2.銀の腕
――ラーライト民国。
単一種族、ラーライト民族が治める、世界初の自称民主主義国家。
民主主義とは、国に住む人みんなが権力を持ち、皆で国の政治を決めることが出来る、というような考え方のこと。
民主主義はとても先進的な考え方で、哲学者であり経済学者でもあるマルキスが初めて考え出して、国内にて彼を中心として起こった大きいデモを通じて実現したらしい。
混乱は多かったのだけど、最終的にマルキスは相談役として国家元首になり、国の運営方針を決める統領を投票で決める、という感じの……なんだかちょっとツッコミどころが残る感じで運営されることになった、そうだ。
元々は政の知識を持つ人間が王族以外におらず、王族達は自身の知識を民衆に渡さなかったことから、そういう形にせざるを得なかったのだと思う……多分。
さっきから、らしいとかみたいとか多分とか馬鹿みたいな言葉尻が飛び交ってて、なんだよそれと思うかも知れないけど。
要するに、こんなの全部又聞きの話で、実際のところ、私がこういった国の大事なアレコレに関わることなんかまるでなかったのだった。
……興味はあったんだけどね。
私はシフォン。
かつては、世の中のことを何も知らない田舎娘、ただのシフォン。
後に祝福を付与され、シフォン=ベルトコンバーと改めることになるけれど、世の中のことを何も知らないって部分は、結局最後まで変わらなかったのかも。
そんな私も、小さな村の出身だった。
涼しい風が年中吹いて、小高い丘の上にはレンガ造りの風車小屋が建ってて、その中で風車の力で動く脱穀機や古い臼で小麦粉を作って……そんな村。
お父さんはその風車小屋の管理をして、お母さんは出来た小麦粉でパンを作っていた。
「今年は小麦の収穫が多くて、風車の力だけじゃ脱穀が間に合わん。シフォン、お前も手伝え」
「はあい!すぐ行くわ!シートは一番大きい麻のものを持っていけば良い?」
「目の細かいやつなー」
「分かってるわ!」
手作業の脱穀なんて原始的だって思うかも知れないけど、やることは意外と簡単なの。
まず、落ちた麦を受け止める大きなシートを敷く。
シートの上で、私の背丈くらいある大きな編みカゴを横に倒して置き、麦穂をカゴの側面にこすりつけるだけで、皮はポロポロとほぐれ、実が落ちる。
軽い皮は吹いてくる風で勝手に飛ばされて、重たい実だけが自然とシートの上に残るから、後は残ったゴミを取り除くだけ。
終わったら、シートを麦の実ごと包んで編みカゴに入れて持ち帰る。
……まあ、口でいうだけなら簡単だし、実際にも簡単なんだけど、とにかく時間がかかるからね。
収穫の多い年は、村の人達や子供達も手伝って、毎日皆でお喋りしながら脱穀するの。
気持ちのいい風が抜けるたびに穂の皮がふわりと飛んで、沢山の人の声と一緒に空の向こうまで流れていく。
一緒に私の長い茶色の髪が揺れて、陽の光に当たってキラキラ光るのを、誰かが綺麗だと褒めてくれるの。
……そんな感じだったから、村の中に知らない人なんていないし、誰とでも仲良しだったわ。
そんな素朴な暮らしが、とても、好きだった。
……え?あはは、そうね。私の村、ちょっと冗談みたいに田舎だったの。
学校だって無かったし。あ、でもね、小さな図書館があったんだ。子供たちはみんな、そこで言葉や数字を覚えることが出来た。
私達の国では、学校を置くのが難しい小さな村には図書館を作る決まりらしくて、最初はみんな司書さんに小さな子供用の教材を渡されて、暇してる年上の子が教えてあげたりするの。
だから読み書きできない子はそんなにいなかったかな。
いや、どうかな。皆が読み書きできたのは、教育熱心な、ある男の子のおかげかも。
「シフォンは、魔物に興味があるの?」
ある日。私が図書館で本を読んでいると、黒い髪の男の子に話しかけられた。
「村に住む魔物の伝説についてなら、半月の棚(ここの図書館は各棚を月齢で区分けしてるの。魔物の棚は満月の棚で、半月の棚は村の歴史だったみたい)にもっと詳しい本があるよ」
なで肩。私と同じくらいの身長。うっとりするくらい優しそうな声。柔らかそうな黒い髪。―――そして、不自然に片腕がない。そうでなければ王子様みたいに綺麗なのに、そこだけ不自然な欠落のようだった。
実はその子とは初対面だったの。その時、うん、お互いに9歳くらいだったと思う。
「…あなた、だあれ?私、村の中で会ったことない人なんて、もういないと思ってたのよ?」
だってそうでしょう?
脱穀以外にも、村の人達みんなでする仕事や集まりなんていくらでもあるのに、彼の顔は見たこと無いし、喋ったこともなかったもの。
「ああ……そうだよね。ほら、僕は力仕事が出来ないから。村の集まりには入れないんだ。代わりにここで、司書さんのお手伝いをしたり、子供達に勉強を教えたりしてるんだよ」
「シフォンが図書館へ来るようになったのは最近だろう?僕は、ここに来る人のことは皆知ってる。君に何か分からないことがあったら教えられるかなと思って、声をかけてみたんだ」
私、顔を伏せてしまったわ。
変な話よね。その時の私は、恥ずかしかったし、悔しかったの。
片腕だから大人のお手伝いが出来ないなんて、すぐに察せても良かったことだった。
私は、彼が傷ついたのかと心配して……でもそれは、なんというか、優しさじゃなくて。
うまくやれなかった自分が、相手を傷つけるような失敗をした自分が……恥ずかしかった。
きっと、素直にごめんなさいって謝れば良かった。
そう出来たら、きっと自分を許せたはずなのに、それが出来なかったから。
私は、最近になって初めて図書館に来たことさえも、まるで不勉強を咎められているように感じてしまって、もう顔を伏せたまま上げられなくなってしまった。
なにか凄く悪い人間になったような気がして、頭が真っ白になって……でも、そんな不自然な沈黙の後。
彼は、凄く優しい声色で、「図書館。とても楽しい場所だから、またおいで」とだけ言い、そっとその場を立ち去ってくれた。
その後は、こうすれば良かったのにとか、こうすればうまく出来たのにとか、色々と思いを巡らせ続けて、それもやり尽くした後の帰り道に、ふと……ああ、あの子はすごく素敵な男の子なんだなって、気付いたの。
だから、次にお話できたら、楽しくお喋りしようって思った。
それからは毎日のように図書館へ通って、毎日彼を眺めてたわ。
彼は必ず一番に図書館に来てて、自分より小さい子供達に読み書きや算数を教え、司書さんよりも後に出て、図書館の入り口を施錠する。
私は他にも色々しなきゃいけないことがあったから一日中なんて無理だったけど、それでも出来るだけ図書館に通った。
……なのに、変よね。
私はとても恥ずかしくて、日々が過ぎるほどに余計恥ずかしくなって、男の子の邪魔になりたくなくて、それがすごく心配で、長い間何も話しかけられなかった。
けど、彼はそれでも優しかった。
時々私の方を見て、手を振ってくれるの。それに気づいて振り返すと、彼はいたずらが上手く言ったみたいににやっと笑って。私も思わず笑い返して。
……私達、きっと同じ気持ちだった。思い上がりなんかじゃない。
ゆっくりでいい。
いつか、ちゃんと謝って。そして、ちゃんと仲良くなって。
私が、貴方のどんなところを好きなのか、きっと伝えられるように――。
……ある日、彼は図書館に来なかった。
たった一日のことで動揺するなんて変かも知れないけど、私は何かあったに違いないと思って司書さんにその男の子のことを聞いてみたの。
そうしたら、司書さんは、きょとんとして、
「……誰のこと?」
男の子のことなんて、最初からいなかったみたいに、そう言ったわ。
でも、私はすぐその謎の正体に思い至った。
魔物。
そう呼ばれる、奇妙な生き物。
魔物は数がとても少なくて、滅多に出会うことなんてないらしい。
けれど確かに存在し、いろんな地域で形状や特徴についての伝説が残っている。
私の村周辺に巣くっているとされる魔物は、黒髪の男の子を狙って拐う奇妙な化け物。
問題は、その拐われた子供のことを、皆が忘れてしまうってこと。
今までにそんなことが何度かあったらしい。けれど、多くて数年に一度のことだし、それを除けば本当に平和な村だったから、村の人達も仕方なく受け入れていたらしい。
…皆が忘れてしまうのに、どうしてそんな話が残ってるのかと言うと、それは、ごくたまに、拐われた子供のことを覚えてる子供がいるから。
つまり、私みたいに。
でも、大人からしてみれば、その子供が錯乱してるだけなのか、本当に人が拐われたのか、区別がつかないでしょ?だから今まで捜索隊が組まれることも、魔物が討伐されることもなかった。
当然よね。誰も知らない子供を拐った犯人なんて、探しようもない。
普通は、覚えてたはずの子供も、自分の頭がおかしくなっただけなのかと思って、やがて忘れていってしまうんだって。
だからこれは実のところ、これは「村の男子が拐われる」ではなく「時々子供が錯乱して、いもしない子供の話をし始める」という内容のおとぎ話。
……でも、でも、確かにあの男の子はいたわ!間違いなく!
私達の村はね、周囲の山をぐるりと囲うように高い壁で覆われてる。物理的に、外界との接触が禁じられていたの。
今にして思えばおかしいけど、当時はなんにも思わなかったし、多分、村の大人たちも当たり前に受け入れてたんじゃないかな。
何が言いたいかって言うと。
領内に住む魔物が、都合よく勝手にどこか遠くへ行ってくれる……なんてことも、また、あり得ないということ。
だったらきっと、ずっとずっとずっとずっと昔から、その魔物は村の近くにいて。
私達の暮らしを眺めて、こっそりと子供達を拐っては――。
「はあっはっは…!」「はっ…はあっ!」
私はもうずっと長いこと走ってた。
体が爆発しそうに熱くて、なのにとてもとても震えて寒くて、たまらなくどうしようもなくなって、我知らず駆け出してたの。
周りの誰に聞いても、彼を覚えていない。私だって、彼とちゃんとお話出来なかったから、どこに居そうかなんて予想もつかない。
すっごくすっごく後悔したわ!
「はっ!はっあ…っえっは…あああああああ~~~!!!」
早く話しかけておけばよかった!仲良くなりたかった!
村の皆と仲良くなれたように、彼とも仲良くなりたかったのに!
村の外まで走って、途方に暮れたころ、森の入り口で子供の濡れた足跡を見つけた時、運命のようなものを感じた。
鬱蒼とした黒い山林に分け入り、足跡を追いかける。
いよいよ危険がすぐ目の前に広がっているのを知って、怖くてたまらなかったけど、もう今更忘れたふりなんて出来るわけ無かった。
足跡を追いかける。森の中は古く背の高い木が多くて、葉が空を覆っている。草が全然生えてなくて、土は湿り気を帯びてぬかるんでいた。
半分泥みたいになってる土を踏みながら、足跡を重ねていくと、まるで、彼が一緒に歩いてるみたいで、怖いのにワクワクし始めてる自分が不思議だった。
そうよ、私、きっとあの子が好きなんだ。
男の子を助けたら、もっと、色んなお話できるようになるかな。そうだと良いな。
そう考えると、疲れた体もまだまだ動きそう。知らず地面を見ていた顔を振り上げて前を見る。
そして気づいた。森の影。隙間から、二つの瞳に見られて体がすくむ。
魔物としか表現しようのない、生き物かどうかもよく分からない何かが、そこに立っていた。
渦模様をえがいた真っ黒い毛に覆われた、巨大な頭が二つ。つむじの真ん中には、一個ずつの青い瞳が覗いてて。
二つの頭が繋がった…首?の根本からは、白い布のようなものが、胴体の代わりみたいに垂れ下がっていた。布の下には何もないように見える。地面から少しだけ浮いていた。
それを見つけた瞬間、葉擦れの音さえ聞こえなくなった。真空みたいな無音の中、私は彼に話しかけた。
「貴方…なの?」
魔物に呼びかけると、彼はまるで、生命の仕組みそのものをあざ笑うように、目の形をぐにゃりと曲げて笑った。
彼の頭から垂れている白い布が、ひとりでにひるがえる。
布の下には――黒髪の男の子の小さな頭が。
私に、まるで、見せつけるように。
「待って!!ガトゥを返して!!」
私は激高して、魔物を精一杯追いかけた。
暗い森の奥の奥まで駆け、泥道を踏んで、奥へ奥へ。誘い込まれるように。山の中に入ったはずなのに、滑り落ちるように下っていく。
その途中、奇妙なことがあったの。
魔物を見逃さないよう、全速力で走っていたのだけど、私、一回だけ、泥に足を取られて滑ってしまって。
魔物を見失うと思って、私は慌てて頭を上げたのだけど、何故か魔物は立ち止まって、ただ、私をじっと見つめていた。
観察するように。
……睨め回すように。
やがて私が起き上がって追いかけると、また、一定の距離を保ちながら逃げていくの。
――後から思えば、あの場所に、誘い込まれていたんだと思う。
森の奥深く。そこは、奇妙な場所だったわ。
まるで、森の中に大きな大きな穴を開けて、そこに泥を流し込んで埋めたみたい。
大人が並んで寝転がって10人分くらいの直径。綺麗な正円状の沼地には不純物が何一つ混ざってなくて、茶色く濁った沼なのになんだか綺麗だと思ってしまった。
そう、澄んだ沼だった。泥以外に何もないの。朽ちた木の枝とか、葉っぱやヘドロとか、そういう……自然に出来る雑音みたいなものが一切ない、不自然に清涼な沼。
周囲を囲う黒い木々も、その中心だけはぽっかりと空いていて、空からぽつぽつと小雨が降っているのが分かった。
雨なのに、そこだけが妙に明るくて。柔らかな光の真ん中に、魔物はただ静かに浮いている。
……私は呆然として立ち尽くしていた。
だってなんだか、この沼はあまりにも不自然で、どうしても、ここに入るのは怖くて。足がすくんで動けなかったの。
「……あの」
だから、声をかけることにした。馬鹿みたいだけど、なんとか魔物を説得できないかなって思ったの。
そんな馬鹿なことを試してしまうくらい、それくらい、私……ここから先に、進みたくなかった。
「追いかけちゃったのは、ごめんなさい」
「でも私、ガトゥを返して欲しかっただけなの」「あの、私、その、貴方が拐った男の子と、友だち、友だちになりたくて」
「ガトゥが、その子が…大好きなの……お願いします」
泣きながら、精一杯の真心で、お願いした。
お母さんに、人にお願いする時は、嘘をつかず、真剣に、言葉を尽くしてと教わったもの。
そうしてお願いすると、村の皆は誰だって分かってくれた。
だから、この魔物だって、もしかしたら――。
[ギ、ギャヒ]
鳥の鳴き声みたいだ、と思った。
やがて魔物は、白い布の下から、何かをにゅっと伸ばしてくる。
――それは、一本だけの、銀の腕。
――大げさな演技みたいに、腕はぐるんと回りながら折れ曲がり、もう一度、その手が白い布の中へ。
何かを、取り出した。
[ギャヒャ]
取り出されたのは、男の子。鳴いていたのも、男の子だ。
目の中が、黒い炎で燃えながら、涙のように頬をゆらゆらと垂れている。なのに彼は嗤っていた。鳴きながら、泣きながら嗤っていた。
私がわけも分からず呆然としていると、銀の腕はその小さな頭をわしと掴んだまま、彼の体をまっすぐ私に向けて伸ばし、宙吊りにした。
[ギャヒャ、ヒャヒャヒャヒャヒャ!]
銀の腕と繋がった頭はまっすぐこっちを向いて嗤っているのに、腕も、脚も体も、ぷらんと力なく揺れている。
呼吸が乱れて、苦しかった。何が起こってるのか、これから魔物は何をする気なのか、全然分からなかったし、なんで男の子が全然動かないのか、逃げようとしないのか、なんで嗤ってるのか、なんで目の中が黒く燃えてるのか、何も分からなかった。
……でも。
魔物が、ぱっとその手を開いて、男の子が沼の中に落ちた時、私はとうとう、反射的に沼の中へと駆け出してしまったの。
沼は底が深くて、子供の脚なんかまるごとずぶりと飲み込んでしまった。
体が半分くらい沈む。スカートが重くて動きにくい。服が汚れる。サンダルが脱げる。お母さんに怒られちゃう!
涙が止まらなくて、それでものろのろ進む間、男の子は少しずつ沼の中へと沈んでいく。
私は泣きながら、怖くて悲しくて恐ろしくて、半狂乱になりながら、泳ぐみたいに泥をかき分けしゃにむに進んだ。
ようやく、もう少しで男の子に手が届く。そう思って手を伸ばして、男の子を左手でぐいと掴んだ時、体がさらに奥深く沈み込んだ。
沼は、魔物の周辺だけが、さらに深くなっていたの。
どこまで沈んでも足がつかなくて、ゆるやかに私とガトゥの体が沈んでいく。もがくと余計に沈むことを父に教えられていた私は、パニックになりながらも動かないように身を固めて、ガトゥに呼びかけた。
「ガトゥ!私だよ!ここから逃げよう!」
[ギャッギャヒッギャギャギャギャ!!]
けど、ガトゥは私の声なんて聞こえてないみたいに、ただただ鳴き続けていて。
「助けて!!」
「誰かぁー!!シフォンです、誰か助けてください!!ここにいます!!」
――沼や川で溺れた時は、無理して泳ごうとせず、立ち止まって呼吸を整え、大声で助けを呼べ。
私は我ながら、お父さんの教えを忠実に覚え、そして守れたと思う。年齢を思えば、出来すぎなくらいに上手くいった。
けれど無駄だった。
[ギャッギャッギャッ!!]
「助けて!!助けて下さい!!」
私の声より、ガトゥの鳴き声のほうがずっと大きくて。
こんなに大きな声が騒がしく響いているのに、ここには誰もやってくる気配がないのだから。
少しずつ、少しずつ、泥に体を取られて沈んでいく。もう胸元まで沈んでしまった。
そんな私達を見下ろす魔物の姿に、ようやく私は、自分が騙されたんだと気づいた。
ガトゥはずっとずっと、ただ嗤っている。
[ギャ――ッギャッギャッギャッ!!!]
魔物は、私とガトゥ、両方とも拐うつもりだったんだ!
――このまま死んでしまうことを確信したその時。
魔物は何を思ったか、銀色の腕を、今度は私に伸ばしてきた。
中空、私の頭のすぐ上で、その平手が、まるで、私達を助けようとするかのように浮いている。
「はっ!はっ!はっ!はっ!はっ……!」
意味がわからない。
走っているときよりも息が苦しい。
ガトゥの鳴き声が耳に痛くて、振動が頭の中まで響きそう。
少しずつ沈んでいく脚は最早パニックになることさえ出来ず、泥の重みで固まって動かない。
首まで泥に沈む。もう選択肢なんかなかった。差し出された魔物の腕へと、すがるように右手を伸ばし、
その銀色を――掴み取った。
すると、私の腕と、魔物の腕がまるで結び目を解くみたいにバラバラになって、沢山の、光る糸に変わっていく。
糸同士は複雑に絡み合いながら、しかしもつれることもなく、己の編み方を知っているように再び集まって本来の形を取り戻した。
――その位置だけを、入れ替えながら。
つまり。
私はこの時、魔物と、右腕を交換したのだ。
私の肩から先が、銀色の腕に。魔物の布の下からは、私の腕が。
――そして、魔物は、もう私は用済みだとばかりに、私の手を振り払って森の奥へと消えてしまった。
「うそ」
あっさりと支えを失い、一気に体が沈み込む。すぐに頭まで泥に浸かり、泥中でぷかぷかと浮く自分の髪と、空に伸ばされたままの腕を見つめた。
でも。
銀色の腕はすごく綺麗で、きっともうすぐ死んでしまうのに、何故かそれが自分のものになったことが嬉しかった。
泥が目の中に入り込んだって全然痛くなかったのを覚えてる。
苦しくなんてない。
だってもう、大丈夫。
私は、知らない言葉を、知っていた何かを、泥の中で呟いた。
[――――ウル・ヴァジャト]
音はない。当たり前だ。泥の中に埋もれて声なんて出るわけがない。
なのに。
銀色の腕、手首から先端までがぐにゃりと歪む
さっきと同じように解けて、光る糸に変わった。
筒状に変化していく。まるで、麦を入れていた編みカゴのように。
やがて、そのカゴの内から、
真っ白い光の帯が、轟音とともに解き放たれた。
男の子の鳴き声よりもずっとずっと大きな音が、空の光なんかよりずっとずっと強い光が、周囲の泥を全部吹き飛ばして、撒き散らして、勢いよく空へと登っていく。
気づけば、沼地はまるごと跳ね上げられて、泥のシャワーが降り注いでいた。
ぽっかりと出来たクレーターの中心で、私は呼吸が出来ることも忘れて、ただ空を見つめる。
空を包んでいたはずの雲には嘘みたいな大穴が空いて、森の中心だけすっぽりと晴れていた。
もう雨は降っていない。
太陽の光がまっすぐ降り注いでいるはずなのに、さっきの光が眩しすぎて、ちっとも明るいなんて思えなかった。
「……ガトゥ」
胸に抱きしめた男の子の感触を確かめる。気を失っているようだった。黒い炎は消えている。だが、生きてるのかどうかも分からない。
早くここを離れないといけなかったのだけれど、私はもう、力が抜けてしまって。
――ガトゥと一緒に、その場で倒れてしまったのだった。