27話
進路希望票を出した翌週、
教室の空気は、変わらずにぎやかだった。
誰かが教科書を忘れて笑われていて、
誰かが机の上で居眠りしていて。
その“いつも通り”の中で、
僕だけが少し、時間の外にいるような気がした。
⸻
昼休み、屋上への階段で隼と鉢合わせた。
「おー、お前来ると思った」
「隼こそ。珍しいとこ来るね」
「たまには静かなとこでメシ食いてーなって思って」
無言で並んでベンチに座る。
風が冷たくて、缶コーヒーがあたたかかった。
「……進路、出したんだろ?」
「うん。来週にはもう確定」
「海外?」
「……ああ」
「そっか。……やっぱり、ほんとに行くんだな」
隼はそう言って、空を見上げた。
「お前が言ってた“おじさんのとこ行くかも”って、
なんかずっと冗談みたいに聞こえてたけど……もう現実なんだなって」
「……そうだね」
少しの沈黙のあと、隼がぽつりと口を開いた。
「……詩乃のこと、さ」
「……うん」
「お前がいなくなるって、本気でわかってから、
あいつ、ちょっとだけ変わった気がすんだよな」
「……」
「前みたいに明るく振る舞ってるけどさ。
目線とか、ふとした間が、どこかでお前を探してるっていうか……」
「……気づいてたの?」
「まあな。てか、多分ずっと前から気づいてた。
……お前の方がずっと鈍かったよな」
ちくりと刺すような言い方だったけど、
そこに怒りはなかった。
「俺、たぶんあいつの“いちばん”じゃないって、何となく思ってた。
でもそれでもいいって思ってたんだよ」
「隼……」
「けどさ、お前がいなくなったら――
俺は“代わり”にすらなれないんじゃねーかなって、
最近、ちょっとだけ思うんだよ」
少し間を置いて、僕は静かに返した。
「それは……違うと思う」
「え?」
「今まで、僕が見てきた詩乃ちゃんは……
ずっと、僕の方なんか見てなかった。
あの子が見てたのは、いつも――お前だったよ」
隼が目を見開く。
「だからさ、隼が“代わり”とか、そういうのじゃない。
僕の方こそ、ただの通過点みたいなもんだったんだと思う」
一瞬だけ風が吹いた。
そのあと、一ノ瀬はふと視線を隼に向けて言った。
「……てかさ」
「ん?」
「隼は、どう思ってんの。詩乃ちゃんのこと」
「……は?」
「いや、見た感じじゃあ、
もう付き合っててもおかしくないなって思っただけ」
言葉のトーンは軽めだったけど、
目はちゃんと、隼の答えを待っていた。
隼は口を開きかけて、それから空を仰いだ。
「……どう、って言われてもな」
「……」
「たぶん、好きなんだと思う。……いや、たぶん、じゃないな。
好きだよ。
でも俺、そういうのうまく言葉にすんの、苦手でさ。
なんか……ちゃんとしたタイミング、いつも逃してる」
「……うん」
「それに、たまに思うんだよ。
もし、詩乃が一番最初に出会ったのが俺じゃなくて、お前だったら……って」
その言葉に、一ノ瀬は小さく首を横に振った。
「違うよ。
出会った順番とかじゃない。あの子が見てたのは、ちゃんと“お前自身”だ」
隼は、何も返さなかった。
でもその横顔が、どこか少しだけほっとして見えた。
そのあと、隼がぽつりと言った。
「……でさ。お前は?」
「え?」
「お前はどうなんだよ。詩乃のこと」
僕は、少しだけ目をそらして、笑った。
「僕は……たぶん、弟みたいなもんだよ、詩乃ちゃんにとっては」
「弟?」
「うん。からかいやすくて、心配させやすくて……」
「……お前、それでいいのかよ」
「別に、いいとか悪いとかじゃないと思ってる。
そういう立ち位置だったってだけの話でさ」
「……そうかよ」
「詩乃ちゃんは、そういうとこちゃんと見てる人だし。
誰を“そういう目”で見るかは、最初から決まってたんだと思う」
「お前、変に割り切ってんな」
「割り切ってるよ。今さらどうこう思うことでもないし」
言い切った声は、ちゃんと落ち着いてた。
でもその奥に何かを閉じ込めてるのは、自分でもわかっていた。
「……ま、寒いな。戻るか」
隼が立ち上がって、伸びをする。
「お前も風邪ひくなよ、受験生なんだから」
「お前もな」
「……ああ」
それだけ言い合って、
僕たちはいつも通り、別の方向に歩き出した。
でも、何かが確かに変わりはじめているのを、
互いに感じていた気がする。
⸻
下駄箱の前で、ちょうど詩乃ちゃんとすれ違った。
「……あ、バイバイ」
詩乃ちゃんはいつも通りの声でそう言って、
ちょっとだけ笑って手を振った。
僕も笑って手を振り返す。
それだけの会話だったのに、
妙に胸に残って、靴を履く手が一瞬止まった。
あの笑顔に、
言葉にしなかった何かが込められていた気がした。




