第7話 恨み
「何故彼女が。」
「澤さんが来る前に最後に来たのはこの中山さんということは、犯人は彼女ってことよね。」
茶道部部長の野々宮定実と副部長の高野順子は言った。
加奈子とあかりは先日の一件から中山伊吹に対して苦手意識を持っている。特にあかりの表情はどんどん青ざめていった。
香織は名簿を眺めながらうーんと唸っていた。
「香織は何にそんな疑問を持っているの?」
由梨乃の問いに香織は眉間に皺を寄せながら言った。
「状況的には確かに中山さんが犯人だろうけど、一つ疑問があるんだよね。」
「え?」
香織は茶室の花瓶を指さした。
「彼女が犯人だった場合、何故花瓶からこぼれたであろう水が今濡れたような状態なのかということ。」
四月とはいえ、そこそこ暖かい陽気である。花瓶は高さ10cm程の細長く小降りのものだ。水がそんなに入るものではないが、仮に伊吹が昼休みにこの茶室を荒らしたとしても蒸発し、床に濡れた後が残っているくらいだろう。水たまりとしていかにも今こぼした状態として残っているのは不自然だった。
そうこうしていると見学や体験希望の生徒がちらほら来始めたが、茶室が仕える状況では無い為、今日は急遽中止した。副部長の順子は先程名簿を取りに行った時点で顧問の清岡先生に状況説明と今日の部活の中止を報告していた。
部員達で部活見学の生徒には諸事情で中止と伝え、謝罪していた。
その集団の中に伊吹がいるのを加奈子が見つけた。
彼女は逃げることなく加奈子の目をじっと睨んでいた。
由梨乃は加奈子の様子を察し止めようとしたが、既に彼女は伊吹の元へ歩き始めていた。
「中山さん、ちょっと話があるのですが。」
「何かしら。」
茶室周辺は茶道部員と香織、伊吹しかいなくなっていた。
「茶室が荒らされていたのですが、何か思い当たることはありませんか。」
加奈子が問いただす。
後方では他の部員の後ろにあかりが震えて見ていた。
「何故そんなことを私に?」
「あなたが最後にこの部屋に来たからです。昼休み、何故茶室にいらっしゃったんですか。」
普段冷静な加奈子は、いつになく苛立っている。
「昨日大事なものを落としてしまって。ここに落としてしまったのではないかと思い、探しに来ただけですけど。」
加奈子が相手だからか、伊吹は上から目線で話す。
「それより何なの。部員の皆さんで私一人相手に。まさか茶室を荒らしたのが私だとでも言いたげね。」
「その通りです。あなた以外考えられないんですよ。」
まだ何もわかっていない状況でいきなり息吹を犯人として話し始めてしまった加奈子を、周囲はどう止めようか思案していた。
「証拠はあるのかしら。間違っていたら名誉棄損であなたを訴えますけど。」
「ではなぜ、昨日に引き続き今日もこちらにいらしたんですか。」
「部員の方に私の探し物を見つけたらお知らせいただこうかと思いまして。」
荒れた茶室を調べていた香織も顔を出して様子を見始めた。
「きちんと鍵はかけていたのかしら。部外者の私ではなく、まず管理体制の問題ではなくて。それに、疑うなら発見者が先決だと思いますけど。」
伊吹は部員の後ろで怯えるあかりを見た。
「誰が発見者かご存知なんですか。」
「いいえ。別に。でも明らかに様子がおかしい方が一人いらっしゃるじゃない。その方が怪しく見えるのは自然なのでは。」
伊吹は鼻で笑った。
すると様子を見ていた香織がやっと口を開いた。
「証拠ならありますよ。」
香織が伊吹に茶室の様子を見せる。
由梨乃や加奈子、あかり、定美、順子達も見守る中、香織は説明を始めた。
「あなたが昼休みにこの茶室を荒らした時、花が生けてあったと思いますが、花瓶は右に倒れています。掛け軸なども全て。通常右利きであれば左側に倒れているはずです。」
「たまたまではなくて。今時左利きなんて珍しくはないでしょう。」
「私はまだ左利きなんて言ってませんよ。」
「そ、それが何よ。」
「この茶室を借りる際には、職員室から鍵を借りる必要があります。その時借りた本人の名前を書きますが、今日は朝に定美先輩、放課後の今の時間にあかりさん、そして昼休みに中山さん、あなたが借りに来ています。この部にはたまたま左利きの部員はいないんです。あなたは元左利きの両利きなのではないですか。」
「それってどういうこと?」
定美と順子が香織に尋ねた。
「以前あかりさんを平手打ちした時、あなたは左手を使っていました。右利きなら、叩く時相手の左側になるはずです。そして今回の茶室荒らしでも左手で行っているように見えます。ですがあなたは昨日の作法の時は右手で行っていました。あなたは元々左利きで、右利きに強制されるなどして両利きになったのではないですか。」
「だから何よ。」
伊吹はへの字に口を曲げている。
そこへ由梨乃が口を開いた。
「でもさっき香織が気になっていた花瓶のことはどうなの?」
「そ、そうよ。あの花瓶、まだ濡れて今倒したという感じじゃない。私が仮に昼休みにこの茶室を荒らしたのなら、何故まだあんなに水たまりができているのかしら。」
「それは、氷を使ったのではないですか。」
伊吹ははっとした顔をした。
「いかにも今零れたように水溜まりができるように、氷を花瓶の中や周囲に置いたのではないですか。そうすれば時間と共に溶け、水になる。量は発見時の時間に合わせて調整でもしたのでしょう。ある程度の量でどうにか見せることは可能でしょうし。大きさも製氷機で作る大きさくらいのもの数個なら、今の時期なら数時間で液体になるでしょうから。」
氷なら、水筒にでも入れて来れば用意はできる。
部員達は香織の説明に納得していた。
「中山さん、何故こんなことを。」
加奈子が伊吹に尋ねた。
伊吹は拳を震わせて言った。
「あんた達に私のことをとやかく言われる筋合いはないわ。立場をわきまえない態度を取った人間を咎めて何が悪いの!ただの一般人が、私のような名家の人間と同じ環境にいること自体がおかしいのに!!」
「ここは学校よ。立場以前に、皆同じ一生徒として過ごす場なんだから、そんなこといちいち気にしてなんかいないわ。」
思わず反論する部員達だったが、彼女は声を荒げた。
「そんなことばかり言って、『一般生』なんて呼び方をしている時点で、自分達だって家柄や立場を気にしているくせに。家柄で人を見て何が悪いの?あなた達だってそうでしょ。この学園はそんな人間の集まりじゃない。家柄、血統、これがすべてよ。そんなものを持っていない人間は、上の者の言うことを聞いて這いずり回っていればいいのよ!」
「あかりさんのことは、この間はたいただけじゃすまないってことですか。」
「当然でしょ。私や家の名誉に関わるのよ。あれぐらいで済むと思って。」
あかりは涙が零れ、加奈子は今にも殴りかかりそうな勢いだ。
部員達も伊吹の言葉に動揺と怒りが込み上げていた。
「それはただの復讐では。」
一触即発のような状況で、香織は静かに言った。
「あなたが家柄を重んじているのはよくわかりましたが、それはただの傲慢です。あなたがその立場をそれ相応に見て欲しいというのなら、もっと節度ある態度を取るべきかと思います。」
「誰に物を言っているの?あなたも『一般生』同様でしょ。私によくそんなことを言えるわね。櫻井さんの後ろ盾が無かったら無価値のくせに。」
「ちょっと中山さん!」
聞き捨てならない言葉にとうとう由梨乃が口を出そうとするも、香織がそれを制止する。
「ええ。私は由梨乃お嬢様の付き人ですから、あなたにこうして物言うことは失礼になるでしょうね。」
怒り狂った伊吹は、香織の右頬に向けて左手を振り上げた。香織は左手でそれを掴んだ。
「あなたの振り上げた手を止めたことも。」
香織は伊吹の左手を下ろし離した。
「家柄や血統や立場で人を見たところで、あなた自身をきちんと見てくれる人はいますか?」
伊吹は黙ったまま香織を鋭く睨みつけていた。
「人は生まれながらに決まった家柄や立場があるでしょう。でも、後からそれらを得る人もいます。そしてそれを活かすか壊すかは自分次第です。あなたはどちらになるでしょうか。」
その後、伊吹は足早に茶室を出て行った。
遅れて登場した顧問の清岡先生は、部室の状況を見て卒倒しそうになっていた。部長の定美と先日の一件の当事者である加奈子とあかり、目撃者である由梨乃が説明を行い、それ以外は副部長の順子が中心となって茶室を片付けた。
あかりが茶道部員であり、いつも部活の時間に鍵を借りに来ることを知ったのは、偶然だったのかもしれない。いや、もしかしたらあの一件以来、ずっと彼女の行動を監視して得た情報だったのかもしれない。そう香織は思ったが、誰もそのことに関して言わなかったので敢えて口には出さなかった。
伊吹が落としたと言う大事なものというのは見つからず、香織達はただのはったりだったのではないかと思った。
彼女の言動は以前から問題視されていたらしいが、旧家ということから迂闊に踏み込めなかったらしい。しかし今回の一件で彼女の処遇については職員会議で決めることになった。
翌日、茶道部での一件を加奈子とあかりから聞いた麗華は、登校早々に香織と由梨乃を見つけると言った。
「昨日は加奈子さんとあかりさんがお世話になったそうね。お礼を申し上げますわ。」
照れ臭かったのか彼女はすぐ立ち去った。
その数日後、クラスメイトの千佳達から、伊吹が転校したことを聞いた。
「元々転校することが決まっていたみたいだけど、まああんな事件があった後だし、あれから学校には来ていなかったみたいよ。」
香織はいつも通り無表情で彼女達の話を聞きながら持ってきた教科書を机に仕舞っていた。
「でも何であんなに家柄とかを気にしていたのかしら。」
「どうやら異母兄弟との後継者問題があったみたい。」
「異母兄弟?」
「中山さんは本妻の子だそうだけど、男子の異母兄弟がいたみたい。要は妾の子っていうやつ。男子という理由で、彼女を差し置いて後継ぎとしてどうかという大人達の争いがあったみたいよ。」
「そりゃあひねくれるのも当然よね。今時男子優先というのもおかしな話だけど。」
「まあ家のことなんてその家でしかわからないことだから。」
茶道部にやってきたのは、四名家の令嬢である由梨乃と交流を持ちたかったのだろう。次期後継者となるべく、彼女の強みとして名家とのつながりが欲しかった為と思われる。
「それより香織、中山さんから随分と酷いことを言われたと聞いたけど大丈夫なの?」
心配そうにはるひに聞かれた香織だったが、何のことだかわからなかった。
「家柄がどうとか、櫻井家の後ろ盾が無かったら無価値とか言われたって聞いたわよ。まあよく言われていることではあるだろうけど。」
「ああ。まあ櫻井家の庇護を受けているのは事実だから。」
淡々と述べる香織の表情は、いつもと変りないのだが、詳細は知らずとも複雑な事情があることは知っている千佳達は不安げな顔をしていた。
「香織、私達は別に由梨乃の付き人としてあなたを見ているわけじゃないって、わかってるわよね?香織は香織だからね。」
花音に両肩を掴まれ面と向かって言われた香織はそっと呟いた。
「わかっているよ。いつもありがとう。私は友達に恵まれた。それも事実。」
今回はたまたま伊吹に恨みを買ったばかりに、あかりは酷い目に遭ってしまった。
元はと言えば、伊吹が他人の悪口を言っていたのが原因である為、彼女自身が問題なのだが。
しかし、そんなことでここまでの仕打ちをするとは、家柄や血統というものはこんなに人の性格を歪めてしまうものなのだろうか。
何故人はそんなに家柄、血筋、立場を気にするのだろう。香織はいつも疑問に感じていた。
四名家に数えられる櫻井家の一人娘である由梨乃も、千佳、花音、はるひも、それなりの名家の娘だが、そんなものを気にする様子は一切ない。ある意味「一般生」である香織は友人に恵まれたといえる。
香織の両親は名家御用達であるこの羽岡学園の出身であるが、父は一般生として高等部から入学した。幼少期に家族を亡くしてからは親戚中をたらい回しにされていたが、容量の良さと天才肌のおかげで成績優秀だったことから特待生としてこの学園に入学できたという。それが縁で同じく一般生として入学した由梨乃の父、京一と親しくなり、今日に至るわけだが。
つまり香織の家、日生家は一般家庭であり名家ではない。
香織は、生まれながらに自由なのだ。
左利きの話を書いていたらこういう展開になりました。




