第4話 左利き
「香織さん、左手になっていますよ。」
眞梨子は香織を注意した。
「すみません、小母様。」
香織は左で持ちかけた器を右手に持ち変えた。
この日香織と由梨乃は、櫻井家の茶室で由梨乃の母、眞梨子から茶道の手解きを受けていた。
櫻井家は茶道の家元であり、現在眞梨子が当主となっている。因みに由梨乃の父、京一は婿養子である。
一人娘の由梨乃は、次期当主になるべく日頃から眞理子より茶道を学んでいる。櫻井家に居候している香織も、この家に来てからは由梨乃と共に眞梨子から茶道を学んでおり、一通りのことは出来るようになった。しかし、うっかりすると左利きだった癖が出てしまい、その度に注意される。幼少期に右利きに矯正したのだが、左利きの癖は残っており、気づけば両利きになっていた。
「でも両利きって羨ましいわ。片方が駄目になっても補えるでしょ。」
由梨乃は笑って眞梨子と香織に言う。
「作法の時は右手と言っているだけよ。」
京一によると、香織の左利きは父譲りではないかと言う。父も左利きだったが、幼少期に矯正させられ、右も使えるようになったそうだが、普段は左だった。
「大変結構でございます。」
一通りの動作を終えると、眞梨子から二人の作法を評価された。
「家元じゃなければ、良い出来映えですがね。」
眞梨子は厳しい表情をしていた。
「由梨乃も香織さんも、日々精進ですからね。」
「「はい。」」
家元とあって眞理子から茶道に関して褒められることは滅多にないが、香織も由梨乃も茶道が好きである。茶道はおもてなしやわびさびを重んじるが、それ以上にゆっくりと流れる空間が好きだった。
茶道には「和敬清寂」という言葉がある。
和は平和、敬は尊敬、清は清浄、寂は静寂を表す。
香織は自分の生い立ちに翻弄され、時に戸惑い迷うことがあるが、この時間はそれを忘れさせてくれるものだった。周囲が自身や両親のことで騒いでいても冷静にいられるのは、こうした教養のおかげではないかと思っている。
由梨乃も周囲が自分のことを名家の跡取りとして見ており、その期待の目を向けられていることを知っている。自分の立場が周囲にどのような影響を与えるかを知っているからこそ、自分がどう行動すべきかを判断する時の思考を養う一つとなっている。
香織の無表情で冷静沈着な性格は、目の前で両親を亡くしたショックによるものではないかと櫻井夫妻は思っている。当時四歳だった彼女に初めて会った時、子どもらしく喜怒哀楽が無かったからだ。うつむき、言葉を発することがほとんど無かった。この家に来て、由梨乃達と接するようになり、徐々に表情が得たと感じていた。
両親との生活ではどうだったかはわからないが、生前時折二人から送られてくる手紙や写真には、笑顔の香織が写っていた。だから、櫻井夫妻はこの笑顔を取り戻すことが一番の優先事項だと思った。幸い、由梨乃は社交的で明るい性格だった。二人はきっと相性が良いと思い、分け隔てなく育てている。
一方当の本人は、ただ物事をよく見て行動することを心掛けているに過ぎなかった。自身の置かれた特殊な立場により、周囲から嫌がらせなどを受けてきたことから、人間観察や客観視することに長けただけだと思っている。そして、養育してくれている櫻井家の為に、自分の振る舞いを意識することに注意してきた。別にこれらが香織の負担になっているわけではない。
自分が櫻井家を離れたとしても、「あの家」と関わることになろうとも、櫻井家の為、きちんと社会に生きていけるようにする為の自立への道だと思っているのだ。
茶道の知識が無かったので、慌てて茶道の本を読んだりして参考にしています。
至らない内容があるかもしれませんがお許しを…。




