30話
放課後、教室にノートを忘れて戻ったら、
ちょうど詩乃ちゃんも、自分の席の引き出しを開けていた。
「あ、……葉琉」
「……よう。忘れもん?」
「うん。プリント入れっぱなしだったみたい」
「俺もノート。相変わらずだな、俺ら」
「ふふ、ほんと」
自然と、並んで立って話すような形になった。
夕方の光が教室の中に差し込んでいて、
少しだけ時間がゆっくり流れているように感じた。
「卒業、もうすぐだね」
「うん。あと何回、こうやって教室来るんだろうな」
「……ねえ、葉琉ってさ。高校生活、楽しかった?」
「まあ……それなりに」
「そっか。……私は、楽しかったよ。
いろいろあったけど、
葉琉と隼がいてくれたから、きっと全部、ちゃんと大事な思い出だと思える」
その言葉に、僕は「うん」とだけ返した。
それだけの会話だったけど、
きっともう、これ以上何かを伝える必要なんてなかった。
彼女は、僕の想いなんて知らない。
きっと、これからも気づくことはない。
でもそれでいい。
──
夕焼けの差し込む廊下を一人で歩いていたら、
背中から声をかけられた。
「……先輩!」
振り向くと、南雲が少し息を切らせながらこっちへ走ってきた。
「おつかれ。どうしたの?」
「……なんとなく、話したいなって思って。先輩、まだいるかなって」
「俺に? めずらしいな」
「え、そんなことないですよ?」
そう言って笑った彼女の声が、
少しだけ揺れていた気がした。
「……あの、前に話してくれたこと。
冬休みに。あれ、ずっと覚えてて」
「……うん」
「私、うまく言えないんですけど……
誰にも知られないまま終わる気持ちって、
もしかしたらすごく、きれいなのかもしれないなって思ったんです」
「……きれい、ね」
「はい。苦しいこととか、切ないこともあるけど、
ちゃんと胸に残ってるのって、
そういう静かな気持ちだったりするから」
僕は何も言わずに、ただ前を見て歩いた。
でも、ほんの少し口元が緩んでいたのを、自分でも感じていた。
「……ありがとう、南雲」
「え?」
「なんか、救われた気がした」
彼女は照れたように笑って、うつむいた。
しばらく黙って歩いていたけど、
下駄箱の少し手前で、南雲がふと立ち止まった。
「……先輩って」
「ん?」
「……そのままで、いいと思いますよ」
「え?」
「なんかこう……ちゃんと誰かを見てて、
ちゃんと自分の気持ちを置いてこれる人って、
あんまりいないから」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん、すっごく」
少し頬を膨らませたあと、
南雲は、まっすぐ僕を見て言った。
「……だからもしまた、誰かのことを想うときは」
「ちゃんと、自分の気持ちも大事にしてほしいなって……そう思いました」
それは、まっすぐでやさしい言葉だった。
でも、たしかに心に触れた気がした。
廊下の窓の外は、オレンジから少しずつ藍色に変わり始めていた。