世界は救われた。聖女は死んだ。
世界は救われた。
多発していた魔獣のスタンピード、それを陰で操り、各国を弱体化させてから侵略を行おうと目論んでいた魔王を、聖女一行が打ち倒したのだ。
聖女セリーヌ。
大魔術師アビゲイル。
聖騎士クリス。
豪剣王子ダミアン。
四人が繰り広げた、大地がひび割れるほどの激戦の様相は、きっと後世にまで語り継がれるだろう。
三年をかけた長い長い旅の帰り道。
もうすぐ王都に着くという頃、宿の一室で、聖女セリーヌはベッドに倒れ伏していた。
「う……ぁ……」
冬の夜なのに、とても暑い。
暑くて熱くて仕方なくて、それが熱いのではなく痛いのだとわかって、驚いて正面を見つめる。
震える珊瑚色の瞳と、目が合った。
「あび、げいる?」
「そうだよ、セリーヌ」
答えるのは、旅の苦楽を共にしてきた一人。
そして旅立ちの以前から知っている、セリーヌの婚約者でもあるアビゲイルだった。
「……どうして」
どうしてこんな事態になっているのか、わからなかった。
帰り着いたら祝賀パーティーやら何やらで忙しくなるから、その前にゆっくり話をしたい。
そう言われて、警戒することなく彼を部屋に入れたのがいけなかったのだろうか。
アビゲイルを疑うなんてこと、思いつきもしなかった。
彼は誰よりも格好良くて、誰よりも強くて、誰よりもセリーヌに優しくしてくれた人だ。
もしかすると魔王がアビゲイルに化けているんじゃないか、と一瞬疑った。魔王は卑劣にも幻術を使って散々惑わしてきたから。
だが、魔王はこの手で確実に倒した。
何より、とめどなく紅の雫を溢れ出させるセリーヌの胸元へと深く突き立った魔結晶が、アビゲイルの魔術だった。
「痛い? 痛みすら感じられない? 辛い? 苦しい? ごめん、セリーヌを苦しめたいわけじゃないんだけど、罰として受け入れてほしいな」
罰。一体、何の罰なのだろうか。
――セリーヌは彼のために、聖女になったのに。
◆
多分、この世に生まれ落ちたのが間違いだったのだと思う。
正妃のたった一人の娘。でも誰からも求められてはいなかった。
「お前が男であってくれたなら」
母である人に何度そう言われたかわからない。もっとも、母と呼ぶことを許されたことはないけれど。
正妃は長らく子を成すことができず、王子が誕生するのは側妃の元ばかり。世継ぎを作らなければという焦りと共に四十歳を迎えた頃、ようやく宿った命に大きな期待を寄せ、そして絶望した。
正妃に大切にされないセリーヌを多くの者は嘲笑った。
容姿が美しいわけでも特別な才に秀でているわけでもないのだから、尚更だ。
空気のように扱われ、隅で小さくなり、ただぼんやりとしていたセリーヌ。彼女に初めて笑顔を向けたのが、アビゲイルだった。
『可愛いね、俺の婚約者様』
セリーヌの知らないうちに縁談が決められており、その相手がアビゲイルだったと後で知らされた。
平民でありながら優秀なアビゲイルに地位を与えるため、王女と婚約を結ばせるのが手っ取り早かったという。他の王女は皆嫁いでいたから、残りもののセリーヌが選ばれたのだ。
そのような思惑だけの婚約だというのに、アビゲイルは優しかった。
セリーヌを楽しませようとして、たくさんの鮮やかな魔術を見せてくれた。一緒に海の上を歩いたり、空を飛んだりもした。
幸せだった。
こんな幸せ、自分が味わっていいのだろうかと不安になるくらい。
彼に誇れる自分になりたかった。
彼に相応しく在りたかった。
彼に認められたかった。
だから、神託で聖女に選ばれた時は、泣きそうなほど、本当に嬉しかったのを覚えている。
本当は一人でやり遂げたかったけれど、王命でアビゲイルが仲間にされてしまったのは仕方ない。
その分近くで見てもらえるからむしろ好都合だ、と前向きに捉えた。
全力で頑張った。
どれほど大変な旅路でも、どれほど立ち向かう壁が高かろうと、耐え忍んで、乗り越えて、笑顔でい続ける。
『安心してください。聖女様は、ご立派な方ですよ』
『健気だよなぁ。アイツがいなかったら、オレ様の嫁さんにしたいくらいオレ様好みだ』
聖騎士クリスも、剣豪王子ダミアンも、そんなセリーヌを応援してくれて。
おかげでセリーヌは、魔王を討ち果たした聖女となった。
大魔術師アビゲイルの隣に並び立つ資格を得られた。
そう思っていた。
そう思っていたのに。
「俺の手の中から、逃げ出そうとしたんだろう」
「……え……?」
「俺だけの、か弱く哀れなセリーヌのままでいてくれれば良かったんだ。でもセリーヌは強くなり過ぎた。俺なんかでは、到底追いつけない」
劣等感だ。
目の前の彼が、強い劣等感を抱いているのだとひしひしと伝わってきた。
彼は何か思い違いをしている。
憧れの存在に手が届きたいと考えていたら、いつの間にか飛び越えていたなんて、馬鹿なことあるはずが。
「最初は、セリーヌを蔑む声の方が多かったさ。愛されない姫君、無能王女、どうせ何も成し遂げられない……でもそれがセリーヌが活躍する度に減っていくんだ。今となっちゃ、誰もが君の味方だろうね」
それの何がいけないのだろう?
燃え盛るような胸元の熱は徐々に引いて、瞼が重くなり始めている。
聖女のみが有する治癒の力を己に使ったが、まるで効かなかった。セリーヌを貫く魔結晶は、治癒を跳ね返す魔術式が編み込まれているようだ。
「帰ったらきっと、新しい縁談が組まれているだろう。キラキラした聖騎士様かもしれないし、剣に愛された隣国の王子かもしれない。その誰でもない高貴な男かもしれない。いずれにせよ、俺じゃない誰かとの縁談だ」
嘘だ。
「クリスも、ダミアンも、わたしとアビゲイルはお似合いだよって……」
「ハッ。何を言ってるんだか。あいつら、ずっと君のことを狙ってたぞ?」
もうわけがわからなかった。
血が足りなくて、目が霞んで、頭に靄がかかって、ただひたすら眠くて。
「セリーヌはもう、いらない子じゃない。誰もから求められる美しい花になってしまった。だから――いっそ、この手で手折る」
アビゲイルの声が、気持ちいい。
裏切られた相手でも、歪んだ愛情を向けられても、それでも。
だいすき。
ふと見上げると互いの顔が近づいていた。
珊瑚色の双眸に射抜かれて、薄紅色の唇が迫って。
「おやすみ、俺の可愛いセリーヌ。あの世では、もう二度と逃げ出してしまわないように優しい檻に閉じ込めて、愛し尽くしてあげるから」
翌日、宿屋の一室で聖女セリーヌの遺体が発見された。
胸が抉られ、美しい金髪は血の色に染まっていたが、表情は安らかに眠っているようであった。
その傍には、ズタズタに傷つけられ、目を背けたくなるような姿で死した大魔術師アビゲイルの亡骸が転がっていたという。
けれど、彼女の死の理由は誰にも――仲間たちですら――わからないまま、不幸な事故ということで片付けられた。
――かくして。
世界は救われた。
聖女は死んだ。
お読みいただきありがとうございました。
ヤンデレ裏切り悲恋って最高ですよね(作者の性癖)