ツンデレ令息の壁ドンで心が揺れてしまった件
侯爵家の大広間。豪奢な装飾が施された壁や天井は、この屋敷が王国でも指折りの名家のものだと物語っている。だが、今この場に立つ一人の騎士令嬢には、そんな贅を味わう余裕はなかった。
「本日より、侯爵令息リカルド様の護衛を務めさせていただきます」
凛とした声が広間に響く。話す本人は栗色の髪をきっちりと束ね、磨き上げた甲冑を身に纏っていた。だが、驚くべきはその整った顔立ち。まっすぐな緑の瞳はどこか冷静で落ち着いており、その美しさに、侯爵家の使用人たちが思わず見惚れるほどだった。
「これが護衛騎士だと?」
椅子に座ったまま脚を組んでいるのは、金髪碧眼の少年。侯爵令息リカルド・アルバートだ。彼は鋭い目つきでビアンカを一瞥すると、呆れたように鼻で笑った。
「女が護衛だなんて、冗談だろ?」
「リカルド!彼女は去年の剣術大会で優勝を勝ち取った、まさに騎士の中の騎士だぞ!なんと無礼な!」
侯爵の厳しい声が彼を制する。だが、リカルドは父親の一喝を無視して立ち上がると、ビアンカを睨みつけた。
「護衛なんて必要ない。ましてやこんな女に守られるなんて、プライドが許さないんだよ」
彼の碧眼が挑発するように輝く。金髪が陽光を受けて煌めき、彼の端整な顔立ちを際立たせる。だが、その美しい見た目とは裏腹に、彼の口調は傲慢そのものだった。
ビアンカはその言葉を受けても微動だにしない。むしろ彼女の視線は冷静そのものだった。
「性別や体格は、護衛の本質とは無関係です。私の使命は、騎士としてただあなたを守ること。それ以外に何もありません」
その一言で広間が静まり返る。リカルドは一瞬、言葉を失った。だがすぐに眉をひそめ、不機嫌そうに椅子に再び腰を下ろす。
「…そんな顔して自信満々に言うなよ。護衛ができるかどうかも疑わしいくせに」
彼の視線がビアンカの顔を一瞬捉えた。彼女の美しい容姿に気づいたが、彼はそれを隠すようにすぐ目を逸らし、さらに言葉を重ねる。
「どうせ顔だけの飾りだろ。戦えるわけがない」
「そう思われても無理はありません。それでと、私は貴方様を護衛いたします」
ビアンカはあくまで冷静だった。微笑みを浮かべたまま、静かに言葉を続ける。
「王国の命令ですので」
その堂々とした態度に、リカルドは再び反論しようと口を開くが、侯爵が鋭い声で言葉を遮る。
「リカルド、これ以上無駄口を叩くな。王国の決定に従え」
リカルドは苛立たしげにため息をついた。
「…分かったよ。でも、俺には関係ないからな。こんな護衛、すぐに追い払ってやる」
使用人たちはその発言に顔を見合わせたが、当のビアンカはまるで意に介さないようだった。ただ静かに頭を下げると、短く答えるだけだ。
「ご期待には添えませんが、よろしくお願いいたします」
侯爵家の広大な敷地を包む庭園は、手入れの行き届いた花々と緑の生け垣がどこまでも続き、噴水のせせらぎが小鳥たちのさえずりに溶け込んでいる。空は雲一つなく青く澄み渡り、穏やかな陽光が木漏れ日となって地面を照らしていた。
その静けさの中を、侯爵令息リカルドが足早に歩いていた。金色の髪が陽光を浴びて煌めき、碧眼がどこか苛立った光を宿している。後ろを振り返ると、少し距離を置いて栗色の髪を束ねたビアンカが淡々とした表情でついてきていた。緑色の瞳は鋭く周囲を警戒しながら、まるで護衛として当然というように足を止めることはなかった。
「いい加減にしてくれよ!」
リカルドは足を止めて振り返り、声を荒げる。
「俺は護衛なんて必要ないって言ってるだろ!」
ビアンカは淡々と彼を見つめる。栗色の髪は風に揺れるが、彼女の表情は微動だにしない。その美しい顔立ちは、まるで彼の苛立ちすら受け流しているかのように無感情だった。
「護衛が必要ないとお考えでも、私の任務を放棄するわけにはいきません」
「任務って言えばなんでも通ると思うなよ!」
リカルドは頭を抱えるようにしながら歩き出す。
「もういい!好きにしろ!俺は町に出るからな!」
彼は勢いよく庭園を抜け、侯爵家の敷地を囲む裏門へと向かった。ビアンカは一瞬彼の背中を見つめたが、すぐに足を動かして後を追う。
裏門を抜けた先には、賑やかな市場が広がっていた。露店が通りの両側に並び、新鮮な果物や色とりどりの布地が所狭しと並べられている。商人たちの威勢の良い声が響き、子供たちの笑い声が混じる。行き交う人々の喧騒が、遠く侯爵家の静寂とは全く異なる世界を作り上げていた。
リカルドは露店の間をすり抜けながら、時折後ろを振り返る。だが、ビアンカは変わらず一定の距離を保ちつつついてきていた。彼女の鋭い視線がちらちらと周囲を見回している。
「本当にどこまでついてくるんだよ…」
リカルドはぼそりと呟き、わざと混雑した場所へと進む。人混みの中でさすがに諦めるだろうと期待したが、気がつけばすぐ後ろに彼女がいる。
「いい加減にしろ!」
彼はとうとう立ち止まり、振り返るとビアンカを指さして叫んだ。
「俺が何しようと、お前には関係ないだろ!俺を放っておけ!」
「それはできません」
ビアンカの答えは簡潔だった。彼女はどこか呆れるような表情で首をかしげる。
「護衛は任務ですから」
その瞬間だった。市場の雑踏に紛れて、数人の男たちが二人に近づいてくる。衣服は擦り切れており、顔つきには狡猾さが浮かんでいる。リカルドはまだその存在に気づいていなかったが、ビアンカの視線が一瞬鋭さを増した。
「何を…」
リカルドが問いかけるよりも早く、男たちの一人が懐から短剣を取り出し、素早く近づいてきた。だが、それよりも早くビアンカが前に出る。
彼女の動きは無駄がなかった。剣を抜く動作は静かでありながら速く、その切っ先が太陽の光を反射して冷たく輝いた。
「ここから先は通さない」
ビアンカの声は低く、それでいて通る響きを持っていた。男たちは怯む様子を見せず、一人がリカルドに手を伸ばそうとしたが、ビアンカの剣がその動きを阻んだ。
金属がぶつかる鋭い音が市場に響く。
「っ…!」
リカルドは後ずさり、目の前で繰り広げられる状況に言葉を失った。ビアンカは彼の背後に控えたまま、次々と男たちの攻撃をかわし、確実に反撃していく。剣を使うのは最低限で、ほとんどが相手の手首を打ち払ったり、蹴りを繰り出す動きだった。
最後の男が地面に転がると、ビアンカは剣を収め、リカルドの方を向いた。
「ご無事ですか?」
彼女の声はいつも通り落ち着いている。まるで先ほどの戦闘など何事もなかったかのようだった。
リカルドは彼女を見つめ、何か言おうと口を開いたが、すぐに言葉を飲み込む。そして顔を背けるようにして歩き始めた。
「…その顔で、その剣かよ…」
呟いた声は彼女に聞こえたのかどうかも分からない。だが、ビアンカは特に追及せず、再び一定の距離を保ちながらリカルドの後ろをついて行った。
市場は再び活気を取り戻し、先ほどの一幕は通行人たちの記憶からも薄れていったかのようだった。
侯爵家の中庭。
鮮やかな緑に囲まれたその空間は、控えめながらも優雅に整えられ、陽光が降り注いでいた。風が木々を揺らし、遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。その静けさを破るのは、剣の打ち合う金属音だった。
「……もっと右に重心を移してください」
ビアンカは剣を構えたまま、淡々と指摘する。彼女の緑色の瞳は冷静にリカルドの動きを捉えていた。
「分かってる!」
リカルドは汗を拭いながら歯を食いしばり、剣を振り下ろす。彼の金髪は陽光を浴びて輝き、碧眼には負けん気の光が宿っている。だが、その動きにはどこかぎこちなさが残る。
ビアンカは受け流すように剣を振り上げ、リカルドの攻撃をあっさりと防いだ。そして、彼の動きが止まった瞬間、彼女は剣の平で彼の肩を軽く叩いた。
「もう少し冷静に。勢いだけでは防がれます」
その淡々とした指摘に、リカルドは顔を赤らめた。
「……お前、本当に容赦がないな!」
「容赦する必要がある場面ではありませんので」
ビアンカの声は変わらず平静だったが、彼女の唇がほんの少しだけ動いた。笑みのようにも見えるが、リカルドにはそれが余計に腹立たしく感じられる。
「ならもう一回だ!」
リカルドは息を整え、剣を構え直した。
日が少し傾き始めた頃、リカルドはとうとう剣を置いて腰を下ろした。額に滲む汗を手で拭いながら、深く息をつく。
「……本当に疲れるな。お前の稽古は」
呟く声には苛立ちとともに、どこか悔しさが滲んでいた。
ビアンカは変わらず冷静な様子で彼の前に立っていた。その栗色の髪が夕日に照らされ、彼女の美しい顔立ちを際立たせる。
「ですが、剣は使えば使うほど上達します。休むのも必要ですが、努力は惜しまないことです」
「その理屈が分かるなら、俺は苦労してないよ!」
リカルドはむくれるように顔を背けたが、どこか諦めたように微笑む。
「……お前、俺にこんなに邪険に言われてるのに、最初からまったす本当に変わらないな」
ビアンカは首を傾げる。
「変わる必要がありますか?どう変えるべきか教えていただければ善処します」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
リカルドはすぐに反論しようとしたが、言葉が続かない。彼はちらりと彼女の顔を見て、再び目を逸らした。
彼の碧眼には、複雑な感情が浮かんでいた。
(何なんだよ、こいつ。顔はやたら綺麗なのに、性格はこんな感じだし……いや、だからって何だって言うんだよ!)
自分の思考に気づき、リカルドは頭を振った。
その日の夜。侯爵家の中庭は月明かりに照らされ、昼間とは全く違う雰囲気を漂わせていた。夜風が心地よく、花々がほんのり甘い香りを放っている。
リカルドは窓際に座りながら、外を見下ろしていた。先ほどの稽古の疲れがまだ残っているのか、どこかぼんやりとしている。すると、庭の奥で小さな人影が動いているのに気づいた。
「……あいつ?」
リカルドは目を細める。そこにいたのはビアンカだった。彼女は剣を片手に、誰に見られるでもなく黙々と型を繰り返していた。
その姿は昼間の冷静さとは違い、どこか力強さと情熱を感じさせるものだった。剣が月明かりを受けて輝き、その動きはまるで舞を踊るかのように滑らかだった。
リカルドはしばらくその光景を眺めていたが、ふと視線を逸らすと、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……なんで、そんなに何でもほゆきなんだよ……)
彼は思わず目を伏せた。月明かりに照らされたビアンカの姿が頭に残り、彼を妙に落ち着かない気持ちにさせた。
リカルドの胸に芽生えたその感情が何かを、彼自身はまだ知る由もなかった。ただ、護衛騎士としてのビアンカの冷静さの裏にある情熱が、彼の中で何かを動かし始めたのは確かだった。
侯爵家の舞踏会が開かれる夜、邸宅の広間は華やかな装飾と賑やかな音楽に包まれていた。シャンデリアの光が白い大理石の床に反射し、豪奢なカーテンが軽く揺れている。上流階級の貴族たちが煌びやかな衣装に身を包み、歓談や踊りに興じていた。
リカルドは少し離れた壁際で立っていた。金髪が淡い光を受けて輝き、碧眼が広間を静かに見渡している。その姿は貴族たちの間でも一際目立ち、数人の令嬢たちが彼に近づこうと視線を送っていたが、彼は気づかぬふりをしていた。
「……こんな騒がしい場所、好きじゃないんだよな」
リカルドは小さく呟き、ふと視線を横に移す。そこには、いつものように彼を護衛するビアンカがいた。彼女は他の貴族たちとは明らかに異なる雰囲気を纏い、甲冑ではなく控えめな正装をしている。それでも栗色の髪をきっちりとまとめたその姿は、やはり冷静で隙がなかった。
「お前、本当にどこにでもついてくるんだな」
リカルドはため息をつきながら、少し不満げに言う。
「護衛のためです」
ビアンカは簡潔に答えた。その緑色の瞳は、リカルドではなく広間全体を見回している。
「そればっかりだな」
リカルドは目を細め、周囲の人々の間に紛れている彼女の異質さに気づく。美しい顔立ちに似合わない無感情な態度が、彼女を一層際立たせていた。
舞踏会が中盤に差し掛かった頃、不意に広間の外から何かが壊れるような音が響いた。大理石の床を叩く硬い音が徐々に近づいてくる。
ビアンカは瞬時に反応した。リカルドの前に立ち、広間の扉に鋭い視線を向ける。
「……何だ?」
リカルドが呟くと同時に、扉が勢いよく開いた。現れたのは数人の黒衣の男たちだった。全員が武器を携え、冷徹な目で会場内を睨みつけている。
「全員、動くな!」
男たちの一人が叫ぶと、広間の貴族たちは一斉に動きを止めた。歓談の笑い声が一瞬で消え、恐怖の静寂が広がる。
「リカルド様、下がってください」
ビアンカが低く言い、剣を引き抜いた。広間の光を反射したその刃が、冷たい光を放つ。
「お前、一人でやるつもりか?」
リカルドは驚きながらも、ビアンカの隣に立とうとする。
「あなたは私の後ろに」
ビアンカは短く言い、彼を庇うようにして男たちに向き合った。
黒衣の男たちがビアンカに向かって武器を振り下ろした。彼女は素早く体をひねり、その攻撃をかわす。同時に剣を振り上げ、一人目の男の武器を弾き飛ばす。
金属音が広間に響き、再び戦いの渦中に飛び込むビアンカの動きは無駄がなかった。剣の一振りで相手のバランスを崩し、足を引っ掛けて転倒させる。彼女の姿は、冷静さと美しさを兼ね備えていた。
だが、相手は多勢だった。二人目、三人目と襲いかかる男たちに応戦する中、ビアンカの動きにも次第に疲労が見え始める。
「ビアンカ!」
リカルドが叫ぶ。彼はその場で立ち尽くしながら、自分の無力さを痛感していた。
「くそ……俺だって戦えるんだ!」
リカルドはその場から飛び出そうとするが、次の瞬間、男たちの一人が後方から矢を放った。ビアンカはそれに気づき、咄嗟にリカルドの前に立つ。矢は彼女の肩に刺さり、血が白い正装を赤く染めた。
「……お前、何してるんだよ!」
リカルドは目を見開き、負傷したビアンカを支えた。だが、彼女は歯を食いしばり、剣を握り直す。
「護衛のためです」
その言葉は震えていたが、彼女の眼差しは鋭いままだった。
リカルドの胸に怒りが沸き上がる。今までビアンカに対して感じていた苛立ちや戸惑いが、一気に崩れ去るような感覚があった。
「……護られるばかりじゃ、もう嫌なんだよ!」
彼は声を荒げ、近くに落ちていた剣を拾い上げる。そして、男たちの方を睨みつけた。
「俺が、お前を守る!」
その宣言は、ビアンカにとって初めての予想外の言葉だった。彼女はリカルドを見上げ、短く頷いた。
リカルドの碧眼は決意に満ちていた。彼は震える手で剣を握りしめながら、ビアンカと共に敵に立ち向かう準備を整える。男たちが再び迫りくる中、彼の中で初めて「守りたい」という感情が強く芽生えていた。
そこで、応援の騎士たちが会場に雪崩れ込んでくる。
リカルドは奮い立つ剣をなんとか前に構えた。
侯爵家の広間に響いていた金属音が止み、緊張が静寂に変わった。黒衣の男たちは全員地面に倒れ込み、もう戦う力を失っていた。
リカルドは荒い息をつきながら、震える手で剣を握り締めていた。その剣先には血の跡こそなかったが、彼が戦いに参加した証が残っている。彼の金髪は汗で額に貼り付き、碧眼には疲労と安堵の入り混じった光が宿っていた。
「……終わったのか?」
呟いた彼の声に応じるように、周囲の貴族たちが恐る恐る顔を上げ始めた。先ほどの恐怖に怯えた表情が、少しずつ安堵へと変わっていく。
「リカルド様……」
その声に振り向くと、そこには片膝をついて地面に倒れ込んだビアンカの姿があった。肩に刺さった矢の傷口からはまだ血が流れており、彼女の顔は青白くなっていた。だが、その緑色の瞳にはいつも通りの冷静さが宿っている。
「お前、何してるんだ!」
リカルドは慌てて剣を地面に落とし、彼女の元に駆け寄った。
「あなたを守るのが……私の使命です」
ビアンカは弱々しく微笑みながらそう言ったが、その声は震えていた。リカルドはその言葉に苛立ちを覚えながらも、彼女をそっと支える。
「お前は……お前の命をもっと大事にしろよ!」
そう言いながら、彼は自分の外套を脱ぎ、彼女の肩にかけて傷口を覆った。その手が震えているのは、疲労だけではなく、彼女の痛みを目の当たりにしたせいだった。
「負傷者を運べ!」
侯爵家の執事が声を上げ、使用人たちが次々に駆け寄ってきた。広間に広がっていた恐怖の空気は、リカルドとビアンカの姿を目にした人々によって、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「リカルド様……」
執事が声をかけると、リカルドは振り返った。その目は、いつもなら見せることのない真剣な光を湛えていた。
「彼女を治療室へ。早く!」
無事だった伯爵が声を上げ、すぐに頷いて使用人たちに指示を出した。だが、リカルドは自らの腕をビアンカの背中に回し、彼女を支えたまま立ち上がる。
「俺が運ぶ」
短く言い切ったその声には、これ以上誰にも反論させない威厳があった。
侯爵家の治療室は広間から少し離れた静かな場所にあった。厚い扉の向こうで、使用人たちが薬や包帯を運び込む音が響く。
リカルドは治療台の上にビアンカを慎重に横たえ、医師に目で促した。医師はすぐに傷口の処置を始め、リカルドはその間、一言も発することなく隣で見守っていた。
「リカルド様、お怪我はありませんか?」
医師がビアンカの治療をしながら尋ねる。だがリカルドは首を振るだけだった。彼の碧眼はただビアンカの顔を見つめている。
やがて処置が終わり、医師が静かに立ち上がった。
「傷は深いですが、命に別状はありません。ただ、しばらく安静にする必要があります」
その言葉を聞いて、リカルドはようやく息を吐いた。
ビアンカは目を閉じたまま、安静にしていた。リカルドは椅子を引き寄せ、彼女の隣に座る。静かな治療室の中、外の月明かりが窓から差し込んでいた。
「……お前は、本当に馬鹿だよ」
リカルドはぽつりと呟いた。誰に聞かせるでもなく、ただ自分の思いを吐き出すように。
「俺のために無茶して、傷まで負ってさ……護衛だってのは分かるけど、お前が傷ついてどうするんだよ」
その声に応じるように、ビアンカがゆっくりと目を開けた。緑色の瞳が薄暗い光の中で彼を捉える。
「リカルド様がご無事であるなら、それで十分です」
「……それは本音か?」
リカルドは目を伏せ、拳を握りしめた。怒りなのか悔しさなのか、自分でも分からない感情が胸を渦巻いている。
「お前は何もかも冷静で、自分のことなんて考えてないように見える。でもな、俺は……お前を守りたいって、思ったんだよ」
彼の声はどこか震えていた。だが、その言葉は確かな意志を持っていた。ビアンカは彼を見つめ、しばらく沈黙した後、微かに微笑んだ。
「ありがとうございます……ですが、私は、あなたを守るためにここにいます」
その答えにリカルドは苦笑した。
「だから、それが馬鹿だって言ってんだよ」
治療室の静けさの中、リカルドは椅子に深く座り直した。そして、ビアンカの寝顔を見つめながら静かに呟いた。
「お前がそう言うなら、俺もお前を守る方法を考えるさ……どんな形でも」
その声に応える者はいなかった。ただ、月明かりが静かに二人を包んでいた。
侯爵家の庭園は、朝露に濡れた花々が朝日を受けて輝いていた。草木の間を抜ける風は冷たくも心地よく、遠くから小鳥たちのさえずりが聞こえる。昨日の襲撃の痕跡は、邸宅の中にいる誰の心にも微かに影を落としていたが、外の穏やかな光景はそれをまるで忘れさせるかのようだった。
リカルドは庭園の中央に立ち、手にした木剣をじっと見つめていた。金髪が陽光を受けて眩しく輝き、碧眼には強い意志の光が宿っている。
「……俺が、もっと強くならなきゃならない」
彼は小さく呟き、剣を構える。昨日の夜、ビアンカの傷を目の当たりにしてから、自分の無力さが胸を突き刺していた。その感覚を振り払うように、彼は木剣を振り下ろした。
だが――
「重心が甘いです」
静かな声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには肩を包帯で固定されたビアンカが立っていた。彼女の顔は青白さが残るものの、緑色の瞳はいつもの冷静な輝きを取り戻している。
「お前、まだ休んでろよ!」
リカルドは驚きと苛立ちが混じった声を上げた。
「医師から動いても良いと許可をいただきました。それに、リカルド様の稽古を見届けるのも私の仕事です」
そう言うビアンカの声は淡々としていたが、どこか柔らかさが含まれていた。
ビアンカは彼の前に歩み寄り、少し距離を取って立った。その背筋はまっすぐに伸びており、彼女の佇まいには隙がなかった。
「構えを見せてください」
リカルドは渋々木剣を構える。彼の腕は力んでおり、重心がやや後ろに偏っている。ビアンカはそれを見て、少しだけ首を傾げた。
「全体的に力が入りすぎています。その状態では、相手の攻撃に対応できません」
「分かってるよ!」
リカルドは返事をしながら、再び剣を振り下ろした。しかし、バランスを崩して片足を踏み外す。ビアンカはそれを見て、微かにため息をついた。
「力ではなく、流れを意識してください」
そう言って彼女は木剣を手に取り、片手で軽く振り下ろす。動きには無駄がなく、剣先が風を切る音が鮮明に響く。彼女の栗色の髪が一瞬だけ揺れ、緑色の瞳が彼を見据える。
「……なんでお前はそんなに簡単そうにできるんだよ」
リカルドはその姿を見つめながら呟いた。
「それは、訓練を続けてきたからです」
ビアンカの答えは短く、それでいて核心を突くものだった。彼女は木剣を構え直し、次の言葉を続ける。
「リカルド様も、続ければ必ず上達します」
稽古が続く中、リカルドの額には汗が滲んでいた。彼は息を整えながら、ふとビアンカの方に目を向けた。
「……お前さ、なんでそこまで必死なんだ?」
突然の問いに、ビアンカは一瞬だけ動きを止めた。その瞳がリカルドを捉える。彼女の顔にはいつもの冷静さがあったが、微かに驚きが混じっているようにも見えた。
「護衛の任務だからです」
「またそれかよ!」
リカルドは声を荒げる。
「お前が昨日矢を受けたのも、全部それで片付けるのか?」
ビアンカは目を伏せた。そして静かに息を吐き、ゆっくりとリカルドを見つめる。
「それが、私が選んだ生き方です。護衛の任務に失敗すれば、それは私の存在意義が失われることを意味します」
その言葉に、リカルドはしばらく何も言えなかった。彼は彼女の強い意志に圧倒されると同時に、それがどこか悲しく思えた。
「……お前、そんな生き方で本当に幸せなのか?」
リカルドの問いに、ビアンカは再び目を伏せた。そして短く答える。
「幸せかどうかは、考えたことがありません」
その答えに、リカルドの胸に重い感情が広がった。彼は剣を地面に置き、真剣な表情で彼女を見つめた。
「……俺は、そんなお前を放っておけない」
ビアンカはその言葉に驚いたように顔を上げた。彼女の緑色の瞳が揺れる。
「お前が自分を犠牲にしても平気だって言うなら、俺が……俺がそれを止める」
リカルドの碧眼には、昨日の戦いから芽生えた覚悟がはっきりと浮かんでいた。
二人の間に静寂が訪れた。風が再び草木を揺らし、遠くから鳥の声が聞こえる。
ビアンカはしばらくリカルドを見つめていたが、やがて小さく微笑む。その微笑みは、どこか今までとは違う柔らかさを帯びていた。
「……ありがとうございます」
彼女の声は小さかったが、確かにリカルドの胸に届いた。その言葉に、彼は静かに頷き、再び木剣を手に取った。
「次だ。今度は俺が、お前を驚かせてやる」
そう言って構えるリカルドの姿は、これまでとは少しだけ変わって見えた。彼の金髪が陽光を受けて輝き、碧眼には新たな決意の光が宿っている。
ビアンカはそれを見て、再び剣を構えた。庭園の朝は、二人の稽古の音で再び満たされた。
侯爵家の庭園は、夜の静寂に包まれていた。冷たい月明かりが木々の葉を照らし、風が花々を静かに揺らしている。その中で、リカルドとビアンカが向き合っていた。
リカルドは金髪を揺らしながら、いつになく真剣な眼差しをビアンカに向けていた。彼の碧眼は鋭く、胸の奥にある熱い感情をそのまま表している。
「……リカルド様」
ビアンカはいつも通り冷静な声で口を開いた。その緑の瞳は落ち着きを保ち、肩には事件の際の包帯がまだ痛々しく巻かれている。
「痛そうだな」
「いえ。改めて思います。貴方様がご無事で何よりです。これからも護衛として、リカルド様をお守りいたします」
その言葉に、リカルドは目を細め、顔を少し伏せた。月明かりが彼の金髪を淡く照らし、拳をぎゅっと握りしめる様子が浮かび上がる。
「……お前、それで本当にいいのか?」
低い声が夜の静けさを切り裂いた。その声には、苛立ちと戸惑い、そして何かを求める強い意志が混じっていた。
ビアンカは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「当然のことです。それが、私の使命ですから」
「……使命」
リカルドはその言葉を繰り返すと、突然顔を上げた。その碧眼には激しい感情が宿っている。
「お前、そればっかりだな!」
彼は一歩、ビアンカに近づき、彼女をじっと見つめた。その迫力に、ビアンカは思わず足を一歩後退させた。
次の瞬間、リカルドが彼女の手首を掴み、石壁に押し付けた。
「っ……!」
ビアンカの背中がひやりと冷たい壁に触れ、彼女の緑色の瞳が大きく見開かれた。まさか自分が「護衛対象」にこのような形で押し込められるとは思いもよらなかった。
「俺はもう、お前に護られるだけじゃない!」
リカルドの声は震えていたが、その中には確かな決意が宿っていた。彼の顔が近づき、金髪が月明かりを浴びて輝く。その碧眼には真っ直ぐな感情が映し出されている。
「俺は、お前を守る。それが、俺の意志だ!」
その言葉に、ビアンカは息を呑んだ。胸が大きく跳ね、頭の中が真っ白になる。冷静でいることができない自分に戸惑いながら、彼を見上げる。
「……リカルド様、あなた……っ」
言葉が詰まり、彼女の顔がみるみる赤く染まっていく。今まで護衛騎士として毅然と振る舞ってきた彼女が、この瞬間だけ、完全に「一人の女の子」になっていた。
リカルドはそんな彼女を見て、さらに顔を近づけた。彼の唇が触れる寸前で、ビアンカの緑の瞳がさらに揺れる。
「お、お待ちください!!!」
突然の大声に、リカルドの動きが止まった。彼の碧眼が驚きに見開かれる。
「わ、分かりました!分かりましたから、これ以上近づかないでください!」
ビアンカは目をぎゅっと閉じ、顔を真っ赤にして声を震わせている。その姿はいつもの冷静な彼女とはまるで違っていた。
「お、お前、そんなに怯えなくても……敵にはあんなに勇敢なくせに……」
「そ、それと、こ、これとは話が別です!!!」
リカルドは呆然としながらも、彼女の顔をじっと見つめる。
彼女の言葉の勢いに押されたのか、リカルドはゆっくりと距離を取った。顔を赤くして額に手を当て、彼もどこか動揺している。
「……お前、そうやって取り乱すの、初めてだな」
「と、取り乱していません!!!」
ビアンカが反論する声は完全に震えていた。彼女は背中の壁から体を離し、リカルドを睨むものの、顔が赤く染まっているせいで全く怖く見えない。
「……信じますから、これ以上、近づかないでください」
その様子に、リカルドは少しだけ照れくさそうに笑った。
「まあ、信じてもらえたならいいけどさ……なんだか、少し損した気分だな」
「何の話ですか!」
彼女の怒った声に、リカルドは「ごめんごめん」と手を上げて笑う。その顔はどこか満足げだった。
翌朝、庭園には柔らかな朝日が降り注いでいた。リカルドとビアンカは庭の中央に立ち、木剣を手に稽古をしていた。
「お前、そこはもっと踏み込めって言ってただろ!なんで俺が追い詰められるんだよ!」
リカルドが言うと、ビアンカが片眉を上げながら答える。
「時と場合によります。それでは、もう少しスピードを上げてみますか?」
「いや、それは……ちょっと待て!」
リカルドが慌てて手を振る姿に、ビアンカは軽く微笑んだ。
その笑顔にリカルドは少し赤くなりながら呟く。
「……俺をもっと頼れよな、ビアンカ」
ビアンカは驚いたように目を見開いたが、すぐに静かに笑みを浮かべた。
「それも、悪くありませんね」
リカルドの碧眼に真剣な光が宿り、ビアンカの緑の瞳に柔らかな優しさが宿る。その瞬間、二人の間には新しい関係が芽生えていた。
庭園に朝の鳥のさえずりが響く中、二人の絆が確かに深まっていくのを、柔らかな陽光が祝福しているかのようだった。
ビアンカ意外に可愛いね
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