのことなのに、胸のあたりがすっと軽くなった。
「腰ですか」
「今日は、ちょっとな。見つかるまで借りようと思った。悪かった」
「見つかるまで、は、借りるって言わないです」
「……そうだな」
僕は鞄を座面に置いた。男はケースを引いて通路へ出ようとしたが、後ろから乗ってきた人に挟まれ、窓際へ戻った。
白く折った紙が、上着の胸ポケットから落ちた。
拾ったとき、『履歴書』の文字が見えた。
その下は見ないよう、すぐに裏返した。
「どうも」
男は受け取り、今度は上着の内側にしまった。
僕は鞄を膝へ移し、座った。男は座席の端につかまり、通路が空くのを待っている。
紙の見慣れた折り目が、目に残った。
「……僕、明日なんです」
「何が」
「面接」
言わなければよかった、と思った。
慰めてほしいわけじゃない。さっきまで僕の席に座っていた人に、なぜ自分のことを話しているのか。
「そうか」
男はまた、それだけ言った。
今度のは、腹が立たなかった。
列車が動き出した。ホームの時計が窓の後ろへ流れていく。
男がつかんでいた座席の端に、指の跡のようなしわが寄った。
「次の駅まで、何分でしたっけ」
「放送では二十分くらいって」
「じゃあ、十分だけ代わります」
僕は言ってから、付け足した。
「あとで『もう十分』は、なしですから」
「いいのか」
「その代わり、面接の練習に付き合ってください」
男は目を丸くした。
「相手、俺でいいのか」
「知らない人に話す練習なので」
「知らない人なら、まあ、適任だな」
僕は立ち、男が座るまでケースを押さえた。鞄は僕が肩にかけ直す。
スマートフォンに十分のタイマーを入れた。男にも、画面を見せた。
「厳しい契約だな」
「前払いで席を渡してますから」
男は咳払いをした。
「では。お名前を」
「田村拓真です。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
「時間をもらってるのは俺だがな」
「そこは進めてください」
隣の席の女性が、読んでいた本を少し持ち上げた。顔が隠れた。
「前の会社をお辞めになった理由は」
急に、車内の空気が薄くなった。
何度も練習した。部屋でも、風呂でも、駅へ向かう道でも。前向きな理由だけを残すように、文章を磨いた。
「これまでの経験を、より幅広い環境で活かしたいと考えまして」
「ふうん」
男は黙った。
「……何か、続けてもらえますか」
「いや、何を聞けばいいか分からん」
「面接官のつもりで」
「面接官なんか、やったことない」
僕は男を見た。男も僕を見た。
契約前に確認すべき事項が、かなり抜けていた。
「じゃあ、今の答えを聞いて、気になったことを」
「何をやってた人なのかな、とは思った」
僕は肩の鞄を掛け直した。
「小さい会社で、注文の管理とか、問い合わせの対応とか。新しいシステムを入れる担当もしました」
「大変だった?」
「……はい。わからないことを、わかっている顔で説明するのが」
言ってから、口を閉じた。
用意した回答には、入っていない文だった。
「それ、俺も苦手だ」
男は上着の内側を押さえた。
「今日な、パソコンはできますかって聞かれて。できますって言ったんだ。電源は、入れられるから」
僕は思わず男を見た。
「そのあと、何ができますかって聞かれた」
「それは……聞かれますね」
「そこで『電源』って言えりゃよかったんだろうな」
男は鼻の下をこすった。
僕は笑いかけて、やめた。自分が言う『幅広い環境』と、そんなに違わなかった。
「……僕も、これまでの経験って、何なんでしょうね」
「それを俺に聞かれてもな」
「面接の練習ですから」
「俺、面接官じゃないから」
隣の女性の本が、もう一度、少し上がった。
僕は今度は、前の会社で何をしたかを話した。途中で、順番が分からなくなった。男が、そこで誰が困ったんだ、と聞いたので、問い合わせの電話を受けた同僚の話をした。
男には通じない言葉が、いくつかあった。
言い直しているうちに、覚えてきた立派な文章は、ほとんど残らなくなった。
スマートフォンが、上着の中で震えた。
「あ。時間です」
「早いな」
「契約です」
男はうなずき、ケースへ手を伸ばした。
僕が持ち手を押さえると、さっきよりゆっくり立ち、通路側へ出た。
「ありがとうございました」
僕が座って言うと、男も頭を下げた。
「こっちこそ。最初から、聞けばよかった」
「はい」
そこは、はい、と言った。
少しして車掌が来た。男は僕が説明するより先に、自分がここへ勝手に座ったことを話した。
車掌は二人の切符を確かめ、男に、次の駅で降りるまで通路をふさがない位置で待ってほしいと伝えた。男はケースを引き、車掌と一緒にデッキへ向かった。
僕の席は、そのあとずっと僕のものだった。
次の駅に着く前、僕は肩から外した鞄の底を探った。
買っておいたあんパンが出てきた。
さっき男が食べていたのを見てから、自分も持っていることを、ずっと忘れていた。
降りる人の列に、黒いケースが見えた。
「あの」
男が振り返った。
「次、聞かれたら。電源を入れて、そのあと何をやっているか、そのまま言えばいいと思います」
「ゲームだな」
「……そこから、考えましょう」
男は初めて、歯を見せて笑った。
列が動くと、片手を上げ、ドアの向こうへ消えた。
僕は窓際へ深く座り直した。
スマートフォンの面接メモを開く。『より幅広い環境』を消し、今日話した同僚の名前を書いた。
その下に、『わからないことは、わからないと言う』。
座れているのに、まだ足はだるかった。面接がうまくいく気も、特にしなかった。
あんパンの袋を開けると、隣の女性が、本を膝に置いた。
「すみません」
「はい」
「これから、車内で模擬面接をするときは、もう少し小さな声で」
僕はパンを袋へ戻し、背筋を伸ばした。
「大変申し訳ございませんでした」
そこだけは、練習しなくても、すらすら出た。




